小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

桜宮高校体罰自殺事件の実名報道をマスコミは重く噛みしめよ

2013-02-03 04:57:01 | Weblog
 このブログ記事は前回のブログ『読売新聞読者センターはついに「白旗」を挙げた!?』を投稿した1月26日から書き始め、28日には完成し、いつでも投稿できる状態になっていました。しかし前回のブログに対する訪問者数・閲覧数が昨日まで200~300を切らず、このブログをなかなか投稿できない状態が続いてきました。私のブログにはかなりの固定読者がおられるようだということは何となく承知していましたが、これほどロングランの状態が続くということは、たぶん読者の方がツイッターなどで広めてくださったからではないかと思います。感謝、感謝。 
 その後も、安倍内閣が次々と民主党政権時代の政策をひっくり返してきたことについて、以前のブログでお約束した「社説読み比べ」の記事をも書き,やはりいつでも投稿できる状態にしてあったのですが、これは残念ながらタイミングがずれすぎてしまったため、いったんボツにすることにしました。予算委員会で本格的な与野党の論争が展開されるようになった時期に改めて与野党の攻防を踏まえて書き直し、時機を見て投稿したいと思っています。
 また、いま田原総一郎氏の『真実の近現代史――田原総一郎の仰天歴史塾』(田原総一郎/著 テレビ東京報道局/編)を読んで仰天しています。自称ジャーナリストが、どのように歴史的事実を「解釈」したら、このような近現代史論を書くことが出来るのか、大げさではなく仰天しています。
 そもそも、著者が田原氏で、編者がテレビ東京という、通常ありえない作り方自体が、テレビっ子ならではの面目躍如たるものがあるように感じましたが、また同書のカバーについている帯が、ただ売れさえすれば日本人の近現代歴史観をさらに歪めてもいいと考えておられるようで、そうなると前々からマスコミ(特に朝日新聞や読売新聞)によって歪められてきた近現代史観を、歴史家の目線ではなくジャーナリストの目線で書きたいと思っていましたので、この本をまな板の上で一刀両断することで、読者の方たちの目からうろこを落とさせていただきたいと考えています。なお同書の帯にはこう記されています。
「領土問題の真実、政治経済の弱体化などすべての根源は戦前戦後の歴史観の欠乏にあった ! なぜ日本人は本当のことを知らないのか」
 さらに同書の「初めに」(※前書きのこと)で「日本は太平洋戦争の総括を、まったく行っていません。……いまだ自らの手で、このような戦争が起きたのはなぜか、そしてこの戦争の結果起こったことに対する総括を、行っていません」という、近現代史専門の歴史学者やマスコミがひっくり返ってしまうような事実の歪曲すらしています。歴史学者やマスコミが偏った近現代私論を行っているのは事実ですが、それならマスコミや歴史学者の歴史認識の間違いを批判するのがジャーナリストの本道であり、今まで歴史学者やマスコミが無視あるいは歴史的価値が少ないとしてきたことを指摘し、一見些細に見える事実が日本の近現代史に大きな影響を及ぼしたと主張するなら、そうした歴史の片隅に追いやられてきた事実を発掘することは大きな意味があることは私も否定しませんが、そうした要素もほとんどありません。
 田原氏は同書「初めに」でこうも書いています。
「戦後70年近くも経た今もなお、すべてがあいまいにされたままになっているのです。しかし史実を知らなければ、近現代史をきちんと学ばなければ、現代の問題――原発問題にせよ。出口の見えないデフレ不況の問題にせよ、その他もろもろの問題もすべて、その根本から理解し、解決することは、まず不可能なのです」
 同書はBSジャパンで8回にわたり放映された『田原総一郎の仰天歴史塾 ニッポンリーダー列伝』という番組(現在も継続中)をベースに書いたということですが、歴史上の人物に目新しい視点を当てることが無意味とまでは極論しませんが、人物伝だけで歴史を語るというのは司馬遼太郎氏の小説方法論で、それは小説だからある程度は許容できますが、正面切って近現代史に挑戦しようとするにはあまりいい方法論ではありません。
 田原氏は日本の近代革命と言っても差し支えない明治維新の大パラドックスについて全く理解していません。つまり歴史認識の方法論としては、従来の歴史学者たちの歴史認識方法論の手のひらの上で踊っているにすぎません。
 私はこれまでブログで何回か書いて来ましたが、明治維新を実現した運動エネルギーは、「勤王」「攘夷」「尊王」(運動が生じた歴史順)の三つに大別され、「勤王」思想が長州藩若手藩士の画策によって「尊王」思想に変質し、その思想転換によって初めて維新実現の最大の起爆剤となった「攘夷」と結びついた(はっきり言えば長州藩の若手藩士が発明した接着剤で)結果、幕藩体制が崩壊し、日本が近代国家建設への歩みに踏み出すことになったという大パラドックスについての、基本的な歴史認識の方法論を田原氏はまったく理解していません。それが証拠に、田原氏は本文で「世の中に吹き荒れる尊王攘夷の嵐は一層の勢いを見せ始め」と、明治維新を実現した運動エネルギーについての通説をいとも簡単に認めています。そもそも「尊王攘夷」などという四字熟語は維新以降に作られた造語であって、「尊王」と「攘夷」は別々の意味を持っていたのです。そんなイロハすら識別できないジャーナリストに歴史認識の方法論を語る資格はないと言ってもいいでしょう。
 同書は7章からなっており、私も1章ずつ、田原氏の歴史認識の誤りをこのブログで指摘していきたいと思っています。つまり7回にわたるロングランのブログになりますが、その間、今回のブログのような時事的な問題についてのブログも挿入していきますので、ご承知ください。
 では本題のブログに移ります。

