代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

2017年新年のご挨拶 ―市場原理ではなく持続可能性こそ人類普遍の原理

2017年01月02日 | 政治経済(国際)
 新年あけましておめでとうございます。
 2017年度元日、首都圏で読める新聞各紙を買い求め、その社説(産経は論説委員の主張)を読み比べてみた。ここ近年、どこの新聞の年頭社説もグローバル化やTPPを礼賛するステレオタイプな社説ばかりで、みな右へ倣え、まったく変わり映えしなかった。さすがにこの激動の時代、論調が各紙ごとに変化が出だしている。興味深いものがあった。論調に個性が出てきたのは良いことだと思う。

 トランプ新政権の保護主義傾向を憂慮しながら、経済のグローバル化について論じたのは、日経・読売・毎日の三紙。日本の自立について論じたのが産経。立憲主義について論じたのが朝日、不戦と平和主義について論じたのが東京新聞となっていた。

時代錯誤の日経と読売

 日経と読売は、相も変わらず、グローバル化を推進し、経済自由主義と自由貿易の旗を高く掲げ続けようという時代錯誤な社説を書き続けている。
 読売の社説は「反グローバリズムの拡大防げ」というもの。読むと、新春からため息しか出ない。「自由貿易の拡大は、各国に産業構造の変化をもたらした。国際競争力の低い産業は衰え、生産や雇用が国外に流出する」と部分的に正しい分析をしつつ、最後の結論は「経済資源を、国境を越えて効率的に拡張するのが自由貿易だ」と、さらなる自由貿易を進め成長の復活を目指そうと旧態依然のままにアジっておられる。自由貿易を進めれば進めるほど反グローバリズムやマスコミが嫌悪している「ポピュリズム」が台頭し、ようやく読売もその事実が分かりかけているようであるのに、結論が、さらに自由貿易を進めようというのはメチャクチャである。このような思考停止なマスコミ・政治家・財界人の存在そのものが、「反グローバル化が拡大」する根源なのに・・・・。
 ただし、読売も、いつもと比べると主張も自信なさげである。自分たちの主張が間違っていることにうすうす気づいてはいるのだろう。

思考停止の毎日

 毎日も、これまでご他聞に漏れず、自由貿易礼賛の社説を書き続けてきていた。どうやらそれが間違っていたことに気付いたようではある。完全に自信も喪失したようで、ほとんど何も言っていないに等しい社説になっていた。社説では「(グローバル化の)最先端にいた米国と英国が逆回転を始めたのは歴史の大いなる皮肉だ。この先に何が待っているのか、まだ誰も知らない」という。何を予想しても外れるので、未来を展望することも放棄してしまったようだ。「思考停止社説」と呼ぶべきであろう。

松岡洋右路線の産経

 そこへ行くと、産経新聞の論説委員の石井聡氏の「自ら日本の活路を切り開こう」という年頭あいさつは主張がはっきりしていた。「グローバリズムへの反発が広がり、民主主義という基本的な価値観さえ揺らいでいる」という現状分析のもと、日本は「自立歩行を始めるときだ」と主張する。その上で、GHQから憲法を押し付けられたせいで、日本は自己決定できなくなったと主張し、憲法改正が最優先課題であるかのように主張している。さらに、アメリカが自由貿易に後ろ向きになっている中で、「新たな自由貿易の旗手に名乗りを上げる」ことも訴えている。
 アメリカへの従属状態からの脱却と自立を唱えている点では共感できる。しかし、その先に進むべき方向性については全く賛同できない。

 産経新聞は長州閥支配の明治の「御代」を理想とする長州レジームを体現している。長州レジームは、ジャイアンのような強い相手には卑屈なまでに従属を重ねるが、根が排外主義であるために、いったんキレと歯止めがかからず暴走する傾向にある。ひたすら英国への従属を続けてきた明治の長州閥。その長州閥の松岡洋右がキレて国際連盟を脱退し、大東亜共栄圏を掲げて対米英戦争に突き進んだときの危険な匂いが、産経の社説からプンプンとただよってくる。

立憲主義の朝日と不戦の東京新聞

 朝日新聞は、反グローバル化やポピュリズムの台頭を批判するという点では、読売と同じであるが、そこら先が違って、民主主義がときに排外主義に結びついてしまうからこそ立憲主義を堅持せよという主張につなげている。
 東京新聞も、世界が不安定な時代に向かっているという事実を指摘した上で、武力によらない積極平和主義を掲げている。
 しかし残念ながら、「ポピュリズム」や不安定性を生み出す根源の病理の治癒なくしては、「立憲主義」や「不戦」の訴えも蹂躙されることになろう。人は衣食足りてはじめて礼節を知るということも事実である。

