長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

業火絢爛たる演劇的悪夢に、令和の父子鷹をみた!! ~城山羊の会『萎れた花の弁明』~

2023年12月17日 21時08分01秒 | すきなひとたち
 え~、みなさま、どうもこんばんは! そうだいでございます。
 いやはや、2023年も、なんだかんだ言ってもう師走ですよ。みなさまは、無事に年を越せそうですか? 私はもう、やり残したことが満載すぎて未練たらたらでございます。早い! 時間が経つのが早すぎますよ、40代は!

 ただそうは言いましても、今年は春に「コロナウイルスは終息してないんだけど、もういい加減、終息したことにしちゃおう。」的な流れにもなりましたし、いろいろと解放された年にもなったかと思います。少なくとも私は、なんとなくですが羽根を伸ばせたいい年だったような気はしますね。
 その一環として、夏にはコロナ禍前からの懸案だった「山梨県までドライブ旅」も楽しく果たせましたし、実はこの土日にも、数年ぶりに東京に行ってきたんですよ、一泊で。

 いや~、楽しかったんですが……私、人ごみを歩くのヘタになったなぁ~! あと、地下鉄でも混乱しまくり。
 やっぱ、何年もやらなくなると退化するもんなんですねぇ、そういう生活行動って。よもや、いやしくも関東地方でかつて15年くらいは暮らしていたこの私が、「都営地下鉄」と「東京メトロ」の違いさえわからなくなるとは……こりだがら田舎もんはダミだなやぁ~!
 振り返ると、2019年いらい4年ぶりの東京なんですよね。変わったような、変わってないような。でも、街中をゆく外国からの旅行客らしい人の割合は格段に増えたような気がする。あ、あと、どの業種でも働いてる人の外国人率、めっちゃくちゃ上がりましたよね!? そして、働いてる外国の方たちの日本語が上手、ノーストレス&親切丁寧! その反面、働いてる日本人のあんちゃんおねえちゃんのやる気のなさときたら……いや、たまたま私が行ったお店がそうだったってだけなんですが。もう、あの駅前の牛丼屋さんには一生行かない……
 それにしても、この土日の東京はばかに暖かかったですね! 太宰治ゆかりの三鷹に行くってんで、意気揚々とマントを羽織って行ったのですが(ほんとは二重廻しなのですが扱いやすいのでマントにしました)、歩いてものの数分で汗だくに! 秋どころか、春みたいな陽気でしたよね。

 そんでま、久しぶりに上京したお目当ては、こちらでございました。


城山羊の会プロデュース第25回公演 『萎れた花の弁明』(2023年12月8~17日 三鷹市芸術文化センター星のホール)


 楽しみにしておりましたよ~! 現代日本の恥部を活写するグランギニョル、城山羊の会さま定期公演!!

 ……と言いましても、まことに情けないことに私はここ5年以上も城山羊の会さんのお芝居の観劇はご無沙汰になっておりまして、最後に観たのはなんと2016年の『自己紹介読本』(初演版)というていたらくなのです。しかも、その感想を記事で立ち上げていながら、本文を一向に書き上げなかったという不実っぷり……すべては年末から年度末にかけて殺人的に忙しくなる私の仕事のせいなんでい! と、むなしく叫ばせていただきたく候。
 こんなひどい状況なので、城山羊の会さんの大ファンなんです、信じてください!と叫んだとて、『ウルトラマンA 』の北斗星司隊員のごとくに「ぶったるんどる!!」と山中隊員に殴られてもおかしくないわたくしなのですが、それでも恥を忍んで今回、そうとう久しぶりに拝見させていただきました。
 いや~、なつかしいです。まず肝心のお芝居が始まるまでの道中のもろもろが全部、なつかしい。
 JR三鷹駅の南口から階段を降りて三鷹通りを南下します。夕方6時を過ぎた冬の三鷹の街はすでに半分寝ているような状態で、たまに通り過ぎる満員のバスか通り沿いのガストぐらいしか活気のあるものはありません。太宰治の眠る墓地とやたら立派な八幡大神社を過ぎて突き当たった連雀通りを右に曲がると、お目当ての三鷹市芸術文化センターはすぐに見えてきます。
 こちらにうかがって城山羊の会さんの公演を観るのはもう何回目になるのかわからないのですが、この時間帯にこのルートを通って三鷹市芸術文化センターに向かう人って、もう目的はほぼ100%城山羊の会さんの観劇ですよね。お互いに直接会話こそしないものの、「あんたも好きね……」みたいな余計なお世話なアイコンタクトを取りつつ会場へと向かうわけなのですが、まずお芝居が面白いかどうか以前の段階で、この、他人にはおおっぴらに言えない秘密の黒ミサにおもむくような背徳感と高揚感がたまらないんですよね! 今夜はどんな惨劇を目の当たりにすることになるのかという、このワクワク……いけないですね。

