★昨日は12月21日、今年は冬至だったが、私にとっては54回目の『結婚記念日』だったのである。
師走も押し詰まりもうその年も終わりに近いこんな時期に、なぜ結婚式を?
54年前、昭和37年(1962)は、カワサキにとっては、二輪事業がスタートした翌年、前年末の12月に初めて単車の営業部が新設されて、実質初年度の営業部スタートの年だったのである。
毎月毎月が多忙で、なかなか結婚式というわけにも行かなかったし、12月になっても月初めは営業会議などが詰まっていて、こんな押し詰まった時期にしか、結婚式の日程が取れなかったのである。
その昭和37年度については、『カワサキの二輪事業と私』という自分史で次回どんな年だったのか、このブログでアップすることになっているのだが、とにかく忙しかったのである。
『忙しかった』といっても、昨今の電通のように上からの押し付けでは全くないのだが、『二輪事業』なるものが川崎航空機にとっても全く初めてのことで『何にもできていない』のである。それをどう創り上げていくのか、それも自分で考えねば、誰も教えてはくれない前例のないことばかりなのである。
★やっと12月の20日過ぎにもなってやっと実現した結婚式だったのだが、野球部の連中がその日に忘年会にするから披露宴は3時ごろからにしてくれないかなどと勝手なことを言いだして、忘年会の一次会にされてしまったりしたのである。
あれから54年、よく持ったものである。
最近はいろいろ文句も言うけれど、基本的には私のいうことに『すべてOK』で付いてきてくれた家内だったから、何とかなったのだと思う。12月21日の結婚式の日取りなども、一切何も言わなかったのである。
54年前の結婚式、日記に何と書いたのだろうと調べてみたら、こんなのが出てきた。
この日から、北陸から長野に1週間ほどの新婚旅行だったので、27日に振り返って1週間分を書いているのである。
披露宴はなかなか楽しくて私も歌など歌わされたりして、家内も神戸高校なので旧神戸一中の校歌を歌ったりしたし、司会は先輩の坂口守次さんだったが途中から小野田滋郎さんが『俺にもやらせろ』と代わったりしたのである。
岡村先生とは、戦前の朝鮮京城の小学校の恩師で、後にも先にもこの1日だけお会いしたのだが、鹿児島県の喜界島から来て頂いたのである。
『この披露宴こそ自分の今までの歩んできた姿をあらわしてくれたと思っている。そしてそれでよかったと思う。これから先も同じような道を歩みたいと思う。』
と書いているが、同じような道が歩めたと思っている。
披露宴の時間が時間なので、とても一晩目は遠くには行けずに京都に一泊したのだが、三の宮から京都までは電車で小野田滋郎さんもご一緒だったりして、本来の新婚旅行は翌朝からだったのである。
★それにしても、54年とはお互い元気で『よく生きた』ものだと思っている。
結婚の前年まで、『肺結核』で1年間入院していたし、こんなに永く生きるとは思わなかったのである。
これはたまたま、50周年の秋、アメリカの娘のところに遊びに行ってた時の写真である。
あれからもう4年が経って、来年は55周年なのである。
55周年は『エメラルド婚』 というらしい。
最近は、晩年というか、老後という感覚は殆どなくて、結構お互い毎年の人生を楽しんでいる感がある。
とにかく、『元気で、健康で』ないと生きている意味がないので、あと何年『元気で生きれるか』解らないが、自然に頑張ってみたいと思っているのである。
★『結婚記念日』といっても我が家は一般家庭とちょっと違っていて、家内は殆ど『結婚記念日』など気にしないのである。
私が覚えていないと、間違いなく『普通の1日』になってしまうのである。
『結婚記念日』に特に贈り物などしないから、気が楽である。
『金婚式』の50周年も特に何にもしなかったが、実は昨年はちょっと家内に『贈り物』をしたりしたのである。
昨年は、家内は足を骨折して入院中だったのである。どうしようかなと思ったが、病院に 緑が丘の『栄太楼』で和菓子を買って持って行ってやったのだが、果たして覚えているのだろうか?
今年は、特に何もない『54年目』の結婚記念日 だったのである。
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