雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

孫・古谷仁との1日

2020-02-16 08:00:10 | 私の生き方、考え方&意見

★今朝、7時5分の伊丹発の便に乗るというので、5時半に家を出て伊丹まで送ってきた。
まだ7時だが今戻ってきたところである。

昨日午後2時の便で、突然やってきて、一晩泊っただけで、
今日はどうしても予定がある』と帰っていったのだが、
そんなに忙しいのに、『なぜ、三木までわざわざやってきたのか?』

来る前に、Facebook メッセンジャーにはこのように言ってきたのだが、

『・・・急なんだけど、土曜日→日曜あそびいっていいですか?
 普通に考え事したく、単純に居場所を変えたくて。・・・・』


ちゃんと、考え事出来たのか?』と聞いたら、
全然、ダメだった』などと言っていたが、

ホントにちょっとの時間の雑談だったが
結構、ちゃんといろいろと話せた』ので、
間違いなく『満足して戻った』はずである。

この辺の『雑談の妙』は、私が最も得意とする分野で、
若い人とは『説教じみた話』よりは雑談が一番いいのだと思っている。


孫・古谷仁は、いま、ちょっと微妙な時期だと思う。

慶応大学を1年留年して、世界中の40か所の街角を廻って、
ストリート・ダンス』を地元の人たちと一緒にやった事柄などを卒論に纏めたりして、優秀賞を頂いたりはしたのだが、

   


卒業してから3年間好きなように過ごして、
高木新平のインターン』や『小倉ヒラクの書生』などと言っているのだが、
それが『どんなことなのか?』よく解らなかったので、
ご本人からいろいろ聞いてみたのである。
 


 まさに、現代的な『新しい感覚』だが、何となく理解できた。
 『発想が新しいところがいい』と思った。
 そんな人たちにどこで繋がったのかと聞いたら、
 ネットで、というか『ツイッター』で繋がったようで、まさにSNSなのである。


 『20世紀的システムから人々を開放し、多様性が爆発する世界をつくる

   
       

 
   などと言ってて、
 『それは具体的にどんなことか?』と聞いてみたら、
 この下着は、男女関係なく、着れる下着で、
 
 『男女二元論のあり方を問い直す』などと言っている。

  


 確かに、『ソフトの分野』だし
 広告宣伝的な要素とビジョン論なので、
 オモシロそうではある。
 私も現役時代は、『まさにそんなことをやってき』ので、
 結構ちゃんと理解できるのである。

 孫は、何となくそれを感じていて、わざわざ三木までやってきたのかな?
 と思ったりする。
  
  

 
そんな孫・古谷仁も、
この4月からは 『リクルート・コミユニケーション』に正式に就職するようである。

  


 今まで3年間、自由にやってきたこととは、
 結構、関連はあるような業種で、
 且つ同じような仕事の内容だろうから、
 今後、どうするのか? 
 
 私との雑談の中で『何となく、プラスになったこともあったかな
 と思っている。
 
 


 これはずっと以前、家内が習字を習っていた時に書いた書なのだが、
 その前で写真を撮った。

   
  
 
結構、ムツカシイことを言う、慶応大学湘南キャンパス出身の孫なのだが、
この有名な漢詩は、全くご存じなかったのである。

だから現代人、なのかも知れない。
何となく意味を説明しておいたのだが、

少年老い易く学成り難し
一寸の光陰軽んずべからず
未だ覚めず池塘春草(ちとうしゅんそう)の夢
階前の梧葉(ごよう)已(すで)に秋声
  
 と読むのである。
 

機嫌よく、戻っていったが、今度来るときは『サラリーマン』になっているのだろうか?

出来れば『今の延長』の生き方を貫く方がいいような気もする。
そう言う意味では『いい会社』に就職できてよかったなと思っている。




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 二輪車新聞社 衛藤誠さんのこと

2020-02-16 04:50:51 | カワサキワールド

★ 衛藤 誠さん、 二輪車新聞の記者さんである。
 1959年(昭和34年)二輪車新聞創刊と同時に入社され、61年間勤務されていたのだが、
この2月末を以って退社されるというご挨拶を二輪車新聞の代表取締役木村様から頂いた。

カワサキが二輪事業をスタートさせたのが1960年(昭和35年)だし、
私が単車営業部に配属されたのが1961年なのだが、
その時には衛藤さんはカワサキの担当として既に出入りされていたのである。

2007年に『衛藤誠さんのこと』というこんなブログをアップしているが、
 

衛藤さんとは以来60年間のお付き合いで、
今回の退社に関しても、つい先日ご本人からお電話を頂いていたのである。


★ そういう意味では、私の『カワサキ単車』のお付き合いでは、
販売店の方々なども含めて、現在に至るまでいろんなお付き合いがあるのだが、
何と言っても『最長』は衛藤誠さんなのである。

単なる記者さんとのおつき合いだけではなく、
カワサキの単車事業そのものに対しても、いろんな意味でご尽力を頂いたと言っていい。
特に私はお互いに『スタート』からのお付き合いだったこともあって、いろんな意味で、具体的に援けて頂いたのである。


