大河ドラマ「八重の桜」であんつぁま・山本覚馬の口述書「管見」が登場する段になったら、「管見」と赤松小三郎の「御改正之一二端申上奉口上書」を比較検討する記事を書こうと思っていた。どうせ誰も書いてくれないだろうから、と。
ところが、嬉しい悲鳴だが、今月の『歴史街道』(2013年4月号)の山本覚馬特集で、新選組研究者として名高い伊東成郎氏が、覚馬の「管見」と小三郎の「御改正口上書」を比較検討し、「管見」の内容が、赤松の国家構想を引き継ぐ内容であることを明確にする論考を発表していた。記事のタイトルは「異才・赤松の意志を継ぎ、幽囚中に示した渾身の建白書『管見』とは」というもの。
一線の歴史研究者が書いてくれたのだから、本当に嬉しいことだった。これで私ごときが駄文を書く必要もなくなった。どうやら歴史学者のあいだでも、これまで不当に無視されてきた赤松小三郎を再評価しようという動きが出てきているようである。
あまり内容を紹介するとネタバレになるので控えたい。拙ブログの読者で赤松小三郎に興味のある皆様は、ぜひ『歴史街道』4月号をお買い求めの上、読んで欲しい。
ただ一点だけ紹介させていただく。伊東成郎氏も指摘していた通り、小三郎の「御改正口上書」と覚馬の「管見」は似ている中で、違う点もある。いちばんの相違は選挙権・被選挙権の範囲である。
小三郎は建白書の中で「人民平等」の原則を掲げ、下院議員の選挙権・被選挙権を百姓・町人など「門閥貴賤を問わず」全人民に付与すべきと説いている。覚馬は議員は本来であれば四民より選ぶべきであるとしつつも、士分以外に人材が育っていないため、当面は被選挙権を藩士に限るとしている。
互いに親友であった赤松小三郎と西周と山本覚馬は、慶応2~3年の京都にあって、来たるべき新体制の国家の構想を共に語り合う中で、それぞれの考えを練り上げていったのだろう。西周は幕臣だったので、やはり幕府主体の改革案を提起せざるを得ないという限界性を持っていた。
覚馬と小三郎に関しては、互いに深く共鳴しつつも、議員の選挙権・被選挙権に関して、藩士に限るのか全人民かという相違点が残った。おそらく二人は激論を交わしながらも、「ここだけは意見が合わねえな」と最後まで折り合えなかったのだろう。
二人の建白書を読み比べると、二人が「ああだこうだ」と激論を交わしている様子が目に浮かぶようだ。
小三郎にあっては、すべての人民を平等に扱うという信念には揺るぎはなかった。これは上田藩の気風に起因するのかも知れない。
私は、だいぶ前に、士分・百姓・町人の階級分化を意図的に進めなかった真田昌幸の政策と上田領の性格について論じたことがあった。下記記事参照。
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/562f8f6cb88bc989767b16d4e0b5eb5e
小三郎のラディカルなまでの平等主義思想は、決して外来思想の受け売りなどではない。真田統治時代以来の上田藩の歴史的伝統に根ざしているのかも知れない。
小三郎の目には、特権に甘えた上級武士などよりも、百姓や商人の方がよほど才気あふれる人々が多いように見えたのだし、実際、上田藩ではそうだったのだ。
横浜が開港すると、豪商中居屋を通していち早く生糸や蚕卵紙の輸出を始めたのが、上田の庶民たちであった。小三郎の目には、庶民たちの才気あふれる姿が眩かったのだろう。
幕末の輸出と上田藩に関しては、たとえば横浜開港資料館の館報にある西川武臣氏の下記記事を参照されたい。
「生糸貿易が始まった日」
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/113/04.html
「中居重兵衛とその資料」
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/101/04.html
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/101/04-2.html
ところが、嬉しい悲鳴だが、今月の『歴史街道』(2013年4月号)の山本覚馬特集で、新選組研究者として名高い伊東成郎氏が、覚馬の「管見」と小三郎の「御改正口上書」を比較検討し、「管見」の内容が、赤松の国家構想を引き継ぐ内容であることを明確にする論考を発表していた。記事のタイトルは「異才・赤松の意志を継ぎ、幽囚中に示した渾身の建白書『管見』とは」というもの。
一線の歴史研究者が書いてくれたのだから、本当に嬉しいことだった。これで私ごときが駄文を書く必要もなくなった。どうやら歴史学者のあいだでも、これまで不当に無視されてきた赤松小三郎を再評価しようという動きが出てきているようである。
あまり内容を紹介するとネタバレになるので控えたい。拙ブログの読者で赤松小三郎に興味のある皆様は、ぜひ『歴史街道』4月号をお買い求めの上、読んで欲しい。
ただ一点だけ紹介させていただく。伊東成郎氏も指摘していた通り、小三郎の「御改正口上書」と覚馬の「管見」は似ている中で、違う点もある。いちばんの相違は選挙権・被選挙権の範囲である。
小三郎は建白書の中で「人民平等」の原則を掲げ、下院議員の選挙権・被選挙権を百姓・町人など「門閥貴賤を問わず」全人民に付与すべきと説いている。覚馬は議員は本来であれば四民より選ぶべきであるとしつつも、士分以外に人材が育っていないため、当面は被選挙権を藩士に限るとしている。
互いに親友であった赤松小三郎と西周と山本覚馬は、慶応2~3年の京都にあって、来たるべき新体制の国家の構想を共に語り合う中で、それぞれの考えを練り上げていったのだろう。西周は幕臣だったので、やはり幕府主体の改革案を提起せざるを得ないという限界性を持っていた。