「自由貿易」に代わる新しい国際協調の価値観を追求せよ

 市場原理主義的構造改革と自由貿易を人類普遍の原理であるかのように追及してきたことこそ、読売や朝日が忌み嫌う「反グローバル化」や「ポピュリズム」の台頭を許した根源である。国際協調を追求すべきであるが、残念ながら掲げている旗が間違っている。ゆえに国際協調も崩れていかざるを得ないのだ。

 トランプ政権が、公約通り関税引き上げを実施した場合、中国はWTOに提訴するだろう。アメリカが負けた場合、アメリカのWTO脱退もあり得るだろう。中国は、短絡的にアメリカの提訴に踏み切るのではなく、米中協調のもとにWTO協定そのものを見直す方向に動くべきであろう。
 各国の経済主権と関税自主権を尊重するGATT時代の貿易の枠組みで何の問題もなかった。ウルグアイラウンド以降、「市場原理主義」と「自由貿易」がすべての価値観に優先され、各国の経済主権を踏みにじってもそれを押し付けるようになってしまったことこそ、今日の不安定性の根源である。そこに遡って誤りの源を見つめなおさなければならない。しかし、そうした論調は、元旦の各紙社説のどこにも見られなかった。

 今後、国際協調のもとに追及すべき価値観は、「経済自由化」ではなく、「持続可能性」だ。自由貿易と経済グローバル化は地球を破壊する。最終的に人類がこの惑星で生存していくことを不可能にする。内需主導で、分権的、完全雇用を目指しながら、地域循環的な経済構造を国際協力のもとに各国がつくりだしていくことこそ、排外主義の蔓延と戦争の時代への突入を回避する唯一の途である。



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14 コメント

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Unknown (12434)
2017-01-03 13:06:50
今日の北海道新聞社説は、「あすへの指針 市場万能論からの脱却を」というものです。なかなか良かったです。できればリンクを貼りたかったのですが、書き込めないようなのですいません。
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これからは地方紙の時代 ()
2017-01-03 18:15:56
 さすが北海道新聞ですね。
 いまだに市場原理主義に固執する全国紙は、ますます見放されていくでしょう。
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Unknown (12434)
2017-01-04 21:15:52
メキシコ工場計画を撤回=トランプ氏批判で一転−米フォード
http://www.jiji.com/sp/article?k=2017010400025&g=int
時事通信ドットコム

トランプ氏の圧力に白旗=米メーカー、相次ぐ方針転換
http://www.jiji.com/sp/article?k=2017010400143&g=int
時事通信ドットコム

アメリカ人にとっては朗報かもしれません。
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一枚岩が動きつつあるのでは。しかし・・・ ( 睡り葦 )
2017-01-04 21:55:28

 関さん、全国紙論説委員のおじさんたちの「経済的自由主義・自由貿易グローバリズムTPP」礼賛一枚岩に今年、複数方向の引っ張りによるズレが発生しているとのこと。
 日本のみならず米国、欧州からジャーナリストが消え、横並びテキスト・コピーライターばかりになって久しい昨今、関さんがおっしゃるようにこれはきわめて注目すべきことであると思います。

 そこで思い立って、国内産業界のポジションの低下のためか軽量級会長が2代続いて現会長は「安倍下僕」と揶揄されるやに聞くことはそれとして、経済団体連合会の会長新年メッセージを見てみました。
 たしかに岩は固いままであるにせよ突如発生したかに思われる岩盤の深刻な動揺を見ることができると思いました。
 そしてその割れ目から飛び出したものは・・・少し迂遠ながら、大震災・フクシマに先立つ2011年新年にさかのぼって時系列で見てみますと:

 今から6年前、民主党菅内閣下の2011年新年メッセージにおいて経団連米倉会長は「経済の自律回復の展望が開けず、国民は閉塞感に覆われている」として、消費税の引き上げ、財政社会保障の一体改革を求め、また平成の開国TPP参加と農業の改革をアピールしていました。
 その翌年、野田消費税増税内閣下の2012年新年メッセージは不幸にして2011年9月11日震災復興のアピールとなり、しかし例の通りのTPPと消費税増税の実現・社会保障効率化の強調がそれに続きました。
 そしてさらにその翌年、第二次自公安倍内閣発足直後の2013年新年において米倉会長は「内政・外交の課題山積」として、震災からの本格復興への取り組みを大きくアピールしていたわけです。

