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第479回 歴史の街 ポーツマス

2022-07-01 | エッセイ
 日露戦争(1904-05年)といえば、日本海海戦です。この海戦をメインにした司馬遼太郎の「坂の上の雲」を(結果はわかっていながら)ドキドキワクワク読んだのを思い出します。
 一方、吉村昭は、ポーツマスで行われた日露講和会議という一見「地味め」なテーマで、「ポーツマスの旗」(1983年 新潮社刊)という作品を発表しています。海戦のようなハデさはありませんが、双方が、国の威信をかけ、知恵を尽くした外交「戦争」です。綿密な調査と取材で、その舞台裏まで生々しく描ききっています。
 氏のエッセイ「小村寿太郎の椅子」(「歴史の影絵(文春文庫)」所収)は、その取材のために現地を訪れた時(80年頃と思われます:芦坊注)の記録です。思わぬ発見、出会いがあった興味尽きぬ旅にご案内します。最後までお付き合いください。

 ポーツマスは、アメリカ東海岸、ニューヨークの北約400キロに位置します。イギリスからアメリカ大陸を目指した清教徒が開いた小さな街です。会議が開かれるのが盛夏なので、閑静な避暑地であるこの地が選ばれたといいます。
 まず、吉村を喜ばせたのは、街のたたずまいが、(訪問時点より)80年ほど前、会議が行われた時の写真とほとんで変わっていないことでした。「市中にある煉瓦作りのホテル、町角に建つ教会、商店街の外観もそのままである」(同書から)とあります。
 
 さて、何はともあれ、会議の会場を見学・取材しなければなりません。建物は残っているのですが、海軍工廠の敷地内にあって、原子力潜水艦の設計場にあてられています。普通ならとても立ち入り、見学など出来ないところを、関係者の尽力により、実現の運びとなりました。

 当日、海軍の広報官の案内で、煉瓦づくりの3階建ての建物の前に立ちました。広報官が外壁を指さします。そこには「この建物の中で日露講和条約が締結され、平和がもたらされた」旨の文字が浮き出た銅版が埋め込まれていました。歴史的遺物として大切に保存されているのです。

 会議が行われた3階の大広間に案内されました。今では、人々が設計に取り組んでいます。「広報官は、私をその一郭に連れていくと、会議のテーブルが据えられた所だと言い、「ここに小村全権の椅子が置かれていました」と、床の一部をさししめした。」(同)とあります。同書から拝借した会議の様子です、左側中央が小村全権大使、右側中央が、ロシアのウィッテ全権大使です。


 その後、一行は資料室に移動しました。そこでは、広報官と工廠専属カメラマンが、台に上がって壁にかかった大きな額を降ろしてきました。額の中には横に筋の入った板がはめ込まれ、下方にJAPANという文字と菊の紋章を刻んだ銅製の小さな板があります。
 広報官によると、それは小村全権の椅子があった部分の床を切り取り、額におさめたものだといいます。設計室として使うため、床を全面的に樹脂製に張り替えた時、こういう形で記念として保存しておいた、というわけです。
「歴史の遺産としてはがした床を額にまでおさめて壁にかかげているアメリカの国民気質に感嘆した」(同)との氏の思いは、私も存分に共有しました。

 さて、今回の旅では、更に2つのモノとの出会いがありました。ひとつは、小村寿太郎が会議で使用した椅子です。現地の郷土史家トーマス・ウィルソン氏を訪ねた時、坐るようにすすめられた椅子がそれでした。古びてはいましたが風格ある椅子で、吉村も、連日の難交渉に望んだ小村の胸中を想い、しばし感慨にふけったといいます。

 もうひとつは、日本に帰ってからの出会いで、条約調印に使われたインク壷です。
 会議が終了し、机、テーブルなどの大きな物は競売にかけられましたが、文房具などは、出席者が自由に持って帰ってよいことになっていました。皆が目をつけていたインク壷を、随員の日本武官が手にいれた、との記録がロシア側に残っていたのです。
 武官二人の名前をたよりに、遺族、関係者との接触を重ね、ついに現物と出会うことができました。同書から拝借した画像です。


 現場にこまめに足を運び、徹底した調査を信条とする氏へのご褒美だったような気がします。
 交渉の場をすすんで提供したアメリカ、国の威信をかけて交渉に臨んだ日本ーーこの両国がのちに戦火を交えることになる歴史の皮肉に想いを馳せました。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。
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