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男性社会において多様性は邪魔な存在だから消そうとするのが闘争本能である。

2015-08-16 | 社会問題
男性的な世界統一は個性のない強い者だけが支配するクールなものであるのに対して、女性的世界統一は多様性豊かで抱擁的な温もりのある世界秩序である。

女性社会現象の多様性と特殊性の点では第一の課題に男性より勝るものがある。

女性社会の体系とそれに密接に関係した文化全体の内部構造を明らかにするために、女性特有の月経の観点から考えてみると、男性が過去を引きずりやすく、女性が過ちをすぐにやり直せるのも月経が影響していると思われる。

女性的社会と生理的現象の文化的段階との歴史的関係、すなわち男性的社会以前の状態と女性的社会以後の高次の社会との歴史的生理現象を探ることが、それによって人類の発展の歴史が、今まで知れなかった局面を切り開かれることになる。

女性は生まれ持った変革と激しい変動を生き抜く体質が備わっており、世界史の盛衰が新たに記録されるのである。

現代社会の歴史によれば、常に血なまぐさい事件によって転換期を迎え、暴力によって覆いかぶされたように、平和への貢献に漸次的に移行していった例はきわめて稀である。

どんな原理にしろ、それが極端なものとなれば、それに対抗する他の原理の勝利を招くものである。

闘争それ自体が本能的原動力では、勝利の頂点は同時に敗北の始まりでもある。

人間の心というものが中庸を踏み越えようとするものなら、そして同時に不自然な極端を維持できるものなら、かくも協力に示されるところは他のどこにもないことになる。

男性社会と他の生活形態との闘争が繰り広げられる個々の現象がなるほど多種多様であろうとも、しかし全体として見れば、それらの現象は確かに人類の発展と進歩につながっていることは認めざるを得ないが、

低次元のまったく無秩序な社会体制は、限りある資源についての無益な闘争が生み出した悲しむべき混乱として、敗北の世界へと追いやられてしまっている。

誰しもがかくも品位なき植民地時代があったという痛ましい記憶は、人類から拭い去ってしまいたいだろうが、しかし、私たちは歴史の証言に従えば、もはやこのような傲慢な利己心のささやきに耳を傾け正当化している場合ではない。

だがどんな言い訳にも希望はある。文化と伝統と科学は実際に検証される。

もはや疑いえない、女性たちが男性の弱体に共感する術がなく、また女性が男性の欲望になす術もない、死ぬほどの疲れを覚えた時、世界は何にもまして秩序ある状態と歴史の修正への憧れを深く抱くものであり、そして女性よりも優れているという自尊心を持つ男性たちは、たとえ傲慢であっても女性たちのその願いを叶えるのである。

このような共存の相互関係を無視するなら、女性社会の優れた特性の一つに数えられる、生活の安定的な規律がどのような歴史で意味を失ったのか、完全に認識されることはないし、またいっさいの合議知の最高の原理とされる男女法典が、共存文化の発展史の中に正しく位置付けることもない。

明らかに、意図的なものでも、突発的なものでも、差別的にしか妥当しない過去の歴史である。

男性社会の継続を必然的、必要的なものと考える者にとっては、思いもよらぬ屈辱が降りかかることになるかもしれない。

男性が女性を引き付ける魅力を自然から賦与され、その意のままに魅力を発揮できるのは、決して男性の実力だけではない。

より高度な文明への進歩は、戦闘を伴いつつ、常に新たな脅威にさらされ、緩慢なものに留まることは明らかに不徳である。

事実、その絶頂期には様々な混乱が見い出されること事態、数千年に及ぶこの領域での争いが、いかに不安定で波乱にとんだものであったかの証である。

いっさいの他人の制約に服さない、本能むき出しの、感情的な自分自身のみを頼みとする傲慢さは神仏に対する冒涜である。

反対に、女性が問う普遍性はその母なる懐の中で人類最初の一歩を踏み出した幸福なのである。

文明の発展というものは、総じて飛躍的にあるいは突発的に進歩するものではなく、常に漸次的に、そして多くの段階を踏み上がりながら進行していく。

その個々の段階はそれぞれにある程度、それ以前の段階をも、それ以後の段階をも、真理と原理を繰り返しながら内部へと外部へと進んでいく。

国家という家族的生活とは、物静かで人知れね領域で生じる幸福や試練が、国家生活全体に、ひいてはその興亡に大きな影響を及ぼすように、

共存社会の関係と、素朴なものであれ発達したものであれ、共存関係についての見方は、国家の生活全体、さらにその運命に関わっているのである。



男性社会の罪と罰には、女性たちの前に出て反省しなければ、また言い訳を始める。

2015-08-15 | 社会問題
争い好きな男性社会が取るべき二つの大きな道は、支配と破壊のどちらかである。

責任ある社会人としてすべては自己責任において自己完結しているかもしれないが、問題なのは女性たちである。

エゴによる犯罪や悪事に対して、動機は平和の意図と必ずしも同一ではなく、別々に異なるものであるから、エゴによる犯罪の動機は言い訳にあたる。

ルールを守れない人間は未熟であり、自分自身との折り合いが上手くいっていない人に、他人と上手くいくはずがない。

男性社会の凶暴性は、大体が小心にある。どんな犯罪にしろ、何か異常な感情がなければ存在しえないのだから、肝が冷めて反省しただけでは不十分であり、そこに習慣性がないか確かめる必要がある。

なぜなら、戦争で自ら犯した罪を脱出する方法は、さらに罪を重ねることだからである。不正を犯してしまった時ほど、急に自分を愛おしく感じるものだからだ。

また、エゴは自分に似たエゴを極端に嫌う傾向がある。自分に似た敵には容赦しない、男心である。

刑罰によってエゴが改善された試しがないから、従って、戦争による反省は女性の前に出て行うべきである。エゴの衝動を変えられるのは女性によるものだけである。

刑罰は同等性と根本からの法則との無限的なものによる変化の対応にある。

ゆえに刑罰は本能的なもの、感情的なもの、理性的なものとに分けて、別々に女性たちの前に曝さなければならない。

現在の刑罰には特徴的なシンボルがない。イメージ出来なければ犯罪者にも伝わらないように、そのシンボルが女性である。

実際、犯罪者の言い訳が絶妙だ。刑罰が犯罪者を復讐に掻き立てて、犯罪の連鎖を引き起こす。

そしてその犯罪者を減少させる刑罰とは、徴兵制である。人は徴兵制で新しい自分に変わることが出来る。事実、多くの男性たちは徴兵制に大反対だ。

逆に言えば、刑務所で訓練しなければ何度刑罰を与えようが無意味である。どんな犯罪にしろ、最低限度の徴兵制による刺激的な生活が必要なのである。

なぜなら、犯罪者の多くは無知にある。実際、刑務所での生活から教育される喜びが存在している事実だからだ。

刑務所での記憶には興味深いものがある。犯罪者も人間であるのだから教わりたいし、成長したいのである。

一般社会の意識変革や犯罪者の再犯防止には徴兵制が有効だ。一度でも捕まれば即、徴兵制で再教育である。


最悪なのは、共同体において、自己中心的で反社会的な無知による動機が究極の敵となる。

共同体のルールを守れずに、社会を恐怖や混乱に陥れる非人間的なものであるからだ。

仮に、男性が女性に暴力を振るった場合、それは自己中心的で反社会的な行為と判断され、極めて凶暴的で、意思とは切り離された感情であるならば、なおのこと、悪臭を絶たなければ、二次災害に発展する危険性がある。

