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第260回 エッセイスト伊丹十三

2018-03-23 | エッセイ

 伊丹十三(1933-97年)が、ちょっと不可解な死を遂げてから、はや21年になります。ビルの屋上からの飛び降り自殺とされていますが、不審な点もあって、真相は謎のままです。


 さて、晩年は、「マルサの女」、「お葬式」、「あげまん」などで映画監督というイメージが強い伊丹ですが、若い頃は、マルチタレントみたいな感じだったしょうか。11PMにもよく登場していました。また、国の内外を問わず数多くの映画に出演するなど、多芸多才ぶりを発揮してきた人です。

 そんな多芸多才の中で、私が最も評価するのが、エッセイストとしての「才」です。

 60年代半ば頃から発表して来たエッセイ集は、ほぼリアルタイムで読み、その博識ぶりと、独特のユーモアを散りばめた文章に魅了されてきました。
 中でも、私のお気に入りの1冊といえば、「日本世間噺大系」(1976年文藝春秋刊、のち文春文庫、新潮文庫)ということになります。
 プレーン・オムレツの作り方を、ベテランシェフに教えてもらうのを実況中継型で再現したり、天皇(といっても、孝明天皇ですが)の日常を、側に仕えた男性から聞き取ったのを文章に起こしたりと、バラエティに富んだ内容です。お読みいただくのが一番ですが、冒頭の「走る男」のエッセンスをご紹介してみます。

 空港が、飛行場と呼ばれていた頃。ボーディングブリッジなどはなく、搭乗するには、滑走路を歩いて行く必要があり、自由席の便もあったという時代背景です。
 「飛行場で不愉快なのは走る男である。」との書き出しが目を引きます。ゆっくり行けばよいものを、ドタドタと人の横を走り抜けて行く無作法さ、そして、なにがなんでも、窓際の席を確保しようという卑しい魂胆が、伊丹には我慢ならないようです。
 思惑通りであろう窓際に席を確保した「走る男」と、混んでいたため、その隣の通路側に席を取らざるを得なかった伊丹の心の内でのバトルが始まります。

 出発前だというのに、思い切りシートを後ろに倒して、スチュワーデスから注意を受ける、新聞を勧めると、スポーツ紙を要求する(なら、窓際の席なんか取るな、といらだつ伊丹)、おしぼりが配られると、パーンと大きな音を立てて袋を破る、配られたサンドイッチを音をたてて食う、禁煙サインが消えた途端に煙草を吸う、ベルト着用サインが消えた途端にトイレに立つーー自分さえ良ければよい、という「走る男」の態度に伊丹のイライラは募ります。
 どうもこの男は目の前に取れるものがある限り、なんでも取り込んでしまわずにいられない病弊を持ったヤツだ、と考えた伊丹はちょっとしたイタズラを仕掛けます。実害のない彼一流のイヤミなやり口ですが、ほどよいユーモアで、なかなか読ませます。

 まず、読書灯を点けてみます。予想通り、男もマネをする。ボタンを押して、スチュワーデスを呼び、毛布を取り寄せる。すると、その男も取り寄せる。そして、極めつけは、前の座席のポケットに入れてある青いゲロ袋。これを、伊丹は、いかにも大事なもののように自分のカバンにいれます。すると案の定・・・・という次第です。

 「結局、飛行機の中で、走る男が使用しなかったのは、救命胴衣と酸素マスクだけであったと私は確信している。」というのがオチです。
 一方で、伊丹はこんな言葉も残しています。

 「私は勉強が好きだ。これは私が大学を出ていないせいかもしれない。私は自分が非常に頭が悪いと感じているし、そのため常に勉強の必要にかりたてられている。また、実際、私は何でも勉強にしてしまうことにかけては名人の域に達しているかもしれない。自分も、結婚も、育児も、文章もテレビも、映画も、あらゆることを私は勉強にしてしまう。そして五十代もなかばの今、ベンキョー人間の自分はやや自己肯定的につぶやく。人間、教えることは不可能だ。学ぶことができるだけである。」(「ぼくの伯父さん(つるとはな刊)」から)

 彼が若い頃は、そのキザっぽい口ぶり、知識のひけらかしに、私自身、鼻持ちならないものを感じたこともありましたが、その多芸多才の裏には、ものすごい努力があったのですね。

 私も、もっともっとベンキョーしなければと、とりあえず気持ちだけは新たする毎日です。

 いかがでしたか?次回をお楽しみに。