 そんなことを妄想しつつ会場に入り、客席につくわけなのですが、これまた例年通りに足組が丸見えの客席裏から階段を上り、客席の最上段から目の前の舞台セットを見下ろした時点で、私は度肝を抜かれてしまいました。
 今回の舞台は、三鷹市芸術文化センターの外観なのです。つまり、「三鷹市芸術文化センター」というレリーフがついた建物の外壁と、車道沿いのバス停があるという風景。

 なんということを……これから始まる物語が「芸術文化」の「センター」で繰り広げられていいわけがないのに、そこをあえて強調するかね、しかし!? 芸術文化って何なんだろうと、観る者に重大な問題提起を喚起するヘビーなファーストパンチですね。いや、だからお芝居1秒も始まってないってば!!

 それでまぁ、いつものように客席もギューギューに詰まってお話が始まったわけなのですが、例によって三鷹芸術文化センターの支配人であらせられる森元隆樹さんの前説からシームレスに物語が始まるという流れになります。数年ぶりに公演を観る人間にとっては、この導入までもが全く変わっていないのがありがたい……もうお能の囃子方というかギリシア悲劇のコロスというか、『世にも奇妙な物語』のタモリさんのような必要不可欠な存在ですよね。えっ、森元さん、来年で還暦!? それは、来年の城山羊の会さんの公演も見逃せませんね……

 舞台設定が三鷹芸術文化センターの真ん前で、その支配人の森元さんご本人が登場するのですから、限りなく現実世界に近い状況設定から物語が始まるわけなのですが、今回の公演はこの芸術文化センター前の路上というセットが、時々パカーと開いて別の空間に変容することによって、私が拝見したどの過去公演作品よりも、人間の「本音」と「建て前」というものをはっきりと区別する効果を上げていたと思います。つまり、芸術文化センター前で繰り広げられる何気ない会話や、互いに体裁を意識しまくった茶番の数々はすべて「建て前」であり、その奥に全く違う空間が広がった時に見える光景こそが、「本音」の世界なのです。この「本音」の世界に入り込むのは性欲王国の無邪気な冒険者である木原(演・岩谷健司)と生活上の必要に迫られてデリヘルで働くことになったシングルマザーのカオリ(演・石黒麻衣)のペアと、太宰治を信奉しているらしい老カサノヴァ男のシゲオ(演・岡部たかし)とその婚約者のスミコ(演・村上穂乃佳)のペアの計4名となります。あと、クライマックスでもう一人の俳優さんがそのゾーンに出てくるのですが、そのときのあの人が果たして「人格」を持っている存在なのかは……神のみぞ知るということで。

 男女ペアが「本音」の世界に出てきて本性を表すという、この非常に分かりやすい構図から見てもわかる通り、本作は「性交って、なんなんだろう?」という千差万別な問題を、様々な世代、性別の人間から照らし出すお話となっております。それなりに適当な落としどころを見つけてのらりくらりとやっていく世渡り上手な人もいれば、自分の性欲、つまりは「生きる欲望」に忠実であろうとするあまりに周囲の人間関係をズタボロにしてしまう破滅型の人もあり……ここらへんは言うまでもなく城山羊の会さんお得意の、人間模様タペストリーの独擅場ですよね。
 特に今回でいうと、やはり周囲を引っ掻き回す特A 級戦犯といえるシゲオを演じる岡部さんの憎ったらしさと、残念ながらもそれを上回ってしまう愛らしさが光っていたわけなのですが、芸術文化センター前で息子のオサム(演・岡部ひろき)ににらまれた時の「なに? それのどこがいけないわけ?」とひらきなおる素振りを観てしまうと、「あぁ、私は今、城山羊の会さんを観ているんだな。」とか、「もうそんな季節か。年賀状書かなきゃいけないな。」とか、しみじみ感じ入ってしまうのでありました。師走の風物詩、岡部たかしさんの居直り演技。