男性に関するトラブルはなくならないかもしれないが、業務上においても信用や信頼を失うほどの社会問題である。本人の反省だけでは説得力に欠ける。

まして男性の責任は、女性たちへの配慮にあるのだから、女性が男性に対して配慮しているにもかかわらずに、男性たちは恩を仇で返している。

犯罪者に同情するのもよいが、平和的な女性たちとの共感が最も大切だ。悪を救済することは立派だが、善意を伸ばすことがより重要だと考える。

安全で安心する平和的社会を求めるのは人間の本質であり、立派な権利である。それを脅かす犯罪者たちは反社会的であり、非人間的である。大人に成り即なった精神年齢の低い大人たちである。


私達の文化の本質は男は女から生まれて女に育てられる感謝にある。

2015-08-14 | 社会問題
人間の命は、女性によって初めて、その精神を高められ、規律ある生活文化をもたらしてきた。いっさいの崇高な善意は女性のおかげである。

美しい生活習慣への憧れは男性よりも先に女性の心のうちに目覚め、それを実現される天性の能力という点で女性は男性に貢献してきた。

歴史の野蛮な状態を克服し、その後、多くの平和的文化を形成した人達は理解ある一部の男性と女性たちである。

生命や男性社会も、そこから始まる感動も幸運さえも女性の賜物であり、自然の恐怖を認識したのも、死の悲しみを乗り越える希望を感受し約束したのも女性である。

そう考えると、女性と男性との共存した社会の時代が次の文化を進歩させ、文明の恩恵を感じさせて初めて約束の地に辿り着いた人類の物語となるのである。私たちは無意識ながらにこの時を待ちわびているのだ。

現代を通過しなければ決してこの先の文明の発展はなく、この時代を通じて初めて一人一人の個人主義はもとより、国家も自然法則をも自らのものと成し得るのである。

私達はまず、女性的概念が自然と普遍との融合にあることを理解し、自然的なものと人為的システムとの融合も独立したものではないことを明らかにし、

そこから男女共存社会が進んだ社会システムであるという特徴を導き、私達は国家制度、家族制度の領域でも女性社会が普遍的真理であるという特性を見出すことで、男女共存社会の特徴がはっきり理解できる。

女性社会は、それを身体的イメージで語るならば、子を産みなす母なるものに発し、完全に物質と自然的生命現象の支配下にあり、女性社会の内面的および外面的美しさは全てこれらのものに由来する。

後の世代に対して女性社会の実現ほど、いっさいの生命の一体性、つまり万物の調和をいきいきと感じさせる世代はないし、そこから道を誤る事もない。

深く命のことを考え、深く死を思い、女性、ことに母なるものが、大地に生ある存在のあの儚さとノスタルジアを感じさせてくれる過去も未来も、またそれゆえ死後の恐怖を深く希求することも可能にする大いなる母たちである。

だからこそ女性はより大きな博愛を願って追求し、それを大自然の生命現象のうちに見出し、再び子を産みなす母胎、子を宿し守り育てる大いなる母の愛に結びつくのである。女性原理はあらゆる点で自然界の法則と共存し従属しているのである。

そこではまず、複合して共感を得る社会はきわめて現実的であり、物質的存在の美化の現実に全力で仕分けされなければならない。

女性文化ほど、肉体という外面と精神の不可侵性に重きを置いた文化もないし、逆に内面的精神的要素の重要性を感受する文化もない。母なるものに体現される生と死の二元性と事実的占有の視点を真理的抱擁的に調和した文化もない。

それと同時に、何よりも高級な感性的心情、その自然の感情と人間の感性に根ざす心のありようを育て愛した文化もないのである。

女性社会における文化の生活は整序された調和主義であり、その考え方は物質的で現実的であり、その発展はきわめて形而上学的である。

男女共存社会はこのような文化的段階に必然的に結び付いており、男性社会の時代には達成しようにも出来なかった、芸術的な文化的段階なのである。


男女共存社会における男女法とは市民法であって国家のものではなく世界共通の理念である。

2015-08-13 | 社会問題
男女共存社会は普遍的な意思を持つ、運命的で、芸術的な、同意的である。

男性は女性と苦楽を共にする運命共同体であり、ドラマティックなロマンスであり、深く刻まれた歴史と文化の二面性である。

事実、男性の存続と女性の保証が直結しているように、女性の利益が男性を救うことにも繋がっている。

男性は女性の利益を考え、女性は男性の繁栄を誇りとする利得関係の一致が明確に開示されている環境を創り出すのが男女共存社会の務めである。

それゆえに、男女共栄の利益の為に、協力出来ない者は不完全な争いを好むテロイズムと同意語になる。

男性であれ、女性であれ、現状維持では衰退し衰弱するのだから、努力と献身が要求される。

その社会正義は平和的福祉の貢献によって私達の生活水準のレベル向上が正当性を評価する。

男女共に、世界国家の共同体と感じられる健全な税金運用のシステムが何よりも重要だ。

女性の善意を無視する税金運用であっては日本人の「和」に反する国賊であり、大和魂の恥である。

実際、女性の怒りには大きく二つに分けられる。一つは男性社会から恩恵が感じられないことと、もう一つは男性が女性に対して感謝が感じられないことが問題だ。

何よりも女性の目的が男性の目的と一致するのであれば、男性から協力が得られ、女性の普遍性が自然的友愛を育てる。

逆に、男性が女性について何も考えなければ一体誰が男性に協力するのだろうか。

毎日の生活手段として無理もなければ偽りでもない共存社会は、男女による善意との相互関係にあると言える。

女性自身がその使命に、はっきりとした形で参与しうるような状態がベストである。

なぜなら、ボランティアやエシカルとは、運命的で、芸術的な、同意的な連鎖であり、共に生きた証であり、何よりも優れた国民性を重んじる民族だからである。

現在の世界情勢を見れば解るように、金とエゴで身動きがとれないのであれば、女性世論が政治や秩序の担い手になるのが望ましく、男女共同体の強さは合議体であり、共同体の理念による国民主体が民主主義である。