 安倍政権実質一年後の2014年新年に米倉会長は「内閣による一連の経済政策が功を奏し、底堅い消費など、内需に牽引される形でわが国経済は回復を続けている」とし、震災復興の加速とTPP、税・財政・社会保障改革、道州制推進をアピールしています。
 そして安倍施政二年後の2015年新年、新任の榊原会長が「アベノミクスは着実に成果を上げ、デフレからの脱却が視野に入りつつある。本年は、日本経済が本格的な成長軌道に復するか否かの正念場」と宣言、総選挙の結果とアベノミクスへの国民の支持をよろこぶあまりTPPと社会保障改革には触れるまでもないというアベノミクス讃辞を贈り、元旦づけで2030年までに目指すべき国家像を描いた将来ビジョンを公表しました。

 2016年はこの流れがピークに達する年で、榊原会長は「アベノミクスの『新三本の矢』が目指す目標は『経団連2030年ビジョン』で掲げた目標と軌を一にするもの」であると謳い、原発再稼働加速、社会保障給付適正化・効率化、大筋合意に至ったTPP協定の速やかな発効を促す、という高揚感のある新年メッセージを発表しました。

 ところが、この2017年新年、榊原会長は一転して「世界の政治経済情勢は、保護主義の台頭やナショナリズム志向の広がりが懸念される中、先行き不透明感を増している」と、低音のドラミングで新年メッセージを始めています。

 この先行き不透明論を受けて「このような時にあって、わが国は先頭に立ち、自由で開かれた国際経済秩序を維持・発展させ、世界経済の成長を牽引していかなければならない」と、日本の経済や企業の内実に照らせばいぶかしくなるまでの、ヒロイズムというべきかむしろドン・キホーテと見まがう悲愴な決意を示しています。
 しかして要するに、その決意とは「同時に、政権基盤が安定している今だからこそ、社会保障制度改革や財政健全化、抜本的な規制改革など、国民の痛みを伴う改革に真正面から取り組むべきである」という弱いものからの火事場泥棒的に帰結することが、その直後に語られるわけです。
 前年の新年にフクシマ後はじめて特記された原発再稼働はすでに達成済みとして新年メッセージからはずされたのでしょうか。不思議にアベノミクスという言葉も消えています。

 つづいて、明治以来の定型である欧米追従、聞くところによれば日経新聞元旦紙の「500年史」において歴史の現到達点とされている「第4次産業革命」をコア・アイディアとする日本再興官民戦略プロジェクト、他方でさすがに地方荒廃への危機感を隠せないことから地域経済の活性化、そして「米国現地事務所を拠点に新政権や議会との関係を構築し経済関係の強化を図る過程でTPP協定の発効を目指して、経済的・戦略的意義を訴えていく」と「不透明感」への不安を転倒した滑稽なまでの開き直り、最後に東京オリンピックを国民運動にして全国的な「レガシー」(むろん過去の遺物という意味ではなく、建設事業のことらしい)を、ということなっています。

 どうやら手負いイノシシ的なあやうさになっているとお感じになりませんか。はて、岩盤の揺らぎから飛び出したのは干支の酉ならぬ猪なのでしょうか。
 1年前、確信に充ちていた観のある2016年の榊原会長新年メッセージのタイトルが「経済再生を確実に実現する」というむしろ地道な表現であったのに対して、2017年は「GDP600兆円経済への確固たる道筋をつける」と、不透明感への不安をよそに妙に居丈高に感じられます。
 まさか関さんが言われる長州お得意芸「切れた勢いで大東亜共栄圏している」のでしょうか。

 ちなみに、毎日新聞元旦紙の「経済有識者 新春座談会」で経済同友会トップの小林喜光代表幹事が「政府はGDP600兆円を目指しているが、単に数字を増やせば良いという時代はとっくに終わっているのでないか」と指摘するありさまになっているとのこと。むろん小林喜光氏は「第4次産業革命につながる革新的な技術を産官学含めた国全体で生み出していかなければならない」という文脈でGDP600兆円目標を批判したのですが。

 それはともかく、榊原経団連会長が新年メッセージで決意する「自由で開かれた国際経済秩序の維持」のために、わが津軽の若ものたちが、児童虐待に等しい状況のなかで常時生死を前にするスーダンの少年兵たちに対して、その遠いとおい地で沈黙のまま銃口を向けることを強いられるのでしょうか。そして、その結果・・・
 それを思うだに、関さんが気づかれた「激動の時代がもたらしつつある各紙論調の個性化」はいま非常に重大な意味を持つものであると思います。

