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雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

SPA直入物語ー2 昔話ー41

2007-03-17 05:56:55 | M/Cレース
SPA直入物語ー2

いろいろあったが、テストコース建設のための土地は購入されたのである。

現在SPA直入はどちらも1.43キロのオンロードコースとアドベンチャ林間コースの二つで運営されているが、
これは所有の土地のほんの一部を使用したもので、土地全体は4キロのテストコースが十分に取れる広大な広さなのである。

土地は購入したものの、80年に入る頃は事業部の経営は非常に苦しく大規模なテストコースなどとても建設できる余裕のない状況に至ったのである。

購入後の約10年間は地元直入町とのいろいろな交渉の連続であった。
土地の購入条件はいろいろあって、各年次にその条件に従って道の整備など細かいところは約束どおり履行できたのだが、
問題はベースのテストコースの建設が止まってしまっているので、根本的な問題の解決には程遠いのである。

特に人の雇用問題は大変であった。

年に何回か、直入町長以下が明石に来られてその交渉が行われていた。
小さな工場を運営していたこともあって、会社側は酒井勉工場長が当時担当されていて、毎回大変であったようである。

その間、モーターサイクルの性能はどんどん高性能化して、最高速などは300キロ近くにもなり、4キロのテストコースでは役に立たない状況になってきて、いよいよテストコースの建設は見込みが立たない状況になるのである。

その後企画を担当したが、酒井さんが担当されていて直接の関わりはなかったのだが、長期的に見てやっかいな問題ではあったのである。

88年に私は営業に異動し、直入問題は柏木茂企画室長に移管された。

その後も、直入町長以下の交渉は続き、直入町のしいたけを購入するなどの苦しい対応をしていたのだが、何か土地のいい利用方法はないかと若手のプロジェクトで検討も続けられていた。

88年3月8日に柏木さんがモトクロス場にしたいのだが運営を考えてくれないかと相談があった。

モトクロス場だけでは維持管理が難しいし、小型のサーキットでも出来ないかと、その日に岡山にある中山サーキットを前田祐作、岩崎茂樹,今城公徳君を連れて観に行ったのである。

これがSPA直入計画のスタートである。

3月11日に「大分コース提案」として纏めて、高橋本部長の了解を得て正式にスタートしたのである。

SPA直入物語ー1 昔話ー40

2007-03-16 06:20:31 | M/Cレース
SPA直入物語ー1

SPA直入も今年1月1日から㈱オートポリスの一部門として一括運営されるようになったとか。

今から30年以上も前から、いろいろと問題もあったプロジェクトだが、本当にいい形で決着がついてよかったと思う。

SPA直入については、色濃くその建設に関係したので想い出も多い。
当初からの話を詳しく知っている訳ではないが、何となくその経緯の大要はわかっているので、「SPA直入物語」として、概略をまとめてシリーズでお伝えしたい。


1970年代に入って、実用車から大型スポーツ車の時代へと移ろうとしていた。
A1やマッハⅢが世に出て、Z1が開発進行していた頃である。

開発部門としては独自のテストコースが欲しくなるのは当然であり、74年頃にはその候補地として岡山なども噂されていた。
その候補地の中の一つが大分県の直入町であったと思う。

このような不動産の取得は、地元との調整などもいろいろあって時間が掛かるものである。
特に、人の採用問題は地元としては第一条件にするので、テストコースだけではなかなか要望を満たすことが出来ず、何か付帯の小さな工場でもというような話になるのである。

この頃は、技術部門の確か堀江さんや渡辺さんが担当されていて、人の採用については難しく、当時カワ販が取り扱っていたFRPボートのFRP工場でもどうかという話があったりしたので知っているのである。

大分の山の中でボートを造るのかと不思議に思ったのを覚えているのだが、余程その対策に困っておられたのだと思う。1974年頃の話だと思う。

私は75年秋にカワ販から企画に異動した。
企画室長は堀川さん、技術部は高橋鉄郎さんの時代になっていた。
テストコースの候補地は直入町に絞られていたが、その購入には堀川さんが反対をされていた。

その理由は、堀川さん独特でいろいろあったのだと思うが、
「当初テストコースの必要条件に挙げていた大型スポーツ車Z1などは既に世の中に出ていて、テストコースなどなくても、開発できたではないか」というのがその一つあった。

