代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

私にとってのマルクス ②

2009年02月06日 | 新古典派経済学批判
 前の記事の続きです。塩沢由典先生は、前の記事で紹介した『学鐙』誌上のエッセイで、佐藤優氏の『私のマルクス』(文藝春秋)を高く評価しております。佐藤氏の前掲書は私も読みました。クリスチャンである佐藤氏の『私のマルクス』は、高校から大学時代にかけてマルクスと神学との間で激しく揺れ動いた思想的格闘の軌跡と学生運動の実践経験を書き綴ったものです。私も佐藤氏と同じ京都で学生生活を送り、佐藤氏の学生運動経験と記憶の一部が生々しく重なります。もっとも私が学生生活を送ったのは佐藤氏より10年ほど後の時代ですが・・・。

 神学部自治会だった佐藤氏は、同志社ブント(あるいは同志社赤ヘル)と呼ばれる学友会の主流派とは距離を置いて、別の流れを作っていたそうです。私もそういうことをやろうとしていたので、その点ではすごく共感持てました。佐藤氏の属する神学部自治会は、学友会の赤旗に対し、黒旗を掲げていたそうです。私が所属していた農学部自治会も、赤旗ではなく、緑旗を掲げていました。地球環境がもう持たないという冷徹な事実が、資本主義経済にとっての最終的な桎梏になるだろうと思っていたので、その象徴としての「緑」でした(少なくとも私の主観の中では)。

 ですので他の運動団体の掲げる運動課題とは違って、私たちが掲げていた課題は、「GATTウルグアイ・ラウンド反対」とか「農産物貿易自由化反対」とか「IMF=世銀による構造調整プログラム反対」とかそんなスローガンでした。構造調整プログラムってのは、当時のIMFが主導していた、途上国への市場原理主義の押し付け行為です。90年代初頭の当時は市場原理万歳の時代でした。IMFなんて絶対的正義であるかのように思われていて、行為の犯罪性に気づいていた日本人はほとんどいませんでしたっけ。WTOも発足していない90年代初頭にこうした課題を掲げていた点に関しては、後に現れた「反グローバル運動」を先取りしたものだったと自負しています。

 しかし当時の私は、左の方に行けば「階級闘争が分からないプチブル・エコロジスト」みたいな感じで批判されたし、環境NGO系の学生グループに行けば「あいつ過激派左翼みたいやわ」みたいに言われてケムたがられたし、どっちに行っても危険視されて居場所はなかったですね~。当時の環境NGOなんて、理論的にも低い水準でしたので、「ウルグアイ・ラウンドが地球環境を破滅に追い込む」と力説してみても、「はァ?なんやそれ?」という感じで、全然分かってもらえなかったものでしたっけ。

 『私のマルクス』を読んだ率直な感想をひと言でいえば、「ああ、学生運動経験に、こんなに誇れるような楽しい記憶があるなんて羨ましいなあ」というものです。佐藤氏がその学生運動経験を輝かしい経験として懐かしく回顧できるのに対し、私は良い思い出などほとんど何もありません。今でも当時のことを夢で見てうなされるくらいなのです。いったい査問や脅迫や嫌がらせを何回受けたことか・・・。
 最後には、「組織は人間をバカにする。もう誰とも絶対につるまない!」っていう決意を固め、それ以来は「一人市民運動」を貫いています。私は誰とも徒党を組みません。もちろん課題ごとに限定して、自立した人間同士が「共感」を通して共闘するのは良いですが・・・・。

 私は、学会に行っても、どこかの学閥に属するのがイヤなので、一匹狼を貫いています。ろくに研究能力もない(でも政治力はある)研究者が派閥を作って、弟子たちに自分のアホ論文を引用させて権勢をふるっている姿を見るのは、本当にイヤなものです。
    
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