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雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

KAZEの思い出

2007-02-05 06:30:11 | ジェットスキー&KAZE
今なお現役のKAZEメンバーである。
先日、家に本年度の更新葉書が届いた。勿論更新した。

1988年10月、3度目の国内担当となった。
当時まだ47000台であった実績をカワサキの「イメージ戦略」をベースに「目標70000台」の達成をめざす、という難しい課題を与えられての担当であった。

12月までの3ヶ月間、今、思い出しても無茶苦茶、仕事をした。

まず、10月15日、レースのファクトリーチーム結成25周年記念を芦屋の竹園ホテルで開催することからスタートした。
どうしても原点のレースからスタートを切りたかった。

続いて、業界初の新価格体系の発表、新コンセプトのKAZEの検討、それを実現するための新ソフト会社の設立構想、ジェットスキー会社の新体制。など、年度末の多忙な時期ではあったが一挙に実施した。

井川、富永、南、山田、森、谷沢君などなど、若手諸君の健闘で100%基本のコンセプト段階の成果をあげた。

2年半後の1991年5月、難しい目標の70000台は達成出来たのである。
同時に、最も基本的な目標であった「カワサキのイメージ向上」も大きく前進した。

その原動力になったのはKAZEだと思っている。


それまでもKAZEの組織はあった。
これらは、カワサキシンパの販売店中心の運営によってなされていた。

新しい課題、とくに「カワサキのイメージの向上」のためには、どうしても従来の枠に捉われない新しい発想が必要であった。

カワサキのユーザーだけでなく「もっと視野をひろげて考える」  これが、基本である。

カワサキだけでなく、どなたでも。
バイクに乗る人も、乗らない人も。
レースのように周りでサポートするバイクを持っていない人たちも。
バイクだけでなく、ジェットスキーの人たちも。
カワサキに関心のある方は、どなたでも。

Kawasaki Amuzing Zone for Everybody」を略して「KAZE」のネーミングのなかで、「Everybody」こそがキーワードである。

そして、バイクやジェットスキーの遊びをサポートするソフト専門会社KSSの設立など、「遊び半分では、ホントの遊びは出来ない」というようなことが、「基本コンセプト」であった。