塚本本部長の頃で、技術部としても事業部としても購入したいという立場ではあった。

このような土地の取得は、本社の財産課の管轄で川重不動産の加藤社長なども「購入賛成」の立場で、いろいろとややこしいことであった。

76-10-5に高橋宏企画部長に「とにかく一度現地を見ておきましょう」と促して、はじめて直入町を訪れた。
博多から古石君の運転で、今有名な黒川温泉を通って直入町まで、何とも山の中だという感想であった。温泉に入れて頂いてただ現地に行ったというだけの出張ではあった。

そんな経緯はあったのだが、多分76年か77年に土地の購入がなされたと思っている。

海外販社再建方針 昔話ー39

2007-03-15 06:04:22 | カワサキ単車の昔話
海外販社の再建方針と前田祐作君

1982年9月1日、本社が出した標記計画書が手元に残っている。
陽の目をみることはなかったのだが、当時の難しい状況の中でいろいろ考えられた案の有力なものの一つではあった。

もう25年も前の話だが、こんな話があったということを知っている人も、覚えている人も本当に極々僅かだと思う。

内容は、信じられないようなビックリするようなものである。
財務対策として考えられているのだが、

KMC以下の海外販社を順次カワ販の子会社にするというドラスチックな案である。
その数値と実行手順が時系列に纏められているが、82年83年度中に実行しようと計画されたのである。

当時の単車事業部はダンピング訴訟、HY戦争などの影響でアメリカ市場の在庫過多からKMCの経営危機など、事業部全体ひいては川重全体に影響を及ぼす事態になっていた。

たまたま、カワ販を担当していたし、計画の中枢にカワ販があったのでこの計画の存在をよく知っているのである。

この計画は実行されずに終わるのだが、それは計画の実行段階で無理があって難しいとカワ販側が指摘したからである。
財務の難しい手続きなど私には皆目解らなかったが、当時カワ販の総務部長をしていた前田祐作君がこれを見つけたのである。

前田君とは若い頃から、ずっと一緒に仕事をする機会が多かったが、私にとってはずっと援けて貰った仕事仲間である。
私とは性格的には全然違っていて、総務、財務などに詳しくこれらの基本計画を殆ど担当してくれた。

この後、私が事業部へ戻り企画を担当してからも、最大の課題であった海外販社を担当する関連事業部長として援けてくれた。

その前田君がこの計画のカワ販の増資過程に無理があり、計画期間内での実行が難しいのではないかと指摘したことにより、計画は見直されたのである。


若し、この通りの計画で進んでいたら、事業部もいまのKMJも又違った形になっていたであろう。

あまり誰にも知られていない、昔のお話である。

みっきいふれあいマラソン

2007-03-14 06:03:06 | みっきぃふるさとふれあい公園
先週の日曜日、みっきいふれあいマラソンが行われた。

今年から防災公園の方に会場が移されたようである。
家の直ぐ近くだし観覧席もあったようなので、観に行けばよかったと思っている。

有名選手が出場するような本格的なものではないが、子供からお年寄りまで2000人以上の参加があって賑やかに開催されたようである。

参加者のブログも沢山あって後に幾つかご紹介するがネーミング通りの楽しいふれあいマラソンで好評であった。
薮本市長も1.2キロの短い競技に参加されたとか。

開催された防災公園は先日もご紹介したように広大な敷地で今回のマラソンも公道を使用せずに公園内のコースで開催されたようである。

交通の整理などもなく、周囲の景観は日本一美しいまち三木を目指すにふさわしい気持ちのいい走りが楽しめるコースである。

年に一回だけの開催では勿体ないような気がする。

せめて、春秋二回ぐらいの開催にしたらどうだろう。
そんな他にない特徴で、その名の通りの三木に集まる人たちのふれあいの場にしてはと思ったりする。

それにふさわしい、素晴らしい環境である。

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何でもあり

2007-03-13 06:09:10 | 樋渡啓祐さんのこと
各地方の議会が始まる時期らしい。
議員からの事前質問に対して、どこでも熱心に勉強会があるのが普通のようである。

何度もこのブログで採り上げている武雄市の樋渡市長が明日から始まる議会に望む態度をブログに書かれている。

私が何度も樋渡さんのことを採り上げるのは、考え方がそっくりで共感を覚えるからである。
ただ、その考え方やアプローチの態度は、世間一般の常識とは少なからずかけ離れていて、普通ではないことが多いのであるが。