 そして、ダーイッシュ、アルカイダ、米軍、NATO、自衛隊かけつけ警護部隊、名称の如何を問わず、その銃口によってもたらされ維持される「自由」が意味するもの、自由貿易、経済的自由、と経済成長が1%との人類にとって意味するものと99%の人類にとって意味するものとの間の、あからさまな対立を弁証法的に乗り越えるには、ひょっとしたら「新人類」の登場がその条件なのではないだろうかと考えてしまいます。
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ありがとうございました ()
2017-01-05 22:01:57
12434さま

>トランプ氏の圧力に白旗=米メーカー、相次ぐ方針転換

 これはトランプ政権発足前にして早々の大きな成果ですね。

睡り葦さま

>どうやら手負いイノシシ的なあやうさになっているとお感じになりませんか。

 全く同感です。臥薪嘗胆で卑屈なまでに従属を重ねてきて、その宗主国に裏切られた結果、糸の切れたタコのごとくどこへ飛んでいくか分からない危うい状況を感じます。
 歴史を繰り返させないため、長州レジームを早々に終わらせなければ・・・・と思います。
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ネタ2つ (りくにす)
2017-01-05 23:51:29
新年あけましておめでとうございます。
やっと赤松小三郎のご本を書店に注文してまいりました。
ところで暮れの25日深夜の「サイエンスゼロ」で「ダーウィン主義に異議あり」というタイトルで「時に生物は最適であると思えない生き方をするのか」という話題を取り上げていました。ゲストは『働かないアリに意義がある!?』の著者、長谷川英祐さん。
話題は本にもなった「働かないアリ」と、もう一つ「カッコウの托卵はなぜ今も続いているのか」でした。托卵はカッコウから見れば効率が悪いし、オオヨシキリなどの宿主にとっては卵をみんな殺されてしまうので宿主のほうが絶滅することも考えられます。托卵されているうちに見破り方を発見し、托卵するほうも卵を似せていき、そのような「軍拡競争」を続けていくうちに勝率が50:50で落ち着いてくる、というのです。
門外漢はこれも「進化」の話だと思うのですが、ダーウィンが考えている「適者生存」説から見ると非効率すぎる話らしいです。長谷川さんは何万回繁殖に成功するか、といった「永続性」で進化を考えようと提案しています。番組では数式による説明はなかったしあってもお伝えできるほど数学は強くないので説明できませんが、「永続性」を勝手にキーワードとして推したいと思います。

もう一つは昨日の「クローズアップ現代」で取り上げられた『サピエンス全史』という書物の話(未読です)。
現生人類はまず「認知革命」によって大きな力を得て体格で勝るネアンデルタール人を滅ぼしました。フィクションを作り出して他人に伝え信じることによってできる集団の力です。(アリのフェロモンと同様である、というのでしょうか)今でも貨幣、国家、会社、資本主義といったフィクションが世界を支えています。
ついで農耕を発明して余剰の食料を得ることができました。しかしいいことだけではなく、農耕社会の労働者は平均的な狩猟民に比べて労働時間が長く収入が少なかったと言います。キャスターも「識者」たちも驚いていましたが文明批判する人々にはその点はすでに常識です。
問題はいま世界を支えている「フィクション」にガタが来ていて、新たな「フィクション」で世界を支えることができるかということです。「資本主義」もそうです。さらに、科学技術の進歩が加速して人間が制御できなくなり、1,2世紀の間に今の人類は姿を消すのではないかと述べています。体の一部を機械に置き換えたり、バイオテクノロジーや全人格のアップロードによって「霊長類ヒト科のホモサピエンス」ではなくなるだろうというのです。番組ではおしまいに「人類が生き延びるためには欲望をコントロールすることが大切」と言ってました。もっともだ、と思いますが誰が誰の欲望を誰のためにコントロールするのかと考えると恐ろしくなります。
面白いぞと思って取り上げてみましたが読まなくてもいいような気がしてきました。
最後に「自由」こそがもっとも魅力的で危険な使われ方をしてきた「フィクション」であり、ある者たちは「他人を抑圧すること」と勘違いしているんじゃないかなと思います。
大づかみすぎるネタですみません。

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最適化進化仮説と共同幻想論ならびに自由と平等について。 ( 睡り葦 )
2017-01-08 19:18:15

