本日も、幸福の科学高知なかまのぶろぐにお越しいただき、本当にありがとうございます。
8月15日は終戦記念日でした。
厳しい戦争で亡くなった多くの方々の冥福をお祈りし、また戦後、日本を大国に導いてくださった先輩方のご尽力に、心より感謝申し上げます。
今日も日本は平和です。
誠にありがたいことであり、心より神仏に感謝申し上げます。
「このような平和な風景と同じ空間に、よもや日本を侵略云々しようとしている国があるなんて。」
私でも、そういう思いがよぎるときがございます。
さて、中国や北朝鮮では、時折軍事パレードが開催されますが、彼の国にとっては「平和のセレモニー」らしいのですね。
意味不明ですよね。(笑)
日本人が考える平和と、中国ら「侵略的意図を持つ国家との、平和の理念は違う」ことを意味しています。
侵略的意図を持つ者は、軍事リスクを考えるからです。
つまり、彼らが考える平和とは、「こうやって武器を見せ付けることで、相手が屈服するなら、これ以上の平和はない。」と考えるわけです。
さて、こんな感じの俺様国家中国に対して、撃つべき手はあるのか。
日本ほど、国防面に関して、やれるべき手段が残っている国はありません。
なぜならば、戦後の日本は、国防に関してはガンジガラメで、自己規制が強すぎて、これまで有効な撃つべき手はあまり打っていないからです。
それでも今の日本は、核戦争以外なら、中国に負けないほどの実力があるそうです。
つまり国防面に関して、伸びシロが無限にあるのが、現代日本です。
中国にとっては、民主主義国家の日本国民に、この事実に気付かれることこそが、もっとも恐れることなのではないでしょうか?
さて、日米同盟の堅持や、集団的自衛権行使によって、侵略リスクを上げていくことはとても有効な手立てです。
それは彼らの侵略的意図が強ければ強いほど、侵略リスクを嫌うからです。
これは、腸内の善玉菌を増やすことで、悪玉菌の侵略から身体を防衛するようなものですね。
そしてもうひとつ、やれるべきことがあります。
それが、宗教です。
なぜならば、今の中国という国が、共産主義国家だからです。
日本で共産主義というのは、結果平等的な経済的側面が強調されています。
しかしもうひとつの側面として、無神論・唯物論思想があります。
つまり、「神も仏もあるわけないじゃん。」「死んだら終わりさ。」という信条をを持つ、一種の宗教だと言えるのですね。
中国は、日本の左翼的活動を支援していますが、この思想の部分が、彼らなりに「使える」と判断していると見るべきです。
今中国国内では、国家教育や情報・言論統制によって、国民を洗脳している状況下にあるわけです。
ですから、為政者の都合の悪い人を政治犯として、何億人も粛清するような、血も涙もないことができるわけですね。
日本の左翼的信条の方々で、もしもそれを、自由を基盤にした活動と思っていらっしゃるなら、それは大きな大きな誤解です。
それは、「神さまからの自由」であり、「神さまからの開放」です。
結果は、「神さまと反対のもの」が、支配する社会となります。
この「神さまの反対のもの」のことを、一般的には「悪魔」と言います。
共産主義は、無神論・唯物論であり、それは即ち「悪魔の思想」です。
それは、中国や北朝鮮などが、不自由な監視密告社会であり、無慈悲な粛清社会であることを見れば明白です。
ですから、もし日本が、共産主義国中国の侵略を本気で免れたいと思うならば、無神論・唯物論を論理的に瓦解させるだけの、強いメッセージ性を持った宗教を愛し、庇護し、擁護し、さらに発展させるように尽力する世論が、日本国内で主流になれば良いわけです。
別に、国民全体が、その特定の宗教の、信者登録する必要はありません。
国内の人々の主流の意見が、そういう宗教を愛し、庇護擁護し、発展を願う磐石な精神的基盤があれば、もうそれで十分なのです。
それでもう、無神論・唯物論を信条とする国家は、手出しができなくなるのですね。
なぜならば、宗教というものは、どうしても広がってしまうからです。
つまり、「神仏がいらっしゃるのは当たり前」「死後に逝くべき世界があるのも当たり前」という国家を、共産主義国家は飲み込むことはできないのです。
もしも、無神論・唯物論の洗脳呪縛から人々を解放し、「神仏がいらっしゃるのは当たり前」「死後に逝くべき世界があるのは当たり前」という宗教が中国本土に入ってきたら、その瞬間から、共産主義国家の内部崩壊が始まってしまうからです。
バイキンマンが、石鹸を飲みこむようなことになるわけです。(爆笑)
自由な発想で、軍略の才に溢れる坂本龍馬先生が、今ご存命であったら、こういう兵法も、きっとお使いになるのではないかと思うのです。
ということで、幸福の科学ならびに、幸福実現党へのご支援をよろしくお願いいたします。
コンビニの店よりも、神社仏閣などの、宗教施設の数の方が多い日本。
日本は本質的に、宗教国家です。
要するに「宗教」には、現実的に国を護る力があるということです。
本日は、経典『太陽の法』と『永遠の法』(大川隆法著 幸福の科学出版)より、一部抜粋をご紹介いたします。
(ばく)
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あなたがたは、人間として生まれてくる以前、天上界において、霊として自由自在な生活をしていたのです。
天上界では、お互いの心がガラス張りで、だれからでもわかるため、不調和な心をもっていたのでは、とても同じ世界にはいられなくなります。したがって、毎日会う人々は、みんな、自分と気心がしれたすばらしい人々です。
