今年も憲法記念日がやってきた。5月3日という日は毎年あるのだから、憲法記念日は毎年必ず来る。そして昨年に続いて今年の憲法記念日も、あちこちで賑々しい。
昨年は安倍総理が日本会議などが主した憲法改正集会にビデオメッセージを送り、憲法改正とりわけ9条改正への熱意を語った。同様の内容は同日の読売新聞に独占インタビューの形で掲載された。国会で野党議員から、安倍総理の憲法改正論を質問されたとき、総理は「読売新聞を読んでくれ」と答弁して失笑を買った。
憲法9条改正論議がにわかに熱気を帯びだしたのは、それからである。総理の9条改正案は「戦争放棄」をうたった9条1項と、「戦力不保持」「交戦権否認」を明記した2項を残したうえで、「9条の2」を新設して自衛隊の存在を明記するというものだ。
「自衛隊は違憲かもしれないが、なにかあれば命を張ってくれというのはあまりにも無責任ではないか」というのが、安倍総理の自衛隊明記案の表向きの理由だ。「表向き」としたのは、もちろん裏があるからだ。裏は「本音」だ。
総理の本音は、自衛隊の国防軍化だ。戦力の不保持と交戦権否認を明記した9条2項を削除して自衛隊(国防軍)の活動範囲の制約をなくし、他国の軍隊と同様の自由度を高めることにある。そういう意味では石破氏などの自民党改憲正統派と根本的に相容れないわけではない。ただ安倍総理の改憲案は二段階論なのに対して、石破氏などの正統派は「そういうやり方は姑息だ」と反発しているにすぎない。ただ、総理案が現実性を帯びてきたのは、「9条2項を残しておけば、自衛隊を明記しても自衛隊の活動範囲は変わらない」というおためごかしがある程度、世論への説得力を持ったからのようだ。
今年4月に実施された主要メディアの世論調査の結果はかなりばらついた。読売の世論調査では安倍案は55%の支持を得たが、朝日は反対派が53%で賛成派の39%に14ポイントの差がついた。毎日はかなり拮抗して賛成27%、反対31%で、差は4ポイントだった。NHKは安倍案だけでなく2項削除案についても聞いた。結果は9条改正の必要なしが最も多く38%に達したが、安倍案の支持16%と「2項を削除して自衛隊を明記」という自民党正統案支持が30%に達して、事実上の9条改正派は46%となって反対派を上回った。
現行憲法は、敗戦後の占領下において、旧憲法の改正手続きに基づき帝国議会で制定された。条文がGHQに押し付けられたか否かといったくだらない議論は、私は問題にしたことがない。ただ言えることは、戦争末期に作成された国連憲章が描いた世界平和の理想が、現行憲法の平和主義に強く反映されたという事実は否定できない。「国連憲章なくして日本憲法はあり得なかった」と言っても過言ではない、と私は思っている。
国連憲章は言うまでもなく、国際間の紛争を武力で解決することを、国連加盟国に禁じている。が、実際に国際紛争が生じることはあり得るため、紛争が生じた際の解決方法についても憲章は規定している。要約すると、紛争が生じた際は国連安保理に、非軍事的および軍事的なあらゆる手段を行使できる権能を与えることにした。ただし加盟国が他国から武力攻撃を受けた時には、国連安保理が紛争を解決するまでの間に限って「自衛のための武力行使」を認めることにした。その際の自衛手段には、自国の軍事力と友好国に軍事支援を要請する権利が含まれている。もちろん、後者が「集団的自衛権」である。たとえば日本が他国から攻撃を受けた場合、自衛隊が自国の軍事力として防衛に任に当たるほか、日米安保条約に基づいてアメリカに軍事的支援を要請することができる。この場合、アメリカの軍事的支援はアメリカの「集団的自衛権の行使」ではなく、日本の要請に応じた、言うならば「ボランティア」である。国連憲章を隅から隅まで読んでも、国連憲章はいかなる国にも他国のために武力行使をする権利など認めていない。他国のために武力行使をする権利は、国連安保理しか有していない。