国民こそが国家であるから、その大衆は男性によるものではなくして、女性を無視した政策では世界が混乱に陥り行き詰るもの必然である。

民主法では全ての国民は平等であるのだから、選択するのは男性だけではなく、当然、女性にも権利がある。

国家の長所を潰す為の努力は女性を無視して男性にだけ気を配るのが一番のように、女性感情を無視し、半数の意見ばかりに目を向けていては、談合接待に目がくらむのもうなずける。

女性には男性への義務による役割分担と監視によるストーカーのような管理では、過去の奴隷制度と何も変わらずに、女性の適性に応じた本人の選択と責任が重要視されなければならない。

つまり、男女共存社会のアイデンティティーとは、男性は女性に対して求めるものを与え、女性は男性が求めるものを与えれば良いのである。

女性の願いは男性の羅針盤でもあるのだ。それを無視しては男性の夢や目標など達成出来ないどころか、道を見失なう迷子の子供同然だ。

女性たちの目的が叶わない男性社会に愛着など感じず、どこに未来への希望を見出せと言うのか?

男性がすべきことは女性の好きなことを何かを調べて、どんな報酬を求めているのかを調査し、女性が長時間費やしていることは何なのか聴く耳を持たなければならないのである。

なぜなら、女性こそが生みの母だからだ。母殺しは許されない。

国家の目的とは男性だけが決めることではなく、まして国法とは普遍的で美しい生活習慣を身に付けるものであり、

女性が持つ潜在能力を開花する機会や環境、社会システムを整備するものが男女法である。

女性は決して手段ではく、目的である。手段と考えれば争い、目的を一致させれば楽しくなる。

男女法とは国家のものではなく、国民のものであり、名誉の目的なのである。この目的から決して目を逸らしてはいけない。


未だ朝鮮半島では女性に対する配慮が足りていない。

2015-08-12 | 社会問題
私達の社会は、想像する以上の大きな試練を経験してきた。

優れたインテリジェンスの人達は、うすうす気付いていると思いますが、世界の全ての根源問題は、どうやらイデオロギーの問題のようである。

私達の行動力や精神力が衰弱し衰退するのは、女性を省みない生活習慣のあらゆる領域でただちに腐敗が始まっていることを気づかなければならない。

男性の盛衰はすべて、女性たちの崇高な領域に由来する運動に男性たちの振り子は起因する。

実際、紛争が絶えない地域では例外なく、徹底的に男性社会が支配しているのである。人間のあり方も生活統制もすべて闘争本能観念に支配されている事実である。

いかなる時代でも女性は平和的なもの、命あるもの、法則的なもの、美しいものへと心惹かれるものであり、

男性はもとより、共同体の知恵や文化や伝統でも、この女性の美の特質に決定的に影響されているのである。

いかなる社会のものであれ、いかなる同族のものであれ、社会的現象は事実を通じて私達の認識に善悪の見方が正しいかどうかを常に検討して検証している。

社会混乱が多くの場合まず最初は女性に犠牲を与えるように、男性社会の普及には通常女性が最も能動的に関与しており、

女性の心は男性に忠実を尽くすという点では男性よりも献身的であり従軍慰安婦問題である。男性社会には感謝が必要だ。

本来、男性に対して強い影響力を持つ女性たちは、暴力の原理に対しては平和の原理を、流血をも辞さない闘争には調和の原理を、憎しみや嫉妬の感情には母性愛で応戦する。

このように女性たちは、無法ともいうべき男性社会の野蛮な生活を乗り越え、柔軟で穏和な文明への道を開く者たちである。

その中心にある女性たちと一部の優れた男性たちは、崇高な普遍的原理の担い手として男女共存社会に必要不可欠な存在として君臨する。

激しい怒りを鎮め、戦いの連鎖を戒め、真の社会正義を語るグレイトマザーの言葉を不可侵なものとし、何にもまして女性たちの思想こそ最高の原理として尊重するイデオロギーである。

なぜなら、失う命と奪う命は母なるものから生まれた命であり、生命は死ぬことによって新たな生命を再生する姿に於いて女性こそが自然原理に伴った必要不可欠な存在であり、

またこの法則は、生と死とが必ず繰り返される輪廻転生に似たものであり、命の絆こそがさらに高次の再生の為の不可欠な無条件であることを教えているからである。

男性が容赦ない戦争を繰り返すことが出来る歴史の背景には、女性への配慮が無くてはならないことを今さらながら気付くのが遅すぎるかもしれないが。

普遍的なものと女性本来のまったく別の側面が、現代社会の急速な展開によって引き出された結果、犠牲になったのはいつの時代も女性たちなのである。

かつては女性に感謝する社会体制の基礎が明確にあり、女性を尊ぶ民族の全てに与えられていたいっさいの至福の源泉がどこへ吹き飛んでしまったのかを思い出さなければならない時が今まさに到来しているのである。

男女共存社会の文明的、道徳的、倫理的特質、つまり母なる愛は、この母なるものの性別が女性の中でかくも完全に情緒豊かに展開された例が、闘争社会の中で見出されるだろうか。

いかなる社会もこうした共存共栄的光景を賛美し、待ちわびているのは世界共通認識である。

男性たちの強靭な精神による優れた科学的創造のみならず、女性的な生活の理念と慣行との連携を認め、さらには女性たちが子を産む神秘な光景をも認めるならば、今よりは幾分マシになるだろうと、ここにもさきにも協調しておきたい真実である。


現代女性はキャッシュフローと支払い能力に男を感じる。

2015-08-11 | 社会問題
マネーの一般的な常識として、世間に存在している需要の四分の三は非現実的なものであり、幻想や思い込み、見栄と習慣のコントロールが財布の紐となる。

だから、財布の中身の調節は本質的には生活手段と感情の調節に掛かっている。

事実、経済最前線では顧客の心理や感情を突いた戦略とシステムが発達しており、その為に真面目な夫婦や恋人たちの財布の中身はいつも貧金状態だ。

大切なのはキャッシュフローの物語であり、お金を使う時や商品を買う時に起こるその感情や直観ほど当てにならないものはない。

ひょっとすると新しいものを買うよりも、定番の方が合理的かもしれない。目的を見失った衝動買いは、反日のバスに乗って帰れなくなるのと同じように、小遣いの全額を八百長であるパチンコに費やしては良質なカモである。