それ故に樋渡さんの発言は、私の生き方に対する応援歌のように聞こえるのである。


然し、世の中では事前勉強会のような種類の会議や打ち合わせを何度も積み上げていく手法が一般的であり、
議会対策として事前勉強をするのが普通で、
「何でもあり」で望むのは普通一般的ではないようである。


私も現役時代、いろんな会合、会社での上級会議、デーラーミーテング、方針発表会、組合との協議会、講演会、などなど、
自分の考えや方針などを発表したり議論したりする機会は多いほうであったが、
一度も事前の打ち合わせや、演説原稿など準備したことがない。

常日頃、自分の考えとして確固としたものを持っていれば、
如何に事前勉強しなくても 「それ以上にも、それ以下にも」 ならないと割り切っている。

幸いなことに、永年上司として仕えた高橋鉄郎さんも同じような考えで、
二人で同じ会場で挨拶する機会も多かったが、お互いに「ぶっつけ本番」で打ち合わせなどしたこともない。

大体、話などは、
その場の状況、雰囲気、聞く人の反応などにあわせて展開すべきだと思っており、その時点の思いを正直に誠実に話すことが一番と思っている。

聞く人の状況も意識せず、事前に用意したもの通りに進めるので、居眠りなどされてしまうのだと思う。

若しそれで問題が起こったりもめたりすることは、もともとの考え方に問題があるのだから、それを直さずに細部の勉強をやってみても仕方がないと思うのだが。


「何でもあり」自由闊達な意見が飛び交う、楽しく夢のある議会であって欲しい。
儀式のような議会は、手続きだけで余り意味がないように思う。

武雄市議会のやりとりは議事録が出るだろうから、楽しみにしたいと思っている。

宇田川勇くんのこと

2007-03-12 06:06:51 | カワサキ単車の昔話
先日服部カワサキの記念パーテイに元岩手カワサキの山本昌三郎君が出席していて、宇田川君や石塚君などの昔話に花が咲いた。

メイハツ工業に入社してからカワサキへ、私が40年前、仙台で会った時まではベテランのサービスだったのだが、私同様その時から営業に転進した。

岩手、青森、秋田の営業を担当した。
厳しかった宮川部長の下で慣れぬ経理や経営数値をお互い懸命に勉強した。

岩手の久保さん、秋田の斉藤雄幸さんなど、本来なら難しい営業のお付き合いを本当に上手くこなしていた。
流石、永年サービスでユーザーのクレームなどに対応してきた実績と、営業新人の私など大いに見習うところが多かった。

会社の職位などというのは、運不運もあって必ずしもその人の実力に見合うものではないと思う。
偉くならなかった訳ではないが、宇田川君などその最たる例だろう。

本当に難しい仕事を期待通りにこなす実力を持っていた数少ない人材だったと思っている。

ジェットスキーの国内展開の難しい時期に西武やヤナセの人たちと上手に付き合ったし、二輪でもあの難しいと言われたヤマハオートセンターの杉浦さんが一目も二目もおいていた。

これは彼の特技みたいな人を納得させる話術と経験、人柄のなせる業だろう。
今でも西武関連のジェットスキー関係者とはお付き合いがあるとか。

江戸っ子でさっぱりしていたが、無茶苦茶きれい好きだった。
私は少々雑然としていても気にならない方だったが、仙台で宇田川君と出会って、会社ではこんな人もいるのだから、事務所などの整理はそんな人の基準に合わすべきだと思うようになった。

晩年、全国の事務所やショウルームを水準以上にきれいにしたのは、彼から受けた影響と思っている。

本当に一度会ってみたいなあと思う人、宇田川君はそんな男である。
先日、山本君などもしきりにそんなことを言っていた。

一緒に苦労をした人たち、それはみんな懐かしいのである。

先日の会合に出た人たち、服部、海老沢、山本、山本夫人、浅沼、竹中君。
昔話に名前が出た人たち、宇田川、石塚,石塚夫人、守谷、宮川、門伝、斉藤雄幸,蓬田、稲垣、小林,連保、柄沢、中村君など。

当日、北見の奥山さんが亡くなったと聞いた。
95歳とか、カワサキの代理店時代から唯一残っておられた方である。
北海道川重建機のころ一度ご挨拶したのだが。 ご冥福を祈りたい。

