熊本地裁の画期的判決
先月の2014年2月28日に熊本県天草市に建設されている路木ダムをめぐる住民訴訟において、原告が勝訴するという画期的な判決が出た。遅れましたが紹介させていただきます。
片山昭人裁判長は「ダム建設計画は著しく妥当性を欠き、県知事の裁量権を逸脱、濫用したもので違法」と結論。
判決文の全文は水源連のHPの下記サイト参照。
http://suigenren.jp/news/2014/02/28/5597/
判決文を読んで、本当に大げさではなく、「まだ日本にもまともな裁判官がいるのだ」と涙が出るほどうれしかった。
治水に関して違法と判断した判決の骨子を紹介する。治水に関する焦点は、県がダム建設の根拠とする「30年に1度の洪水」で発生すると主張する推定氾濫量が事実かどうかにあった。
下の図は、判決文に添付されている熊本県の作成した想定氾濫区域図。この想定氾濫図は、戦後最大洪水である昭和57年7月洪水時の氾濫を根拠に作成されているという。
路木ダム計画におけるねつ造図
(出所)判決文の添付資料より
片山昭人裁判長がすばらしいのは、ご自身の頭で県の説明が科学的に妥当であるか真剣に検討し、県の浸水被害の想定を「認める根拠はない」、つまり、まったく虚偽であると結論づけていること。あとで紹介するような、八ッ場ダム訴訟の控訴審判決における東京高裁の愚劣きわまりない裁判官たちとは雲泥の差である。
判決文は県の浸水被害想定について、「合理性の欠如等は明らかであり、その結果同計画等の内容が社会通念に照らして著しく妥当性を欠くものとなっているのであり、この意味においても、本件整備計画等は、県知事の裁量権の範囲を逸脱し又はこれを濫用したものとして違法であると言わざるを得ない」と明快に断罪している(判決文95頁)。
過去最大の昭和57年洪水について、県が主張するような浸水被害の事実は「認める根拠はない」、(県の)「調査結果を採用することはできない」と結論してる(判決文92頁)。
その根拠として、昭和57年洪水時における現場での証言のみならず、以下の三点が指摘されている。
(1)県が70mにわたって「破堤」するとされている場所は、そもそも堤防がない場所であること。堤防がない場所が「破堤」することはあり得ないこと。
(2)県の言うような氾濫流が発生したとして、現地の地形や標高差や流下速度から考えて、その氾濫流は路木集落に到達せずに、河道に戻るはずであること。
(3)国交省の『治水経済調査マニュアル(案)』にのっとって試算すれば、30年に1度の洪水でも必要な流下能力は確保されていること。
熊本地裁判決の詳細は、Kajiwaraさんの下記サイトに詳しいので参照されたい。
http://blogs.yahoo.co.jp/kajiken76xyz/62443382.html
本日(2014年3月31日)の熊本地裁でも片山昭人裁判長は、胎児のときにメチル水銀の被害にあった未認定の水俣病患者3名を認定し、国と県に賠償を命令したそうである。片山昭人裁判長には、ぜひ今後とも司法の独立と正義のために頑張っていただきたい。
居眠り裁判官のサイテー判決
ひるがえって八ッ場ダム訴訟において、国交省の側の虚偽・ねつ造が次々に明らかになり、原告・控訴人側は一つ一つ丁寧に虚偽・ねつ造の事実を立証しているにも関わらず、東京高裁の愚劣裁判官たちは、まったく自分の頭で判断しようとせずに、「ダム建設先にありき」で行政に勝たせようと愚劣な作文を弄してサイテーな判決を連発している。
路木ダムの想定氾濫図は非合理的と認定されたが、八ッ場ダム建設の根拠となっている氾濫図は下記のようなもので、これは大熊孝先生の調査でねつ造であることが明らかになっている。
先に見た路木ダム計画の虚偽氾濫図と比べても、まるで稚拙な保育園児の塗り絵のような図であり、子供も騙せない完全なるねつ造図なのである。
このねつ造図によれば、標高200mの山の上まで洪水が達したかのようになっており、まるで重力がないかのように氾濫流が標高差100mを駆け上がったことになっている。そもそも重力に逆らって洪水が丘の斜面を駆け上がるわけがないので、この図を認定することは万有引力の法則にケンカを売ったに等しいのだ。
この氾濫量がないとするならば、答えは一つ。国交省の洪水計算がインチキだということなのである。どこがインチキなのかも、原告・控訴人側は完璧に立証した。