ところで、日本国憲法はすでに書いたように占領下において制定された。過去の世界の歴史を見ても、被占領国を防衛する義務は占領国側にある。国際法で明文化されているわけではないが、それが人類の歴史の中で自然法として確立されてきた原理原則である。だから、占領下においては日本は自国防衛のための軍事力を整備する必要はまったくなかった(被占領国が軍事力を持つことが禁じられていたわけではない)。そうした状況下で国連憲章の平和主義の理想を強く反映したのが、日本憲法に貫かれている平和主義である。一部の人たちが妄想しているように、過去の過ちを悔い改めた日本政府(当時)が突然、平和主義に転じて憲法前文と9条を作ったわけではない。
日本が占領下にあった時代は、それでよかった。旧ソ連が、朝鮮半島をアメリカと半分こしたように、日本の北海道も旧ソ連はアメリカと半分こしようとしたが、さすがにアメリカは旧ソ連の提案を蹴った。「樺太と千島列島の支配権を認めてやったのだから、あまり欲張りすぎるな」というわけだ。日本政府が尖閣諸島の領有権問題や拉致被害問題ではアメリカを頼っているのに、北方領土問題ではアメリカに頼れないのは、そうした経緯があったからだ。
が、ソ連圏とアメリカ圏に分割された朝鮮半島で内戦が勃発した。金日成率いる北朝鮮軍が、突然、韓国に侵攻したのだ。軍隊の強弱は、個々の軍兵士を鼓舞する支配的価値観による。共産主義の理想に燃えていた北朝鮮軍は破竹の勢いで攻め込み、韓国軍をたちまち釜山まで追い詰めた。朝鮮半島が共産化することに危機感を抱いたアメリカが、どういう魔術を使ったのか国連軍を組織して内乱に介入し、圧倒的な軍事力で形勢を逆転させた。
これは戦後世界史の最大の不思議と私は思っているのだが、国連軍は国連安保理が結成しなければ不可能なはずだ。実際、韓国政府から軍事的支援の要請を受けたアメリカは、国連安保理に韓国支援の国連軍結成を議題に乗せた。その採決の日に、ソ連は欠席した(中国はまだ国民政府が常任理事国だった)。つまり、ソ連は拒否権を行使しなかったのだ。なぜか。真相はいまだ不明である。ひょっとしたらこの時期、ソ連でスターリン政権が危機的状況にあったのかもしれない。朝鮮半島で勃発した軍事衝突に、スターリンは構っていられない状況だったのではないだろうかという気がする。
いずれにせよ、第2次世界大戦で結成された国連軍以降、国連安保理によって承認された国連軍は、この時を最後に一度も結成されたことがない。
が、日本にとって良かったのか悪かったのかはわからないが、朝鮮での軍事紛争ぼっ発でアメリカは日本の独立を急がざるを得なくなった。日本経済はまだ戦後の荒廃から回復していなかったが、日本防衛のために駐留していた米軍をアメリカ政府は根こそぎ朝鮮に送り込んでしまった。日本は丸裸になり、防衛力はゼロ状態になった。
北朝鮮の核・ミサイル「挑発」で、「日本の安全保障環境は戦後、かつてない最悪の状態になった」と寝ぼけたことを言っている政治家がいるが、この時期の日本の安全保障環境のことを、彼らはまったくご存じないのだろうか。
いずれにせよ、アメリカが日本の独立を急いだのは、占領国であるアメリカが日本の安全保障に責任を持てなくなったからに他ならない。だから、サンフランシスコ講和条約の締結と同時に、旧日米安全保障条約を締結し、アメリカは日本防衛の一方的な義務・責任を放棄することにしたというわけだ。また再独立した日本は、当然のことながら自国防衛の義務・責任をアメリカにのみ負わせることが不可能になった。こうして日本は警察予備隊→保安隊を経て自衛隊創設への道をたどることになる。
