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第262回 歴史に学ぶということ

2018-04-06 | エッセイ

 何年か前のことです。今や「時の人」のアソーが「憲法改正はナチスの手口を学べ」と発言し、世間の失笑を浴びたことがあります。
 「ひょっとこ顔して、エラソーに振る舞うしか能がないあのアホーなアソーが・・」程度の受け止め方が一般的だったようで、あまり大きな問題にはならなかった記憶があります。

 「ナチスの手口」というのを、なんとなく「多少強引な手段を使ってでも」程度に理解し、ナチスを引用する非常識さへの非難以上の追求はなかったようです。

 だけど、歴史に学べば分かるのですが、「ナチスの手口」というのは、決して「強引な手段で」ということじゃないんですね。
 しからばどういうやり口かというと、「あらゆる合法的手段を利用して」ということです。アホーなアソーごときが、自分で勉強するわけないですから、悪知恵が働く役人か御用学者あたりの入れ知恵に違いありません。

 そのために、ナチスの政権獲得までを、ざっと振り返ってみます。

 まずは、1923年の「ミュンヘン一揆」です。この時、ヒトラー34歳。突撃隊員2千人(一説に3千人)のナチス党突撃隊員がミュンヘンのあるバイエルン政府を倒して、ベルリンへ進撃して天下をとるーそんな意図の武装蜂起でしたが、ものの見事に鎮圧されます。さすがにこれは、非合法。

 首謀者のヒトラーは、国家反逆罪で、銃殺も免れないところですが、得意の弁舌もあったのでしょう、禁固5年の判決を「勝ち取り」、なぜか、刑期満了前の25年12月には釈放されました(歴史に「イフ」はないと言われますけど、ついつい「イフ」を考えてしまいます)。

 さすがに、武装蜂起の失敗に懲りたのでしょう。ワイマール憲法下での議会を舞台に、政権獲得のための議席確保をめざした「合法的な」活動が始まります。

 ナチスが政治の世界で存在感を確立した節目の年が1930年です。党員は30万に達し、財界とのコネによる豊富な資金力を背景に、この年の総選挙では、それまでの12議席から、一気に107議席へと躍進し、第2党となります(第1党社会民主党143議席、共産党77議席)。

 そして、同年の11月の総選挙では、突撃隊の暴力事件の影響もあって、196へと議席を減らすのですが、かろうじて第1党は維持します。一方、共産党は100議席と躍進です。

 翌33年1月に、シュライヒャー内閣が、軍部クーデターの危機に揺さぶられ、総辞職します。
ヒンデンブルク大統領は、不本意ながら、ヒトラーを首相に任命します。こんな人物です。

第一次世界大戦時の「元帥」が、「伍長」を任命するというのが歴史の皮肉ですが、ともあれ、ナチスは、遂に政権を獲得したのです。

 同年2月に議事堂放火事件が起こります。ナチスによる自作自演との説が根強い事件ですが、そんなどさくさに紛れるようにして、「ドイツ民族と反逆的陰謀を取り締まるための大統領令」という国民の基本的人権を奪う法律を速成し、緊急の「閣議決定」という手段で決定してしまいます。その日の夜に、老大統領を訪ね、強引に署名させるのです。

 ワイマール憲法の統治に関する規定には、「公共の安寧秩序が著しく損なわれたとき、大統領は回復に必要な措置を講じるため国民の基本権を一時的無効にできる」とありますから、これを持ち出されて、老大統領も署名せざるを得ませんでした。

 この法律によって、ワイマール憲法は、完全に空洞化しました。繰り返しますが、「閣議決定」で決定したのです。

 こうなれば怖いものはありません。同年3月の総選挙で、ナチスは、全647議席中、288議席を獲得しますが、過半数には届きません。共産党は、88議席を獲得するのですが、彼らは、一度も登院することはできませんでした。「大統領令」によって、彼らの議席を剥奪し、ナチスは単独過半数を確保したのです。

 そして、悪名たかき「全権委任法」が、3月の議会で「合法的に」、「多数決で」成立します。 
 同法の第一条です。「第一条 立法権を国会から内閣に委譲する」

 憲法の空洞化に続き、議会の空洞化までを「合法的に」やったことになります。その結果、もたさられた歴史的惨禍は、ご存知のとおりです。

 目を日本の現状に転じれば、安保法制をめぐる権力側の一連の、閣議決定による法制化の手法は、まさに「ナチスの手口」をなぞっていることが分かります。アソーの発言に潜むたくらみを見抜けなかったマスコミ、知識人への苛立ちと、自分自身の不勉強を痛感しています。

 いかがでしたか?次回をお楽しみに。