長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

在りし日の名曲アルバム  鬼束ちひろ『 Sign 』

2015年05月03日 22時24分11秒 | すきなひとたち
 みなさま、どうにもこうにもこんばんは! そうだいでございまする~。


 いや~、そんなこんなで、ゴールデンウィークなんですけれどもね。

 もうね、トンと更新しておりませんですね、ハイ。ずいぶんと我が『長岡京エイリアン』ともご無沙汰の限りとなってしまいました。
 んまぁ、端的に言えば、それだけ日常が充実してる……のかどうなのかはわかんないけど、とにかく忙しくはなっとるということに尽きるのであります。
 新生活、新職場になってはや丸3ヶ月が経過したわけなんですが、いまっだに! 地に足がまるで着いていない状態をいよいよ実感できるようになってきている、というだけでありまして、息つくヒマはあるはずもなし、休日だって次のためにいろいろ仕込んどかなきゃいけない宿題のオンパレードなのでありまして、なんというか……のんきに夜中から明け方までという豊潤な時間をブログの更新にザブザブそそぎこめていた数年前の自分が、なつかしいやら恥ずかしいやら呆れるやらで、ねぇ。あのころに戻りたいとは1ミクロンも思えないのですが、おそろしい時期でしたね。

 とはいえ、しっかりした休日だっていただいているわけですし、実家暮らしだから衣食住まるで心配する必要のない環境にあるわけでして、こんなに良いコンディションで仕事に専念できることも、一人暮らしの状態では難しかったのではないでしょうか。少なくともエニタイムズボラな私はね! ほんと、都会の一人暮らしで正社員やれてるお人はえらい!! アルバイトだから楽できる部分があったってものを、今になって初めてしみじみ振り返っている毎日でございます。

 最近はもう、通勤中のカーステレオと月いちペースの市内日帰り温泉くらいしか楽しむヒマはないのでありまして、それ以外は息も絶え絶えに同僚のみなみなさまの背中を見逃さないように走り続けるための予習・復習・予習・復習のくりかえし! これはもう、今がんばりにがんばって、そのうち仕事が身にしみこんできてふっと楽になる時期がくるのを待つしかない、という試練の季節であります。まぁ、気楽にやっていこう。

 そんなわけで、今年のゴールデンウィークは、やっぱり市内の日帰り温泉どまりだな! 来年は、泊まりで県外とかに行ける余裕をひっつかんでいたい。

 映画は最近になってやっと1本だけ観れました。そりゃもう、『バットマン』が大好きなわたくしめにとっては決して見逃すことのできないあの話題作、『バードマン 無知がもたらす予期せぬ奇跡』(監督・アレハンドロ=イニャリトゥ)であります。

 とってもおもしろかったですね! おもしろかったんだけど、感想をつづる時間がまるでない……

 観ている最中から、私は同じ「舞台裏」を描いている作品ということで、数年前に観た『ブラック・スワン』(2010年)のことを思い出していたのですが、なんというか、とにかく主演のマイケル=キートンと助演のエドワード=ノートンあたりの存在感が、どんなに泣かず飛ばずで悩んでても陽性なんですよね! ここがめっぽうおもしろかったので、「あ~死にたい、さっさとラクになりたい。」っていう青っちょろい追い詰められ方しか見えなかった『ブラック・スワン』とは180°真逆の好感度に転じて、とてもすばらしい映画だと感じました。さんざん言われているカメラワークとドラム中心の骨太な BGMのクオリティの高さもさることながら。

 私は降りた人間なので大きな口はたたけないのですが、舞台に立ってる人たちって、やろうとしたら無論のこと繊細な演技だってできるにしても、中心には絶対に、他人を圧倒する「泥水すすってでも生きてやるぜコノヤロー! こんなオレを観ろ!!」という生命力があると思うんです。そういう意味でも、キートン演じるうらぶれた映画スターの舞台公演の顛末は、『ブラック・スワン』のいかにも映画っぽい、マンガっぽい、「実におさまりのいい」クライマックスとはまるで違うカッコ悪さというか、「生き恥さらしてしまいました」感があってステキでした。最後の最後のラストシーンの解釈がまたボンヤリしているんですが、娘さんの表情からして、父はヒーローになりました、ってことなんだろうなぁ。すばらしい家族ドラマでしたね。

 映画といえば、できれば『機動警察パトレイバー THE NEXT GENERATION 』も観たいんですけど、さすがにそんな時間はな……と、始まってけっこう経つのに、記事タイトルの本題に入る気がまるでない! こりゃいかん、さっさと入ろう!!