ローマ帝国にしろ、徳川幕府にしろ、ロスチャイルドにしろ、勝者と敗者は全て積み立ての力で決まっている。お金と実績は、積み重ねがライフラインである。

その命綱である積立力は、何をやり続けたのかが重要であり、原因と結果の法則に影響される。

だから、その日暮らしのギャンブラーでは反日達のおいしい餌食になってしまう。大切なのは、金額よりも、その積み立てにある。

実際、銀行家の見る目は、継続こそが個人の信用であるから、私達の人格や能力や外見はどうでもいい。

なぜなら、継続は一つの才能であり、他に判断材料がなく、貯金通帳が私達の人生を占っているからである。

そしてあなたの支払い能力に人間性を感じるのだ。実際、女性は男性の支払い能力に男を感じ、ケチも立派な信用となる。

また、不安から回避する為の貯蓄では無条件に、銀行家に奪われてしまうが、良い考えがある。

デフレを一瞬でインフレに変える最大の方法は、日銀がお金を刷って、そのお金で銀行の利息を年利20%にして金利を10%にする。これだけだ。

江戸時代の経済学をお手本にするなら、お金は水と同じように動かさなければ腐ってしまい魚が住めなくなるのだから、お金を呼び水の如し、お金がお金を動かせば後は野となれ山となれである。


一般的な善良な労働者の収入源は一つしかない。ほとんどの会社は副業を禁じているし、サービス残業で時間もない。

しかしそれでいて支払う金額は人並み以上だ。ここからインフレの仲間入りをするには工夫しかない。右と左の世間一般のキャッシュフロー物語では、面白味に欠け、つまらない。

稼いだ一万円も節約した一万円も同じ一万円の価値である。お金の流れは消費するか蓄積するかの単純明快な二者択一だけである。

人生、時には大博打を打たなければ栄光は手に入らないように、手元にある僅かな利息だけでは何も出来ずに、すぐに消えて不安になるのが現状である。真のギャンブラーが目指すところは、ローリスク・ハイリターンだ。

一例を上げれば自己投資の積み重ねによるアイデアには、人生の大博打の要素が潜んでいる。

アイデアとは小さな工夫の積み重ねから生まれるあなた自身の素敵な物語である。

この物語が面白ければ人生の勝者になれる。みんなに話す価値があり、沢山の人達に愛され、幸福な人生を手に入れる。

事実、大富豪の幸福は金額に比例するのではなく、まして見栄を張ることでもない。その使い方と工夫にある。

一食500円のランチを楽しめない者に、一食5万円のディナーを理解できるとは信じられない。

今ある金額で楽しむ能力がなければ、お金がいくらあっても間抜けと同じだ。

私達が貧しいのは不運だからではなく、お金の使い方が下手なだけかもしれない。

そう考えると、初めからお金があるよりも、無い方が物語に味わいが深かまり、良質な人生に仕上がるかもしれません。


普遍的概念が現在社会にとって良いものなら、それに従うのが妥当である。

2015-08-10 | 社会問題
女性社会の文化を継承する概念は、きわめて高度な世界的一体感を示している。

その文化が示すものはすべて一つの一体感という高級な感性である共感から生まれるものであり、それ自体で完結した人間精神の発展段階という特質を帯びている。

従って、家庭内における「母なるもの」の優位性は孤立した現象であってはならない。しかし「母なるもの」の優位性は男性社会である現代の文明にはあまり合致していない。

男性と女性との原理的対立は、必然的にそれぞれの体系を包み込んでいる生活形態全体を深く貫いているのが問題だ。

すでに私達は一つのイデオロギー的思想世界に対峙しているのであるが、そのイデオロギー的思想世界からすれば、女性的共存社会は異質な理解しがたい生活形態に思うかもしれないが、むしろ逆で、同質の現象であると言える。

それだけではない。既に明らかなことから、未だ隠されていることへと至る道をも発見する事が出来る。

その倫理的道徳的意味は、どの時代にも、どんな環境でも共通する自然の感情という点で私達の心にも触れ合うものがあり、おのずと理解する事が出来る。

母とその胎内から生まれる子との間に結ばれる愛が、その生活の光源をなし、不道徳の暗闇の中の唯一の輝き、きわめて悲惨な生活の中の唯一の喜びである。

神仏のパワーにも似た母の愛こそが、初めて人間に文明をもたらし、いっさいの徳目を生み出し、そして人間が持つ崇高な側面を育て上げたのである。

「母なるもの」は神性の原理として、暴力で荒れ果てた生活に愛と協調、そして安らぎを与えるのである。

女性は、胎児を宿すことによって、男性よりもいち早く、自我を超越して他者を慈しみ愛し、そして友愛、献身、平和、真の自由は、全て女性に始まるということが言える。

男性社会では制限的で闘争本能的な原理にあるのに対して、女性社会は普遍的で母性本能的な原理である。

男性原理はおのずと個人主義的な狭い空間に閉じこもり、人間関係も限定されるのに対して、女性原理は集合体に適した共感能力の無制限的な点で自然の生活原理である。

全ての人間を等しく「兄弟」であるとする同胞愛の考え方は、子を産み育てる母性的本能に由来するものであり、かつては世界中の人々に意識されてきたが、それも男性社会の発展と共に消滅して行った事実である。

男性社会に基づく家族が仇敵的で個人主義であるのに対して、女性的家族は典型的で普遍的な性格を持った集団である。

この普遍性は全ての発展の端緒において見られるものであり、また精神的に高次に発達した生活習慣であり、何よりも物質的生活を欲望ではなく幸福へと導く特徴をなすものである。

このような社会の一体性も、男性社会の確立とともに解体され、未分化されたものは分化の原理によってさらに存在感が薄くされてゆく。

母性的原理のこの側面に依拠するものとして、重要なのは普遍的な自由・平等原理であるから、他国愛、いっさいの窮屈な制約をも断固として拒絶する態度もこうした母性的原理の普遍性に基づいており、

血縁という心情や民族の愛国主義を問わず、全てを包み込み優れた共感能力が特に賞賛されることなどもその一例である。

特に女性社会の国家間では隣国同士の対立は好むところではなく、同様に同朋や動物を傷つけることも特に厳しく罰せられるなども重要な特徴として挙げることができる。

博愛の気風こそまさに女性社会の時代の特徴というべきものであり、その点に私たちはあらためて「グレイトマザー」の持つ豊かな心情を認めることができる。

女が失われるとともにいっさいの平和も地上から失われるように、女性たちが歴史から学ばなければその核心にある歴史的事実を見失うことなく、歴史から太古の生活の特徴や意味を継承することができるのである。


