長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

全国城めぐり宣言 第14回「備中国 高松城」 歩いて実証・秀吉の水攻め大作戦

2013年03月06日 10時39分14秒 | 全国城めぐり宣言
《前回までのあらすじ》
 先だっての1月、岡山市で上演されるダンス公演を鑑賞するために岡山県を訪れたそうだいは、そのついでにと同じ岡山市に残る戦国時代の名城・備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)跡の探訪におもむいた。
 ところが、備中高松城のある岡山市北区高松の地は、同じ北区でも、あの JR岡山駅を玄関とする岡山城下の町なみとはまるで違うおもむきを持った異郷の地で……?
 っていうか、この記事の更新をしているうちにも近づきつつある、今月3月に岡山で上演される演劇公演もまた観に行く予定があるから、ちゃっちゃとこっちの備中高松城のお話は終わりにしなきゃいかんわけで~! だって、またそのときにも別のお城に行くんだからよう!!


 いや~……午前8時なんですけどね。お天気は抜群の快晴なのに、まだまだ寒いんですよ、寒すぎるんですよ!
 でもまぁ、歩いていくうちに身体も温まるでしょうし、日が高くなれば自然に気温も上がることでありましょう。ここは雄々しくスタートだ!

 無人の JR備中高松駅を出てからパッとうしろを向き直りますと、線路の向こうにはなにはなくとも真っ先に目立つ、赤銅色の巨大な大鳥居がそびえ立っています。なんだ、あれは!? ともかく、私の進行方向もそっちになっているので、まずはあの大鳥居を目指して歩いていくことにいたしましょう。
 備中高松駅のまん前を通る国道180号線を左に歩いていきますと、200m も進まないうちに高松を南北に通過する県道241号線に交差します。ここでさらに左に曲がる、つまり北の山間部を目指して歩いていくと、これまた200m ほどで、この県道を余裕でまたいでいるくだんの大鳥居の下を通ることになるのです。この大鳥居の大きさたるや、高さ27.5m 、柱の直径4.6m ! とにかくでっかいんですよ~。

 この大鳥居は1972年に建立された鉄筋コンクリート製のものなのですが、この地域を代表する大寺院となっている「最上(さいじょう)稲荷山妙教寺」の鳥居としてこの地に立っているのでした。通称としては「最上稲荷」で通っているらしいのですが、神社じゃなくてお寺さんですからね!? ただし、日本伝統の玉虫色のオーバードライブ「神仏習合」のおかげで稲荷信仰もしっかりミックスされている仏教なので気をつけよう。
 この最上稲荷は、なんと奈良時代の天平勝宝四(752)年の創建ということでそうとうな歴史を持っている寺院なのですが、平安時代以降は天台宗として栄えていたものの、戦国時代に他ならぬ羽柴秀吉軍の侵攻に巻き込まれていったん信仰は途絶。その後、関ヶ原合戦を経て徳川体制下でこの高松地方の領主となった花房職秀(はなぶさ もとひで 1549~1616年)の肝いりで1601年に約20年ぶりに「法華宗」の寺院として復活し、現在にいたるのでした。え、法華宗!?
 近所のお寺さんが復活したら別の宗旨になっていたなんて、昨今のコンビニ事情みたいなものすごい話なんですが、これはたぶん、天台宗にしろ法華宗にしろ、それと同時に在地の稲荷信仰も取りまとめているという部分は変わらなかったからこそ許されたアクロバットだったのではないのでしょうか。この高松ならではの特殊なお話だったんですね。
 そんな最上稲荷への参道の入り口を示す大鳥居だったので、私もできれば稲荷山に詣でてみたかったのですが、よくよく調べてみると稲荷山妙教寺そのものは、大鳥居を超えて県道241号線を北に「2~3km 」いったところにあるということでしたので、ひとまず今回はやめておくことにいたしました……鳥居から本堂まで2~3km の距離があるとは! スケールが違うぜ。

 高さ約30m の大鳥居は昭和製ではあるものの、それでも築40年という歳月の生み出す味わいはなかなか無視しがたいものがあり、朱色とも赤錆色ともつかない絶妙な色彩をはなって田んぼの中に屹立していました。
 それを横目で眺め、「あぁ~、あのてっぺんから肩と首が出てるくらいがウルトラマンの身長なのかぁ。思ったよりもちっちゃいけど、リアルだなぁ~。」などと妄想しながら、そこを少し通り過ぎたところで右手の農道に入り、右に川を見ながらしばらく歩きます。

 ここで2点留意しておきたいことがあるのですが、この2つはどちらも「水」が関係しています。備中高松城ですからねェ!