八ッ場ダム計画におけるねつ造図
(出所)国交省・関東地整「利根川上流部(八斗島上流)の浸水想定区域図」第6回の利根川・江戸川有識者会議に提出した「資料-4 昭和22年9月洪水の氾濫量の推定について(参考)」
http://www.ktr.mlit.go.jp/river/shihon/river_shihon00000204.html
八ッ場ダム訴訟の東京裁判では大竹たかし裁判長は治水に関して、控訴人の主張が正しいと「認められる余地があるとしても、これが明白であるとは認められない」という苦しい作文をして東京都に勝たせた。
八ッ場ダム訴訟の千葉裁判では、加藤新太郎裁判長が、自分の頭で考えることを一切放棄した上で、「日本学術会議の専門家が正しいというんだから正しいのだ」(正確には、「日本学術会議は第三者で独立性の高い学術的な機関であり、・・・・・その内容は科学的合理性を有するものと判断される」)という、恐るべき愚劣な作文を書いた。
小学生以下の作文である。小学生だったら、権威があるかないかで判断するようなことはせず、自分の頭でどちらの主張が正しいか判断しようとするだろう。決して権威に媚びたりはしないはずである。権威がある方が正しいという判断が妥当なのであれば、必ず国の方が権威があるのだから国はすべて正しいということになってしまう。小学生はそのような愚劣な思考はしない。
そして、先日は茨城裁判において、園尾隆司裁判長、吉田尚弘裁判官、森脇江津子裁判官の3名は、加藤新太郎裁判長の愚劣判決をさらに下回る、極悪判決を出した。この判決、小学生以下というレベルですらなく、人間としてすでに終わっているというレベルである。
どこが極悪かというと、両者の言い分を比較検討するという最低限の作業すら放棄、たんに行政の言い分をリピートしただけの超サイテー判決文なのである。住民側の主張に関しては無視を決めこんで、事実関係の妥当性について何か判断しようとした形跡すらない。
判決文の全文はこちら。
http://www.yamba.sakura.ne.jp/shiryo/ibaraki_k/ibaraki_k_hanketsu.pdf
園尾裁判長は、住民側が何を主張したのか、全く認識していないし、はじめから認識しようとしていないのだ。だって、この裁判長、審理中に堂々と居眠り(-_-)zzzしていたのだから!
裁判長が寝ていた件にかんしては、まさのあつこさんのブログの「裁判長、起きてください!」という記事にくわしい。下記、参照されたい。
http://seisaku-essay.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-a94e.html
法廷を侮辱するこのような愚劣な男に裁判官などやる資格はない。
裁判官としての適格性うんぬんよりも、結局のところ人間性の問題に行き着くのだと思う。この連中は人間として終わっている。
裁判官はあまりにも世間を知らなさすぎる。最低限の正義の感覚も持ち合わせていないし、事実関係の真偽を科学的・合理的に判断することさえできない人間も多すぎる。裁判所という閉鎖空間の中で、まともな人間性が形成されるとは思えない。法曹一元化で、弁護士と裁判官を定期的に入れ替えた方がよいだろう。
最近、瀬木比呂志著『絶望の裁判所』(講談社現代新書、2014年)という本が出た。八ッ場訴訟の西島弁護士から紹介してもらったので早速買ってきた。これから読もう。
PS もっとも路木ダム裁判と八ッ場ダム裁判の違いは、2級河川か1級河川かの違いも大きい。路木ダムは県営ダムなので、原告は直接県を訴えることができる。1級河川の国直轄の八ッ場ダムの場合、原告は国を訴えることはできず、各知事が国の計画に公金を支出するという財務会計行為(公金支出ほか)の妥当性を問うため、どうしてもハードルが高くなる。この点Kajiwaraさんのブログを参照されたい。
http://blogs.yahoo.co.jp/kajiken76xyz/62443382.html
先月の2014年2月28日に熊本県天草市に建設されている路木ダムをめぐる住民訴訟において、原告が勝訴するという画期的な判決が出た。遅れましたが紹介させていただきます。