地獄で行われている最悪のゲームは男性同士の闘いではなく、男と女の争いである。

2015-08-09 | 社会問題
もしもこの世に神がいない地獄に堕ちているとしたら。男と女の共存社会は奇跡である。

現実には男女による支配関係と格差社会の激化が世界の混乱の創出量を決めている。

毎日の生活が辛く苦しい時ほど、女性社会が身に沁みるものであるから、世界は何度も最悪の事態を体験しなければ止められないし止まらない。

不平等な所に平和はない。女性が犠牲になるから支配者は栄える。

なぜなら、金持ちを増やすには、当然のように弱者や貧困を用意するのが必要なルールだからだ。

犠牲者を増やすか、支配者を減らすかによって、弱者救済を調節し、恐怖を煽り、被害者を支援する地獄でのゲームである。

貧しくて一生懸命に働くしかない労働者が無数にいればこそ、お金持ちはより豊かに繁栄するのである。

労働者の消耗化を加速させ、命令に従事する者を使い捨てにして便益を得るやり方は、労働貧民こそピラミッド社会の礎になる。

資本家にとっては、貧民こそ財産である。だから、善良な女性たちは一生懸命働いても楽になれない訳である。

女性には必要以上の消費力を与えてはいけない鉄則があるからだ。

与えられた権利に鍵をかけて、善良な女性たちを孤立させる。「人は生かさず、殺さず使え」「飢えさせて、与える」汚い心得である。

これでは世の女性たちが男性社会を崇拝するのも仕方がない。

実際に起きている世界情勢の大問題は、一つの社会現象であると言える。無知な支配者と、不完全な社会システムとでは結果はおのずと見えているからだ。

一度、知ってしまった幸福を失うことは辛いことだが、初めから知らなければ苦しみも判るまい。ダイヤモンドを知らない者は、ガラス細工のおもちゃで満足する。

金持ち達は労働を権利に変え、服従を義務に変えるように、支配者は混乱を装い服従を義務化する。

優勝劣敗の実行支配のゲームでは何人の敗北者が出ようが、いっこうに構わないという、地獄で繰り広げられる欲望達成の遊戯であって、我々人類は一体何を目指しているのだろうか?

人は本当に対立しなければ合一出来ない性なのか。だとしたら、どうなのか。

地獄での勝つための方程式とは、弱者が安全で安心を求めれば求めるほどに、支配者は混乱と恐怖を煽り、世界が平和で幸福な社会を求めるならば、戦争は最大のビジネスライフとなって経済成長を支える事になる。保険は不幸の増減によって潤い、薬は患者を食いものにする。美食家たちは不健康を売り、健康食品は美食を後押しする。日本が豊かなのは自然災害が多いからとも言える。

事実、男性社会は支配する側と支配される側とに分けられる。女性の妥協は両者を敗者にする痛み分けになる。少数である強者たちに打ち勝つ秘訣は、最大多数の最大幸福に従ったグレイトマザー達の団結に子供達の未来が懸かっている。


男性社会の枠組みでは、どんなに正しい歴史認識でさえも争いの火種となる。

2015-08-08 | 社会問題
女性社会と男性社会との共存という現象は、共通性こそ歴史と文化の中にその起源を見させてくれるものである。

とりわけ「父殺し」で始まる歴史物語は、「母殺し」の罪をいかにしても許す事ができないことの中に、その女性社会の根本思想が作用しているかを認めることができる。

過去には女性社会が世界中の民族の歴史の中で見られることが明らかな様に、世界の中で女性社会が占める割合は、それが現実の文化全体の中心として重要な意味づけを与えられていることと対応していたと考えられる。

必ずしも、同一の民族の歴史の中ではないとしても、女性社会の体系を構成する特質は類似の歴史的事実によって検証されているものである。

実際、女性文化の全体的な性格さえも、必ず何らかの関係性が見出されるものである。

こうした男女関係は、少なくとも部分的なものであれ、女性社会が後代まで維持されていたことの結果なのである。

女性社会の体系は、その細部に至るまで、厳密な意味での史実伝承との間で不安定であるが一致する。

人類最古の時代の継承と後代の現象とを、場合によってはもっと新しい時代の現象との比較をした時にも、これらの現象は驚くべき一致を示し、それぞれの時代を隔てている遥かな時間を超越するほどである。

男性社会の体系からすれば、古い制度の女性社会はまったくの謎であり、このような観念の元では女性社会の体系のいかなる特質をも一つとして考え出す事が出来なかった。

男性社会よりも女性社会が優先されることなど、それは相容れぬ思想に支配された世界ではおよそ考えもつかないことだった。

同じ事は世界古代民族の太古の形で表されている。女性社会の同じ生活形態の無数の名残りについても当てはまる。いかなる時代も無意識のうちにその時代固有の生活法則に従っている。

それどころか、そのような法則が及ぼす力は巨大であり、当然のことのように、その法則に当てはまらない現代の変則的なシステムは、たえず新しい時代の形に適合するよう変形させていく傾向にある。

男性社会の伝承もまた、このような運命を逃れられない。現代のものの見方で前代の残したものを解釈したり、現代にとって理解不可能なものをその時代固有の文化の身の丈に合わせて理解しやすいものに変えてしまうようでは、きわめて奇妙な現象となってしまう実例を数多く挙げる事が出来る。

過去の普遍的で美しい特徴は排除され、強さによる新しい時代の特徴を付与され、太古の女性社会の崇高な姿は、現代人にはその時代特有のゆがんだ精神に適合するように伝えられ、その厳しい姿は穏和ものとされてしまい、その法と共にその心情も動機も情熱も、今日の支配的な視点から判断されてしまうものとなる。

新しいものと古いものとが何の繋がりも無く併存することも稀ではないように、他方で、同じ事実、同じ女性が時代によって異なった評価を受けることもある。

現在社会では不思議に思うことでさえも、のちに繁栄を極めることがあるように、以前には崇高をもっていたものが、のちに嫌悪の対象になることもある。

歴史の中に残されている女性社会時代の名残りが真実であることを保証する最大の理由はいたるところに隠されているのである。

古いものに対する意識的な敵対心によってなされることは極めて稀であり、通常、自分の生きている時代の理念への無意識的な譲歩によって生じるものもあるように、ものごとの端緒というものはどこにもなく、あるのは連続という歴史であり、単なる原因というものも何処にもない。

歴史は同時に何らかの結果であるから、従って「なぜ」という問いに答えるだけに止まらず「どうすれば良いのか」を発見し、そしてそれを「人類の平和」へ結び付けて初めて、真の学問的認識は完結する。単なる知識も、起源と発展結果を把握してはじめて、人類の英知へと高まるのだ。