これはごく最近『二輪車新聞のネット版』に、
衛藤さんが『カワサキの販売網創り』を紹介されているのだが、
カワサキの最初の特約店制度実施は大阪からだったのだが、その趣旨説明を二輪車新聞のトップ記事で大々的に報じて頂いたことが、その成功に繋がったと言っても過言ではない。

       
 


その時のことを書いておられるのである。

  



★私だけでなく、カワサキの単車事業60年の間、衛藤さんはずっと大阪支社でカワサキを担当されたのだが、関西では二輪メーカはカワサキ1社であったこともあって、
歴代のカワサキの方たちと繋がっていて、まさに『カワサキの生き字引』と言ってもいい方だった。

 こんな記事も書かれていて、ちょっとその記事を抜粋してご紹介すると、
 

 
現在の「カワサキ」が、本格的な一貫生産を開始したのは、1960年(昭和35年)からだと思う。
当時は川崎航空機工業の発動機事業部。これより2年前の58年に「単車生産準備室が、設置された。弊紙創刊の1年前である。・・・・
そこでまず「単車生産準備室」を設置し、組み付け部品や資材の調達対策、人材の確保、二輪車生産ラインの建設など準備を進め、約2年後の1960年、遂に単車一貫生産のスタートをみたのである。
これを支えた人材は、生産技術関係は主にジェットエンジン事業部から、その他発動機事業の営業部や勤労部からなど、言うならば“寄せ集め”人事であった。・・・・

一貫生産を開始したが、なかなか軌道に乗らなかった。・・・・・・・
ところが、63年に奇跡が起こった。それは、兵庫県下・青野ヶ原でMFJ第1回モトクロス大会が開かれ、欠陥車B7の次に開発した“B8”がなんと1〜6位を独占したのだ。
この快挙に発動機事業部の志気が一気に高揚し、これを見て経営診断をしていた日本能率協会は、「単車事業部を続けるべし」の答えを出し、単車事業の再建が図られることになったという。・・・・・・
後に、川崎重工業副社長となった高橋鐵郎氏は「あのとき、青野ヶ原のモトクロス大会に出場していなければ、現在のカワサキはなかった。さらに言うなら、ホンダさんが鈴鹿サーキットを建設していなければ、現在のカワサキはなかった。つまり、現在のカワサキは鈴鹿サーキットのおかげとも言える」とおっしゃっていた。・・・・
そうして65年には、単車事業本部に格上げとなり、本部長には本社の常務取締役の役職にある岩城良三氏が就任した。この岩城本部長により米国現地生産の“リンカーン工場”建設が進められた。

   

さて、これまでのカワサキの生い立ちをあれこれと綴ってきたが、ここで書きたかった本題は、カワサキが本格的に一貫生産をスタートさせてから約10年間の激動の時代を支えた“カワサキマン”たちの話である。

この時代を生きた人たちは、現在もなお強い絆で結ばれ、ほぼ毎月、神戸・灘の酒蔵(料亭)「酒心館」に集まっている。
この会は既に10数年以上続いているが、主宰者は桑畑禎文氏で、・・・・事務局の世話係を務めているのが野田活志氏で、・・・・・特別な議題があるわけでなく、“来たい人がふらっと来て”美味しい酒を飲み、昔話に花を咲かせるといった会である。
メンバーには2年前逝去された高橋鐵郎氏もいたが、今なお元気な田崎雅元氏(元川重社長)・大前太氏・川崎芳夫氏・古谷錬太郎氏・野田浩志氏・井川清次氏・北村敏氏他。・・・・・
変わったところでは、元伊藤忠商事社員で、カワサキフランス(KMF)社長などを歴任し、ルマン24時間耐久レースへのエントリーにも貢献した遠藤治一氏も。・・・・
なお、16年にメンバーの高橋鐵郎氏死去にあたっては、「酒心館」でメンバーによる「偲ぶ会」も開かれた。

   

などと書かれていて、60年間のカワサキのことよくご存じなのである。


★ 今でこそ順調に育っているのだが、
大分県直入町に日本で初めての『一般ユーザーが走れるサーキットSPA 直入
の開拓は1987年当時私と岩崎茂樹との二人でスタートしたのだが、
その現地調査を含め、いろんな意味で手伝って頂いたのが衛藤誠さんなのである。

衛藤さんは大分県のご出身で、その故郷の地にカワサキのサーキットが出来ることに賛同して頂いて、その情報発信で大いに援けて頂いたし、勿論『オープンセレモニー』にもわざわざ足を運んで頂いたのである。

大阪の『特約店制』のスタートの時もそうだったが、
世の中で初めてのこと』の場合は、第3者が客観的な立場で記事を書いて頂くことが、非常に機能するのは間違いないのである。

そんな長い衛藤誠さんとカワサキのお付き合いだったのだが、そんな衛藤さんともこの2月でお別れなのである。

 衛藤さん、60年間、本当に有難うございました。

 
 

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