ハーレーダビッドソンジャパン

2007-03-11 06:10:31 | カワサキ単車の昔話
手元に「アメリカ車はなぜ日本で売れないのか」と題する奥井俊史著の1冊の本がある。

奥井さんは、いま二輪の大型車で快走を続けているハーレージャパンの社長さんである。

トヨタ自動車で輸出や北京事務所長などを歴任された後、ハーレーという二輪の世界に移られている。

ハーレーと言えば、一時期アメリカで不振にあえぎ、日本メーカーに対するダンピング訴訟などで話題になった。
新しい経営陣に変わってから、徐々にハーレーらしさを取り戻しいまは確固たる地位を築いているが、とりわけ日本での躍進は華々しい。

751cc以上の分野で2000年以降、ホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキの日本勢を抑えてNO,1の座を維持し続けていることは賞賛に値すると思う。

本の前半では主として四輪について、
そして最後の方で二輪の日本でのマーケッテングについて述べておられるが、
その中で 「世界一難しい日本の消費者」 という表現がある。
本当にそうだと思うし、とりわけ二輪の消費者は難しいと思うのである。

四輪とはまた違った独特の難しさがある。
逆に言えば、商品もさることながら、マーケッテングそのものの影響が大きい面白い分野だと思っている。

この本の中から数値をお借りすると、(251以上の登録台数)

      1990年1991年 1992年 2000年 2005年
ハーレー  3093  3496  3738  9534 12422台
ホンダ  30455 29422 44965 21753 21109台
カワサキ 34591 39260 39485 16852  9665台
ヤマハ  17891 16238 18420 18292 14352台
スズキ  13768 13349 16697 10308 11198台

奥井さんが四輪から二輪の世界に移られた90,91年当時、
たまたまカワサキは最盛期でトップを走っていた。その頃が本当に懐かしい。
多分、カワサキとの関係も深くハーレーの老舗である、大阪の船場モータースの岡田さんのご紹介だろうと思うが、奥井さんもカワサキに興味を持たれたようである。

その後、ハーレーは一度も前年実績を下げることなく、右肩上がりの躍進を遂げている。
当時、カワサキが採っていた政策の方向を更に進化されたCSの世界が、ハーレーのマーケッテングには展開されていると思うのである。

顧客の満足をCSと言うのだが、「顧客とは誰のことか」。
二輪業界に限らず、「真の顧客の満足のために」、人は働くべきだと思っている。


つい先日、KMJの東京支店長の清水君にお会いした時、彼がこの本を持っていたので改めて思い出したのである。



私の宝物  昔話ー38

2007-03-10 06:53:50 | カワサキ単車の昔話
私の宝物ーゴルフ優勝カップ

家の飾り棚に、真っ黒な純銀製のゴルフの優勝カップが飾られている。

昭和50年から55年までの5年間に13回開催されたゴルフコンペで、当時企画室長、営業総括部長を兼務された堀川運平さんが主宰された「企営会の優勝カップ」である。

この時期、単車事業部が大きく動いた乱世の時期であった。
中、長期の計画や、議論が盛んに行われ組織も大きく動いた。
この間私など、企画、市場開発室、単車事業部管理、カワ販と4回も異動している。
田崎さんも最後の取り切り戦の頃は、アメリカだったと思う。

このコンペで思い出すこともいろいろあるのだが、
1回から13回まで、優勝者13人が名前を連ねている。
別に二度優勝は権利なしというようなルールがあった訳ではない。
自然にそんなことになったのである。

その優勝者の名前を並べてみると、カワサキの関係者なら名前を見るだけで当時のことが思い出せるに違いない。
職位は当時のものの積りだが、まあ間違いないと思う。


第1回   50-12-20 田崎雅元  (企画部、課長) 当時も、まあ上手かったかな。
第2回   51-4-24  田中誠   (カワ販社長) ゴルフ暦、運、ハンデイ?
第3回   51-10-20 橋本賢   (資材、部長)  同上
第4回   51-12-4  宮田敬三  (IKS社長)  同上
第5回   52-3-19  那波義治  (営業課長) 若手実力者を自認の頃。
第6回   52-6-18  土井榮三  (資材、課長) このコンペの最大功労者です。
第7回   52ー9ー17  古谷錬太郎 (市場開発室、課長) やり始めた頃でハンデイ26~28?
第8回   52-12-3  堀川運平  (企画室長) 流石、カップ提供者の実力。
第9回   53-3-18  苧野豊秋  (カワ販専務) 長いお付き合いだが、始めの終わり?
第10回  53-7-15  野田浩志  (管理、課長) アメリカ帰りの実力?
第11回  54-3-17  若山禎一郎 (IKS部長) 川重係長の頃です。
第12回  54-7-14  酒井勉    (企画室長) 自他共に認めた実力者時代。
第13回  55-5-13  前田佑作  (新カワ販、部長) 川重係長の頃。
第14回  取り切り戦   古谷錬太郎 (新カワ販、常務) 川重課長の頃,ハンデイもまだ20幾つ?

