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第455回 遣唐使の意外史

2022-01-14 | エッセイ
 中学、高校の歴史授業で学んだ遣唐使のことは、割合わかりやすい話でもあり、今でもよく覚えています。約1300年という遠い昔に、当時の最先進国である唐へ、制度、文化、書物などを求めて出かける・・・・派遣された人たちの心意気、苦難に満ちていたであろう旅程などに思いを馳せ、ロマンを感じたりもしました。

 「歴史探偵」(NHK総合 毎週水曜日 22:00ー22:45)というテレビ番組があります。バラエティ色が薄く、歴史上の出来事、事件、人物などの意外な面を、AI(人工知能)や、現地調査などで解き明かしてくれるのが魅力です。2021年12月1日の放送は、遣唐使がテーマでしたので、じっくり楽しみました。番組を参考に、基本的な知識を軽くおさらいした上で、意外なエピソードをご紹介することにします。

 630年から894年までの間に20回派遣していますから、飛鳥、奈良、平安時代にまたがる大プロジェクトでした。奈良から唐の都・長安まで2500キロ、9カ月にも及ぶ旅の最大の難所は、北九州から中国の大河・長江の河口を目指す東シナ海の航海でした。平城宮跡歴史公園(奈良市)に展示されている遣唐使船の復元モデルです(同番組から)。



 全長は30メートルで、2本の帆(柱のみ復元されています)を装備しています。画面左の船尾にある小屋が、使節の代表である大使専用の個室(といっても4畳半ほどの広さ)です。留学生、僧侶、船乗りを含めて時に160人にものぼる人たちは、船底で雑魚寝を強いられました。
 早ければ4日ほどの航海ですが、時に数週間に及ぶこともあったようです。教科書でも「遣唐使船はしばしば遭難した」などと書かれていて、随分リスクの大きな航海のイメージがありますが、事実はそうでもなかったようです。

 番組によれば、帰りの成功率が74%で、行きはなんと92%という高いものだった、というのが第一の「意外」でした、
 秘密は、行きの場合、出航の時期にありました。研究者によると、8、9、10月が、北九州付近から長江河口に向けて、都合の良い風が吹く季節だといいます。そして、遣唐使船が出航したのは、ほとんどこの時期だというのです。近海で操業する漁師などから情報を得ていたのではないかと研究者は推測しています。これならピンポイントは無理としても、目的地近辺への到着はそう困難ではなさそうです。

 もう一つの秘密は船の構造にありました。いくつもの隔壁(仕切り板)で船倉部分を区切り、外洋の荒波にも耐える強固な構造としていたのです。当時の日本にはなかった仕組みで、交流を通じて、唐の造船技術に学んだものでした。なるほど、これも「成果」のひとつだったのですね。

 さて、二つ目の「意外」は、留学生たちの「アルバイト」です。
 皇帝からは、滞在費用として、金(きん)とか絹が支給されます。しかし、時に、20年にも及ぶ滞在では、それも尽きてくることもあるはず。当時の書物はすべて手書きですから、きわめて高価です。筆写で節約を図るにしても限度があります。
 そこで彼らが励んだアルバイトが、墓誌書きでした。貴族や裕福な商人たちの墓に生前の業績などを彫り込むものです。遺族の話を聞いて、文章に起こす・・・達筆で文章に秀でた留学生向きで、それなりの報酬も期待できます。また、この仕事を通じて、現地の知識人たちと交流ができ、最新の知識や書物に関する情報が得られるというメリットもありました。で、なんとその現物が残っているのです。
 中国の南にある望野博物館には、石版の墓誌と、その拓本が展示されています。テレビ画面にその末尾部分が映し出されました。その画面です。



 私がつけた赤枠の中をご覧ください。「日本國朝臣備書」とあります。日本國の朝臣(朝廷の臣下)である「備」がこれを「書」いた、というわけです。
 「備」とは「吉備真備」のことです。空海、最澄などと並んで有名なスター留学生のひとりです。こんなところに足跡を残していたんですね。無事に帰国し、朝廷のナンバー3にまで登りつめています。空海、最澄も帰国して、仏教界で活躍しました。やっぱり無事に帰国できてナンボの世界。皆さんそれぞれにご苦労が報われたのは何よりでした。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。