雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキの二輪事業と私 その33  85JIの富士登山

2016-12-30 06:22:11 | 自分史

★昨日に続いて『カワサキの二輪事業と私』である。

ホントにビックリしたのだが、ツイッターに オートバイ編集部 がこんなツイッターを昨日流したのである。

 

    

 

 この話は、私のカワサキの二輪事業との関係の中でも、会社が正式に絡んだプロジェクトではなくて、福田泰秀君くんとで仕組んだイベントで、それにオートバイ社の衛藤誠さんが絡んでの、ホントに旧い旧いカワサキに関係のあった人たちの仲間意識で出来たものだったのである。

昭和36年にスタートしたカワサキの単車営業部、その時のことを話していま解る方は、福田泰秀くんと、今でもオートバイ誌におられる衛藤誠さんと私の3人ぐらいしかいないのではないかと思うのである。福田くんは当時10人もいなかった営業部のサービスの3人の中の一人で私の係の仲間の一人なのである。衛藤さんはその頃からオートバイ誌のカワサキ担当の記者さんだったのである

この話は、それから4年後のことなのだが・・・

この85JIによる富士登山は、昭和40年7月(1970)なのだが、当時広告宣伝課を担当していた私のところに福田くんがやってきて、『85J1』で富士山に登りたいのだが、その費用を持ってくれないかといってきたのである

その時期は夏休みというので全くのプライベートな計画なので、そんな計画に会社の金を使うわけにもいかないので、考えた末『もし富士登山に成功したらオートバイ誌で紹介して頂けるか?』衛藤さんに頼んだら快諾してくれたので、福田君には『富士山頂での写真がもし撮れたら費用は面倒見ることにしよう』ということでこの話はスタートしているのである。

当時、福田君は品質保証にいたので一緒に行ったメンバーは当時の品証のメンバーで私と同じ名前の古谷君もいるし、今は大阪で『八尾カワサキ』を大きく展開している加藤君もいるのである。どうしても、『成功させたかった』ので当時のレース職場の松尾勇さんなども手伝ってくれて、モトクロスタイヤなどの提供もしたのである。

この計画は見事に成功して、オートバイ誌にも掲載され、どれくらいの費用だったか忘れてしまったが、広告宣伝費からその費用を面倒見たのである。

 

その時のことをオートバイ編集部の船山理さんがこのように紹介してくれている。

 

    

  

霊峰富士山をバイクで登る。世界遺産に登録された今、そんなことをやったら世間からフクロ叩きに遭うのが目に見えているが、実はバイクによる富士登山は、けっこうな歴史のあるイベントなのだった。というのも昭和の28年(1953年)7月には「富士登山軽オートバイ競走大会」なるものが開催されている。大会会長は富士宮市市長で、この当時から「バイクの競争」に目を光らせていた警察を、何とか説き伏せての開催である。

コースは浅間神社をスタートし、この日だけ通行止めした登山道を2合目まで登るというもの。後に「富士登山レース」と呼ばれたこのイベントは3回行なわれ、これをきっかけとして日本のバイクレースは、有名な「浅間火山レース」へとつながって行く。富士山の登山ルートは、モータースポーツの発展に大きな役割りを果たしてくれたのだ。

しかし富士の山頂までバイクで登るとなると、話は別だ。これはもうモータースポーツではなく「冒険」の領域と言っていい。ホンダのモンキーでこれをやってのけたのは、東京の上野動物園2代目の園長さんである林 寿郎さん。このニュースは新聞でも取り上げられた。時代は60年代初頭のことだから、初代モンキーZ50Mはまだ市販されていない。おそらくは当時、多摩テックのアトラクションで使われていたZ100なのだろう。

これに触発されたのが、カワサキの猛者たち。自社のバイクで富士山頂を極め、証拠の写真を撮ってくれば宣伝になると会社に掛け合い、ついにOKをもらった。選んだモデルは、そのころ売出し中だったカワサキ85J1だ。空冷2スト85ccロータリーディスクバルブのエンジンを、プレスフレームに搭載するこのモデルは、64年の東京モーターショーでデビュー。これをベースとした市販モトクロッサーJ1M(11馬力)は、翌65年に市販されているが、彼らの選んだのはスタンダードの85J1(7.5馬力)だ。

昭和40年(1965年)7月、2台のカワサキJ1は社内の有志たちによって山頂を目指すが、あまりの急勾配にロープで引き揚げるという事態にも遭遇する。動物園の園長さんが成功したのは、いざとなれば小脇に抱えられるモンキーだったからに違いない。タイヤだけはモトクロス部門に頼み込んで、モトクロスタイヤを履かせていたが、相当な難作業だったはずだ。やがて山頂に到達した彼らは念願の写真を収め、カワサキは本誌を含む専門誌に、85J1の高性能ぶりをアピールする広告を掲載することになる。今やれば別の意味で新聞に載るだろうが、この時代では間違いなく「快挙」だったのである

(船山 理)

 

★ 実はこの話は、最近でもいろいろあって、

2013年に『二輪文化を伝える会』が取り上げてくれたので、http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/6c60ad7d2d2c14363f242385d12b6c04

こんなブログもアップしたし、昨日もオートバイ誌のこの記事をFacebook にこのようにアップされているのである。

 

 

 

何年か前に、三木のグリーンピアで開催した KAWASAKI  LEGENDS & FUTUR  https://www.youtube.com/watch?v=ZKdEuytpOns ではご当人の福田泰秀くんご自身がこの話を披露しているのである。

その時の写真である。

  

 

 そのあと、衛藤誠さんに電話して、『この85J1の富士登山』の話のオートバイ誌の記事残っていませんかませんか?と探してもらったのだが、その時は見つからなかったということもあったのである。

いろんな昔話はあるのだが、当時のカワサキの連中はいろいろとオモシロいのがいたものである。私も福田君もそのほかの人たちも誰も役職などついていない平社員で、この話を私は『上の人』などには一切相談もしていない。若し成功していなければ、そのままに消えてしまった話だが、大成功だったので、その時に出た費用はオートバイ誌の広告の取材費のような形で処理しているのである。

ここには表示されていないが、オートバイ誌のカワサキの広告のページにこの富士登山の写真が、カワサキの85J1の広告として掲載されたはずなのである。

富士山頂までのバイクでの登山は大変だったようで、最後はロープで引っ張り上げないと流石の登坂力を誇る85J1でも無理だったようで戻ってきたバイクの後輪のモトクロスタイヤは新品をつけていたのに「ほとんどその山」は残っていなかったのである。

結果的には成功して、その費用も負担できたし、50年以上も経った今、こんな話が『ツイッター』で流れているのである。

取り上げて頂いた『オートバイ誌編集部』と記事を書いて頂いた『船山 理』さんに感謝である。

 

 

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