 りくにすさま、二つのお話しをありがとうございました。大変興味深く拝見し、瞑目して考えさせられました。

 原子核や遺伝子まで玩弄し進化の頂点にいると思っているらしい現人類(を代表する地位にいるとされる存在)を見ますと、彼らが人類の類的な生存に最適な行動を取っているとはとうてい思えません。関さんがあれだけ持続可能性を説かれているのにかかわらず。

 進化論において進化のキィであるとされる「最適・最適化」が世の中のデ・ファクト・スタンダード規範になったのは比較的最近で、2000年前後、1990年代の後半だったように思います。ゴールドマンサックス出身のルービン財務長官が資金を米国資本市場に引きつけてドルの信認を取り戻そうと1995年にドル高政策を採用して以降、すなわち米国が金融の意図的肥大化によって手っ取り早く経済繁栄を演出しようとして以降のことではないでしょうか。

 かって「最善か無か」とコスト度外視の最善オンリーを掲げ続けたダイムラーが、トヨタに倣って市場最適化を全面的に追求し始めたのがこの頃でした。「<最善>から<最適>への転向」によるあからさまなコストダウンに愕然としたことを憶えています。
 ラインラント・モデルと言われたドイツ流の社会的市場経済社会からアングロサクソン・モデルへのドイツ経済社会の転換の代表例がこのときのダイムラーでした。

 日本においては、バブル崩壊後の失われた10年以降、企業を最適という言葉が席巻しました。とりわけ「全体最適による部分最適の排撃」という定式がオジサンたちにいたく気に入られたようで「暗黙知の形式知化」と並んで現代の「新・日本的経営」の二つの合い言葉の一つになりました。

 最適という発想は、感覚的に言って「リスクとリターンの均衡点」を追う投資ポートフォリオの考え方に由来するもののように思えます。
 1990年代以降の経済の全面的金融化、すなわち投資家の時代の到来によって、進化論的生きのこり競争という19世紀後半からの動的な「最適化」と、新古典派経済学の力学的な均衡「最適化」とが「共同幻想としての企業成長・経済成長」のもとに結びついたのではないかと考えます。
 1960年代のドイツと日本の高度成長においては、最適・最適化という考え方は少なくとも経済社会には存在しなかったと思われますから。

 ちなみに「進化論的最適 → 経済的最適」というのは方向が逆であるという見方があります。あのフロイドにさからって追い出されたというホネのある臨床主義者であったオットー・ランクという精神分析学者が「ダーウィンは、自分の姿を自然という鏡に映して見ている一人のブルジョアにすぎない」と指摘していたということが「多次元飛行船」というウェブログ(http://suesuo.blog.fc2.com/blog-entry-627.html)に牽かれていました。

 そこで思いますに、働きアリの観察者、長谷川英佑先生の言われる「進化を永続性で考える」というのは不思議に「企業の継続性と経済成長」につながるような気がいたします。進化を絶対視し、神話化しているような・・・関さんが成長神話と不可分とされる経済自由化に対置しておっしゃる、人間の生活の質を上げるための「持続可能性」主義と、長谷川英佑氏の言う進化の永続性とは似て非なるものではないかと思いますが、いかがでしょうか。

          ☆☆☆

 もうひとつの人類全史のお話は、私では蟷螂の斧で立ち向かう観があり気持ちがひるみます。
 マインド・コントロールされた祖型ホモ・サピエンスという原始テロリスト集団によって無辜のネアンデルタール人が虐殺されたということからして衝撃的で息を呑みました。
 縄文人と弥生人が混血して古代日本人が形成されたようにして、ネアンデルタール人が祖型ホモ・サピエンスとともに徐々に消えて現生人類となったように思っておりました。南京のケースと似て、ネアンデルタール人大虐殺はそれを記憶からぬぐい去ろうとする力のほうが日本では勝っているのでしょうか。

 たしかに、農耕社会の民、つまり農民はその日暮らしの狩猟採集民よりはるかに労働強度が高く大変だったろうと思います。しかも生産物である穀物は蓄蔵できるわけで、持てるもの=支配するものが出現し、搾取される側=支配される奴隷的民は辛酸をなめたであろうと。
 しかしこれが工業社会になると、さらに厳格な軍隊的規律のもとで24時間ほぼ全人格的な奴隷化がなされるわけですが。

 自然をそのまま精霊化していたであろう狩猟採集社会とは異なり、構造化がすすむ農業社会では物理的インフラストラクチュアをともなう「共同幻想」によってマインド・コントロールをすることになります。
 そこで、宗教祭祀と神社建築、政治的権威と宮殿、それから軍隊や監獄処刑場が発達するなかで古代国家が形成されるということになるのでしょうか。むろん流通交換のための貨幣通貨を含めて、実体的幻想という妙なものが登場することになります。

