時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(七十)

2006-12-14 21:32:19 | 蒲殿春秋
治承元年(1177年)その時代に生きる誰もが気が付かぬうちに
歴史は大きくうねりを変えようとしていた。

比叡山の末寺と加賀国司の目代の紛争が拡大し
その結果院の近臣のうち数名が処罰を受けるという騒ぎが勃発した。
後白河法皇は院近臣である加賀守師光の配流を求める比叡山に抵抗し
逆にその比叡山の指導者明雲を伊豆に流そうとする。
一方清盛は懇意である明雲の身柄を確保することに抵抗する。
しかし、後白河法皇は明雲配流に対する強行姿勢を変えようとはしない。
その後明雲の配流が実行されるがその道中比叡山の大衆らによって身柄を取り返される。
そして、さらなる圧力を比叡山にかけようとする。
そのようなにらみ合いが続く中ついに清盛は動いた。
一連の動きの中で院の近くにあって主導的立場にあった藤原成親らを拘束。
この事件に関わった院近臣をすべて処罰するよう公卿らに圧力をかけた。
そして、公卿たちは清盛の意向どおりの決定をなした。
加賀守師らの父である僧西光は処刑、俊寛らは鬼界が島へ流刑、院の近臣中の近臣藤原成親は流刑地に向かう途中で殺された。
けれども、後白河法皇に対して清盛は何の手出しもできなかった。
以上が世に言う「鹿ケ谷事件」である。

それまで後白河法皇と平清盛との間で目立った対立は無かった。
けれども、ここで後白河法皇・その近臣団と清盛との間に亀裂が目立つようになる。
二条天皇の血統は途絶え兄崇徳院も崩御した今、後白河法皇の権威を脅かすものはもはやない。
二条天皇、六条天皇と対立する時には後白河法皇の権力の有力な支え手であった清盛はもはや無用の存在となった。
いやむしろ清盛を支えとしたがゆえに法皇の意志を妨害する存在に清盛は成長してしまっていた。
清盛は後白河法皇との提携の間にその政治性を存分に発揮して巨大な勢力を宮廷社会に築き上げてしまった。
後白河法皇は高倉天皇以外の皇子に肩入れを始める。
高倉天皇を退位、排除させてでも清盛の政治的影響力を弱めようと考え始めている。

平家内部でも、院近臣藤原成親を庇う清盛の嫡子重盛、
娘婿成経(成親の子)に肩入れする清盛の弟教盛
さらに元々独自の道を歩んでいる同じく清盛の弟頼盛
清盛を頂点として結束していたはずの平家一門内部でも
院に近い立場のものとそうではないものとの分裂の傾向があることが
この事件で顕となった。
清盛にも焦りが出てきた。

治承二年(1178年)清盛に朗報がもたらされた。
高倉天皇の中宮で清盛の娘徳子が懐妊したのである。
この懐妊は全ての人に祝福されていた。
月満ちて誕生したのは皇子。
そのときこの皇子の誕生が後に法皇と清盛との間を決定的に分断することになるとはそのとき誰も思わない。
ただ単に今上の帝の第一皇子の誕生を喜ぶのみ。
ただ一人、後白河法皇は中宮安産の祈祷をしながらも
この皇子にどうすれば皇位が行かずに済むかということを考えていた。

清盛にはこの出産劇が自らの危機を救いさらなる躍進に結びつくと確信した。
けれども、後に彼が引き起こす大胆な行動を世間の人は誰も
そして清盛さえも考えてもいなかった。

平家にとっては慶賀すべき皇子誕生。
しかし、その祝意の中ひとりだけ微妙な立場に立たされるようになった人物が平家内部で発生した。
清盛の嫡子重盛である。
今上帝の伯母、その帝の中宮の母にして皇位継承者の最有力者の外祖母となった清盛の妻時子。一族の中のその発言権は重い。
だが、清盛の嫡子重盛の体にはその「一門の母」時子の血は一滴も入っていない。
彼が先妻の子であったからである。
早くに母を亡くし、母代わりに庇護してくれた義祖母池禅尼も亡くしてしまった。
時子からしてみても、中宮徳子からしても時子の子である宗盛らと比べると重盛は距離を感じる存在である。
さらに重盛は鹿ケ谷の陰謀で正室の父と兄弟を失脚させられた。
清盛家の中にあって官位は一番高く、清盛が出家しているゆえに名目上当主であるが時子の子供達には押されがちになり、清盛一家の中で孤立を深めていた。
皮肉にも清盛が待ち望んだ皇子の生誕は清盛の子供達の間にも分裂を生じさせたのである。

その皇子は生まれたその年のうちに東宮(皇太子)に立てられた。

このあたりに関する系図はこちら

前回へ 次回へ