 案の定、桜宮高校事件はニュースショー(テレビ)の格好な大きい話題になった。著名な教育評論家が引っ張りだこになって茶の間では家族の間で、てんやわんやの「ああでもない、こうでもない」の大議論が始まっているようだ。
 この問題がこのように大騒ぎになったことは、ひとえに体罰を苦に生徒が自殺した学校名をマスコミが実名で公表したからである。
 私がいじめ自殺について本格的にブログでマスコミの報道姿勢を批判するようになったのは、仙台育英高校のいじめ自殺についてのマスコミの報道基準に疑問を抱いて以来である。この事件について昨年8月8日に投稿したブログで、私はこう書いた。

 仙台育英が悪質なのはいじめの被害にあった生徒に自主退学を迫るという教育評論家の尾木氏がコメントしたように「天地がひっくり返ったような話」ということにとどまらないということだ。つまり仙台育英は(当然校長も含め)相当前にこのいじめを承知していながら甲子園出場を辞退せず、ひた隠しに隠してきたという問題である。
 問題が明るみに出たのは今月6日にNHKがニュース7でスクープしたことがきっかけだった。被害生徒が仙台警察署に被害届を提出したことをキャッチしたNHKのスクープだ。 このニュースを見た直後、私はNHKの視聴者センターに電話し、チーフに代わってもらって「なぜ校名を明らかにしなかったのか。これほどいじめが社会問題化している時期に加害生徒を処分せず、逆に被害生徒に自主退学を迫るという悪質な学校名を明らかにしなかったのはなぜか」と苦情を述べた。25年間教育問題に取り組んできたというチーフは「いじめ問題を扱う場合はかなりデリケートにならざるを得ないんです。お客様のおっしゃることは十分理解できますが、校名を明らかにした結果、かえって被害学生が学校に戻れなくなる可能性がかなり高いと報道部門は考えたのでしょう」と答えた。
 私は「あなた方は現在のネット社会の広がりを全く理解されていないようだ。今日中に校名はネットに流れますよ。NHKが校名を明らかにしないという配慮はネット社会では通用しない。もうかつてのような大手マスコミが自分たちの社会にしか通用しない自主規制や被害者に対する配慮は今のネット社会によって完全に崩壊したということを念頭において報道しないとマスコミに対する信頼感は雪崩を打つように崩壊していきます」と応じた。
 現に厳しいネット規制を行っている中国ですら次々に共産党幹部の腐敗がネットで暴かれ権力の中枢部でもネットの告発を抑えきれない状況である。(後略)

 その3日後、私は再びマスコミ界に怒りの矛先を向けた。8月11日に投稿したブログ『いじめ社会の復活に手を貸した大手マスコミの罪』というタイトルで大手マスコミに対する批判を展開したのだ。今度は大津市立皇子山中学で、いじめを苦にした2年男子生徒が自宅マンションから飛び降り自殺した事件についてである。再びマスコミは学校名を伏せ、事件を大々的に報道した。だが、 
その日のうちにネットには学校名だけでなく加害者生徒3人の実名も流れた。 
 いくらなんでも、匿名で自分が知り得た情報を何でも流していい、と考えるのは行き過ぎだとは思う。しかし、それでもマスコミは学校名を明らかにしなかった。NHK視聴者窓口のチーフが言ったように「学校名を公表すると、かえっていじめにあった生徒が学校に戻れなくなる可能性が高いと報道部門は考えたのでしょう」という理由は、この事件では通用しない。いじめにあった学生が自殺してしまったからである。学校名をマスコミ界にしか通用しない論理で伏せても、自殺した生徒が生き返ることは「天地が引っくり返っても」あり得ないからだ。マスコミ界の自主規制が破たんしたことを、この事件が証明した。私はマスコミのいじめ報道についての姿勢をこう批判した。