人類の連続性ということからすれば、現在の男性社会はそれほど深い意味も無く、何らかの正当性もない。

現在の経験が今後に役立たないのであれば、何よりもまず、一つ一つを確かめていかなければならない。神は細部に宿るように、必要なのは一つ一つの細部の積み重ねである。

それらを比較研究することによって初めて本質的なことと非本質的なこととが区別され、自然法則的なこと、人類共通の普遍的なこと、長所発展型の局所的なこととが識別できるのである。一つ一つの細部の積み重ねを通じて、初めて社会はいっそう包括的な視点をもつことができるのである

一方、不完全な人間の気ままな生活の産物には自然的な法則性はない。あるのは体系であり連関である。いっさいの細部にはすべて大きな根本法則が隠されているように、その豊富な歴史こそが、根本法則の内的真理と自然的必然性を究極的に導いてくれるものである。


女性の労働観念と「和」の精神。

2015-08-07 | 社会問題
女性たちが幸せを目指すのは人間の本能であり義務である。それを放棄すれば世界中の男性社会が混乱する。

そして女性による労働とは自然法則によって義務化されているものであり、現代社会は生存競争と相互依存の組み合わせで成り立っている。

自然に任せていては男女平等社会にはならないし、男女平等社会とは人為的なものであるから、現在の労働環境と経済システムはその自然に逆らっても、生産性と便益性が労働力の評価であって、男性社会は物質の蓄積に夢中になっているようにも感じる。

それが良いとか悪いとかではなく、物質的欠乏を無くす為に、競争社会を追及する為に男たちが行動するにしても、より大きな課題が存在する。

それは満足の持続との闘いである。男たちはみなその為に苦しんでいるのである。

資本主義経済においては、金儲けに興味のない奴は小心者と言われる。お金は使用するのは素晴らしいが、追いかけると酷い存在であり、お金は単なる道具と成り下がる。

そしてその女性たちの労働の対価と報われるべきは目的性である。女性たちには明確な労働観念が必要なのである。

この世は不確実なものの為に働かなければならないが、現代社会は報酬と制裁で動いている。

そして労働に気力を与えるのは「見えざる手」であり、お金である。

労働意欲は利益欲求でもあるから、見えざる手が強いのは言うまでもなく、見えないからだ。

その為に女性たちの一生とは、重き荷を背負って、遠き道を行くが如し。女性たちは修行僧だ。

お金は天下の回りものであるなら、半数の男性のものだけではなく、女性の回りものでもあると言える。

なぜなら、それは労働の動機とお金の本質による目的性にあるからだ。お金が男性だけのものではない理由がここにある。

まず動機とは、自らの労働の維持に掛る最低限の肉体的な生活手段は必要経費と同じく、報酬とは言わずに、生活費である。見栄でもなく、無駄使いでもない。

目の前に優れた生活スタイルがあって、それが手に入らなければ、お金が上手く回っていないことになる。

高すぎても低すぎても美しく回らない伝統芸能のようなものであり、デフレとインフレの中庸だ。

そしてお金の目的性である。お金は奪い合いの報酬ではなく、利権争いの成果でもない。お金は感謝の代価である。まして平等に分担するだけなら配給であり、役割である。働くとは「はたをらく」にすることである。

お金でお金を買っている「賄賂」では、どうせ世界経済が行き詰るのだから、感謝して行き詰った方が未来の子供達が我々の失敗から学んでくれるからである。

男女共存社会では、お互いが譲り合わなければ前には進めない。

上司は部下の至らなさに辛抱し、部下は上司の至らなさに辛抱しているように、男性は女性の至らなさに辛抱して、女性は男性の至らなさに辛抱しているのである。

大切なのは男女労働参画との相互関係であり、WIN,WINにある。

お互いに片寄せあってスクラムを組まなければ困難な毎日の連続に心が折れていまいかねないからだ。

男女労働社会では、個人の利益が全体の利益になり、全体の利益が個人の利益に繋がる労働を考えなければならないように、

男性の利益が女性の利益になり、女性の利益が男性の利益に繋がるシステムを考えなければ、いずれ現代の資本主義は共産主義同様、失敗に終わる。

労働が社会に奉仕して、社会が労働に報いる男女労働参画が毎日の改善となるのである。

自分の為にしたことが、たまたまであっても人の為になる時の充足感こそが、一番最高の成果であり、私達が目指すゴールデンルールである。

実際、女性が男性と分かち合うことを渋る心は概して、それほど多くは持っていない。

母性本能は「愛」であるから、自らを愛する者は他人を愛するのも上手な様に、自らのエゴを追求する者は、他人に振り回されることに長けている。

ほとんどの一流と呼ばれる人達は、自分の幸福論が他人の幸せに結び付いていることを知っている。

だから、自らの幸福論を追求する。そして男女の共存共栄の理念は、自らの人間性の向上に大きく貢献し、また自らの幸運にも直結してることも知っている。

倫理学的にも道徳観念的にしても自然権に当てはめてみても、男と女の共存社会は妥当である。

日本人が好きな「和」の理念とは、女性たちが言う様に、突き詰めて言えば、「みんなと美味しいご飯を食べること」にある。

その為には共に額に汗して働かなければ得られない「尊さ」と「感謝」と「思いやり」が、ほど良い隠し味となるのである。

日本の女性の労働観念とその貢献度は、世界の労働者にも大きく影響を与える事実であり、また、日本人の幸せは世界中の幸せなのだ。

征韓論と征日論。

2015-08-06 | 社会問題
誇りに思う明治時代の日本人には、現代の征韓論で正しく対応するのが望ましい。

うすうす気づいていると思うが、そのうち日本が在日に乗っ取られるのは時間の問題である。

精力的な反日活動家と足の引っ張り合いが好きな日本人とでは、勝負はすでに見えている。

現代の征日論とは戦争によるもではなく、内部崩壊が合理的だ。弱者思想であるが・・・。


明治時代の征韓論は、当時、国が存在しない「NO2」の朝鮮人が「NO1」である天皇の使者に対応出来ないのは当然だから、「NO1」のシナ人と交渉するのが征韓論の始まりである。

その後、ロシアが戦わない朝鮮人に変わって朝鮮半島を支配するのを食い止めたのが日本軍である訳だが、福沢諭吉の言う通り余計なお世話かもしれません。

なぜなら、その後の朝鮮半島は悲しい歴史の始まりだからです。

現在の韓国人が言う様に、韓国は独立などせずに、「早く米国に支配されたかった」というのも一理あるかもしれません。

そう考えると現在の反日たちの行動は、「武器を持つな」「憲法を変えるな」と言う、弱者思想の遺伝子と歴史を持った朝鮮人かもしれない。


明治当時、植民地政策が正当化する世界の中で、イギリス艦隊とロシア艦隊が殺し合いをしながら東アジアに遣ってくる中、偉大なシナ国はアヘン戦争でイギリスの手に堕ちる。

驚いた日本人は自国の防衛強化と共に、隣国の朝鮮半島を近代化させて白人たちに勝利するまでは良かったが、大陸のあまりの広さにチンギスハン状態に陥る訳だが、唯一の心残りは閔妃暗殺で、日本は未来永久に「母殺し」の罪に苦しむことになる。女性を大切にしなかった罪は重い。