占領下において日本が新憲法を制定したとき、9条の「戦争放棄」「戦力不保持・交戦権否認」に対して、当時の共産党や後の社会党は猛烈に反対した。「自衛のための戦力は保持すべきだし、自衛のための軍事力の行使は正しい」というのが、反対論の根拠だった。この批判に対して当時の吉田総理は「国家防衛のための戦争を認めることは有害である。近年の戦争は国家防衛権の名において行われていることは顕著な事実だ」「世界の平和を脅かす国があれば、それは世界の平和に対する冒犯者として相当の制裁が行われることになっている」と答弁して、押し切った。なお、いまに至るも共産党の帝王である不破哲三氏は、井上ひさし氏との共著(対談)『新日本共産党宣言』(光文社・1,999年刊)の中で非武装中立論を展開したとき、吉田答弁と瓜二つの主張をしている。時代が変われば…。ま、人間だれしも多かれ少なかれご都合主義ではあるが。
私は、日本が再独立を果たしたときに、現行憲法について国民に信を問うべきだったと思っている。現行憲法をそのまま継続すべきだと政府が考えたのなら、再軍備はすべきではなかったし、独立国家の責任として自衛手段を持つ必要があると考えるのなら、その時点で9条を改正しておくべきだった。第一、現行憲法は旧憲法の手続きに従って帝国議会で制定されており、国民の審判を仰いでいない。今日3日の朝日新聞社説は「そもそも憲法とは、国民の側から国家権力を縛る最高法規である」と主張しているが、現行憲法は、日本国民のあずかり知らない形で制定され、かつ日本国民の審判を仰いでいない。
かといって、私は憲法を改正すべきだと主張しているわけではない。いろいろ問題はあったにせよ、現行憲法は国民生活に根付いているし、文字面だけになってしまったとはいえ、国連憲章の崇高な理念である平和主義を唱えた、世界に類をみない憲法である。私は、この憲法に誇りを持っている。
確かに、かつては自衛隊が「日陰者」扱いされていた時期もあった。しかし、いまの自衛隊員は、自分たちを「日陰者」だと卑下しているだろうか。災害大国の日本では、自衛隊員たちの自らの命をも顧みないほどの献身的な救助活動に、感謝の気持ちを抱いていない国民は、おそらくいない。私も現行憲法を厳密に読めば、自衛隊は違憲だとは思う。だが、解釈改憲によって自衛隊と憲法のかい離をすさまじいまでにかい離してきたのはだれなのか。かい離してきた責任者が「違憲かもしれないが、なにかあれば命を張ってくれというのはあまりにも無責任」などと、よくもまぁ言えたものだ。
最後に、憲法を改正するにしても、「日本という国の形」をどうしたいのかを、国民とともにまず考えることから始めてほしい。
先の大戦以降、民族紛争や宗教対立から生じているテロはかえって頻繁に起きるようになった。が、国と国の戦争、とりわけ侵略戦争はほぼ不可能になっている。ただ大国の覇権主義はいまだ健在で、かつては覇権争いに奔走していたヨーロッパ列強に代わって、いまはアメリカと中国の覇権競争が激化している。が、アメリカも中国も武力によって決着をつけようとは考えていない。自分たちも破滅することが分かっているからだ。
実際、現代世界は人類の歴史の中で、最も平和な時代を謳歌しているのかもしれない。そういう時代の中で、日本はかつて大きな過ちを犯しただけに、世界の平和のためにどういう貢献ができるのか、またいかなる貢献をすべきなのか、を「国の形」づくりの核に据えたいと思う。そのうえで、日本の自衛隊は「日本ファースト」のためにではなく、世界平和の実現のためにどのような活動をすべきかを、国民みんなで考えて結論を導きたいと思う。
たとえばPKO活動にしても、その地域の平和と住民救済のためであれば、たとえ戦闘地域であったとしても、身の危険を顧みずに活動できるようにしたほうがいいと私は思う。他国の軍隊に守られながら、安全地帯で道路建設に携わることに、自衛隊員はほこりが持てるだろうか。