最後のほうはカップを出された堀川さんは本社財務に戻られていた。

第1回のコンペには私は出場していない。
田崎さんが優勝しているが、実はこの日は大変な日だったのである。

この頃、単車事業部を統括されていた吉田専務が12月20日の休みを返上して長計の検討をしようという指示があったのに、このコンペがありますからと堀川さんが電話で断られたのである。

吉田さんからは 「若い奴でもいいから、須磨の翠山荘に出て来い」 ということで、私やまだ係長だった森田進一君たちが大専務との検討会に出て終日議論をさせて頂いたのである。
結構楽しかったし、吉田さんも若手との話が新鮮だったのか、ご機嫌であったのを覚えている。

そんなことで第1回のコンペに出られなかったので、
神様が想い出と共に私に下さった宝物のような気がするのである。
事実、純銀製の立派なカップは、幾つかのカップの中で群を抜いた貫禄で飾り棚に鎮座している。

私の宝物 「企営会優勝カップ」 である。


ガレージ

2007-03-09 06:09:28 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚
福井昇君から久しぶりにコメントが届いた。

今回は、ジェットスキープラザ明石ではなくて、新しくガレージがリンクしてあった。

覗いてみたが、いい趣味である。
このような趣味をどのように言うのかよく知らぬが、結構お金も掛かりそうである。

お金がないと出来ないと思いがちだが、好きな人はなけなしの金をはたいても、やりたいことはやるに違いない。

多分、福井君は川重のサラリーマン時代から手がけていたに違いない。
たまに、Hondaに乗って私の家まで遊びに来てくれるが、エンジンルームなど本当に見事である。

仮にお金があっても、普通の人ならこんなにきれいに保つことは不可能である。

クルマに限らず、二輪でもジェットスキーでも乗り物が無性に好きなのである。
彼がジェットスキーのレースをやっていた頃は、まだ西武自動車が輸入をはじめたばかりの頃だった。

ご縁があって、
発動機から単車に来てもらって、ヨーロッパの市場開拓などやっていたが、
たまたま、会社が希望退職を募った時期と、国内の新しいジェットスキー販売網の設置時期が合致して、
ジェットスキープラザ、実質1号店として新規オープンしたのである。

店の経営も上手くいって、こんな優雅な趣味もより自由に出来るようになったのは事実だが、兎に角ユニークでいい男である。

私は、もう一つよく解らぬが、お好きな方もいらっしゃると思うのでご紹介する。

じっくり見てあげて下さい。

あの当時と今

2007-03-08 06:26:23 | カワサキ単車の昔話
今から40年も前1970年頃のことだが、
当時、東北はカワサキにとって最大の市場で岩手カワサキは毎年日本で一番の実績を挙げていた。

ただ私が本当に残念に思ったのは、当時メーカーの方針に協力し台数を売ったデーラーほど逆に経営は苦しかったのである。
メーカーの系列化政策もあって、当時お世話になった久保さん、門伝さん、斉藤さん、中西さんなどデーラー関係の方たちは業界を去って行かれたのである。

東北のあと、大阪で販売店の人たちとのお付き合いが始まった。
販売店は自転車屋さんが殆どで、取引店数は店数を増やせという従来のメーカー方針もあって500とも600とも、はっきり数も解らぬ状況だった。

