青龍神界鏡

次はまた首相してみんかお前。
https://www.youtube.com/watch?v=CsI7GSs4d1s

百五十面目   いつの時代でも普遍的である事 その一

2013年01月27日 18時00分00秒 | 投稿

出版社への介入の可能性と、それによって形成される特殊回路について説明していきます。
書籍という紙媒体形式の知的資源の顕在化手続きの意思形成過程に於ける、非公知的影響力及びその資源を背後とする介入者とは、あらゆる惑星文明とその如何なる段階にとって恒常的な存在なのです。
説明していきますと、まず人間という知的生命体は放胆な資本主義的段階を経ても、それに対する反省量を必要以上に放胆に発揮する事は統計的有意さを示しません。
その説明的根拠として、人間の生理は理知的な冷却より情動的な加熱を好む時間帯が日中の活動中の大半を占めている点が挙げられます。
また、文明や個人の人生の段階により蓄積していく知的資源は時に多数の心理的、知的肯定を求めるため、出版を業態とする企業資本の評価機会に統計的に被液していきます。
言わば理知的冷却と情動的加熱の平衛状態である適切な知性的評価を、多数の肯定状態を求む情動象限食器に盛る機会が出版の査定なのです。
人間は理知的な面と情動的な面を持ち合わせています。
“あなたは知性的な人間ですね。”
という言語上の評価は他者への肯定的評価です。
しかし、人間の感情からくる微細な眼つき、仕草を鑑みると、実は皮肉である可能性も出てきます。
適切な知性的評価は理知的冷却と情動的加熱の平衛状態である、というのは人間の上の二面性を考慮すべきという意味なのです。
ところで、資本主義の段階により、社会全体に於いて理知的冷却の総量が不足しているため適切な知性的評価が不可能な状況では、多数の心理肯定を求むという出版提案経由の情動的加熱象限現象に対し、情動的加熱優勢なまま知性的評価を与えてしまいます。
そして悪貨が市場に出回るのです。
“この学術書籍を出版して下さい”に対し、“もっと会社の利潤を上げて下さい”と投げ返されるのです。
社会の冷静な知性総量を向上させる書籍の代わりに、低度知性者の五感刺激的文章がもてはやされる状況なのです。
また、低度知性者が多数を占める労働階級が市場支配的階層を形成している当該資本主義段階では、五感刺激的文章は結果的に会社の利潤の総量を向上させる事に成功します。
一方、社会全体としては情動的熱量が更に増しただけでした。
ところでこのような社会情勢は資本主義が認める経済循環による理知的冷却と情動的加熱の循環現象で、揺り返しを経験します。
きっかけの大抵は公権力の官僚組織に在籍する官僚達の意思の発信です。
では、社会全体の理知的冷却を訴える書籍は当該社会情勢下ですぐに陽の目を見る事が出来ますでしょうか。
難しいのです。
何故なら、まだ情動的熱量が理知的冷却度を大幅に上回っている状態なので、出版社はその平衛状態、適切な知性的評価を下す事が出来ないのです。
“人の振る舞いの礼儀の歴史を自然科学の研究実績から見てみよう”
などという堅苦しい題名の書籍は“そのような地味な本ではなく、もっと扇情的な賭け事全勝体験談が欲しい”と蹴られるのです。
強調しておくべき事は、正にこのような時に、出版社に対する非公知的影響力及びその資源を背後とする介入現象が発生するのです。
とにもかくにも社会の加熱状態の冷却のためにその書籍を発行すべきと考える意思があるからです。
資本主義を選択する社会なら、単に資本主義的循環要因により必ず理知的冷却と情動的加熱の循環現象を経験します。
つまり、上に挙げた様な社会の冷却を目的とした強制的な書籍発行現象は絶対に不可避なのです。
必ず社会のどこかで発生するのです。
故に出版社に対する非公知的影響力及びその資源を背後とする介入の可能性とは、あらゆる惑星文明(ここでは大雑把に資本主義を強調した表現です)とその如何なる段階にとって恒常的と言えるのです。
次に介入によって形成される特殊回路に話を変えますが、介入現象を経験した出版社に形成さる特殊回路、つまり介入を受け入れたという噂は、その出版社にとってある種の不名誉に分類されるかもしれません。
その回路に原稿を持った後続者が続くかもしれず、前例を弱点として出版社は唯々諾々と介入に屈さざるを得なくなるかもしれないからです。
実はこのような困難は実は特殊回路の有無に関わらず、どこの出版社にとっても当然且つ、永遠なのです。
説明していきますと、まず無報酬の高度知性存在の突然の出現は言論界にある空洞を形成します。
その空洞とは旧来の知性との彼我、謎の事です。