 現代のネット社会が持っている社会的影響力がもはや大手マスコミの思惑やマスコミ界にしか通用しなくなった自主規制を完全に過去のものにしてしまったことに、そろそろ気づいてもいいころだ。
 あえて言う。いじめ事件の増大にストップをかけ、被害学生を守る最善の手段はニュース報道で学校名を明らかにしてしまうことだ。ここまで私がいじめ問題についての私論を展開しても、依然として従来のスタンスから脱皮できないようなら、もはや日本人とくに若い人たちのマスコミ離れはとどまることがないだろう。(中略)
 実は大手マスコミの読者や視聴者の意見を聞く窓口担当者の大半は「ネット社会化におけるマスコミが果たすべき役割と権利・義務・責任」についての私の主張を理解・支持してくれているのだが、肝心の現場が、窓口担当者が伝えてくれた私の「マスコミ論」を全く理解してくれていないようなのだ。現に仙台育英の校名を公表すべきだという私の主張に対して当初反論していたチーフも最後まで私の主張に耳を傾けてくれ、「貴重なご意見として必ず担当部門に伝えます」と言ってくれていたのだが、仙台育英のいじめ事件についての報道で校名を明らかにすることは最後までなかった。
 ※私のブログの読者のお教えしておくが、マスコミの読者・視聴者窓口が、
  読者・視聴者からの意見(賛否を問わず)に対して電話を切る前に最後に
  言う二つの言葉の意味をご説明しておこう。
  「承りました」……「聞き置く」つまり聞き捨てにすること。
  「担当者に伝えます」……必ずメモが担当者にわたる。ただしメモなので、
  読者・視聴者の意見がどこまで正確に担当者が理解してメモしたかは保証
  の限りではない。
 