片山昭人裁判長は「ダム建設計画は著しく妥当性を欠き、県知事の裁量権を逸脱、濫用したもので違法」と結論。
判決文の全文は水源連のHPの下記サイト参照。
http://suigenren.jp/news/2014/02/28/5597/
判決文を読んで、本当に大げさではなく、「まだ日本にもまともな裁判官がいるのだ」と涙が出るほどうれしかった。
治水に関して違法と判断した判決の骨子を紹介する。治水に関する焦点は、県がダム建設の根拠とする「30年に1度の洪水」で発生すると主張する推定氾濫量が事実かどうかにあった。
下の図は、判決文に添付されている熊本県の作成した想定氾濫区域図。この想定氾濫図は、戦後最大洪水である昭和57年7月洪水時の氾濫を根拠に作成されているという。
路木ダム計画におけるねつ造図
(出所)判決文の添付資料より
片山昭人裁判長がすばらしいのは、ご自身の頭で県の説明が科学的に妥当であるか真剣に検討し、県の浸水被害の想定を「認める根拠はない」、つまり、まったく虚偽であると結論づけていること。あとで紹介するような、八ッ場ダム訴訟の控訴審判決における東京高裁の愚劣きわまりない裁判官たちとは雲泥の差である。
判決文は県の浸水被害想定について、「合理性の欠如等は明らかであり、その結果同計画等の内容が社会通念に照らして著しく妥当性を欠くものとなっているのであり、この意味においても、本件整備計画等は、県知事の裁量権の範囲を逸脱し又はこれを濫用したものとして違法であると言わざるを得ない」と明快に断罪している(判決文95頁)。
過去最大の昭和57年洪水について、県が主張するような浸水被害の事実は「認める根拠はない」、(県の)「調査結果を採用することはできない」と結論してる(判決文92頁)。
その根拠として、昭和57年洪水時における現場での証言のみならず、以下の三点が指摘されている。
(1)県が70mにわたって「破堤」するとされている場所は、そもそも堤防がない場所であること。堤防がない場所が「破堤」することはあり得ないこと。
(2)県の言うような氾濫流が発生したとして、現地の地形や標高差や流下速度から考えて、その氾濫流は路木集落に到達せずに、河道に戻るはずであること。
(3)国交省の『治水経済調査マニュアル(案)』にのっとって試算すれば、30年に1度の洪水でも必要な流下能力は確保されていること。
熊本地裁判決の詳細は、Kajiwaraさんの下記サイトに詳しいので参照されたい。
http://blogs.yahoo.co.jp/kajiken76xyz/62443382.html
本日(2014年3月31日)の熊本地裁でも片山昭人裁判長は、胎児のときにメチル水銀の被害にあった未認定の水俣病患者3名を認定し、国と県に賠償を命令したそうである。片山昭人裁判長には、ぜひ今後とも司法の独立と正義のために頑張っていただきたい。
居眠り裁判官のサイテー判決
ひるがえって八ッ場ダム訴訟において、国交省の側の虚偽・ねつ造が次々に明らかになり、原告・控訴人側は一つ一つ丁寧に虚偽・ねつ造の事実を立証しているにも関わらず、東京高裁の愚劣裁判官たちは、まったく自分の頭で判断しようとせずに、「ダム建設先にありき」で行政に勝たせようと愚劣な作文を弄してサイテーな判決を連発している。
路木ダムの想定氾濫図は非合理的と認定されたが、八ッ場ダム建設の根拠となっている氾濫図は下記のようなもので、これは大熊孝先生の調査でねつ造であることが明らかになっている。
先に見た路木ダム計画の虚偽氾濫図と比べても、まるで稚拙な保育園児の塗り絵のような図であり、子供も騙せない完全なるねつ造図なのである。
このねつ造図によれば、標高200mの山の上まで洪水が達したかのようになっており、まるで重力がないかのように氾濫流が標高差100mを駆け上がったことになっている。そもそも重力に逆らって洪水が丘の斜面を駆け上がるわけがないので、この図を認定することは万有引力の法則にケンカを売ったに等しいのだ。
この氾濫量がないとするならば、答えは一つ。国交省の洪水計算がインチキだということなのである。どこがインチキなのかも、原告・控訴人側は完璧に立証した。
八ッ場ダム計画におけるねつ造図
(出所)国交省・関東地整「利根川上流部(八斗島上流)の浸水想定区域図」第6回の利根川・江戸川有識者会議に提出した「資料-4 昭和22年9月洪水の氾濫量の推定について(参考)」