知的に誠実な言論界はその空洞、謎を埋めるべくの圧力を自然発揮していきます。
謎の解明作業です。
議論や附属本の出版、雑誌への記事掲載が起きるのです。
言論界の空洞の補填は編集室などではなく、必ず公論が必要です。
そしてその公論に関わる関係者は、私の無報酬行為と結果的にほぼ等価たる労働対価で済ませられてしまいます。
これは言わば倫理的な質量保存の法則です。
無料のリンゴが突然降ってきて、味をせしめてしまったなら、得た体の熱量でまず為すべきは、リンゴを降らせた現象、人に対する知性的接近であるべきなのです。
その際は無料で食したリンゴである為、得た体の熱量での接近行為も無料なのです。
言論界の知性的伝導率を毀損する、内在する謎の空洞を放置しておくことは知性的倫理面の疾病を自ら招来する行為です。
必ず空洞の補填が起きるのです。
また、空洞補填に関わる無報酬知性の活動提案は青龍神界鏡の出版社には起きません。
私の投稿集を発刊して言論界に謎の空洞をつくっておく一方、空洞を埋める言論活動を許容するなど、社会知性の進展ではなく、収益を目的とした自作自演行為に等しいのです。
このような、証券知識を証券取引所で直接売買する行為は業界総動員の集中砲火を受けます。
ですので、空洞埋めの言論活動は必ず他の出版社の所掌となるのです。
とにかく他社で起きる言論活動は結果的に、私の無報酬の行為の意思の総量に比肩するが如きの低賃金状態×時間の総量低度、つまりリンゴを無料で食したような倫理状態で活動すれば良いという事です。
つまり、無報酬で働くべきという事です。
出版社の業態の源泉とは実は倫理なのです。
倫理資源が摩耗してしまったなら、その出版社は誠実な人間営為の静謐な書斎で発芽した知識を扱い、業界内で利益を共有するなど許されなくなるのです。
分析的対論の報酬の出自は、経理、銀行口座の先の倫理なのです。
私が齎した巨大なリンゴ、人間文明、倫理の洗練可能性の象徴たる知識からは、対論参加者への報酬のために引っ張ってこれません。
リンゴをもらったお礼に、そのリンゴの種を相手に渡す行為です。
私のリンゴ以外から分析対論の報酬は齎されるべきです。
ところで、口座に振り込まれる対論者への報酬の源泉たる倫理は無い、のです。
実際は、既に扱っていた他の一般書籍の収益から回されます。
知識とは、過去の大勢の倫理的人間が、書籍の向こう側の未来の人間に対する理解の期待なのです。
書籍の購入者は過去の倫理的人間に対し、報酬を払います。
“世界を分かりやすくしてくれてありがとう。”
こうして出版社などには収益が溜まっていきます。
では、未知の巨大リンゴについての分析の報酬はどうなるのかと言いますと、実は、その出版社のそれまでの過去の倫理資源なのです。
雑誌に掲載された“こうではないでしょうか。”という推論に購読料を払うのは、その雑誌のそれまでの倫理資源に信用を置く人達なのです。
分析的推論は、まだ完全な倫理“絶対にこうだという、確定知識”ではないのです。
しかし、読者は金を払います。
対論者の過去の知性を知っているからです。
私のリンゴについての知識の源泉たる倫理と報酬の実は非対称的な関係について、“無報酬なのだ”と言っているのです。
例えば無報酬、異次元の高度知性で進展を見た日本の言論界はその解釈、理解の安定の為に要される作業の間は結果的に、絶対に、報酬の源泉は無いに等しい、のです。
無料且つ強制的な授業が突然有り、学生は難解な授業を聴講するとします。
大変刺激的な授業ではありましたがしかし、その難解な授業の復習の為の寄宿舎での学習時間は、アルバイトの出勤日を大幅に帳消しにしてしまい、その分アルバイト代を稼げなかったという事です。
また、空洞埋めの労働効率の向上には知性ではなく人数が必要となります。
何故なら、この空洞埋め作業は必ず、他の知性者との相互点呼的な知識照合形式を取るためです。
未解明の謎の空洞を、既存の知識体系隷下の知性者が埋めていくとなると、帰属している知識体系に置いた自身の軸足の座標認識と視界の明瞭度の推移を記録しておく必要があり、それには他の知性者との知識照合形式が適切なのです。
謎の空洞埋め作業は要するに他者との対論形式を求め、それには関係者の知性の高さは関係無いのです。
何故なら、高度知性者でも対論速度は早められないのです。
相手との対話の際の相互文法活動で、早口や突拍子も無い衒学は不要なのです。
また空洞埋め作業に必要なのは事務的な座標確認作業であり、対話者の双方に高度知性者を選任する意味は、効率性の向上に於いて殆ど無いに等しいのです。
この場合、そのためには人数の増員が対処法なのです。