 まず1点目は、私が今通り過ぎた最上稲荷の大鳥居のあった区域が「水越(みずこし)」という地名を持っていたことです。
 資料によると、この大鳥居付近から南の吉備線の線路あたりまでの約200m 区間(現在の県道241号線上)には、江戸時代から大正時代にかけて最上稲荷の参道として石畳が敷かれていたのですが、ここは大雨が西の高松盆地(備中高松城もそこにあり)に氾濫した際に、その水を通して東南の庭瀬地方を経由して瀬戸内海に排水させるポイントという重要な役割を持っていました。大寺院に続く参道であるのと同時に、水はけをよくする意味も含めての石畳であることは間違いないでしょうが、この南北数百メートルの地点が、西の高松盆地の水害対策の生命線となる低地になっていたという事実はちょっと見逃すわけにはいきません。大事よ~!!
 続く2点目は、私が現在歩いている農道の右手を流れているさほど大きくはない川が、西の備中高松城の沼地を水源としているということです。川の名前はわからなかったのですが、ここにもまた、高松盆地の水流が東のこのポイントに集中しているという事実があるわけなんですね。こいつも大事なヒントだ!
 高松盆地の「水」にまつわるこれらの留意点。心の片隅に置いときながら、最初の目的地を目指すことといたしましょう。

 さてさて、そんなことをぶつぶつ考えつつ私が最初に探訪した地点は、農道をこれまた200m ほど歩いた場所にある、農閑期の田んぼに囲まれて背後に小高い山のある、何の変哲もない6~70m 四方のひなびた公園でした。時間帯も朝8時すぎですからね~、公園にはもちろん誰もいないし、あたりを見回しても犬の散歩をしているスウェット姿のおじさんくらいしかいません。足元を見れば、しっかりと霜の降りた芝生が……さみぃ~!!
 公園っつったって、だだっぴろい広場がそこにあるだけで、すべり台とかブランコとかいう遊具のたぐいはありませんからね。ここは単なる公園じゃあないんです。

 そう! この公園の名は、「高松城水攻め史跡公園」!! うおお~。

 この史跡公園は、北西の高松城そのものからはおよそ1km も離れた場所にあるのですが、そんな所にどうして「高松城」の名前を冠した公園があるのかといいますと、かの羽柴秀吉による水攻め大作戦のおりに、この公園付近に築かれたという「水攻め築堤(ちくてい)」こそが、高松城の命運、ひいては織田・毛利両軍の趨勢を決める重大なポイントとなっていたからだったのでありました。

 この史跡公園は、秀吉軍が水攻め時に突貫工事で造り上げたという築堤(土塁の堤防)の様子を今に残そうという目的でつくられているのだそうで、築堤そのものは復元されてはいないものの、発掘調査によって出土した築堤の基礎部分や、背後の山から出っぱっている、築堤の様式をかろうじて今に残している丘陵部「蛙ヶ鼻(かわずがはな)築堤」を保存している施設になっています。

 公園に保存されている築堤の基礎部分を見てみますと、戦国時代のこの一帯の地表は、現在の地面の約1m 地下に埋没してしまっているのですが、そこから発見された築堤の基底部の杭の列や、内部に並べられた土俵(つちだわら)といった構造がわかりやすく公開されていました。発掘調査によると、戦国時代のこの付近の土地はかなりの湿地帯だったものの、羽柴軍は近隣の丘陵地から大量の土砂を運び込んでそこに築堤を建設したようです。

 公園の奥のほうに行ってみますと、そこには北の低い山地(立田地区)から、高さ8.4m ほどの小高い丘が20m くらいピヨっと細長く飛び出ており、そこが国指定史跡の蛙ヶ鼻築堤です。
 築堤とはいうのですが、21世紀の現在にはためから見てみますと、そこは










《途中で~す》
コメント
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