世はA1,W1など大型スポーツ車のはしりで、これらスポーツ車に見合う新しい販売網が特にカワサキには求められた。

東北のデーラーのように、「消えて無くならない販売網」をと本当にそう思った。

育てる対象は誰なのか、明確に意識して500店の中から20数店を選んで特約店の前身その名も「共栄会」は大阪でスタートしたのである。

従来の店だけでなく、カワサキの従業員のなかから新しく店をやりたい人を援助する「のれんわけ制度」もスタートした。業界に新しい流れが出来たと思う。

現在、二輪車の主力店は新しい志で素人からこの業界に入った人が圧倒的に多いのである。
先日、30周年を迎えた服部カワサキもこの流れで独立開業を決心している。


今、二輪業界は新しい時代を迎えようとしていると思う。

ユーザーは二輪に何を求めているのだろうか。
それに応えることが、二輪というモノを売る前に考えないといけないのではないか。

昔のように社名に「販売」の文字はないのに、昔のように「販売台数」ばかりがアタマにあり過ぎるのではないか。
その販売も世の中の形態はどんどん変化しているのである。

メーカーが作った物を単に売る、そんな簡単な機能だけでは流通を専門に担当する部門として、専門家としての存在価値が問われると思うのだが。

今、日本ではハーレーが4銘柄を抑えてトップだとか、
あんなに高価なクルマが何故そんなに売れるのか。


世の中全て、ハードよりソフトの時代である。
ユーザーの真に求めているもの、それに対応しない限り成功はないと思う。

別に、二輪業界の話ではなく世の中一般の常識と思うのである。


30周年記念パーテイの祝辞

2007-03-07 06:23:36 | カワサキ単車の昔話
昨日、仙台の服部カワサキの服部社長に招待されて、仙台国際ホテルで盛大に開かれた30周年記念のパーテイに出席した。

服部君とも、奥様とも本当に10数年ぶりの再開である。

3、40年も前に一緒に仕事をした仲間たち、海老沢君、岩手の山本君,遠野の浅沼さん、仙台の竹中君などとも出会えて話は尽きなかった。

30年前に小さな1店舗でスタートしたのだが、今、こんなに立派になって
30周年を迎えるこの機会に、息子さんに社長を譲って 「新しい時代に対応」 しようとしている。

服部君にとって感慨ひとしおであったのだと思う。
冒頭のご挨拶にその思いは満ち溢れていた。

直接、お会いできてお祝いも言えたし昔話もできた。 お互い心底、感動した

また、KMJの清水支店長以下カワサキの現役の後輩たち古田君、市原君、山北君、藤吉君、桜井君、山岸君、藤沢さんの息子さんの藤沢君などとも、直接会っていろんな話や意見交換も出来た。

対面しての直接会話は、人のぬくもりを伝え、信頼感を醸成する。
これは電話やメールでは味わえない、何ものにも変え難い素晴らしいものである。



主賓の清水支店長の挨拶の後に、来賓としてのご挨拶を求められた。

最近感じていることを率直に、次のようなご挨拶をした。

40年前の東北での思い出、その後カワサキが企図した特約店制度、のれんわけ制度などの根底にあったカワサキの想いをお話し、それに共感して独立開業しカワサキ一筋に共に歩いてくれた服部カワサキへの感謝など一通りを述べた後、

ところで、今、カワサキは、
販売店に 「対面販売を推奨する」レベルを越えて、 「義務付ける」 ような方針のようである。

直接、対面して対応するよさは、前述の通り素晴らしいものを持っている。
その意味で「対面販売」は推奨するに足るものであるとは思うが、それでなければならぬ「MUST条件」 として強要するのは如何なものか。

何故、このようなシステムを販社が選定したのか、私も素人ではないのでその背景など十分推定できるし理解もできる。

然しユーザーの価値観が多様化し、今後さまざまな変化が予想される流通の分野で、
世の中の流れ、特にネット社会の凄まじい進行発展と逆行するような施策には無理があると思う。

むしろ修理サービスの分野では、客への技術の伝達指導を含めて、 「対面サービス」 は意味を持つかもしれない。と想いを述べた。


KMJの清水君以下には少々悪かったが、このような率直な意見を述べることが、

「新しくスタートする服部カワサキの後押しにもなり、KMJの今後の流通対策の真の支援にもなる」
と信じたからである。
「対面販売の良さが生きる方向に」 少しだけでいい、修正を柔軟にお願いしたいものである。


いついかなる時も、
販社の方針は、時代を見抜き、
販売店を世の中の正しい流れの方向にリードする先見性が求められるのである。

「流通業とは自分の仮説を問うビジネスである。消費者の変化の本質をつかみ、変化を如何に自己の対策に置き換えるかが問われている。」   

服部吉伸先生の1990年代の言葉を贈ります。

三木総合防災公園に思うこと

2007-03-06 06:06:07 | みっきぃふるさとふれあい公園
防災公園の中にある世界一のEデフエンスは、
大地震の住宅耐久実験などTVなどでも最近よく紹介されている。
昨年は天皇、皇后両陛下も施設の見学もされた。