 ただ、そういった2層構造によってコロコロ変わる人間のおかしみを楽しむばかりならば簡単なコメディ群像劇で済んでしまうわけなのですが、そういう面白さもちゃんとありつつ、それで済むわけがないのが城山羊の会さんなのでして。

 今回のお話には、その「本音」と「建て前」の世界をわりと自由に行き来できるというか、周囲の視線を気にすることも無く平然と越境できる超人キャラクターが2名も登場します。すなはち、性欲王国のオデュッセウス・木原と、本音と建て前のはざまで煩悶するカオリの身辺にちらっちらと出没する謎の人物イエス(演・朝比奈竜生)です。この2人がね……彼らが登場することこそが、この城山羊の会さんの作品が凡百の「人間模様あるあるネタ芝居」も、現代日本文学をも超越して、人類史みたいな高みにまで軽~く飛んで行ってしまうロケットエンジンになっていると思うのです。

 まず木原は、いちおう「ハラキ」なんていう仮名こそ使ってはいますが、芸術文化センター前の路上でも初対面の人に対して、っていうかそこのセンターの支配人(限りなく公務員に近いお方)を相手にして、出会って十数秒で「性欲どうですか?」と質問し、コロナ禍こそ自粛していたようですが、デリヘルの社長と懇意になるくらいの常連客となってホテルにいそいそと通う(一日二回も辞さない)という豪の者です。豪というか、業というか……
 そういう人物を並みの50代の俳優さんが演じてしまうと、脂ぎった嫌な俗人になってしまうか、現実味のないギャグ要員になってしまうかと思うのですが、そこをあの岩谷さんが演じることによって、岡部さん以上に愛らしい人間に見えてしまうのが不思議ですね。いや、ホテルでカオリにあんなアプローチをかけてしまう所業は、女性から見ると許せないものがあるのかも知れないのですが、そこにもどことなく「コロナ禍あけでウキウキしてるんだろうなぁ」という人間味を感じてしまうのは私だけでしょうか。なんかそこに、遠足前の小学生のような邪気のなさを感じてしまうんですよね。自らの行いに恥じるところが寸毫も無いんです。
 つまり、何を差し置いても「自分の性欲が第一!」というごんぶとな筋を一本通しているこの木原という人物には、人間世界の本音だの建て前だのという既成の価値基準などいっさい通用せず、だからこそ木原は、周囲の人間の本音も建て前もすべてを観たり聞いたりすることのできる牧師に限りなく近い「異形のひと」になる資格があるわけなのです。そうそう、昔の日本での宗教者なんて、バチカンとか国教会みたいな公式ライセンス機関なんかあってないようなもので、「そういう感じで生きてるんだったら坊さんでいいんじゃない?」みたいな資格基準だったそうですしね。そういう意味でも、木原は決して「ニセ牧師」などではないのです。

 そして、木原とはまったく別の次元での越境者となっているのが、カオリから「イエス様」と呼ばれる謎のやぼったい日本人青年なのですが、これもまた、私から観ると冗談でなくナザレのイエス本人なんじゃないかという説得力に満ちた超人だと思います。決してカオリやその他の人物たちが観ている幻覚ではないですよね。
 だって、イエスの身になってみてくださいよ……自分がいっぺん死んでから、もう2000年も経とうかというのに、いまだに世界中の無数の人達から勝手に呼び出されて泣かれたりどうでもいい人生相談を受けたりするんですよ!? そりゃあやる気も無くなるし声量も極小になるし、多少は体型もだらしなくなりますよね。お話の途中でこのイエスが、木原を指して「地獄に行くのはこいつでしょ。」と言ったかと思うと、後で「ま、それはどっちでもいいよ。」とつぶやくというやり取りがあるのですが、そういう投げやりな言い方になる気持ちもよくわかろうというものです。だって、たいていの人が落ちる地獄よりもずっとずっと果てしなく続く苦行の中に自分が今いるんですから。あの疲労感……リアリズム!
 今回の作品は、照明が暗くなっていったん暗転するといった時間的な区切りが無く、三鷹芸術文化センターの壁があるかないかという違いで空間のみが変わる演出になっています。壁が開いて「本音」の世界が顕現する、もしくは元の「建て前」の世界に戻るきっかけは、最初の木原とカオリのシーンの始まりが「木原の予約電話」で、戻るきっかけが「カオリのイエス様への懺悔」、2回目のシゲオとスミコのシーンの始まりは文字通り「イエスの起こした奇跡」ということになって、物語は本音の世界の光景を建て前の世界の人々が見守るという形で終わります。

