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川真田勝敏中尉 その二

2010-07-22 | 海軍人物伝


変わり映えしない画像ですみません。
なにしろ、今出先なものですから、画像が新たに制作できないのです。
川真田中尉の記事に思ったよりアクセスが多いので、立て続けになりますがアップさせていただくことにしました。

前回、笹井醇一中尉と海兵六七期同期、三五期飛行学生戦闘機専修の川真田勝敏中尉のラバウルでの戦績とその戦死についてお話ししました。


「全員が戦死した」と書いた、その35期の戦闘機専修学生で、この川真田中尉の後を受けたのも、やはり同級生の渋谷清春中尉でした。

この渋谷中尉も「緒戦ですでに相当な実戦経験を積み、その後、元山航空隊―二五二空で分隊長を務めて、今やコールマン髭を生やし、堂々たる指揮官の貫録を漂わせていた。若いながらもその風格は、部下も思わず惚れぼれするほどであった」
(「零戦隊長」神立尚紀著 光人社)

という、期待の隊長でしたが、11月28日に二〇四空に着任後、わずか二カ月後、1月23日の船団哨戒の際グラマンF4Fと交戦し戦死します。

戦後「死ななきゃラバウルから帰れない」という言葉は、激しい消耗戦であったラバウルの悲惨な戦いの表現として使われています。
士官搭乗員においてはそれは「ラバウルに行った中尉は大尉にならないと帰れない」と言われていました。
つまり、戦死して昇進しないと帰ってくることはできない、と内地で囁かれていたそうで、実際、飛行学生を卒業し、すぐさま実戦に出て、ただでさえ短い戦闘機乗りとしての寿命はその後数カ月、というのが当時中尉クラスだった六七期海軍兵学校卒士官の運命でした。

しかし、そこで実際戦っていた搭乗員たちは、決して「心ならずも巻き込まれた過酷な戦争」に絶望していたわけでも、ましてや死刑宣告を受けたかのようなあきらめの中で戦っていたわけでもありませんでした。

確かに実情は「死ななきゃ帰れない」であり、おそらく生きて帰ることは無いだろうという覚悟はあったものの、搭乗員たちの意気はまだまだ盛んであった、と大原亮治飛曹長は当時をこう語っています。

「そんな悲壮な気持ちではありませんでしたよ。
戦闘機乗りのモットーは“見敵必墜”、消極的な戦いをする者は一人もいませんでした」

もっとも、駆逐艦村雨の砲術長、鹿山誉大尉は、ブインで二〇四空の面々を見かけてこのような回想を残しています。

「本部は小さなテントの中に、二〇四空司令森田千里中佐、第二分隊長の宮野君(宮野善治郎大尉)髪を伸ばした同郷(徳島県)の川真田勝敏君がいた。誰も皆苦労の様子が顔に表れていて、海上部隊が文句を言えるどころではないと思った」

これが10月15日のこと。
戦闘以外でも、悪天候、そして基地の整備が間に合わないため、着陸時に零戦が大破したりして、まさに消耗の真っ最中だったことが覗い知れます。



同期生の証言や、残された手記からおそらく率先垂範のファイタータイプであったと想像される中尉は、そのわずかな戦歴に単独でも3機撃墜の記録を持っています。
中隊長としても期待され、大原飛曹長の言うように果敢に戦闘機を率いて戦をしたのであろう中尉自身にとっても、戦闘ではなく、悪天候に命を奪われるという最後はさぞ無念であったろうと想像されます。

今日は、残されたわずかな資料から川真田中尉がどんな人であったか伺い知ることのできる記事を挙げてみます。


昭和17年10月20日、ガタルカナル島攻撃におけるグラマンとの戦闘で「サムライ零戦隊」の著者、島川飛曹長の親友、玉井勘兵曹が未帰還となっています。
島川飛曹長によると、この出撃の少し前、川真田中尉はこの玉井兵曹に「貴様は卑怯だ」という叱責をしたというのです。

島川兵曹は「理由は分からないが」としながらも「玉井を卑怯者呼ばわりした川真田中尉」と、暗にその出来事を非難するかのような表現をしています。
(島川兵曹の記憶は「二人は同じ日に戦死」と記しているのですが、ここでは公式な記録にのっとっている「零戦隊長」の中の記述に準じます)
当事者二人はほとんど同じ時期に相次いで戦死してしまい、今となってはそのとき何があったのかは永遠に謎となってしまったのですが・・・・・。


さて、先日、国会図書館で海軍67期史を閲覧したときに、この川真田勝敏中尉について親友の今泉理氏が書いた思い出の記を発見しました。

それによると、江田島時代の川真田生徒はスポーツは何でも得意だったということで、泳ぎの下手な今泉氏の手を取り脚を取り教えてくれたのだそうです。
やはり、戦闘機専修の学生には運動の得意だった者が多かったようです。

今泉氏の記憶によると、川真田中尉は、もしかしたら思ったことをそのまま言ってしまう性格ではなかったでしょうか。

「貴様は胴長でスタイルが悪いからかがんだ方がいい、俺が立つ」
短足の私を庇って二人で写真を取るときは決まって彼は立ち私は腰を下ろしたものだった」

「貴様の声は歌にならないな」笑いながらよく歌ったのは”ああわが戦友”で、特に3番が好きだった。

 
さらに今泉氏の述壊。

向こう意気の強い荒武者風の彼のどこにそんな優しい思いやりがひそんでいるのだろうと考えさせられることは度々だった。何となく気が合って忘れられない男であった。
花も実もある武士とは云われるが二十歳にも届かぬ若さで、すでに彼には、私の遠く及ばない人間が出来上がっているように思われてならない。



ラバウルの「卑怯者」事件も、この率直にものを言う川真田中尉が、消極的な戦いをするなと部下を叱責したというのが真相ではなかったでしょうか。
指揮官としての責任を感じればこその「卑怯者呼ばわり」ではなかったかと、そして次々と失われていく仲間に恥ずべき戦いをするなという意味ではなかったかと、島川氏には川真田中尉のために釈明したいと思います。

兵学校の親友である今泉氏が生きて終戦を迎え、こうして私たちは川真田中尉のひととなりをわずかながらも知る機会に浴することができました。

しかし、誰にも知られず、戦記にも残らず、死んでいった若者たちの一人一人に当然のことながら物語があり、人生があり、彼を愛した人たちがあるのだということを、川真田中尉のことをこうやって追っていて、あらためて考えたことです。


最後に、川真田勝敏中尉が好きだった”ああ我が戦友”の歌詞を記します。


死なば共にと日頃から 
思いしことは夢なりや
君は護国の鬼となり 
我は銃火に未だ死なず




参考:サムライ零戦隊 島川正明著 光人社
   海軍67期史
   零戦隊長 神立尚紀著 光人社 

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