http://www.ktr.mlit.go.jp/river/shihon/river_shihon00000204.html
八ッ場ダム訴訟の東京裁判では大竹たかし裁判長は治水に関して、控訴人の主張が正しいと「認められる余地があるとしても、これが明白であるとは認められない」という苦しい作文をして東京都に勝たせた。
八ッ場ダム訴訟の千葉裁判では、加藤新太郎裁判長が、自分の頭で考えることを一切放棄した上で、「日本学術会議の専門家が正しいというんだから正しいのだ」(正確には、「日本学術会議は第三者で独立性の高い学術的な機関であり、・・・・・その内容は科学的合理性を有するものと判断される」)という、恐るべき愚劣な作文を書いた。
小学生以下の作文である。小学生だったら、権威があるかないかで判断するようなことはせず、自分の頭でどちらの主張が正しいか判断しようとするだろう。決して権威に媚びたりはしないはずである。権威がある方が正しいという判断が妥当なのであれば、必ず国の方が権威があるのだから国はすべて正しいということになってしまう。小学生はそのような愚劣な思考はしない。
そして、先日は茨城裁判において、園尾隆司裁判長、吉田尚弘裁判官、森脇江津子裁判官の3名は、加藤新太郎裁判長の愚劣判決をさらに下回る、極悪判決を出した。この判決、小学生以下というレベルですらなく、人間としてすでに終わっているというレベルである。
どこが極悪かというと、両者の言い分を比較検討するという最低限の作業すら放棄、たんに行政の言い分をリピートしただけの超サイテー判決文なのである。住民側の主張に関しては無視を決めこんで、事実関係の妥当性について何か判断しようとした形跡すらない。
判決文の全文はこちら。
http://www.yamba.sakura.ne.jp/shiryo/ibaraki_k/ibaraki_k_hanketsu.pdf
園尾裁判長は、住民側が何を主張したのか、全く認識していないし、はじめから認識しようとしていないのだ。だって、この裁判長、審理中に堂々と居眠り(-_-)zzzしていたのだから!
裁判長が寝ていた件にかんしては、まさのあつこさんのブログの「裁判長、起きてください!」という記事にくわしい。下記、参照されたい。
http://seisaku-essay.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-a94e.html
法廷を侮辱するこのような愚劣な男に裁判官などやる資格はない。
裁判官としての適格性うんぬんよりも、結局のところ人間性の問題に行き着くのだと思う。この連中は人間として終わっている。
裁判官はあまりにも世間を知らなさすぎる。最低限の正義の感覚も持ち合わせていないし、事実関係の真偽を科学的・合理的に判断することさえできない人間も多すぎる。裁判所という閉鎖空間の中で、まともな人間性が形成されるとは思えない。法曹一元化で、弁護士と裁判官を定期的に入れ替えた方がよいだろう。
最近、瀬木比呂志著『絶望の裁判所』(講談社現代新書、2014年)という本が出た。八ッ場訴訟の西島弁護士から紹介してもらったので早速買ってきた。これから読もう。
PS もっとも路木ダム裁判と八ッ場ダム裁判の違いは、2級河川か1級河川かの違いも大きい。路木ダムは県営ダムなので、原告は直接県を訴えることができる。1級河川の国直轄の八ッ場ダムの場合、原告は国を訴えることはできず、各知事が国の計画に公金を支出するという財務会計行為(公金支出ほか)の妥当性を問うため、どうしてもハードルが高くなる。この点Kajiwaraさんのブログを参照されたい。
http://blogs.yahoo.co.jp/kajiken76xyz/62443382.html
新しい本を出しました。『リカード貿易論の最終解決』です。全体としては理論の本ですが、第1章の一部でTPP問題についても触れています。森林と保水力の問題についても、短いものですが触れています。
この3月末で中央大学を定年退職しました。
このたびは大著『リカード貿易論の最終解決』の出版おめでとうございます。さっそく購入させていただきます。