そんなKAZEは、他メーカーの活動がなくなった今もなお、活動を続けている。

バイクもジェットスキーももっていないが、私は今もなお、現役のKAZE会員である。
ひょっとしたら、会員の中で一番年上かも知れないと思っている。


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4 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (大槻幸雄)
2007-02-05 14:29:38
デグナーについて
 デグナーの話、貴君が契約の実務をされたことは知りませんでした。デグナーについては強烈な忘れることの出来ないことがあり、もう時効になっていると思い、記します。
 デグナーがまだスズキの契約ライダーの時、山田さんと鈴鹿でグランプリレースを見学に行き、四日市のホテルで極秘に彼と会い勧誘成功した。
 翌年の富士サーキットでのグランプリレースの練習で転倒し、御殿場の病院へ入り二日後新幹線で明石へ帰り、明石病院の特別室へ入院。頭痛を訴え診察の結果肩甲骨骨折が判明し、直ちに手術。手術中麻酔が効いていなかったのか痛みがひどく、大声でドイツ語で喚き「日本の医学はこんなに程度が低いのか」と大変であった。その後約10日間入院していたが一向に痛みがとれず、ある日「わしの奥さんは何処に居るか」と扉をたたき、小生が下手なドイツ語で「お前は日本におり、ここには奥さんは居らんよ」といっても「昨日フランクフルトへ飛んでドイツヘ帰ったはずだ」と妙なことを云うので、院長に面接し「彼は世界で有名なライダーであり、亡くなったら裁判で大変なことになる。大丈夫ですか」と攻めよった。その結果髄液を検査したら血が検出され、脳内出血と分かり大変な事態となった。院長へ「大丈夫ですか」と質問したら「70%は大丈夫です」と甚だ無責任な返答であり、小生は烈火のごとく怒り、「70%大丈夫とは何事ですか、直ちに信頼の置ける病院を紹介して下さい」と院長を一係長の身でありながら怒鳴りつけた。(このため、病院から大槻とは礼儀を弁えぬ甚だ無礼な男だと、総務に強い叱責があり総務部長は困られたそうであった)
 そこで神戸大学を紹介され、直ちにその夜救急車が一人の若い人とともに迎えに来てくれた。救急車に乗って、その若い人を見ると、どうも何処かで見たことのある人であり、聞いてみると吃驚したが、旧制第五高等学校の同窓の白方君であり、脳外科の日本で五指に入る有名な光野教授の下で助教授をしていた次第で、極めて幸運に報いられたと思った。
 入院後さすが有名教授のもと科学的な診断手術をされ、あっという間に彼は回復した。そして「Herr Otsukiよ日本の医学もたいしたもんだ」と喜んで無事退院ドイツへ帰国した。大問題にならず本件は無事落着した。
 白方君はその後、淀川キリスト教病院の院長として立派な有名な病院にまで育て上げ、その後はその手腕を買われ、京都バプテスト病院の院長に請われてなり、これまた素晴らしい病院へと再生した。この縁もあり、カワサキガスタービン非常用発電設備を2台も買ってもらった。縁とは不思議なものである。
 デグナーが転倒した際、直ちに「どうして転倒したのだ」と御殿場病院で聞いたら「急に何かわからぬがガクットきて転倒した」とのことであったが、後で調べたらミッションが故障してロックしているのが判明し、愕然とした。裁判でもなったら大変なことになっていたと当時を思い出します。
 御殿場、明石病院と2度も誤診しており、それ以後小生は失礼であるが医者を鵜呑みに信用しないことにしている。
 また、藤井君がマン島で事故死されたが、転倒後病院にに駆けつけ、医者に聞いたところ、彼は元気でピンピンしているとのことで、安心したホテルに帰って食事をとり、病院に出掛けようと思っていたら、「Sorry, He was killed]と言われ愕然とした。後に分かったのであるがヘルメットが割れていて、デグナーの経験から脳内出血と分かり、適切な手術が行われていたら救えたのではないかと痛感する。有名なマン島の医者でも誠に頼りないと、憤りとともに痛感する。
 
 
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Unknown (rfuruya1)
2007-02-05 17:39:59
コメント有難うございました。
返信する
デグナーの勧誘成功について (スズキOB nakano)
2007-02-06 10:41:25
大槻さんこんにちは。40年位前には何回かお顔を拝見したことがあった筈ですが、お顔は忘れました。
大槻さんのコメントによりますと、デグナーの勧誘に成功なさったのは、1965年の日本GPに彼が来日していたときと言うことになると思います。これは記憶間違いではありませんか?彼は1965年の第12戦のイタリアGPの125ccで転倒、足を骨折し、第13戦の日本GPは欠場、来日しなかった筈です。レースには出なかったが、日本には来ていたというのならば、話は別ですが・・・。そんな記憶はありません。如何でしょうか?

furuyaさんへ
大槻さんのコメント、この私のコメントは「カワサキのデグナーの思い出」の方に記載して頂いた方が良いような気がいたしますが・・。
返信する
デグナー (rfuruya1)
2007-02-06 11:35:38
コメント有難うございます。

私は、メールがやっと打てるぐらいの、パソコン知識しかなく、どのようにすれば、デグナーのほうに移せるのか、見当もつきませんのでお許し下さい。

デグナーと会った時期については、よく解りませんが私の日記の記録だけでいうと、

1965年8月10日に大槻さん(ドイツ留学)田崎さん(アメリカ異動)のレース関係者の送別会を明石でやっています。
大槻さんがドイツから戻られたのは、藤井君がマン島で転倒(8月27日)の後、1966年9月13日でデグナーが転倒(9月29日)する直前です。

今度、大槻さんにお会いした時、よく聞いておきます。
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