ゆっくり…
ゆっくりと、たった一回の瞬きをする間に
何千キロも進んだような感覚。
演奏が始まれば、現実にそこで鳴っている音は直に聞こえなくなる。
視界に入るものは、その形がグニャリと崩れ出し、一つの大きなスライムのようになってゆっくり波打っている。
その体内の深いところから表面近くにまで伸びている無数の神経節と、
その先に付いている「目」が、茶色のジェリーのように半透明な皮膚を通して
こちらの一挙手一投足をじっと見ている。
「一定」という名の真っすぐな線をゆっくり描くのを辞めて、
大きな感情を吐き出した途端、無数の目が一斉にこちらを向く。
出来る限りこちらを向かさぬよう自分の気配を消すことだけが
Tに出来うる可能なことであり、それが彼の「奏でる」ということ、
相手と一心同体化になるということ、それがすなわち彼の音楽だった。
ただ彼の潔癖は、現実で周りとの調和を妨げ、よく彼は自暴自棄に陥った。
楽器を手にする力が出ない時は、女を抱いた。
欲望に任せた身勝手なセックスだった。
Tの奏でる悲しみ色の強い音色に惹かれた女は、
彼がどんなに身勝手なセックスをしても、どこかで彼を許した。
その仕組みを知っているTは
自分の音色を聴かせたことの無い女には、絶対自分からは近付かなかった。
Tは穏やかなまま女に接近した。
そして女が安心した頃を見計らって
いきなり自分の凶暴性の1割にも満たない毒を使って無礼な口をきいた。
そのやり方で大抵の女がTの腕の中に落ちた。
交わる中で女が動物に戻り
優しさより激しさを求める頃になって初めて
Tは自分の心が安らぐのを感じた。
その感覚は、
彼が女を純粋に愛せるのは、「その時間の中だけ」だと
そう彼に思わせていた。