朝鮮人の弱点は、父権制の男性優位の強度にある。閔妃にせよ、慰安婦にせよ、朝鮮女性たちの怒りは日本人に向けられているが、その真意は朝鮮の内部事情にあるようだ。

実際、朝鮮半島の歴史を見れば判るように、異常なほどに歴史人物が少なすぎるが、どうやら朝鮮半島の重要人物と英雄は今の北朝鮮出身者が多いようだ。

ひょっとすると、日本は「北側」を応援する事で朝鮮半島が統一されるのかもしれない。

だが隣国に存在する大国が許さないだろう。なぜなら、北と南の代理戦争は隣国にとっては「おいしい」戦争だからであり、知的なドイツの東西統一と弱者思想の朝鮮半島の南北の分離とでは、独自で問題解決には至らない。日本に罪を押し付ける子供じみたやり方では、朝鮮半島の統一は当分先の話である。

アメリカの同盟国である日本国に宣戦布告すれば、面白いことになるが、そんな勇気がある訳がなく、日本軍の結成を一番毛嫌いするのは、自国の愛国者ではなく中途半端な在日たちであると断言できるのです。


慰安婦問題を逆手にとってみる。

2015-08-05 | 社会問題
オスはメスに対する優越性の証明を得る為に自らの強さをアピールする訳ですが、

本当のところ、男性は女性のたった一言で勃起不能になるのだから、それを恐れる男性である。

闘争社会の継続には、半分の女性が支配権を握っていることを、証明するイデオロギーは、後の半分を説得する為にまた、自分自身を納得する為に、いかにもっともらしい言い訳を考えるかに掛かっている。

従軍慰安婦は無かったとする見解は何が事実であるのかを忘れようと試みるものであるが、いつだって歴史を直視すればするほどに、言い出した側の敗訴となるのだから、日本は更に従軍慰安婦問題の追及に勝訴となる。叩かれて埃が出るのは日本ではない。

世界は散々、戦争での悪行を働いてきているのだから、他国が女性を乱暴していないなど信じられないからである。

悪行には「国」自体をすり替えることが事態の変化につながると考えがちだが、どの国も似たり寄ったりである。

実際、男性による「父殺し」で始まる文化には女性は同意できないように、男性による「母殺し」を正当化するパーソナリティは、再び人類を戦争に導く。

自国が愛されたいが為に、残虐行為を認めさせる現代の理論の行詰まりは、人を愛する事が出来なくさせるどころか、やがて退屈になり、実際に戦争を起こす原因になるが、かつてアメリカインディアンやアステカ族のことを考えてみれば、あれは女性にできるのか?また、ナチス時代はどうなるのか?


男と女の性別は生きる上での過程である。社会変化と発展の過程であり、持って生まれた構造と生まれ堕ちた環境とのたえまない相互作用、相互依存、相互忍耐の過程である。

従軍慰安婦問題も同じく、苦悩する事は何も最悪の事ではない。むしろ無関心なことが最悪なのだ。

女性社会の創出は、生活実践の中から導かれるものである。

男性的社会原理にあるのが制限的なものであるなら、女性的社会原理にあるのは普遍的原理である。なぜなら、男は女から生まれ、女に育てられた事実だからだ。

もしかすると、階級社会が上手く行かないのは男性社会だからかもしれないし、社会主義的要素には女性社会が相応しいかもしれません。

また「自立」こそが人類の正しい姿だとしたら、専業主婦は貴族制の特権階級であるかもしれない。

人類の戦争には男性社会が大きな役割を担ってきたが、それは小さな社会体制の成果であって、その為に、男性優位が勝利を納めてきたが、その時、女性たちは自然全体と共通する能力を持って男性との生活と生存を確保してきた。これが近代である。