鬼束ちひろ『 Sign 』(2003年5月21日リリース 東芝EMI )

 『 Sign(サイン)』は、鬼束ちひろ(当時22歳)の7thシングル。
 シングルとしては前作『流星群』から約1年3ヶ月ぶりにリリースされた。オリコンのシングルチャートは最高順位4位を記録しており、これは『いい日旅立ち・西へ』と並ぶ鬼束の最高順位である。
 CD-EXTRA として、3rdアルバム『 Sugar High 』収録曲『 Tiger in my Love 』のプロモーションビデオが収録されている。


収録曲
全作詞・作曲 …… 鬼束 ちひろ
プロデュース …… 羽毛田 丈史

1、『 Sign 』(5分32秒)
 鬼束曰く、「自身が脚本家になったつもりで書き上げた」、「人が強い想いを抱くことで湧き上がって来る高揚感を最もシンプルに表したかった」。人称に「君」と「僕」を使うことも、鬼束は「男の子の視点から中学生の恋愛を書きたいと思った」、「珍しいことだが、これによって世界観が拡がる」と語っている。

2、『ダイニングチキン』(5分25秒)
 鬼束が「感情や想いは回線のように巡っていく。」とコメントしており、「人間の感情や想い」をテーマに制作したことが伺える。タイトルはアメリカ映画『17歳のカルテ』(1999年 ジェイムズ=マンゴールド監督)に登場する言葉から。


 これこれ! この『 Sign 』って曲、私ほんとに大好きなんですねぇ!

 あれもあるしこれもあるし、といった感じでなかなかベスト1が決められない鬼束さんの諸作なのですが、これはトップに並ぶんだよなぁ。当然、ひんぱんに一人カラオケをしていた時期にも、これはもうモーニング娘。の『泣いちゃうかも』などと同等に「絶対に2回は唄う」ラインナップに入っていました。どうでもいい~!!

 端的に言えばフィクション性が比較的高いというか、ご本人が男子中学生と語っているように、今までの作品とはまるで段違いの強さを持って、「明確な場所」にちゃんといる「明確な君」に向けて気持ちをぶつけているわかりやすい作品ですよね。一人称が「僕」であるということ以前に、その想いの単純さが実に男っぽい! とはいいつつも、その情熱のクライマックスたる大サビでぶちあげられる彼の最終目標が、


彼女の窓に星屑を降らせて音を立てたい。


 という、その奥ゆかしさよ!! 「笑ってくれればそれでいい。」なんて、そんなわけねぇだろ!! もっといろいろぐっちゃぐちゃのパトスだらけのはずなのに、そこをグッとおさえる思春期の拳からは、爪の食い込む血がしたたり落ちているのであった……あっぱれ、男子中学生の鑑よ。

 結局、謙虚ともウジウジとも感じられる主人公が、ついに「君」に自分の想いを伝えようと決意するまでの心理的な高まりを明るく追って応援している『 Sign 』なのでしょうが、これもまた、思春期特有の「他人不在」の状況であることは間違いがないのです。その点で、やっぱり主人公との距離感に差はあれども、徹底的に「心中思惟曼荼羅」を歌に変えていく鬼束さんの作品であることになんら揺らぎはないんですよねぇ。

 でも、おそらくは主人公がポツンと独りいるだけの寂しい部屋の中から、主人公の脳がズドバビューンと夜空に飛び出して、満天から降り注ぐ流星群を駆って「君」の部屋に総進撃をかける。しかし、それはあくまでも現実の世界の「君」の部屋の窓をかすかに鳴らすことくらいが関の山で、まぁそれに気づいて「君」が笑ってくれればいいや、ってくらいで……という、この小から大へ広がり、また大から小へとおさまっていく起承転結! 広げた風呂敷はちゃんとおさめましょうという節度もあるこの『 Sign 』は、まさしく「妄想かくあるべし」というメッセージ性の込められた寓話になっているんですね。いやがられたら、きちんとあきらめよう!!