三木市の防災総合公園にあるこの施設も確かに世界一で立派だとは思うが、
広大な面積(202ha)の中にある各種スポーツ施設もまた、本当に立派である。
防災総合公園という名前の中に何故「スポーツ」という言葉を挟まなかったのかと思うぐらいである。

陸上競技場、野球場、サッカー場など、特に5面もあるサッカー場は4面が天然芝、1面は人工芝と素晴らしい。
それも周囲の環境は見晴台など美しく整備された公園に囲まれていて、ゆったりとした環境にある。

昨年は兵庫国体の少年サッカーなどに使用されたりしたが,
昨日のニュースなどでは2007年度U-14全国ユースサッカー大会が開催されたり、
今年からJFL昇格を決めた秋田のTDKサッカーチームが11日から最終調整のキャンプ地とするなど、だんだんと全国区となってきた。

以前は、立派な施設があっても一般に使用は難しいのが普通であったが、日曜日などには近隣の少年サッカーチームなどが、家族ともども休日を楽しんでいる風景が見られる。
日本でも「サッカーは芝生の上でするスポーツ」という昔なら夢のようなことが現実になりつつある。

こんな施設は使用料は幾らするのか、
気になって調べてみると1時間につき平日2400円、日曜、祝日3000円というのである。
これは安いなと思っていると、小、中学生は半額とある。

それに周囲に余るほどある駐車場も全て無料である。

何をするにも高い入場料、駐車料が大きな負担になる都会では、このような条件はとても考えられないことである。

土地が広い、余裕があるということは、豊かさに繋がると思う。
せかせかとした、便利ではあるが余裕のない生き方から、のびのびとした健康的な生き方が身近に楽しめる郊外もまたいいものだと思う。

利便性、効率、通勤時間などばかりを重く見る日本人の価値観も、ぼちぼち見直す時期ではなかろうか。


英語版の雑感日記

2007-03-05 05:49:52 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram
昨日の朝、アクセス解析を見ていて不思議に思った。
今朝も同じようなことが起こった。

「アクセス元URL」という、どんなところからのアクセスがあったのかを示してくれる項目があるのだが、
そこにドイツ語と思われるページが幾つも現れるのである。
そしてそのページの雑感日記の文章は英文で表示されているのである。

文章の英訳が即座に出来るのは知っていた。
少し英文はおかしいところはあるが、自分で英訳するよりは数段上のレベルである。

故、岩崎茂樹君のことに触れて、いろんな方からコメントなど頂いたが、toyamaさんからは、ドイツ人のMicky Hessseのこと、「あるZ1の物語」などドイツやスイスに関連のある話を教えて頂いたが、
昨日からのドイツ語のURLはその関連ではないかと思っている。

それにしても、すごいことである。
インターネットの世界は、日本国内だけでなく世界に繋がっていることは誰でも知っているのだが、現実に自分の日常の事柄が関係があるというのは、不思議な気さえするのである。

正月に「我が家の犬の写真」にアーヴァインの孫たちがコメントをくれた時はそうも思わなかったが、今回はホントに不思議な気持ちになっている。

昨日まで、小池君の「豪華川崎GTO青春物語」に関連していろいろ書いてきたが、視点は日本国内だけを意識していた。
若し本当に世界を意識して、この場合はタイの人たちを意識するなら、登場する人物もずっと国際的になるのである。

チャンチャイさん、チャンさん,ピテイさん、ポンスリーさん、ケマさんなど、タイプロジェクトを支えてくれた人たちが,ひょっとして読んでくれたらと思ったりする。

そんなことは、まずないと思うのだが可能性としては、間違いなくある。

現代はそんな不思議な可能性のあるネット社会で、そんな世に生きているのである。

タイプロジェクトー3 昔話ー37

2007-03-04 06:30:25 | カワサキ単車の昔話
タイプロジェクト-3

豪華川崎GTO青春物語と題する小池君の自分史だが、その中心は1979年9月に発表され10月に全国一斉に発売された、

「Kawasaki GTO Luxurious Sports」 (2ストローク、110cc、15ps/8500rpm、5速)である。

豪華川崎とは、社名Glory Kawasaki~の中国語表示であることは、はじめて知った。
GTOはその名に恥じぬ、名車としてタイの市場を席捲し、今までカワサキを見ることの無かったバンコックでも大人気となるのである。
それまで年間6400台であったものが、79年には11,200台、80年以降は20,000台ベースとなった。