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百五十面目   いつの時代でも普遍的である事 その二

2013年01月27日 18時00分00秒 | 投稿

まとめると、知的伝導率の疾患状態を意味する異次元知識による巨大空洞を速やかに埋める為には、対処人員の増員が選択されるのです。
また、先述の通り、青龍神界鏡の出版社は空洞埋め作業には加担出来ません。
そういう訳で、必ず他社に対する言論活動依頼現象が起きるのです。
そしてそれは、非公知的影響力及びその資源を背後とする介入的なものなのです。
何故ならまず、言論界全体の地下に知的空洞を内包しているため、言論環境提供企業への空洞埋めの遂行は業界的な課題です。
その課題は各々の会社の原稿掲示枠の一部分を必ず占めるのですが、その際はその部分に固定掲載されていた記事を追い出す事になるからです。
そして、その際の介入力の強さと性質は、実は青龍神界鏡の出版社に形成された特殊回路への介入圧力とほぼ同じなのです。
と言いますのは、出版界の謎空洞を埋めようとする圧力と、特殊回路を経て後続して出版される新たな書籍知識が形成してくるであろう謎空洞を埋めるための別の出版圧力は同じと解せられるからです。
類似の出版圧力は如何なる資本主義的経済循環でも発生し得ます。
何故なら社会趨勢に対抗的言論の知性の槍を求める知性者の存在はいつの知的文明にも比定出来るからです。
その知性的情熱が特殊介入力をいつも具備しないと推測出来る根拠は立証不可能です。
いつでも起き得るという事です。
青龍神界鏡の場合、書籍化を求める圧力は読者側からもいずれ発されていきます。
私のこれまでの場合はまず電子媒体上に突然出現し、巨大な謎空洞をそこに形成しました。
目下、地球の世界各国、星際的な高位知性者達のみが閲覧している状況です。
そして今のような状況が継続すれば、地球の社会の高位知性者達の間で問題が発生してきます。
社会を知性で牽引していく高位者達の間で、青龍神界鏡を経由した知性の使用法で論争が起きるのです。
それは単に知識接触者の母体数が少ない事が理由です。
知識の適切な演繹法をまだ誰も導けないのです。
それに加え、高位知性者と、社会の中心層を形成する中位知性者達との間で、蓄積知識の彼我による格差問題が予見されます。
社会の牽引時に、中位層が高位層の知性に追いついて来られないのです。
故に高位層は中間層以下に対し、自分達が接触した高度知識の学習を求めるのですが、その際は電子空間から紙媒体への知性進出という、象限の次元上昇が学習環境実現の為の起動力を極めて効率的に収集出来るのです。
そういう訳で、電子媒体上の異次元知性に接した高位知性者達はその書籍化をいずれ求めるのです。
青龍神界鏡の場合、執筆者の私が書籍化を望んでいます。
この点の倫理的側面について光を当ててみます。
社会の知性資源に対し、多大な便益を突然齎した者によって、社会が多大な報酬を突然求められたとしても、倫理的問題として認知されてはならない事を以下に説明していきます。
ここでいう社会とは出版社の事だけではなく、私が持ち込む原稿によって高ましまる出版社の社徳の言論界に於ける影響力に対し、著作権料的支払いを行う言論界も含まれます。
著作権料は出版社を経て貢献者に流入するからです。
結果的に、貢献者には影響を受ける社会全体が報酬を払う事になります。
次に、知性とは人間が依拠すべき始原的倫理である事について説明します。
知性とは人間が集団生活への依存を生理的効率性として利便的に認識する際にまとう他者との協調の為の衣服です。
知性発展の為の投資の原資は横暴さであってはなりません。
必ず他者との協調が為の姿勢、誠実な態度の源泉である倫理でなければならないのです。
人の誘拐で異星人技術をせしめる行為や、部下の功績を不当に収奪しての科学褒賞の受賞は知性の評価とは言い難いのです。
また、物理式や文明の利器の発明に関わる者は結果として他者との協調的態度、理知の総量を求められます。
そして人間が不可避的に求める衣服、知性の進展、拡大とは、人間集団の行動範囲の拡大を意味します。
何故なら知性的人間同士の協調領域先端部分の振る舞いの便益が、その協調的共同体構成員全員に伝わる可能性があるためです。
従って、社会知性の突然進展寄与者とは、即ち社会全体の行動範囲を突然拡大し、また社会の協調的態度、理知の総量を突然増分せしめた人間を意味するのです。