反社会的なイデオロギーが、しかし、男性的創造的原理を無限的な際限のない影響力を持って社会に表現してきた。これが現代である。

いつからこんなことを続けているのかを問いただす気にはなれないが、おそらく、聖地エルサレムへと続く道はたった一つ、女性社会の創出しかないのである。

自然権に基づいての女性的原理とは、生命と統一と平和にあるように、全てを抱擁し統括するもので、男性社会とは対照的である。

普遍的な自由および平和の原理の基礎となりうる平和と愛の人間性との原理の基礎である。

物質的福祉と現世的幸せに対する周到な配慮の基礎である。

コミュニケーションとは二重らせん。どこまでいっても交わらない。

2015-08-03 | 社会問題
現在の社会システムの崩壊は、コミュニケーション能力の低下によってもたらされる。

世界の安定を計る基準は女性たちによるコモンセンスの共通感覚の多寡で表される。

私達は絆の結節点に過ぎないし、生きる上において一番重要なのは「縁起」である。

野良猫やプー太郎でさえも全ての関係性は、一人一人の繋がりによる「出会い」でしかない。

その繋がりの深さと広がりはコミュニケーション能力に比例するが、その始まりと終わりには私とあなたとの関係性に必要な善と善との交換能力によって終始する。

もちろん、嘘や裏切りも計算に入れておかなければ、ギブアンドテイクだけでは、どちらかが与えるのを止めて奪い合えば関係がストップしてしまうからである。

人間は社会性との関係性を重視する代表的な動物であるように、日本人は縁起を重んじる国民である。

人は他人に認められなければ成功者とは呼ばれないように、承認する人達の前に出なければ独りよがりにすぎず、市場に出さなければ評価されない。

だからこそ、人と社会との「間」に、どんな人間関係を築けば良いのかが重要となる。

関係性を見出せば今まで見えなかった暗黙のルールや、新しい出会いが見えてくるものである。

意識は社会との関係から生じるもので、仮に世界の存在はいったん否定するか、それとも逆にまるごと容認する以外になく、

存在と存在が触れ合う関係性だということを、ひたすら自分という存在を賭けて感じる必要性があるのである。

自己意識との関係性は、意見を交換しながら自己の心の奥深くに入って行き、その根源となるものと対話を続けるところにある。コミュニケーションの二重らせんだ。

二重らせんは遺伝子と同様に、決して相手とは交わることは出来ないが、単独では存在せず、しかし以心伝心に受け継がれるものである。

人間は部分と全体とを同時には見れないように、代わる代わる見る。その二重らせんにコミュニケーションの神髄がある。

私の考えと、あなたの考えの、その関係性の二重らせんにある「揺れ」を楽しむ能力が「揺れる想い」だ。


コミュニケーションの関係性とその社会システムは同一性ではなく、類似性である。

反復と対象性を用いれば人間関係は今よりはましになるはずだ。

つまり、善には善をお返しして、コミュニケーション能力を高め、善意のラリーによる「名勝負」を続ける。

男と女の友愛には、男女の交換能力である、思考の交換による新しい価値観を発見することにある。

だから、人は誰と付き合うかによって、だいたいどんな人物に似るのか決まってくる。

従って、コミュニケーション能力の弱い引きこもりは自己破滅に繋がり、いっそう過激な働きをする危険がある。

現実にプラカードを掲げて憲法改正に反対している人達の多くはコミュニケーションの練習をしている者たちであり、また犯罪者の多くは無職が多い。

コミュニケーション能力の弱い者には自由が与えられずに、管理と教育が必要となる。

実際、日常生活の中で生じる問題の源泉は、自己愛ではなく、自己嫌悪であることが多い。ガラスのハートを持った反日達だ。

女性と男性との共存によるコミュニケーション能力のさらなる解放は、グローバルで平和な世界統一をも容易に達成可能にする事実なのである。


一度、自分が総理大臣だったらどうするのか考えてみる。

2015-08-02 | 社会問題
幼稚園児にお遊戯を教えるには、ひたすらやって見せるしかないように、大人には自分で考えさなければ意固地になるだけである。

その為の問題定義に必要な事柄は、「あなたが総理大臣として日本を正しく導くにはどうするのか」をイメージすることにある。

一人一人が国家を思うという事はつまりそういうことである。止揚です。

私ならまず第一に日本を守ります。国民を守り、経済を守ります。その為の法律ですから当然です。

では、日本を守るにはどうすれば良いのか?平和維持活動を続けるだけで日本は守れるのだろうか?だとしたら、アメリカや中国が日本と同じ事をしないのは何故だろうか?アメリカ軍が日本から居なくなっても日本は平和を維持できるだろうか?世界中が戦争を始めても日本だけ逃れられるのだろうか?

確かに平和こそがなによりも一番だ。誰だって幸せに生きる権利があるのだから、その為にあなたならどうするのかを考える。考えずに反対するのは卑怯者だ。


TPPについても同様に考えると、インテリジェンスの人達にとってはTPPは悪いものではない。

なぜなら、TPPを始めれば今までにない多くの問題が発生するからだ。

つまり、総理はインテリジェンスの人達にも雇用を創出したことになる。新しい問題が起きただけですが。

そうすると、TPPを反対している人達というのは実は、愛国者の保守派とも言えます。なぜなら、本気で日本だけのことを考えれば日本だけで上手くやって行けるからであり、反対に私のような最初から賛成している人の方が悪徳かもしれない。なぜなら、問題を引き起こしては解決するリベラル的なやり方だからだ。そう考えると、TPPが始まればおそらくTPPを反対していた人達の方が日本に大きく貢献することになるかもしれません。


また日本人の人口減少はロボット工学で応戦します。不完全な人間を取り締まる者は感情的な人間よりも合理的なロボットが相応しいと考えます。

日本人はひたすらロボットを創出して、そのロボットに従う。ここにも「和」の精神が受け継がれます。

外国労働者よりムーアの法則に従った方が、毎年の就業者数よりもロボット化の生産性2%の伸び率の方が120万人の労働力に相当しますし、感情で判断しないロボットの管理下ではインフレにもデフレにもならない。

世界人口が今世紀中に100億人を突破する反面、先進国の人口減少はひょっとすると、日本人が理に適っているかもしれません。

ロボット好きな子供達の未来と日本人が貴重になる将来では、優れた在日たちに負けないロボット工学の集中こそ日本を救い、国民を救うものであると断言できるのです。

最後に、私が総理大臣なら間違いなく在日の管理を徹底して行います。なぜなら、日本の問題の根源は在日問題にあるからです。ロボットによる人間の疎外が無くならないのなら、日本人を疎外するよりも在日の疎外が優先されます。綺麗事は言ってられませんから。


なぜ、世界は男性社会なのだろうか。

2015-08-01 | 社会問題
どうすれば現在の男性社会を、このまま維持する事が出来るのか大きく二つに分けて考えてみます。

一つ目は、男性が力で支配する方法と、もう一つは女性が男性社会を創り出す方法です。

最初の一つ目は、戦い上手な男性が女性をはらませて動けないところを襲う強引なやり方と、

もう一つは、男性が子供を育てないから女性が男性に権限と責任を与える方法だ。

前者は、闘争本能による動物的心理状態での弱肉強食の自然淘汰であるが、

後者は、怠惰による動物的遺伝子状態での利己的で自己保存的なものである。

どちらも男性に備わっている属性であるから、必然で必要なものであるが、

前者は、乱暴で破壊的であり、後者は、怠け者で自己破滅的である。

最初の一つ目は、女性が男性の強さに惚れるのは、そうしなければ生きられないからであり、

もう一つの二つ目は、「いいオトコ」が絶滅しかけたからだ。

女性にとってはどちらも、しょうがない苦肉の選択だったかもしれないが、

前者は、「いいかがんにしなさい」であり、後者は、「きちんとしなさい」である。

どちらにしても、反省が必要だが、男性は女性に感謝し、女性は責任重大である。

今後の世界の方向性は良くも悪くも女性次第と言う事だ。

男性は外で戦って死ぬから、女性が家を守ることになっていたものが、

今後の女性社会は、「美」によって支配される芸術であり、「力」による支配は終わりを告げる。

世界の名画は、そのほとんどが女性を描いている事実であるように、美しいビーナスに男性は忠義を尽くす。

男の門は、争いを好み、習慣上のややこしい議論を愛好する人種に対して、

女の門は、美を好み、子を産みなす母性本能的自然原理の母なるものである。

男性的原理が、狭い集団への限定を伴うものであるのに対して、

女性的原理の特徴は、自由、平等、博愛のいかなる制限を知らない普遍的な原理である。

男と女が対極とするなら、必要なのは中庸である。バランスだ。

そう考えると、家族が上手く行かないのも、民主主義が上手く機能しないのも、グローバル経済が行詰るのも、宗教問題が解決されないのも、世界から核兵器が無くならないのも、正しく言えば偏り過ぎた男性社会だからである。

よって男性社会の役割が副次的創造的な価値となり、女性的役割が主体的な責任重大な価値になるのである。

事実、女性とは、はるかに強く生命を保証する主体なのに。

永遠にして、女性的なものが、人類をはるか彼方に引き上げてくれるはずなのに。