また長い間のお勤め心より敬意を申し上げます。退官後、授業などから解放されてますます研究時間は増えるのではないかと存じます。ぜひ、これからもすばらしいご研究で日本の経済学を活性化させていたただきたく存じます。
今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。
奥様にも、よろしく。
さっそく『リカード貿易問題の最終解決』購入いたしました。まずは大著の内容の深遠さに圧倒されました。お恥ずかしながら、国際価値論に関しては、私には難しすぎて、これまでちゃんと考えようとしてきませんでした。
もっとも、サミュエルソンの要素価格均等化定理など明らかにウソですし、2国間の技術水準を一定と仮定するヘクシャー=オリーン・モデルはリカード・モデルよりもむしろ後退しているではないかというのは、私も感じてきておりました。
ヘクシャー=オリーン・モデルによって現実的に何か意味のある分析ができるとは思えません。
これから熟読させていただきたく存じます。
じつはお恥ずかしなが、私も一昨年『自由貿易神話解体新書 -「関税」こそが雇用と食と環境を守る』(花伝社)という過激なタイトルの著書を出しました。
数式は一切使わない一般向けの本で、非経済学者による経済学批判という内容になっています。
その中でグレアムの貿易モデルを採用しています。塩沢先生も本の中でグレアムの貿易論を高く評価しておられるのを見て、わが意を得たりとばかり、非常にうれしく思いました。
私の本では、グレアムの命題、つまり工業が収穫逓増であるのに対し、農業が収穫逓減であるということを基軸に、国際経済の不均衡や失業や環境破壊の問題を論じようとしたものです。
本の中で論じた基本的なスタンスは以下の三点です。
(1)工業製品の収穫逓増と農産物の収穫逓減。
(2)工業製品の需要面で価格弾力性が高いのに対し、農産物は需要面で価格弾力性が低い。
(3)工業製品は基本的に「労働」と「資本」の2生産要素であるが、農産物は「労働」「資本」「土地」の3生産要素であり、しかも第3の生産要素である「土地生産性」の寄与度が大きい。
この三つの論点をベースに現実社会で発生する貿易に関する諸問題に切り込もうと試みました。
経済学者でないので、お恥ずかしい限りです。経済学者の方々には無視されて終わりだと思いますが、上記三つの論点は、貿易論において真剣に検討せねばならないと存じます。
PS 森林保水力問題にも言及してくださってありがとうございました。この問題、科学者のモラルはなくなり、国交省のダム建設に迎合するために、とんでもないウソがまかり通っています。私もかつて中央大学の河川工学の某教授に冒涜されたものです。
ぜひ塩沢先生にも関心をもっていただけると嬉しく損じます。森林保水力問題についての国交省と河川工学の虚偽に関しては、今度宇沢弘文先生との共著で本も出す予定です。何卒よろしくお願い申し上げます。
TPP関係では、あまり専門でもないことにまで言及することになりました。保水力の大切さは、昨年の豪雨でも分かります。嵐山が氾濫しましたが、あの景色を コンクリートでなくしてしまうわけにはいきません。海の場合も、同様でしょう。
上流に盆地をもつ川の場合、10cm/hの雨でも、それが一気に流れ込めば、どんなに高い堤防を築いても追いつきません。しかし、保水力があるなら(かつ数時間集中の短期の雨なら)10cm/hを1cm/hの流出量に容易に軽減できます。
ただ、日本の山は大丈夫かと心配になることがあります。もう数年前になりますが、中国道をバス旅行したとき、道から見える赤松が枯れたり元気がなかったりす姿には心が痛みました。
グレアムは、収穫逓増により貿易制限が利益になる場合があると主張しました。わたしの今回の本では、収穫逓増・逓減については一切触れていません。収穫逓増や逓減が、別の問題・論点が生ずることはわかっていますが、リカードとおなじく収穫一定を仮定したときにも、貿易の利益だけでなく、貿易の不利益もあることが言えます。
よくリカード理論は、貿易自由化を含意すると、自由化推進派からも、推進慎重派からも言われますが、リカード自身が当時のイギリスを所与として貿易自由化に賛成していたことはたしかですが、そのことはリカード貿易理論自体がそういうことを含意していることを意味しません。きちんと分析すれば、どういう場合に利益があるのか、不利益があるのか、見えてきます。不利益がある場合に、その不利益をどう補い、全体として中長期によりい状況に進むのか、そうしたことを真剣に考える必要かあります。