憲法というものに、既成概念を捨てて、向かい合いたいと思う。
昨年は安倍総理が日本会議などが主した憲法改正集会にビデオメッセージを送り、憲法改正とりわけ9条改正への熱意を語った。同様の内容は同日の読売新聞に独占インタビューの形で掲載された。国会で野党議員から、安倍総理の憲法改正論を質問されたとき、総理は「読売新聞を読んでくれ」と答弁して失笑を買った。
憲法9条改正論議がにわかに熱気を帯びだしたのは、それからである。総理の9条改正案は「戦争放棄」をうたった9条1項と、「戦力不保持」「交戦権否認」を明記した2項を残したうえで、「9条の2」を新設して自衛隊の存在を明記するというものだ。
「自衛隊は違憲かもしれないが、なにかあれば命を張ってくれというのはあまりにも無責任ではないか」というのが、安倍総理の自衛隊明記案の表向きの理由だ。「表向き」としたのは、もちろん裏があるからだ。裏は「本音」だ。
総理の本音は、自衛隊の国防軍化だ。戦力の不保持と交戦権否認を明記した9条2項を削除して自衛隊(国防軍)の活動範囲の制約をなくし、他国の軍隊と同様の自由度を高めることにある。そういう意味では石破氏などの自民党改憲正統派と根本的に相容れないわけではない。ただ安倍総理の改憲案は二段階論なのに対して、石破氏などの正統派は「そういうやり方は姑息だ」と反発しているにすぎない。ただ、総理案が現実性を帯びてきたのは、「9条2項を残しておけば、自衛隊を明記しても自衛隊の活動範囲は変わらない」というおためごかしがある程度、世論への説得力を持ったからのようだ。
今年4月に実施された主要メディアの世論調査の結果はかなりばらついた。読売の世論調査では安倍案は55%の支持を得たが、朝日は反対派が53%で賛成派の39%に14ポイントの差がついた。毎日はかなり拮抗して賛成27%、反対31%で、差は4ポイントだった。NHKは安倍案だけでなく2項削除案についても聞いた。結果は9条改正の必要なしが最も多く38%に達したが、安倍案の支持16%と「2項を削除して自衛隊を明記」という自民党正統案支持が30%に達して、事実上の9条改正派は46%となって反対派を上回った。
現行憲法は、敗戦後の占領下において、旧憲法の改正手続きに基づき帝国議会で制定された。条文がGHQに押し付けられたか否かといったくだらない議論は、私は問題にしたことがない。ただ言えることは、戦争末期に作成された国連憲章が描いた世界平和の理想が、現行憲法の平和主義に強く反映されたという事実は否定できない。「国連憲章なくして日本憲法はあり得なかった」と言っても過言ではない、と私は思っている。
国連憲章は言うまでもなく、国際間の紛争を武力で解決することを、国連加盟国に禁じている。が、実際に国際紛争が生じることはあり得るため、紛争が生じた際の解決方法についても憲章は規定している。要約すると、紛争が生じた際は国連安保理に、非軍事的および軍事的なあらゆる手段を行使できる権能を与えることにした。ただし加盟国が他国から武力攻撃を受けた時には、国連安保理が紛争を解決するまでの間に限って「自衛のための武力行使」を認めることにした。その際の自衛手段には、自国の軍事力と友好国に軍事支援を要請する権利が含まれている。もちろん、後者が「集団的自衛権」である。たとえば日本が他国から攻撃を受けた場合、自衛隊が自国の軍事力として防衛に任に当たるほか、日米安保条約に基づいてアメリカに軍事的支援を要請することができる。この場合、アメリカの軍事的支援はアメリカの「集団的自衛権の行使」ではなく、日本の要請に応じた、言うならば「ボランティア」である。国連憲章を隅から隅まで読んでも、国連憲章はいかなる国にも他国のために武力行使をする権利など認めていない。他国のために武力行使をする権利は、国連安保理しか有していない。
