Rosa Guitarra

ギタリスト榊原長紀のブログです

「T-1」

2009-12-25 | 「T」



東京湾の海水の上を歩いて何処に行くんだよ?


そっちの沖の方で俺を呼ぶ奴は誰だ?




そう呟きながら立ち上がりざま自分の両腕に
鳥が羽ばたくような動きをさせた、
その途端、自分の両腕は巨大な麻色の羽となり
大型の渡り鳥が、長く水面を滑走路として飛び立つように
バサバサと羽ばたきながら一気に東京湾の中へ走り出し、
そして離水した。







飛び立ってみると、大きな麻色の羽はじっとりと湿り気を含んだ毛布のようで、
高度が上がらず海面すれすれをずっと飛行することになった。
そしてその息苦しさから、
「今」という時空を生きてることにまで後悔が及んだ時、Tは目が覚めた。




夢の中で自分が広げた羽には「名前」が付いていた。

Tは目を瞑ったままでその名前を滑舌の悪い声で口走った。



女が「何?」と訊いたが構わず
東京湾がどうしたこうしたと重ねて呟いた。
そして夢の中の風景に出て来た幾つかの建物の名称を呟くうち「羽の名」のことはもう忘れてしまった。



Tが寝起きざまに、今見ていた夢のことを話す癖は昔からで、
それは覚醒し、現実の世界に引き戻される時間を、
ほんの少しでも引き延ばしたい気持ちの表れだった。

Tは明らかに潜伏性現実逃避人間だったが、
彼はそんな自分に気付いていたし、
そのことに関して逆に持論を持っていた。



「現実」と呼ばれるものは全て「無」で
観念の中、心が動いてる状態だけを指して「生きている」と言える、
「命」の意味を、そう彼は捉えていた。


だから自分の中の怒りの炎
誰にも気付かれない憤りの噴火は
彼にとってはむしろ「生きている」という証であり
これらが現実で外に流れ出さない限り
むしろ「良いこと」と捉えていた。


ただ時たま、だけど確実に
身近な人間のところに溢れ出てしまう。
その結果、相手から恐れられ、自分との距離を置かれようとされることをまた恐怖に思っていた。


人との会話に使われる「言葉」
そんな道具では、本当の会話になどなり得るわけが無いと
常々感じている彼は、日常の大半を自らの内側とばかり対話している。
そしてそのことはあたりまえのように彼を孤独に追い込んでいる。

孤独という名の激しい枯渇感に苦しむTが
恋人に求めるものには独特のものがあり、
それゆえ、それに応えられる女は少ないはずだった。

このことは彼を、女と向き合わせるのに慎重にさせるはずだったが、
女という生き物と、男という生き物がこの世から無くならない限り、
こんな歪な形をしている自分のことでも必要とする女はこの世から居なくならないとTは思っていた。

そのことから得られる安心が
彼に初めて、女に対して甘えることをさせる。

甘えと傲慢の区別が出来ていない男だった。



そして、この甘えと勘違いした傲慢が
普段彼が隠し持っている「誰にも気付かれない憤り」を
恋人の前で噴出させることに繋がっていることに
不幸なことに彼はまだはっきり気付いていないのだった。



Tが恐れていることとは
彼が甘えられる女が、この世にたった一人も居なくなること、そのことたった一つだった。

それは逆に言えば、たった一人の女が傍に居て
Tの甘えを甘受していてくれさえすれば、他に誰一人も必要とは思わない、ということでもあった。


こういう価値観は彼の気付けぬ部分で「固執」を生み、
恋人である女に重たい加重をかけてゆく仕組みにも彼は上手く気付けてはいなかった。


幾重にも気付けないことが彼の苦しみだったし
その苦痛が破壊してきた関係性が、いったい幾つ貯まったかなんて忘れてしまったが、
今度の恋人は彼の傲慢をある程度見抜いていた。



食器を洗う音が小さく隣りのキッチンから漏れ聴こえてくる。

どこか遠くの建設中のビルから、鋼鉄を打つ音が聴こえる。

その場に居たら耳を塞ぎたくなるであろうその破壊的な音は、
冬の乾いた空気の中を何キロも伝ってくるうちに角を削られ、
最後にこの部屋のサッシを通り抜ける際に決定的な打撃をこうむり、
もう鼓膜を殺傷する能力が皆無になった状態でポカンと間の抜けた音を空虚に響かせた。


睡眠から覚め、現実での時間が再開することを一番嫌っているTは、
人を傷つける力の無い微弱な音達を聞くともなく聞きながら、
不安定な中に奇跡的に生まれた僅かな均整の中に恍惚としていた。

サッシの硝子に付いた細かい埃が、太陽の光を乱反射させるから、ここから見える空は白い。


白だけで…良かった…
雲が流れてゆくのが目に入ってしまったら悲し過ぎる。
悲しみに浸っていること自体はTにとって嫌悪することではなかったが、
もしその領域に留まるのだとしたら、何人からも邪魔されない、という確約が欲しかった。


いつか見たフランス映画の黄ばんだ空と、そこに飛んでいた一羽の海鳥の黒い影を思い出した。

大きな柱時計の針が逆に廻るのを見た。

女の泣く声がフラッシュバックし、その残像が長い尾を引いてゆく。

逃げ込む場所と、そこに入り込んではいけないという思いが交錯し鼓動が早まる。

遠くでパラパラというヘリコプターの乾いた音が聴こえる。

その音には30msecほどのショートディレイがかかっている。

そのことが、自分を含むこの街ごとが巨大なプラネタリュームの中に格納されているかのごとく
錯覚を起こさせる。

廃品回収車のスピーカーから押し出された暴力的な音量が鼓膜をヒビ割れさせた時、
Tはうつつから覚め、不愉快という名の着地点に降り立った。







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