幸福の科学高知 なかまのぶろぐ

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迷妄の城と化した日本の政治と『勇気の法』

2017-10-06 00:36:09 | 幸福実現党の願い

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連日報道されている解散総選挙に向けての報道。

私もまぁ、情報収集のために見るには見るのですが、連日刻々と変わる内容と相反するように、ほぼ不変なものがあります。

それは、”報道を見る一般有権者の眼”です。

北朝鮮ミサイルで、Jアラートが鳴った報道の時には、もっと真剣なまなざしで国民はニュースを見ていました。

しかし今、虚無のまなざしが、国民有権者に広がっているのです。

ブラウン管で騒いでいるのは、政治家と番組司会者だけで、他の誰も、Jアラート報道を見るような眼を、見てはいても、注いではいないのです。

なぜか。

程度が低く過ぎるからです。

はっきり言って。

政治も、それを伝える報道も・・・です。

http://the-liberty.com/article.php?item_id=8766

安倍さんも、小池さんも、またマスコミも、いろいろ思いを巡らしているようではあるが、どうも私には、どなたもが、焦っているように見えるのです。

まるで誰もが、火の車状態に見える。

それはやはり、有権者である国民が、一向に盛り上がってこないからではないでしょうか?

当たり前です。

北朝鮮からの危機が、解散総選挙だからと言って、去ったわけではないということは、日本国民ならば誰もが知っているのです。

http://www.zakzak.co.jp/soc/news/171005/soc1710050010-n1.html

まるで与党も野党も新党も、そしてマスメディアまでもが、時代の淵に追いやられているように見えるのです。

「新しい政治」と言いながら、どこが新しいのでしょうか?

「新しい」ならば、新時代を構築できるビジョンが政策として現わせると思いますが、さあ幸福実現党以外、どこが示せているでしょうか?

今こそ日本は、平和と繁栄への決断をするべきです。

幸福実現党は、先見性と国際性と高い見識で、日本の与党の家庭教師ができるところです。

幸福実現党が立党した2009年年初に発刊された経典、『勇気の法』をどうぞ。

            (ばく)

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大川隆法総裁 講演会2017 「あきらめない心」抜粋版(青森県弘前市・ホテルニューキャッスル)より

大川隆法総裁が語る 小池都知事の問題点について

 https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=121

 

世の中では、さまざまなところで、悪の増殖している状況が見受けられますが、その根本にあるものは何でしょうか。
一つは、戦後民主主義的な多数決原理、「大勢の意見が正しい」という考え方です。

先ほどの学校の例で言えば、子供は、「クラスのなかで、大勢の人が一緒にやっていることは正しい」と考えます。「みんなで万引きをし、みんなで暴力を振るい、みんなでいじめをしているから、それは正しいことであり、その仲間から抜けると損をする」と考えるのです。

このように、多数決によって「何が正しいか」を決める考え方が一つです。
もう一つは、日本の伝統的な考え方である、“ムラ社会”の意識です。

「みんなが同質で、仲間意識を持って同じことをしていれば正しくて、仲間から外れたことをすると悪である」という考え方です。「内容はともかく、みんなと違う意見を言ったり、違う行動を取ったりして、仲間から外れている人、グループ行動をしない人は悪なのだ」と判定する、「村八分」型の原理があります。
これが悪の増殖の原理としても現実に使われています。(中略)

学校で、いじめや犯罪行為などをグループで行っているのを見て、すぐに、「それはおかしい」と意見を言うのは、たいてい、帰国子女や、外国帰りの親を持つ子供です。

また、日本から出たことのない人でも、親がミッション・スクールなどの宗教系の学校を出ていたり、子供自身が宗教的な環境で育てられたりしている場合には、集団でのいじめ行為などを見て「おかしい」と言うことがあります。

しかし、それ以外の人たちは、数の原理のほうを正しいと考え、多数の勢力のほうに巻き込まれていくことが多いのです。

それは、善悪の基準を持っていないからです。

仏や神が、「これは正しい。これは間違っている」と教えていることを信じ、その教えに基づいて行動している人には、「ムラ社会における多数がどうであるか」ということは、あまり関係がありません。

そういう人は、「自分が助かりたい」などとは考えず、真理に基づいて行動し、善悪を判定しようとするので、「こういうことは間違っている」「こんな弱い者いじめは間違っている」ということを、はっきりと言えるのです。

私がいろいろ経験したところでは、外国帰りの人は、けっこうピシッと、「それは間違っている」と言います。

国際的な生き方をするためには、やはり、何らかの基準、普遍的なルールが必要だからです。そのため、国籍やムラ社会の意識を超えるものとして、宗教的な善悪の部分が出てくるのです。

そういう意味で、これからの日本の学校教育においては、インターナショナルな目を持った、宗教的な善悪を教える教育が必要であると強く感じます。(中略)

世の中を良くしていくためには、この世の多数決原理に流されるのではなく、普遍的な善悪は何であるかを考え、行動していく必要があります。

特に、若い人たちは、もっと勇気を持ってください。若いころに勇気を持てないような人は、年を取っても勇気は出てきません。
若いときには勇気があっても、家庭を持ったり、会社での立場ができてきたりすると、だんだん、言いたいことが言えなくなって、保守化していくのが普通なのです。

若いころに勇気がないような人は、年を取ってから勇気が出るなどということは絶対にありません。勇気を出して行動していても、叩かれたり、壁が出てきたりして、だんだん、勇気ある行動を取れなくなっていくのが普通の流れなのです。

しかし、そういう流れに抗して正論を吐く人が世の中にいてくれなければ困るのです。

誰もが「長い物には巻かれろ」ということになっていったのでは、世の中は良くなりません。

いつの時代も、世の中を良くすることを願い、正しいことを実現するための価値観を求めてきたのが宗教です。

宗教は、普遍的な価値観を教えるものであり、「この世的な価値観は間違っている」ということを教え続けているので、昔から、基本的に、この世の価値観を変える“革命運動”の側面を持っているのです。

そのため、多数決を取れば、たいていの場合、最初は、この世的な意見に敗れます。

しかし、「この世は多数決の世界だから、それが多数の意見ならば、しかたがない」と考えた場合には、宗教的真理を地上に打ち立てることはできなくなります。妥協をしたら、それで消えていくのです。

したがって、世の中を良くしたいと思うならば、たとえ、反対されたり、迫害されたり、受難に遭ったりしても、いかに頑張り続けるかが大事なのです。

正しいことを実現するためには、やはり勇気が要ります。

どうか、勇気を持ってください。

勇気を持った生き方をしてください。
『勇気の法』(幸福科学出版)P35~42

 

「勇気の法」TVCM


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