時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(六十三)

2006-12-02 09:16:58 | 蒲殿春秋
範頼たちが奥州に向かった安元二年(1176年)は、来る激動の時代に向かって一つの方向が出始めた時代であった。

七月八日、時の帝高倉天皇の母后建春門院平滋子が亡くなられた。
それまで後白河法皇と平清盛との間の橋渡し役となっていた大切な女性が
失われた。(建春門院は後白河法皇の寵妃であり清盛の妻の妹だった)

それから間もなく七月十七日、先帝であられた六条上皇が十三歳の若さで
崩御された。
これで二条天皇の直系はいなくなった。
後白河と長年対立を続けていた二条天皇側近勢力は核を失った。
かつて、後白河院と保元の乱で戦った崇徳上皇は既に讃岐で崩御されている。
六条上皇の崩御によって後白河院の正当性を脅かすものは消え去った。
高倉天皇はまだ若い。
皇位に近いものは全て後白河法皇の皇子のみ。
この後どの皇子が即位しても後白河法皇しか院政を執るものは存在しない。
唯一の院としての後白河法皇の権威はここにきて増してきた。
後白河法皇にとっての清盛の必要性は低くなってきた。
橋渡し役の建春門院の死去がその状況に大きな影を投げかけている。

地方においては多くの末寺を擁し荘園を抱える寺社勢力と国司の勢力のぶつかり合いが目立つようになる。
寺社にとどまらず在地勢力と国衙役人との諍い、国衙の主導権を巡る在地領主間の争いなどは目立たずともそこかしこに存在する。

いまや朝廷の中枢に入り込み、いくばくかの知行国を抱えており、最大の軍事勢力の担い手である平家一門は立場上国衙勢力を後援する立場にある。また、平家に対して私的な主従関係にあるものを手厚く保護をする。
そのことが後々に大きく彼らの運命に影響を与えることになるのだが、
彼らはそんな未来を知る由も無い。

後白河法皇と清盛との間に微妙なずれが発し
それが後々大きな亀裂となっていくのである。

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