時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(七十一)

2006-12-15 22:39:05 | 蒲殿春秋
治承三年(1179年)に入ってから
清盛にとっては不幸な日々が続いた。
故摂政基実に嫁がせていた三女盛子が亡くなった。まだ二十四歳の若さだった。
この盛子は十一歳にして夫に先立たれ
その後は基実未亡人として自分と四つしか年の違わない
基実の嫡子基通の母代わりの後見人として生きてきた。
その名目で、
基実亡き後摂政の座についたその弟基房に摂関家の所領を渡さず
摂関家領のほとんどを盛子が預かるということもできた。
もちろん若年の盛子に基通の後見や所領の管理ができるはずもない。
実質的にそれらを行っていたのは盛子の父清盛であった。
しかし、その肝心の盛子が亡き今清盛が所領の管理を主張することはできない。
この空白を縫うかのように摂政基房が盛子が預かっていた摂関家領を自分のものにしてしまった。
いままで平家の大きな経済基盤であった摂関家領の損失は大きい。
摂関家領から自在に武力も調達できていただけにその打撃も無視できない。
追い討ちをかけるかのように
「盛子が死んだのは他姓のものが摂関家の家の所領を横取りした天罰だ」
と摂関家の人々のささやきあう声が清盛の耳に入ってくる。

そして、基房は自分の八歳の息子の師家の官位を露骨に上昇される。
基通には摂関の座を与えず自分の系統を摂関家の嫡流にしようとしている。
今までの摂関家の伝統では、弟が摂関を継承した場合兄の子に摂関は戻らず
弟の子に相続される場合が多かったが
今回の基房のやり方はあまりにも露骨である。
基通をも娘婿にしその関白就任をもくろむ清盛にとって、
基房の基通排除路線は大きな打撃だった。
この時代の摂政・関白は決して無力な存在ではない。
天皇は摂政や関白と共にあらねば政権は運営できない状況になっていたのである。
この時代は天皇、院、摂関が一体となって初めて天皇の命令が実行されるのである。

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