飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

子供を信じることの危うさ

2015年09月26日 21時02分52秒 | 教育論
最近、よく耳にする言葉に「子供のいうことを親が信じないで、誰が信じてやるんですか」という台詞である。
子供のことは私自身も、信じているし、否定するつもりはない。
しかし、子供に限らず、人間は自己保身のために嘘をつくし、他人の心よりも自己防衛を優先させることも多々ある。
そのことは、忘れてはならない。

正確に言うと、「子供のことを信じてやりたい」という願望であり、客観的にみて、嘘を付いている状態で、「子供を信じたら」子供はどんな学習をするだろうか。
大人は簡単に騙せる。
親は、「僕のことを信じられないのか」といえば嘘が通ると負の学習をすることになるのである。

賢明な親は、「子供を信じている」という観念を継続的に、かつ、態度で示す。
だからこそ、子供は親を信頼し、何でも正直に話せるのである。
これが親子の信頼である。
時には、嘘を見抜くことが、大切な教育なのである。

信じる根拠が子供の言葉だけで、まわりの事実が、嘘をついているという状況であれば、それは厳しく追求する態度こそ、正常な教育である。
子供を信じている親は決して、子供を信じているなどとあえて口にだすことはない。
それは、子どもとの信頼関係を日常の具体的な行為ですでに実感しているからである。
子どもをよく知り長期にわたり信頼関係を築いてきたことの自信があるからである。

さらに「子どもを信じてやらねば」ではなく、むしろ誰からでも信じてもらえるような子どもに育てるにはどうすれば良いかを真剣に考えるべきなのである。
子供は学校という社会の中で生きている。
やがて、もっと大きな世間という社会で生計を立てていくのである。
そのときに必要な信頼とは、まわりの人間の信頼である。
親の信頼ではない。

だからこそ、本当の意味で子供を信じている親は厳しく子供を追求し、責任とは何かを教えるのである。
子どもの嘘を見破るのは誰の責任なのか。
それは、いうまでもなく親である。
もし見破ることができず、盲目的に、客観的な事実の検討なしに「この子を信じてやりたい。」とその嘘にだまされた瞬間、親子の信頼関係はいとも簡単に崩される。
「なんだ、大人をだますのなんて簡単なことだ。」ということを逆に学習した子どもは、その後もさまざまな場面でこの手を使うことになる。
やがては、親の歯止めが効かなくなった子供の多くは触法行為にまで発展する。

子供の可能性を信じることと、子供の言うことをそのまま鵜呑みに信じることは全く次元が違う。
子供が限りない可能性をもっていることは教師なら誰でも実感として理解できる。
本来、好ましいとは思わないが、教師の力量以上の力を発揮する子供がいることも現実だ。
しかし、それは座して起こることではなく、自分自身の目に見ない努力、生き方、気持ちの高め方、親の育て方、そういったものが複合的にかかわりあって、開花する状態である。
そのきっかけを教師はつくるに過ぎない。

子供の言うことは信じるというのに、子供が受験に失敗するのではないか、不登校になってしまうのではないか、いじめられるのではないか、友達ができないのではないかといった心配はして、子供の本来持っているたくましさや柔軟さや、問題解決の力は信じない。
これは本来逆なのではないか。

「うちの子に限ってそんなことはない」「うちの子はやらないと言っている」こんな考えは捨てるべきだと考える。
繰り返しいうが、子供を信じることと「親が口出しをせず子供任せにすること」は問題が違う。
まったくカテゴリーが違うのだ。
とくにネット社会における失敗は、取り返しのつかないことになる。
一度ネット上にアップしたデータは、文書であれ、画像であれ、永遠に消すことはできない。
また、法に触れ、社会的な罰をうけることにもなる。
失敗から学ぶという基本的な考えには異論はないが、ことネットに関する失敗は、過ちをおかした時点で取り返しがつかないということも肝に銘ずることが必要である。

甘やかしや放任が日常化されている現在、今一度子供を信じることの危うさについて考えるべきであると思う。

saitani