貿易摩擦がいろいろな場合におこるのに、経済学がそれをほとんど分析しないために、国際経済学は貿易の利益、国際政治経済学は貿易摩擦という、変な分業体制が生まれてしまっています。
第1章に触れたように、国際政治経済学と協力できるような貿易理論が必要です。今度の本で、その第一歩が踏み出せたかなとおもっています。
関さんや他の気鋭の研究者がこの先、とんどん進めていかれることを希望もし期待もしています。
病院の副院長先生が、あそこまで真剣に経済学の勉強をしておられることに本当に敬意を抱きます。
TPPが医療関係者に与えた衝撃が、関係者を経済学の勉強に向かわせているのでしょうか。
私も最近、信州の長寿の原因は佐久病院の若月俊一先生の「予防は治療に勝る」という哲学にあるのではないかと考え、若月先生の本など再読しておりました。詐欺まがいの新薬やワクチンによる薬害が増え、医療費も激増して財政を圧迫する中、医浪費を下げながら長寿社会を実現できる若月先生の哲学はあらためて再評価されなければならないと思います。
経済学者以外のアマチュア経済研究家が増えると、とくに新古典派経済学者はうかうかして子供だましのデマを流せなくなるでしょうから、すばらしいことだと思います。
私も追って、私のブログでも『リカード貿易問題の最終解決』を紹介させていただきたいと存じます。
今年は週に9コマも授業を担当させられていて、授業準備でアップアップしておりました。前期が終わるまで少々お待ちください。
医療経済は、今後の日本経済を考えるにはたいへん重要な分野ですし、経済学者も真剣に勉強なしければなりませんね。現実には、なかなかそうはできませんが、秋山先生のような存在を知ると、やはり経済学者ももっとがんばらなければと思います。
『リカード貿易問題の最終解決』、ちかく紹介してくださるとのこと、ありがとうございます。たのしみにしております。もちろん、学期中はなかなかむりでしょう。
彼の回答は以下のようなものでした。「社会学者・経済学者はともに、体制の理論づけ、あるいはオルタナティブの提起のために研究を行っているので、アマチュアの研究サークルのようなものが成立しにくい。アマチュア研究者の域に達している人たちは、たいてい何らかの「活動家」だ。」
そして私は別の元同僚の社会学者に、「アマチュア社会学者」だと言われたことがあります。どういうことだ?
それはさておき、「アマチュア社会学者」「アマチュア経済学者」のたまり場をおおっぴらに確保できるのは、大学と博物館くらいです。随所に「研究会」がつくられ、そこからプロの牙城を脅かすようなアマチュア研究者が育ってくるようになれば、面白いですね。
アマチュア経済学者は、現在あまりいないだけで、経済学で大きなブレークスルを成し遂げた経済学者には、けっこうアマチュアがいます。20世紀で有名な人といえば、カレツキでしょう。いちおうイギリスにきて、LSEやケンブリッジ、オクスフォードに席を置いていますが、もともとポランドでは工学を専攻し、正規に経済学を学んだことはないようです。
ツガン=バラノフスキやローザ・ルクセンブルグなど異端の人たちの本を読んで経済学に入門しました。イギリスに来る前にポーランドで本を出しますが、そこには後の主な思想はすべて含まれているといいます。しかし、ケンブリッジでは、カーンやロビンソンに研究奨学金の延長を渋られ、やむなくオクスフォードに移っています。
いまではケインズ以前にケインズ経済学を発見したとか、ポスト・ケインジアンの3つの流れの一つの源流に数えられたりしていますが、1930年代は冷遇されていたというべきでしょう。
19世紀に入れば、ジェヴォンズとかパレートなどはエンジニアでしたし、リカードはもともとは株のブローカー、みなアマチュア経済学者です。もともと、1903年になるまでケンブリッジ大学には経済学のトライポス(卒業試験)もなかったのですから、それ以前の経済学者が経済学部出身でないのはほとんど必然です。
アマチュア経済学が素人考えであってよいということを言わなければ、専門が細分化されすぎて、理論の大きな枠組みをほとんど疑うことのなくなった今日、経済学を立て直すのは真剣に考えるアマチュア経済学者かもしけません。