 いささかお年の方はここで吉本隆明の古色蒼然たる『共同幻想論』(1968年)を思い出すのではないかと思います。ただし、「ホモサピエンス全史」と比べておそらくこちらの方がセンシュアルで、より個人的主体的な幻想イメージなのかと想像します。
 さらに貨幣については岩井克人『貨幣論』があります。「皆が貨幣と思うから貨幣なのだ」という氏の論法を現実態にしますと「皆が貨幣と思わされるものが貨幣なのだ」となるのでしょう(金ドル交換停止後の米ドルに典型的に)。

 ちなみに現時点で何が最右翼の共同幻想かと言いますと、「株式価値」であると思います。
 アベノミクスのキモはありていに言って株価であり、日経平均株価は物神化されています。貨幣通貨の価値を押し下げて数値としての株価を上げ、国民の年金をすり潰して企業の株式を買い占め、要するに国家総動員で株価を上げささえているわけですから、株式が最高価値であることはあきらかです。

 このような共同幻想的マインド・コントロールがすべて賞味期限切れになると、人工知能で動くアンドロイドに人類が取り替えられてしまうと。それを「新人類」と呼ぶのはさすがに躊躇します。
 それよりむしろ、不運にしてポリオや筋ジストロフィーとなった子供をかばい、いつくしんで成人するように見まもった縄文人を復活してほしいと思います。

     ☆☆☆

 自由とはものごとを制約なく差配することなのでしょうが、これがモノではなく他の人間に対して行使されますと、そこに「支配・被支配」すなわち平等の否定が発生します。
 むかし「乏しきを憂えず、等しからざるを憂う」ということをよく言ったと思いますけれど、いまはリッチさを追う自由を阻害するものである平等や社会保障に対して悪、少なければ少ないほどよい必要悪、という冠をかぶせる新自由主義が自由を支配しています。

 自由を、富者と支配者のフリーダムから、全人類のリバティに変えること、これが「新人類やアンドロイドの必要性」をなくするのではないかと思います。
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Unknown (12434)
2017-01-08 21:51:29
明治維新の映画支援検討、政府 150年事業
https://www.kochinews.co.jp/article/72256
高知新聞

悪い予感しかしませんねこれには。
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SFっぽくなりますが・・・ ()
2017-01-10 23:18:04
りくにす様、 睡り葦さま
 
 新年あけましておめでとうございます。
 大変に興味深い話題の紹介ありがとうございました。
 
>時に生物は最適であると思えない生き方をするのか

 他の生物種のみならず、現人類がグローバル資本主義というイデオロギーを選択したのも、人類の存続を長引かせようという観点からすると、とても最適とはいえませんね。
 
>1,2世紀の間に今の人類は姿を消すのではないかと述べています。

 人類が滅びて、人工知能が進化して人類後継の「生物」として地球に残るのかも知れません。
 地球にも寿命がある中で、いずれすべての生物種はほろびざるを得ませんが、ひょっとしたら人工知能のみは造物主である人類の記憶を載せて、地球が滅びてもなお恒星間飛行をしてでも、宇宙の中で生き残る可能性もあります・・・・。

 しかし、そういう夢はみつつも、わざわざ人類が滅びるのを早めるような途を選択するのはあまりにも愚かしいことです。
 人類の生存をより長引かせることが可能になる経済システムを選択するよう、あきらめずに抵抗したいものです。人類と人工知能は共存していく方法を考えたいものです。 
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向こうの思惑を逆手にとれば? ()
2017-01-10 23:51:15
>悪い予感しかしませんねこれには。
 
 いや、相手の意図を逆手にとって、傑作を生み出せるかも? たとえば、こんなのは如何?

「るろうに剣心スピンオフ 赤報隊の悲劇」

 「るろうに剣心」、子供が観ても面白い活劇でありながら、かつ、維新の闇も描き出していました。
 「るろうに剣心」の原作にはチラット登場した、相楽総三と赤報隊を描くのはどうでしょう。
 西郷吉之助に操られ、江戸市中での無差別テロに手を染める相楽。しかし彼は、それが新しい時代を開く「正義」と信じて疑わなかった・・・・。狡兎は死して走狗にらる・・・。
 
 薩長史観で扱われてこなかった人を主人公にすれば、けっこう傑作が生み出せそう・・・。
 
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