 要するに、最初に建て前の世界から本音の世界に入るのは「木原の欲望」がきっかけで、またそこから建て前の世界に戻るのはイエス様に懺悔をしたい一心の「カオリの理性」ということで、1回目の往還は木原とカオリの、本能と理性の非常に分かりやすい対決になっています。「いろいろしてほしいなぁ。」という木原のイノセントなだけになおさら始末の悪い本能に戦慄するカオリなのですが、自分の本能はさておいて木原の部屋におもむきはしても、「当店は健全店ですので……」という建て前とイエス様にすがって本音の世界から逃走するわけなのです。わかりやすいですね。

 ところが、ここでのイエスの対応から、様相はけっこう複雑になっていきます。イエスいわく、「カオリは本当に木原の性欲を嫌っているのか?」と問われるカオリ。さらにカオリの周辺には、同じくシゲオというカサノヴァに因縁の深い女性として、シゲオの今カノのスミコと元妻のアヤノ(演・原田麻由)が登場するのですが、どちらもスタイルに差はあれど性欲に関しては非常に開明的な人間として生きているのです。
 つまりこの作品は、聖書の教えをもとに世の中にある建て前をバカ正直に守ろうとするカオリの孤軍奮闘ぶりに焦点を当てながらも、実情はそんな建て前などかなぐり捨てて実にテキトーに生を謳歌している三鷹近辺の人間模様を描くことで、果たしてどちらの生き方が「幸せ」なのかを残酷に浮き彫りにしている観察記になっているのです。カオリははたから見ると、勝手にテンパって虚空に向かって懺悔したり、泣き出したり失神したりする(「神を失う」! まんまですね)半病人の状態ですし、カオリ以外のただ一人の純情人だったオサムも、スミコとシゲオの関係を知って精神を崩壊させてしまいますし……最早、現代日本は木原が語るような「性欲王国」そのものなのかと、まるで『平家物語』や『太平記』を観るかのような無常観にさいなまれてしまいますね。いや、内容的には『源氏物語』がいちばん近いですか。

 そう言えば、この作品の序盤にチラッと出てきた中国人のツアー客も、「原発処理水の海洋放出に抗議するイタ電を間違ってかけてごめんなさい」と謝りに来たという、めちゃくちゃ2023年的なエピソードを挿入するための単なる時事ネタ要員かと思われていたのですが、終盤で日本人たちに「お詫びのしるしに」というていでお酒をふるまうあたりが実に現実的かつ効率的で、言葉がよく伝わらない分、この作品での日本人のように2時間前後もぐじゃらぐじゃらくっちゃべっていないで、物でササっと解決してしまう非キリスト教社会じこみの剛腕を垣間見た思いがしました。しかもお酒がフランス・ボルドーのメルロワインなところが世界を股にかけるパクス・中国ーナと言いますか、これまた3、40年前の日本を見るような思いがして、ここにもまた「ほろびの足音」を聞いてしまうのは、私だけでしょうか。むかしのひかり、いまいずこ……
 それが良いか悪いかは別としましても、世の中はカオリのようにマジメ正直の一点張りで自分の言い分を通そうとしてもそれは通りにくく、やはりそれなりの「つけとどけ」は必要なんですよ、というドライな法則をはっきり提示する好例だったと思います。

 そうそう、この作品にイエスが出てくることの最大のおもしろさは、そういった人情カラッカラ状態の現代日本を、何もできない、何もしないというスタンスで傍観しつつも、最後に人々に「萎れた花を見せる」という奇跡を起こすことで、「今の状態も、そうそう長く続くもんじゃないんだよ。」という人類普遍の哲理をしっかり提示してくれるという重要な役割を果たしてくれるのです。見てくれからしてどうしても神様のような特別な存在には見えないイエスなのですが、最後の最後にちゃんと「デウス・エクス・マキナ」にはなってくれるんですよね。まぁ、中盤でも地味~にカオリを蘇生させる奇跡を起こしてくれてたようなんですが。
 いずれ萎れる花ならば、思うさま欲望に忠実に咲きほこるのが良いのか、それともつつましやかに迷惑かけずにたたずむのが良いのか……人それぞれでいいと思うのですが、その百花繚乱の庭園をひとり散策する本作のイエスの姿は、どこからどう見ても芥川龍之介の『蜘蛛の糸』のお釈迦様の姿に瓜二つといいますか、オーバーラップするものがあると思います。あら、こんなところにラフレシア、みたいな。