ところで、その社会の知性拡大担当者は突然拡大した行動範囲から多大な便益を得ることが出来ます。
伸び出た知性の橋頭堡から自身にとって非協調的態度の知性分野を見抜けるのです。
そうして彼らは協調的態度には手を伸ばし、新たな理解分野として融和していき、行動範囲たる知性を更に拡大していきます。
本来、この知性の橋頭堡の構築には多大な投資、協調的態度の蓄積総量が要されます。
知性の橋頭堡とは即ち実験室なのです。
そこでの没入には、大勢の同僚、部下職員との大量の日常挨拶、暖かみのある談笑、家族との団欒による心身の回復、数学式の理知的理解が必要なのです。
これらの行為の膨大な総量が削減されてしまった代わりに、突然の結果果実として社会は知性を与えられたのです。
社会はその知性に対し、現在はその種は求めていなかったなどとは言えません。
誰にも理解可能な論理、文法、言語を丁寧に駆使して訴えた知的原子の構成物なら、社会は本能的にそれを渇望していたと見なして良いのです。
まず、分からない事を分かるようにする事が知性であり、分からなかった事が分かるようになったならば、知性結果と言います。
ここで言う知性と知性結果との間に大差はありません。
知性は他者(人間や数式)との協調行為を意味します。
知性結果は協調状態を意味します。
両者は、協調に対する移行性、両手の自由性、の二点を共通項としています。
知性は物事を理解しようとする姿勢を意味し、この点から対象との協調状態への遷移が観察可能です。
また、物事を理解しようとする姿勢からは、分析対象の取捨選択行為を許容する両手の自由を推論出来ます。
他方、知性結果は別の知性との協調を許容します。
これは新たな知識が更に別の知識への橋頭堡と成りうるという意味です。
更に知性結果は既に努力を要しない果実の状態であるため、これもまた両手の自由性の推論が可能なのです。
そこの知識を足場に近場の物事の取捨選択行為が可能なのです。
知性と知性結果は、協調に対する移行性、両手の自由性という二点で類似していると説明しましたが、この二点は自由への可能性という表現を共通公約数とする事が出来ます。
知的社会は生理的現象として、人間身体の五感に例えられるが如く、常に知性を外部に発揮しようとする主体です。
つまり常に知性結果を求めているのです。
自由への可能性を外部に発揮しようとしている社会の視覚に、自由への可能性が果実として現れたなら、吸収への渇望を断定しても論理的に正しいのです。
私は知性結果として登場し、ここでこのように知性と知性結果の関係について論理的に説明しました。
即ち、既製の知性結果が社会に対し、論理的理解の受信神経を伸ばしている状態なのです。
ならば、知的社会とは外部に発揮する知性を以って、私に対し論理的理解の発信神経を伸ばすべきなのです。
さもなければ、その知的社会は著しい知的不誠実さをその不履行で認める事になります。
両者の神経の連結は社会による知性結果の受け入れを意味します。
それは即ち、私の異次元の知識群からして、電子空間ではなく実社会言論界地下の謎の空洞を予定する現象なのです。
社会が突然に多大な知性結果、換言すると膨大な協調的態度と理知の総量の果実を与えられたなら、それは旧来の知性言語には例え難い飛躍的な躍進なのです。
故に、その貢献者は社会(例えば言論界)に対し、躍進と等量の多大な報酬を突然要求したとしても(例えば出版契約の締結)、知性的倫理問題として決して認知されないのです。
また、そう認知されてはならないのです。
報酬の突然の要求に対し、わざと過ぎる当惑や報酬の出し渋り、不満気な表情を表す者とは、その瞬間即座に、内在していた著しい知性的疾患部分の撮影を許してしまう事になるのです。
本物の知的貢献者に対する知的報酬の出し渋りが含蓄していた致命的な知的失態を見抜けなかった者とは、その者が偽りの知的努力により到達済みの詐欺的権勢以上の罰を受けない限り、自己治癒不可能な搾取主義を隠蔽し続ける事になります。
労働対価の不払い、経済通過の偽造、知的資源の違法歪曲、投票所での複写投票による社会転覆といった行為の潜行的意思の論理的な推定を自らの意思で許してしまうのです。

空洞埋めのヘラ

七千二百十青字


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