林 住 記

寝言 うわごと のようなもの

お墓参り

2013-09-27 | 林住期

運良く台風が逸れて、この春先に亡くなっていた大先輩の墓参りをした。
昨年の新年会幹事3人だけでのつもりだったが、噂を聞きつけた人が加わり11人での墓参りとなった。

葬儀は家族葬で済ませたために、誰も知らなかった。
その後、奥さまが「鎌倉霊園」に納骨されたと聞き、お彼岸の最後の日に墓前に集まることにした。

新しいお墓はお人柄を表して、余分な飾りなど無く、小振りだけれど清々しいお墓だった。
墓前からは、雲の切れ間の箱根と丹沢山塊が見晴らせた。

    

この霊園が出来てすぐに社命で来たことがある。
一番高い場所富士見門近くに、この霊園などを開発した創業者の巨大な墳墓があり、魂消たものである。
その頃の霊園は、現在ほど広大ではなかった。

創業者とその家族に社員たちは翻弄されたが、時は全てを浄化し、当時の恨み辛みは笑い話になった。
大先輩の新しい墓の近くに墓所があるはずだから、折角の機会にお参りし記帳しよう、という成り行きになった。
しかし現在の霊園の職員はその所在を知らなかった。


創業者は当時、「会長」ではなく、専ら「大将」と言われており、大将はその尊称を喜んでいた。
2ヶ所で職員に「大将のお墓は何処?」と尋ねても、「は?タイショーですか?それって何ですか?」という状態だ。
本名でも「さぁ?」ということだった。あれから半世紀。偉大な創業者にして暴君は土に還ったようである。

われわれも「そいうことならまぁいいか」と、お参りは中止にした。
あれは大昔のことだったし、ハラの虫を黙らせるのが喫緊の課題だった。

    

霊園は鎌倉を囲む山々を切り崩し谷を埋め、巨大で充分以上に整備されていた。
太刀洗門から周囲を眺めた第一印象は圧倒的だ。それでも足らず、朝比奈峠方面はまだ造成工事を進めている。
霊園は物凄い環境景観破壊だった。鎌倉が世界文化遺産に選ばれるはずがない。

ここを墓所と決めた大先輩には申しわけないが、墓地はもう造らないほうがいいと思う。
散骨や合同墓など、最近増えた家族葬と同様に新しい墓のあり方を考える時代が来ているようだ。
今のままでは、日本中の大都市の郊外が、墓地になってしまうおそれがある。
    

墓参を終え、市内西御門で同輩が定年退職後に始めた蕎麦屋で昼食会を開いた。
中先輩、同輩、後輩が集まったが、以前の肩書きは綺麗に外し和気藹々。美味い酒肴と蕎麦を楽しんだ。

昨年の新年会は大先輩の米寿祝いを兼ねた。来年は卒寿祝いを考えていたが、肝心要の方が亡くなってしまった。
やはり統合の象徴、お神輿が必要だ、と言う幹事3人の事前の筋書きどおり、中先輩に会長を引き受けて頂いた。
そして次回の幹事仕事は次の世代に託すことにし、後輩3人を指名し、了承させた。これは半ば腕ずくで。
 

昼食会の後、新会長は由比ガ浜で喫茶店を成功させた元部下の店へ。一人は逗子の兄弟宅に。
森生は、北鎌倉の円覚寺にご先祖と両親の墓があるけれど、生きている人たちのほうが懐かしく大切。
老いた椋鳥たちは湘南ライナーに並んで座り、歳を忘れて囀りながら、埼玉県に帰ってきた。

挿絵は草思社刊「鎌倉 海と山のある暮らし」(安西篤子文・沢田重隆絵)から。

130927



最新の画像もっと見る

コメントを投稿