ところで、日本国憲法はすでに書いたように占領下において制定された。過去の世界の歴史を見ても、被占領国を防衛する義務は占領国側にある。国際法で明文化されているわけではないが、それが人類の歴史の中で自然法として確立されてきた原理原則である。だから、占領下においては日本は自国防衛のための軍事力を整備する必要はまったくなかった(被占領国が軍事力を持つことが禁じられていたわけではない)。そうした状況下で国連憲章の平和主義の理想を強く反映したのが、日本憲法に貫かれている平和主義である。一部の人たちが妄想しているように、過去の過ちを悔い改めた日本政府(当時)が突然、平和主義に転じて憲法前文と9条を作ったわけではない。
日本が占領下にあった時代は、それでよかった。旧ソ連が、朝鮮半島をアメリカと半分こしたように、日本の北海道も旧ソ連はアメリカと半分こしようとしたが、さすがにアメリカは旧ソ連の提案を蹴った。「樺太と千島列島の支配権を認めてやったのだから、あまり欲張りすぎるな」というわけだ。日本政府が尖閣諸島の領有権問題や拉致被害問題ではアメリカを頼っているのに、北方領土問題ではアメリカに頼れないのは、そうした経緯があったからだ。
が、ソ連圏とアメリカ圏に分割された朝鮮半島で内戦が勃発した。金日成率いる北朝鮮軍が、突然、韓国に侵攻したのだ。軍隊の強弱は、個々の軍兵士を鼓舞する支配的価値観による。共産主義の理想に燃えていた北朝鮮軍は破竹の勢いで攻め込み、韓国軍をたちまち釜山まで追い詰めた。朝鮮半島が共産化することに危機感を抱いたアメリカが、どういう魔術を使ったのか国連軍を組織して内乱に介入し、圧倒的な軍事力で形勢を逆転させた。
これは戦後世界史の最大の不思議と私は思っているのだが、国連軍は国連安保理が結成しなければ不可能なはずだ。実際、韓国政府から軍事的支援の要請を受けたアメリカは、国連安保理に韓国支援の国連軍結成を議題に乗せた。その採決の日に、ソ連は欠席した(中国はまだ国民政府が常任理事国だった)。つまり、ソ連は拒否権を行使しなかったのだ。なぜか。真相はいまだ不明である。ひょっとしたらこの時期、ソ連でスターリン政権が危機的状況にあったのかもしれない。朝鮮半島で勃発した軍事衝突に、スターリンは構っていられない状況だったのではないだろうかという気がする。
いずれにせよ、第2次世界大戦で結成された国連軍以降、国連安保理によって承認された国連軍は、この時を最後に一度も結成されたことがない。
が、日本にとって良かったのか悪かったのかはわからないが、朝鮮での軍事紛争ぼっ発でアメリカは日本の独立を急がざるを得なくなった。日本経済はまだ戦後の荒廃から回復していなかったが、日本防衛のために駐留していた米軍をアメリカ政府は根こそぎ朝鮮に送り込んでしまった。日本は丸裸になり、防衛力はゼロ状態になった。
北朝鮮の核・ミサイル「挑発」で、「日本の安全保障環境は戦後、かつてない最悪の状態になった」と寝ぼけたことを言っている政治家がいるが、この時期の日本の安全保障環境のことを、彼らはまったくご存じないのだろうか。
いずれにせよ、アメリカが日本の独立を急いだのは、占領国であるアメリカが日本の安全保障に責任を持てなくなったからに他ならない。だから、サンフランシスコ講和条約の締結と同時に、旧日米安全保障条約を締結し、アメリカは日本防衛の一方的な義務・責任を放棄することにしたというわけだ。また再独立した日本は、当然のことながら自国防衛の義務・責任をアメリカにのみ負わせることが不可能になった。こうして日本は警察予備隊→保安隊を経て自衛隊創設への道をたどることになる。