覚馬と小三郎に関しては、互いに深く共鳴しつつも、議員の選挙権・被選挙権に関して、藩士に限るのか全人民かという相違点が残った。おそらく二人は激論を交わしながらも、「ここだけは意見が合わねえな」と最後まで折り合えなかったのだろう。
二人の建白書を読み比べると、二人が「ああだこうだ」と激論を交わしている様子が目に浮かぶようだ。
小三郎にあっては、すべての人民を平等に扱うという信念には揺るぎはなかった。これは上田藩の気風に起因するのかも知れない。
私は、だいぶ前に、士分・百姓・町人の階級分化を意図的に進めなかった真田昌幸の政策と上田領の性格について論じたことがあった。下記記事参照。
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/562f8f6cb88bc989767b16d4e0b5eb5e
小三郎のラディカルなまでの平等主義思想は、決して外来思想の受け売りなどではない。真田統治時代以来の上田藩の歴史的伝統に根ざしているのかも知れない。
小三郎の目には、特権に甘えた上級武士などよりも、百姓や商人の方がよほど才気あふれる人々が多いように見えたのだし、実際、上田藩ではそうだったのだ。
横浜が開港すると、豪商中居屋を通していち早く生糸や蚕卵紙の輸出を始めたのが、上田の庶民たちであった。小三郎の目には、庶民たちの才気あふれる姿が眩かったのだろう。
幕末の輸出と上田藩に関しては、たとえば横浜開港資料館の館報にある西川武臣氏の下記記事を参照されたい。
「生糸貿易が始まった日」
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/113/04.html
「中居重兵衛とその資料」
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/101/04.html
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/101/04-2.html
それらをまとめて、拙ブログで記事にし、こちらの記事の下記のようにTBさせて戴きました。ご笑覧戴ければ幸甚です。
すばらしい記事をありがとうございました。渋沢栄一の『慶喜公伝』、飛鳥山の渋沢栄一記念館に陳列されているのを見たのみで、中身を読もうと思ったことは全くありませんでした。あんなことまで詳細に書いてあるとは、さすが渋沢栄一ですね。実に公平な記述だと思いました。
とくに、「蓋(けだ)し気運の然らしむる所、欧洲思想の模倣とのみは言ふ能(あた)はざるなり」という一文には拍手喝采を送りたいです。この一文は、渋沢栄一がぜひ書くようにと指示したのかも知れませんね。
横井小楠にしても赤松小三郎にしても、決して西洋思想の受け売りではありませんね。(小三郎に関しては、このブログの記事に書いた通りです)
http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/CH1.HTM
↑ 紹介して下さったこのサイトもすばらしかったです。私は、2010年3月に「赤松の建白書をネットで読むことができない」とボヤキながら紹介記事を書きました。上記サイトは2010年11月にアップして下さったとのことです。私のボヤキが通じたのかどうか分かりませんが、大変にありがたいことでした。
こうして見比べると、「船中八策」と呼ばれる文章の由来がはっきりするかと思います。
なお、国立国会図書館の近代デジタルライブラリー↓
http://kindai.ndl.go.jp/
に、越前藩の続再夢紀事も、全文のデジタル資料が公開されておりました。これで慶応3年5月17日を見れば、赤松建白書の原典も読めます。
ついでに『慶喜公伝』も検索したら、すでに公開されていました。
つい最近公開されたようです。ごく一部の歴史学者ばかりが目を通していたような貴重文献に、一般人も簡単にアクセスできるようになったのは、画期的なことですね。デジタル化の恩恵はすごいものです。
それでは今後ともなにとぞよろしくお願いいたします。
こちらこそ、宜しくお願い致します。
国立国会図書館近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/
で、詳細検索ウィンドウにて、「赤松小三郎」を検索したところ、次の4点がヒットしました。既にご存知の向きもあろうかと思いますが、念のため。
①赤松小三郎先生
藤沢直枝 編 (信濃教育会小県部会, 1917)
②郷土先賢遺文
信濃教育会埴科部会 編 (信濃教育会埴科部会, 1940)
目次:赤松小三郎に贈る
③信濃之人
信濃史談会 編 (求光閣書店, 1914)
目次:上田 赤松小三郎
④小学国史教授用郷土史年表並解説 図書
更級郡教育会 編 (更級郡教育会, 1937)
目次:上田藩士赤松小三郎洋式教練を研究す
を改めて、NDLの「続再夢紀事」であたり、該当する各頁(10ページ)をPDFファイルにして、ダウンロードできるようにしました。これが赤松の御霊への鎮魂に少しでもなればよろしいのですが。
renqingさんの記事に触発され、最近読んだ『講座明治維新 第2巻』(有志舎)の紹介記事をアップしてみました。
おひまがございましたらご笑覧ください。
上田藩はというと、かつて真田家に仕えていた郷士たちが江戸時代には帰農してわんさかいて、何かあれば百姓一揆をおこしていました。全国でも有数の一揆多発地帯でした。しかもだいたい百姓の要求は通っています(首謀者の打ち首と引き換えですが・・・・)。しょっちゅう一揆が起こるので、松平家も戦々恐々としていました。
この辺の風土の違いは、たしかに、覚馬と小三郎の見解の相違の背景にあるのかも知れません。