 さて、ここまで意図的に避けて感想を述べてはきたのが、この作品を観劇した方ならばほぼ100% の確率でいちばん記憶に残るインパクトを残したシーンは、やはりどうしてもラストでイエスが見せた奇跡の中に現れた「シゲオのアレがアレに」という衝撃のオチだったかと思います。オチてるか……? まさしく現代社会の混沌を象徴する演出でしたね。

 いや~……嫌な光景! その演出自体を見ると、さしてビックリするほどでもない、2人1組でやる宴会芸みたいなものなのですが、やってるのが実の父子ですからね。おぞましい!! 別に映画みたいにお金をかけた特殊技術を投入してるわけでもなく、絵画や音楽のようにじっくり時間をかけて作り上げた作品を掲げているわけでもない、それなのに、あんなにエグく、残酷で、忌まわしく、それでいてもはや笑うしかない状況を創造してしまうとは……これを舞台芸術の唯一無二の魅力と言わずして、一体何を魅力と言うのでしょうか!?
 いやホント、度肝を抜かれてしまいました。お金をかけずにここまでおぞましい地獄を召喚してしまうとは。演出の山内ケンジさんの発想力も当然すごいわけなのですが、それに賛同して演じきってしまう父子もそうとうイカレていると思わずにはいられません。俳優として演じるだけでなく、人間として何かをかなぐり捨てないとできない悪魔的な所業ですよ。どっちも、かなりイヤだったろうに……見てる客がいようがいまいが、あんなことは絶対にやりたくない!! 地獄の業火のごとき演出を堂々と演じきる父子の生きざま……まさにこれ、令和の父子鷹!! そういえば、勝海舟の股間にも父子の愛を象徴する逸話がありましたね。よし、つながった(白目)!!

 そういえば、私が今回のお芝居を観るために三鷹芸術文化センター(本物)にいそいそとおもむいた時、センターの建物脇にある駐車場みたいなスペースの暗がりで、出演の岡部たかしさんらしき方がタバコを吸ってらしたんですね。
 街灯も当たっていない場所にいらしたので確たる様子はうかがえなかったのですが、あの人生ゲームのコマみたいな長身の体躯は岡部さんかな~、なんて思いながら私は通り過ぎたのですが、その時かなり険しい表情で猫背ぎみに喫煙されていたのが妙に心に残りまして、その後作品を観て、その苦悶の理由がよく分かったような気がしました。そりゃ、あんな仕事をしなきゃなんないんだもの、あんな顔にもなりますわ……

 本作が出演俳優の方々の人生・人格を反映させたアテ書きである、などという妄言を吐くつもりは毛頭ありませんが、それでも、本作のシゲルとオサムをあの岡部父子が演じているという意義はそうとう甚大なものがありますし、逆にあのお2方でなければ、どんな名優が演じても、今公演ほどの効果を上げることは不可能であろうと思います。恐ろしい! 実に恐ろしい悪魔の演出です……岡部父子の、特にひろきさんの精神的負担をかんがみれば、この作品はどんなに評判になったとしても再演するべきではない禁断の作品なのではないでしょうか。ていうか、今回も14回もこれやるんでしょ!? 無理だ~! 自分の身に置き換えてみたら、絶対ムリ!!
 俳優の世界で、父子もしくは母子の相克なんていう話はよくありますし、現に本作でアヤノ役を演じられた原田さんの御父上も日本芸能史上にその名を遺す名優であらせられるわけですが、こんな形で対決した親子俳優なんて、聞いたことがねぇよ……佐藤浩市さんでもやらないでしょ!! 当たり前ですか。

 そんなわけで、この作品は序盤は性的流浪人の木原、中盤は苦悩のひとカオリ、後半は業務中に精神崩壊しかけるオサムあたりが物語の主人公なのかな?というバトンリレーが続くのですが、終盤のイエスの奇跡が起きたあたりで、実はねずみ男級に始末の悪いトリックスターであるところのシゲルが主人公=萎れた花だったという帰結にたどり着きます。そして、オサムとあんなことになっちゃう伝説へ……

 一見、登場人物たちの中で最も自分勝手で、周囲の人達の気持ちなぞ洟にもひっかけず好き放題に生きているようなシゲオなのですが、そんな彼がなぜ最後にスポットライトの中心に残ってしまうのかといいますと、それはやっぱり、聖書の教えに忠実に生きようとする、つまり愛することに真剣であるがために蓄財するヒマもなく放浪するハメに陥ってしまう、きわめて太宰治的な誠実(!?)人物シゲオという逆説的なイエス像が浮かび上がるからなのではないでしょうか。度を過ぎて誠実であるがために、誠実とは正反対の社会的廃棄物に見えてしまうという、この哀しみ!!