また、霊人たちは、自分の年格好を自由自在に変えることができます。また、ほしいものがあれば、強く念えばすぐ目の前にあらわれてきます。そして、すべての人が、少しでも真理に目覚めようと、それぞれの段階において、修行にはげんでおります。
地獄界にいる不調和な霊たちは、決して地上界に人間として生まれ出ることはできません。彼らの心は、闘争と破壊の心であり、そのような心でもって、人体に宿ることは決して許されてはいないからです。
では、この地上に生まれかわるためにはどうするか。まず、少なくとも、四次元幽界(精霊界)の住人であることが必要とされます。そして、天上界の人間として、自らが霊的なる存在であり、仏の子であるということを多少なりとも悟らなくては、この地上に生まれかわることはできません。したがって、最低限、なすべき反省がおわっていない場合には、そういう人は、転生できないのです。
このように、地上に生まれかわるということは、天上界にいる者にとっては、当初からひとつの試練だといえます。また、長年地獄界にいて、やっと反省をおえた霊にとっては、人間として再出発し、もう一度やりなおせるチャンスでもあるのです。
ですから、地上界というのは、ひとつの修行の場なのです。天上界で自由自在に生きていた霊にとっては、肉体に宿るということは、すなわちこれ、自らの霊性、仏性が試されるときなのです。自分の霊的なる覚醒が、はたしてほんものかどうかが、徹底的に試される場なのです。
霊的に自由自在のときに、仏を信ずることは容易です。しかし、この三次元の物質世界のルールの中で生活して、一体どれだけ四次元以降のルールを悟れるか。仏の力を悟れるか。仏の力が働いている世界であることを悟れるか。それが徹底的に試されるのであり、この試験にパスしてはじめて、人間は、もといた世界以上の高次元世界へと還ってゆけるのです。
長年、地獄界で苦しんでいて、やっと反省の境地に到達し、仏の子である人間としての最低限の悟りを得た人々は、「今度こそ立派な人間になってみせる」と意気込んで、この地上界に生まれてきます。しかし、三次元の物質世界の荒い波動に強い影響を受けて、仏の子としての自覚を得ることのないまま、深く欲望の世界に耽溺し、再び天上界に還って来ることなく、さらに暗黒の地獄へとくだってゆく人もおります。
この三次元の物質世界、現象世界というものは、それだけきびしい修行の場だといえます。
しかし一方では、救いもあります。実在界においては、決して会うことのできない人々が、この三次元世界においては、一堂に会する。(中略)こうした人々が、同じスタートラインに立って、オギャアと赤ん坊として生まれて、平等に人生をやりなおす機会が与えられているのです。
『太陽の法』(大川隆法著 幸福の科学出版)P188~193
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人間は人生観や人生の目的を常に考える存在ではありますが、それは一大問題であるため、「大宇宙のなかにおいて、自分はどのような存在なのか」ということを明確につかむまでは、人生観や人生の目的を確立しえないのです。
もし、唯物論者の言うがごとく、母親のお腹のなかに生命がいきなり発生して、六十年、七十年を生き、やがて火葬場で焼かれると、人生がそれで終わりになってしまうのならば、それなりの考えを持って生きていかねばならないでしょう。
ところが、宗教家たちが言うように、「あの世、実在界という世界があり、魂はあの世からこの世に生まれ変わってきて、何十年かの人生を生きる。そして、この地上を卒業したあとも、実在界において、さらなる魂の向上を目指している」というのが真実ならば、とるべき考え方は違ってきます。
人生を学校教育にたとえた場合、いくつかの見方があると思いますが、唯物論の考え方は、「小学校の六年生がすめば義務教育は終わった」というような考え方でしょう。それは、人生を小学校のなかに閉じ込めているのです。
しかし、「霊界という世界があり、人間は永遠の生命を持って転生輪廻している」という考え方は、「小学校を出ても、中学校があり、高校があり、大学があり、大学院があり、そして社会に出てからもさまざまな学びがある」というように、連綿と続く学習の場として人生を考えることになります。
こうした二つの定点から人生を見た場合、どちらが人間の進化や向上に役立つかといえば、結論は明らかでしょう。永遠の進化を目指すという観点に立ったときに、人間ははるかに向上していくということです。
人生は一回かぎりであり、人間は、わずかな期間だけしか生きていない、線香花火のような存在だとするならば、人生には重大な意義も目的も見いだせないのではないでしょうか。
その短い期間を線香花火のように燃え尽きるために、人間はさまざまな快楽に耽り、物質欲におぼれ、放恣な生活をしてしまうのではないでしょうか。また、誰もが個人主義に陥っていくのではないでしょうか。
わずか数十年の人生であるならば、「自分が楽しまなければ損だ」という考えになってしまっても、おかしくはないかもしれません。
しかし、永遠の人生であれば、「人のために奉仕したことが、やがては必ず自分自身の魂の糧となって戻ってくる」と考えられるのではないでしょうか。
『永遠の法』(大川隆法著 幸福の科学出版)P16~19
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