占領下において日本が新憲法を制定したとき、9条の「戦争放棄」「戦力不保持・交戦権否認」に対して、当時の共産党や後の社会党は猛烈に反対した。「自衛のための戦力は保持すべきだし、自衛のための軍事力の行使は正しい」というのが、反対論の根拠だった。この批判に対して当時の吉田総理は「国家防衛のための戦争を認めることは有害である。近年の戦争は国家防衛権の名において行われていることは顕著な事実だ」「世界の平和を脅かす国があれば、それは世界の平和に対する冒犯者として相当の制裁が行われることになっている」と答弁して、押し切った。なお、いまに至るも共産党の帝王である不破哲三氏は、井上ひさし氏との共著(対談)『新日本共産党宣言』(光文社・1,999年刊)の中で非武装中立論を展開したとき、吉田答弁と瓜二つの主張をしている。時代が変われば…。ま、人間だれしも多かれ少なかれご都合主義ではあるが。
私は、日本が再独立を果たしたときに、現行憲法について国民に信を問うべきだったと思っている。現行憲法をそのまま継続すべきだと政府が考えたのなら、再軍備はすべきではなかったし、独立国家の責任として自衛手段を持つ必要があると考えるのなら、その時点で9条を改正しておくべきだった。第一、現行憲法は旧憲法の手続きに従って帝国議会で制定されており、国民の審判を仰いでいない。今日3日の朝日新聞社説は「そもそも憲法とは、国民の側から国家権力を縛る最高法規である」と主張しているが、現行憲法は、日本国民のあずかり知らない形で制定され、かつ日本国民の審判を仰いでいない。
かといって、私は憲法を改正すべきだと主張しているわけではない。いろいろ問題はあったにせよ、現行憲法は国民生活に根付いているし、文字面だけになってしまったとはいえ、国連憲章の崇高な理念である平和主義を唱えた、世界に類をみない憲法である。私は、この憲法に誇りを持っている。
確かに、かつては自衛隊が「日陰者」扱いされていた時期もあった。しかし、いまの自衛隊員は、自分たちを「日陰者」だと卑下しているだろうか。災害大国の日本では、自衛隊員たちの自らの命をも顧みないほどの献身的な救助活動に、感謝の気持ちを抱いていない国民は、おそらくいない。私も現行憲法を厳密に読めば、自衛隊は違憲だとは思う。だが、解釈改憲によって自衛隊と憲法のかい離をすさまじいまでにかい離してきたのはだれなのか。かい離してきた責任者が「違憲かもしれないが、なにかあれば命を張ってくれというのはあまりにも無責任」などと、よくもまぁ言えたものだ。
最後に、憲法を改正するにしても、「日本という国の形」をどうしたいのかを、国民とともにまず考えることから始めてほしい。
先の大戦以降、民族紛争や宗教対立から生じているテロはかえって頻繁に起きるようになった。が、国と国の戦争、とりわけ侵略戦争はほぼ不可能になっている。ただ大国の覇権主義はいまだ健在で、かつては覇権争いに奔走していたヨーロッパ列強に代わって、いまはアメリカと中国の覇権競争が激化している。が、アメリカも中国も武力によって決着をつけようとは考えていない。自分たちも破滅することが分かっているからだ。
実際、現代世界は人類の歴史の中で、最も平和な時代を謳歌しているのかもしれない。そういう時代の中で、日本はかつて大きな過ちを犯しただけに、世界の平和のためにどういう貢献ができるのか、またいかなる貢献をすべきなのか、を「国の形」づくりの核に据えたいと思う。そのうえで、日本の自衛隊は「日本ファースト」のためにではなく、世界平和の実現のためにどのような活動をすべきかを、国民みんなで考えて結論を導きたいと思う。
たとえばPKO活動にしても、その地域の平和と住民救済のためであれば、たとえ戦闘地域であったとしても、身の危険を顧みずに活動できるようにしたほうがいいと私は思う。他国の軍隊に守られながら、安全地帯で道路建設に携わることに、自衛隊員はほこりが持てるだろうか。
憲法というものに、既成概念を捨てて、向かい合いたいと思う。