台数だけでなく、委託販売が買い取り方式に変わり、前金が入るなど信じられないことが起こり、資金ショート気味であった経営が営業外でプラスになるなど、合弁事業そのものを確固としたものにした。

こんな点がGTOがもたらした最大の効果であったろう。
更に、インドネシアでも好評を博しCKD事業そのものを支えたのである。
CKDで完成車として先進国では販売されなかったために一般に知られていないが、カワサキの中でも屈指のヒット商品であった。

販売とは「モノを金に変える」ということと、当時ずっと言い続けてきた見本みたいな快挙であった。

小池君が自分史を「豪華川崎GTO物語」と名づける気持ちはよく解る。


こんなCKDビジネスの初期、いろんなことで苦労を共にした仲間たちも、いろんなこともあって今はカワサキと繋がっていない人も多いが、想い出だけは昔のままの形で残っている。

小池君の自分史を読んでいても、それがはっきりと読み取れる。

私自身も、バンコックなど延べ2ヶ月以上の滞在になるのだが、有名な寺も朝市もあの運河さえも知らない。
ホントに何をしていたのか、仕事に熱中していたのは事実だが、観光に行くそんな余裕が、あの頃は無かったのかも知れない。

何年か後オーストラリアからの帰りに、一度だけバンコックを訪れて、馬さんたちと旧交を温めた時はじめて大きな川の横に立つホテルに泊まって、「川があったのだ」と不思議な想いをしたのをよく覚えている。

タイプロジェくクトー2 昔話ー36

2007-03-03 06:08:42 | カワサキ単車の昔話
タイプロジェクト-2

新GKMがスタートした後も、順調に推移したわけではなっかった。

その頃現地の小池君が本部の私宛にレポートを送り援助を要請してきている。
その内容は
1.競争力のある新車種の開発
2.現行車種のマイナーチェンジ
3.販売促進費の支援
4.クレーム対策と部品体制   などで、
それに対し
「合弁とは親会社に甘えるだけ甘えることではない。車種開発関係を除いては現地で解決されたい。以上」という返事だった。たった1枚の短いもので、三行半とも思えるショッキングなものだった。
とか、全然覚えていないが、書いた気持ちは今でも解る気がする。

当時タイの市場でカワサキは田舎にはそこそこだったが、最大市場のバンコックでは皆目駄目だった。
都会向きの機種がなかったのである。

バンコックを開拓するためにも、合弁会社の経営を安定させるためにも新規車種の開発はMUST条件だと信じていた。
長い単車での経験だが、ニューモデルの開発に特に自分で具体的に言及したのはこの時だけである。

大型スポーツ車のコンセプトなど、バイクに実際に乗っていないのでとても言えなかったが、
この機種については機種の細部よりも市場開拓との関連、新しいカワサキのイメージの創造などからの観点でのコンセプトを主張した。

小池君の記述の中に「弱者の戦略」という項目がある。
そのベースにあるランチェスター戦略理論とか戦略、戦術論、差別化などタイ市場の展開のために、日々議論を交わしたあの頃が懐かしい。

ホンダ、スズキ、ヤマハという競合各社との競争の中で、
カワサキが当時取り得た基本的な戦略は「弱者の戦略」であり、「差別化」が基本であった。

カワサキが余り得意ではない小型車の分野であるCKDに敢えて挑戦したのは、

1.市場の拡大が予想されたことが一番だが、
2.開発途上国でのいろいろな制限、機種数の制限、ワーキングパーミットの人数、生産部品点数などの制限など先発各社との差が無茶苦茶に開かない、後発の弱者にとってある意味、何とかなる条件があったことだと思っている。

然し、制限される投入機種は優位性のあるものでなければならない。

こんなコンセプトで開発されたGTOがタイでベールを脱いだのは、1979年9月である。
その頃、私は既に異動していて、国内の販社再建に奔走していた。

小池君のいう「豪華川崎GTO」の恩恵を直には受けなかったが、思い出多い車ではあった。
どのくらい豪華であったかは、小池君の物語に詳しく出ているので次回にでも抜粋してご紹介しよう。