 蛇足ですが、歌詞中にある「保証もない点滅に期待したり」って、やっぱり2010年代の今だと意味が通りにくい表現になってるんですかね。点滅って、なんとなく留守番電話とかガラケーっぽいですよね。今だともう、「保障もない『振動』に期待したり」ってことになるんでしょうか。振動とか点滅とか……ふぜいがない! かぜのおとにぞおどろかれぬる!!


 そんなこんなで『 Sign 』について言ってきたんですが、実はこのシングル、よくよく聴いてみると、もしかしたら『 Sign 』よりもこっちのほうがいいんじゃないかってくらいに、カップリングの『ダイニングチキン』がしみわたるんですよねぇ。いやぁ、これはとんでもねぇシングルだわ!

 『ダイニングチキン』は、2013年にリリースされた4thベストアルバムに収録されるまで、実に10年もの長きにわたってアルバム未収録だった秘曲なのですが、なぜにこれを収録せずしてアルバムをポンポン出していたのか……って、それはやっぱり歌詞が難解で起伏の少ない、ヘンリー=ジェイムズの怪談小説『ねじの回転』(1898年)みたいな曖昧模糊とした作品だからなのでしょうか。


「始まりを示し 終わりを示す 誤作動」
「それは決して 眠れることのない 眠り」


 歌詞の中には、おそらくは意図的に、無味乾燥で現代的な「直線」「細胞」「回線」という単語が配置されているのですが、それでも内容は、「不完全でどうしようもない世界にいる『あたし』と『あなた』」という定番のスタイルになっています。

 しかし、「あたし」と「あなた」の物語は、「あなたが願うのをやめた」ことによって静かに終わるというエンディングだけが、まるで夜空の星のめぐりを定点観測する映像のように淡々と流れていくのです。

 いや~、これはすごい。こんなに「夜」の冷たい空気を聴く者に肌身で感じさせ、「別れ」の諦念を語りつつも、それでも想わずにはいられない未練を表裏一体で感じさせる「ひとりがたり」はないのではないのでしょうか。

 一見すると難解でドライな言葉が並びつつも、聴くだに唄う人の、唄わずにはいられない「生きている体温」が、それを直接語っていないのに伝わってくるという、このテクニックの妙! ダイレクトに感情に走れば伝わらなくなってしまう「なにか」を、実に繊細な手つきで確実にすくいとっているんですね。

 これはもう……『新古今和歌集』の境地というか、なんというか。『 Sign 』の単純さと、『ダイニングチキン』の幽玄。鬼束さんはもう、10数年前の時点でとんでもないとこに行っちゃってたんですね! いまさら再認識してますが、天才の早熟とはかくもものすごく、そして同時に残酷なものなのですな……あたしゃボンクラでよかったよ。
 当時の数作でよく「星」とか「爆発」みたいなイメージを重ね合わせることの多かった鬼束さんでしたが、確かに2000~03年はマグネシウムの燃焼みたいなとてつもない疾走期だったんだろうなぁ。問題は、その後、なのよねぇ。

 これまた蛇足、というか決定的な落ち度なんですが、私、映画の『17歳のカルテ』って、まだ観てないんですよ! なんかたぶん、観てから聴いたらまた感慨も違うんでしょうが……観てないし、これから観る予定もないんだよなぁ。重たそうだし、内容が!


 そういえば1999年の公開当時、大学時代の親友がえらく感動したと言ってすすめてくれてましたっけ、『17歳のカルテ』。なつかしいなぁ。

 鬼束さんも私も彼女も、ウィノナもアンジーもブリタニーも、2015年はかくあいなり申した。嗚呼、人生の浮き沈み!! あたしゃ明日も、ぶざまにいぬかきして生き延びる所存也。もうアップアップです。
コメント
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