 だからこそ、最後のシーンで萎れたままになっている花を目の当たりにして当惑するシゲオの姿は、遊び人の末路というか人生の斜陽を如実に表す痛切きわまりないものであるだけでなく、イエスが全人類に見てほしい「愛はすばらしいが対象(スミコ)に執着することはいけない。」の、この上ない実験症例になりえたのではないでしょうか。イエスにしてユダでもある男、シゲオ……
 この、放蕩中年が放蕩老人になってゆく哀しみを残酷に、しかし誠実に描く山内さんの視点は、内容こそまるで違うかもしれませんが、あの聖タルコフスキー監督の『ノスタルジア』(1983年)とか『サクリファイス』(1986年)にも比肩しうる冷徹さと愛情に満ち溢れたものになっていると思います。蝋燭もってフラフラするとか自分の家を一軒焼くとか、いくらご本人の中に相当な論理と覚悟があろうが、世間的に見れば本作のシゲオと同様に「どうかしちゃってる人」以外の何者でもないですしね。

 ただ、ここでちょっと気になるのは、自分の気になった女性に対して正直誠実にアタックするシゲオと、気になる女性(スミコ)に対して自分の思いをなんにも表明せずに傍観しておきながら、いざその女性が婚約するとなったとたんに異様に取り乱すオサムとで、果たしてどちらが異常なのかという問題です。オサムにしてみれば、スミコの相手が父シゲオだから嫌なんだと言われそうなのですが、今回のシゲオほどではないにしても、別になんにも言ってなかったのに自分の決めたことに勝手に動揺するオサムの姿は、スミコにとってははた迷惑というか、「言いたいことあるんならはっきり言えよ」としか思えないうっとうしさに満ちたものなのではないでしょうか。だからこそ、スミコはオサムよりもよっぽどわかりやすく正直なシゲオや木原とすぐに意気投合できるのでしょう。
 ここらへんの中年男性の妙に少年っぽいタチの悪い魅力は、タイトルがまんまの、同じ山内ケンジさんがメガホンを執った映画『友だちのパパが好き』(2015年)でも活写されていたかと思います。おっさん、この迷惑きわまりなき、愛すべき存在……でも、それに同世代のフニャラフニャラした男性以上の魅力を感じてしまう女性もちゃんと描かれているんですよね。

 ただ、今回の作品では、それぞれの個性はありながらも、スミコ、カオリ、アヤノという三者三様の世代を通して、蝶よ花よと今を咲きほこるスミコにも「萎れる時は来る」という残酷な真実を暗示する意味合いで、やたら暗い悲劇の人物カオリを登場させた意義は大きかったかと思います。「執着するな」ったって、旦那がいれば子どももいるし、日々を生きるためにはお金もいるしで……そんなんム~リ~!


 そんなこんなでございまして、今回の城山羊の会さんの『萎れた花の弁明』は、最後の最後で実に城山羊の会さんらしい演劇ならではの驚愕のオチこそ炸裂しましたが、全体的には面白おかしくも、そこはかとない落日感というか無常観をしみじみ感じさせてくれる、黙示録のようにおごそかないぶし銀の一作になっていたかと思います。「いや~腹がよじれる程おかしかったよ!」とか「最後らへん涙でよく見えなかった……」とかいう単純明快なエンタテインメントではないと思うのですが、「なんか面白かったんだけど……こわっ。」みたいな、底の知れない、城山羊の会さんでしか味わえないテイスト100% の作品だったのではないでしょうか。年に一回でも、確実にこの味わいの作品を楽しめるということは、本当に幸せなことです。人生、死んだらおしまいですもんね……山内ケンジさん、これからもどうかお元気で!!

 西にデイヴィッド=リンチあれば、東に山内ケンジあり!!

 城山羊の会さんの孤高の花の萎れる時は、まだまだま~だ来ないのであります。また三鷹に行けるのを楽しみにして、私も一年間がんばるぞ~☆
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