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2015-08-30 | 社会問題
最近、よく目にする文化の違いを考えてみると、居心地の悪い違和感と裏切られた失望感とを誰と比べたら自らが正しいと安心できるのかを誰も答えられないと言う感じである。

社会に対する人間の反抗的な欲求が誕生し、存続し、そして期待外れに終わることを認められない自分自身と出くわすのも良いだろう。

特に小さな社会では万物は万人に帰属し万人に閉ざされている、観念的で作為的な命題から出発する場合には特にそうである。

希望や期待が妨げられたことに関して社会は何も責任をとろうとしないことの罪をまったく出どころの解らない主体に押し付けることが出来るなら、その責任主体であったかもしれない全ての個人は安心する。

その責任を押し付けようとする方法の違いを文化の違いと称して自らの正義を主張するのが現代流のやり方だ。

意識において成熟しなかったものへと向けられたこのような問いの源は定めがたい。

期待されていたこと、今も期待されているのかもしれないもの、それどころかこれからも期待されることになるものにも、いつ裏切りに合うのかに怒りが爆発する。

時代錯誤としてすでに許容範囲から削除されているものや、寛容な記録がつい最近受け入れたものの前段階として善意あるものと認められるものについても、日常的な基準を頼りにすることは危険である。

経験は以前からの現実との生活習慣的な交流の中にいくつかのささやかな理想を持っている。

ただ、後になって違う形の成功例や優れているものに出会うと、そういった理想は時代遅れで、怪しげで、馬鹿々々しいものではないかと疑われるようになる。

世界と人間との関係は、情緒嫌悪や屈辱的な歴史観、自己中心主義的な考え違いによる一種のずば抜けた合理性に基づいている。

まさしくそうした想定こそが経験的な規則の遂行をある意味において発展させてはきたが、当然のことながら全ての善意ある理念から導き出されたものであると嘘を重ねる。

もっともそれらは、実際に遂行されてもなお、あらゆる裏道からあらゆる偽装やあらゆる偽名を持って再来する。

科学は歴史よりかは有能であるが、世界をダークサイドに想定することを有害なものと判断するのは、社会そこに表現された、人間が現実に対して抱く不安の解消と相対的には何も変わる訳ではない。

どのような先入観を正確に落とし込んだところで、楽天的な期待の管轄領域は位置を少しずらされてるだけであって、大言壮語がまれに一般化する勢いを殺がれたりするわけではない。

私達が望んだ世界は、私達を望まない世界なのかどうかという問いと同じく、政治家の修正に属するものではなく、それは国民の選択すべき固有の権利であり、おそらく過去の選択は間違っていたのだから、修正が必要となり、またそのような修正は正当なものだ、との見解を展開する習慣を身に付けなければ過去の過ちは正せない。

世界の運営という大問題での問いは、問題設定それ自体の問題にも問題があるが、実際はいかなる歴史上の偉人達でも適用してきたように、すなわち、手に入れることが出来ると信じられていた世界とは目に見えないものによるものではなく、目の前にあるこの世界で解決すべき問題ということである。

現象の純粋なる知覚による正確な計画性といった仕方で世界に挑戦するつもりが、単なる集合体の現状維持に留まり、環境、性別、社会の全体主義として世界がその意味を開示して欲しいという切なる願望は、もちろん、自然発生的には解決されない。

自然は思いのままにならない生物に対して支配権を剥奪するあまりに過酷な事実をまざまざと見せつけてきた。

それでもこの願望は、現実に対する重要な欲求の典型であり、現実社会を完璧に吸収することが、もはや暴力だけでは意のままにならないと判明していることから、次なる世界戦略は人為的による自然淘汰になるのか、飢餓によるパニックに陥れるかの地獄での遊戯だとしても、より大きな世界に吸収されたい願望を持つ生命体としては願わくば、神による最後の審判が望ましいと考えてきたのもまた事実である。




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