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第336回 20世紀の遺跡?

2019-09-13 | エッセイ

 1947年から49年生まれのいわゆる「団塊の世代」で、自ら「戦争を知らない子供たち」と開き直っていた世代(私も、ど真ん中)が古稀を迎えています。ということは、先の大戦を身をもって体験し、記憶に刻んでいる人たちは、80代以上、90代にもなろうかという時代です。

 「20世紀遺跡 帝国の記憶を歩く」(栗原敏雄 角川学芸出版)という本があります。著者は、毎日新聞学芸部記者(執筆当時)で、同紙に2010年8月から12年6月まで連載された記事を再構成しています。昭和という時代、とりわけ戦争にまつわる「遺跡」ともいうべきモノと、それにまつわる人々の証言を後世に残す、という著者の熱い想いに溢れた意欲的な作品です。

 ご紹介したいのはいろいろありますが、東京大空襲による遺体の埋葬、というエピソードを採り上げます。

 1945年3月10日未明、サイパン、グアムなどのマリアナ諸島から出撃したB29およそ300機が東京の下町を空襲しました。この大空襲を指揮した司令官が、カーチス・ルメイ(1906~90)です。

 前任のハンセル准将は、B29を「昼間、高高度、軍事施設を狙う精密爆撃」と「比較的まともに」使っていました。が、日本の対空防御が貧弱なことを偵察情報などから知ったルメイは、「夜間、低空、市街地無差別爆撃」という戦争犯罪的な戦術転換を行いました。そして、実行に移されたのが、この大空襲です。

 その結果は、8万人とも10万人とも言われる非戦闘員の貴重な命が一夜にして奪われるという大惨禍となりました。と、ここまでは、たくさんの本が書かれ、よく知られたところです。でも、これほど膨大な遺体がその後どうなったかは、あまり知られていません。そこを解き明かし、記録にとどめるが、この記事の核心です。

 マリアナ諸島が占領された時点で、為政者側も空襲があることを予想し、準備はしていました。ただし、東京都が想定していた犠牲者の数は、「爆撃期間」(一夜ではありません)を通じて、最大でも2万人程度という大甘なもの。井の頭公園の杉2500本を切って、1万人分の組み立て式の棺桶を用意する一方、都の火葬能力は、1日500体でしたから、今に変わらぬドロナワ式、お役所的発想と仕事ぶりです。そのツケは、死者の埋葬という問題に回ってきました。

 身勝手な「想定」を大きく超える死者が出たため、一人ひとりを火葬し、埋葬することは不可能です。そこで3月10日から敗戦に至るまで、公園や寺などおよそ150カ所(緊急事態のため、土地の持ち主に無断で、というケースも含めて)に遺体を「仮埋葬」しました。とにかく穴を掘って埋める、というか放り込むような乱暴な作業です。身元の確認などもほとんど行われませんでした。。

 さすがに、これでは、犠牲者の霊も浮かばれないとなったのでしょう、敗戦後の1948~51年、「仮埋葬」していた遺体を掘り返して、火葬、改葬が行われれました。

 仮埋葬地のひとつである十思(じつし)公園(中央区日本橋小伝馬町)の近くに住んでいた女性の証言があります。公園のあったところに火葬のため掘り起こされた遺体の山が2つ。高さは1メートルほどでシートがかけられていましたが、手足が見えた、と言います。
「恐くて。しばらくそばを通らなかった。「ひとだま」が出るっていわれていた」
「トラックが何日も何台も来ていた。何かシートをかけていたけれど、茶色い足のようなものが見えて、ぞっとしました」

 掘り返した遺体の改葬事業に携わった都の職員の座談会の記録があります(「戦災死者改葬事業始末記」)。主な発言を、同書から引きます。

「12月末(注・1948年)に今戸本竜寺を着手したわけでしたが、半腐りで、臭いったらない。(中略)とにかくあの半腐れの臭いといったら・・・・、我々はあれをコンビーフといってました」

「死人の膏(あぶら)はひどいもので、手を洗ってもおちない。手袋をはめていても、膏が毛穴にあがってくるのです。(中略)頭の毛にはポマードもつけられない。屍臭がポマードの油にまで染みこんでしまう。それぐらいヒドイものでした」

「穴を掘っていると、自分の横に屍体の顔がヒョイとのぞいている。あれをみると、この仕事は並大抵のことじゃあないと思いました。何とも言えない異臭のため気持ちが悪くなって倒れそうになる。そのとき、お線香を立てるとその臭いが消える。私は初めて線香の効力の大きなことを感じたものです」
 「東京大空襲」という大量虐殺がもたらした悲劇と向き合い、遺体の仮埋葬、そして改葬という現場作業に携わった方々のご苦労に頭が下がります。

 その時引き取り手が見つからなかった遺骨は、墨田区にある「東京慰霊堂」(都立横網町公園内)に、関東大震災で犠牲となった方々の遺骨とともに、安置されています。こちらがその慰霊堂です。


 それにしても気になるのは、この大空襲の指揮を執った「ルメイ」の戦後です。なんと、1964年に、日本政府が「勲一等旭日大授賞」を贈ってるんですね。例のナカソネを政界から引退させるのと引き換えに授与した「栄誉ある勲章」です。悪い冗談としか思えませんけど、事実です。

 「航空自衛隊の育成ならびに日米両国の親善関係に終始献身的な労力と積極的な熱意とをもって尽力した」というのがその理由。
 「この決定は、日本の勲章史における永遠の汚点だ。」と著者は書いています。
 それどころか、「東京大空襲」に限らず、先の戦争で尊い命を奪われた無辜の人たちのことを思えば、「勲章史」どころか、「日本の歴史」における汚点だ、というのが、私の想いです。

 いかがでしたか?次回をお楽しみに。

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