 実はマスコミが誤解、というより完全に理解していない教育委員会の構成と責任者の所在について説明しておこう。
 教育委員会には二人の「権力者」がいる。教育委員会委員長と教育長の二人である。委員長は一応最高権力者のはずなのだが(一般社会においては……ただし特殊法人などの理事長のように、単なるお飾りの名誉職は別として)、実は教育委員会委員長は単なるお飾りの名誉職に過ぎず、教育界の出身者はほとんどいない。いじめ問題や今度の体罰問題など現実の問題が生じた時に実務上の最高責任者として学校に対する監督・指導を行うのは教育長であって、教育長には原則校長経験者がなる。この仕組みが学校問題が生じたときに最大のがんとなるのである。つまり教育長は単なるお飾りではなく、事実上学校内での様々な問題が生じたときの実務面の最高権力者なのだ。教育長は校長経験者であるがゆえに、実務上の経験や知識は確かに豊富なのだが、学校で問題が生じたとき、どうしても身内意識が働いて学校寄りのスタンスをとってしまう。
 たとえば桜宮高校の今年度の入学試験について、橋下市長が「体育関係学科の入試は行うべきではない」と主張したのは、確かに権限の乱用と私も思うが、感情的には大半の方々と同様橋下市長の見識を支持したい。この常識的感情に最後まで抵抗したのが教育長であり、結局世論には逆らえず「入試は(名目上)普通科のみで行う」と発表した。が、普通科で入学しても、どういう名目にするのかは不明だが、やはり体育教育専門のクラスは存続させるようだ。玉虫色の解決ではあるが、スポーツ名門校としての伝統は、私も絶やすべきではないと思うので、やむを得ない解決策として容認せざるを得ないのが実情だ。
 ただ桜宮高校の部活体罰が、桜宮高校だけでなく全面的に不可能になったのは、ひとえにマスコミが桜宮高校を実名で報道したからである。つまり部活体罰が明らかになると学校名が実名で報道されるという危機感を、スポーツに力を入れている学校がいっせいに抱いたという意味合いが、この実名報道の最大の成果だった。
 確かに仙台育英や皇子山中学のいじめ事件を実名報道しなかったマスコミが抱いた、「実名報道すると大混乱が生じる可能性」が桜宮高校の実名報道で検証された。桜宮高校の在学生やその父兄、体罰を行っていなかった部活顧問教諭や普通科教諭も肩身の狭い思いをしたであろうことは想像に難くない。
 また桜宮高校の「悪名」は当分消えないだろうから、今年の入試は桜宮高校に絞っていた中学生は桜宮高校を受験するだろうが、来年度以降、桜宮高校の受験生が激減することはほぼ間違いない。場合によっては近い将来、桜宮高校は廃校になる可能性すら否定できない。
 そういう意味では非常に大きな犠牲を伴う実名報道だったが、私は「一罰百戒」の効果の方を重要視する。この実名報道によって、すべての学校(中学から大学まで)で、スポーツ系部活の在り方が一変することは疑いを容れない。要は日本のスポーツ教育でこれまで最重視されてきた「精神主義」が、この実名報道で根絶するであろうこと、そしてアメリカのような科学的トレーニング法を日本も導入せざるを得なくなるだろうこと、そういった効果を考えると、仮に桜宮高校が廃校に追い込まれるような事態(入学者が一定数確保できなくなれば自動的に廃校になる。少子高齢化で小・中学校が統廃合されるのと同じ)になっても、そのマイナス面をはるかに上回る大きな効果が期待できる。
 この教訓は学校の体育系部活だけではない。プロ・スポーツの世界でも大きな変化が期待できるし、これまで負のアナウンス効果を恐れて実名報道を避けてきた報道機関にとっても大きな課題を突きつけたといえよう。
 私はNHKと朝日新聞に「仙台育英や皇子山中学のいじめ事件を実名報道せず、桜宮高校の体罰教育を実名報道した報道の基準と結果についての検証を番組や紙面で明らかにしてほしい」と要求したが、まだ実現されていない。さらに加えてアメリカの科学的トレーニング法を紹介し、日本も精神主義トレーニング法(はっきり言えば、「カツを入れる」という名目での「しごき」)から脱皮すべきことを主張してほしい。
 それはプロの世界でも共通するテーマである。柔道は日本で生まれ世界中に広まったゆいつのスポーツだが、世界の柔道指導法を学ぶようになった(まだ中途半端で、「しごき」はあまり見られなくなったようだが、「量は質に転化する」式の非論理的な練習量の増大化は依然として続いている)。だが、実際のところ、練習量をいくら重ねてもあまり効果はない。豊富な練習量によって精神を鍛えるというバカげた発想は依然として残っている。いくら練習量を増やしても、素質がなければ強くはなれない。素質のある柔道選手に対しては長所を伸ばし、欠点を克服するための効率的な科学的トレーニング法を取り入れなければ、日本の柔道の復活は期待できない。(※このブログを書いた時点では柔道女子日本代表の園田隆二監督の「熱血」指導の問題は全く明らかになっていなかった)
 たとえば、日本でもアメリカでも人気が高いプロ野球だが、アメリカのキャンプは期間も短いし、1日の練習量も日本よりはるかに少ない。それでいて、アメリカのプロ野球選手の試合状況の過酷さは日本の比ではない。年間試合数も多いし、日本に比べると、とてつもなく広い国だから(そのためメジャーリーグは日本と違い地区別に四つに分かれている。昔は日本と同様地区別ではなく2リーグ制だった)、移動によって受ける疲労度も日本の選手よりはるかに大きい。それなのにメジャーリーグの先発投手は4人のローテーションで投げている。日本の選手は自主トレやキャンプでくたくたになるまで練習をさせられてシーズンに入るから、1週間に1回しか先発できないほど体力をすでに消耗してしまっている。そんなやり方をしていたら、いつまでたってもアメリカに追いつくことはできない。
 私はスポーツ関連の専門家ではないが、スポーツというのは、もともと素質がある選手は一度コツをつかめば、そのコツを忘れない程度に練習量はとどめた方がいい。コツを完全に体に染み込ませようとして練習をやりすぎると、疲労によってかえってせっかくつかんだコツが歪んでしまう。そのリスクの方が大きいことに、選手も指導者も気づくべきだ。アメリカ式の科学的トレーニング法を取り入れるとはそういうことなのである。
 余計な話になったが、日本のスポーツ練習の在り方が桜宮高校の体罰事件をきっかけに大きく変われば、体罰練習に対して抗議自殺した生徒の思いは日本のスポーツ史に末永く残るであろう。
 私はそうなることを願うし、また生徒の自殺を一過性の事件に終わらせないことが、マスコミの果たすべき大きな責任である。

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