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記念艦三笠見学~「敵艦隊見ユ」久松五勇士

2013-05-18 | 海軍

前回記念艦三笠に訪れたときには
ただ目にしただけで通り過ぎたこの一枚の額入り写真。

二度目の見学をするまでの二年間に得た知識に
この「久松五勇士」の話もあり、今回は写真を撮ってきました。


「久松五勇士」というのは、戦前には教科書に載っており、
死んでもラッパを離さなかった木口小平などのように、
庶民の英雄としてその名を知られていたそうです。

彼等は軍人ではなく、その命を捧げたわけでもありませんでしたが、
国が興廃を賭けて臨もうとしている一戦に対して、国民の一人としての
義務を果たすため最大限の努力を成した功労者であり、
市井の民でありながら国家の危急にわが身を呈した忠義者、つまり

「あらまほしき戦時下の国民」

として称えられていたのです。


1905年5月。

日露戦争において連合艦隊は、すでに1904年(明治37年)8月の黄海海戦
ロシアの旅順艦隊、続く蔚山沖海戦ウラジオストク艦隊にも勝利し、
極東海域の制海権を確保していました。
そして旅順艦隊を壊滅させた後も聯合艦隊は怠りなく準備と情報収集を続け、
バルチック艦隊の迎撃を今か今かと待っている状態でした。

日本としてはバルチック艦隊がロシア・太平洋艦隊と合流する前に、
なにがなんでもこれを叩かなければならなかったのです。
それを許してしまえば日本は制海権を失い、大陸の陸軍を孤立させることになり、
日本の勝利は無くなります。

つまり、この状況を鑑みると、アオリでも脅しでもなく、秋山参謀の言う

「皇国の興廃」

は、日本の存亡がバルチック艦隊を討てるかにかかっていたということです。
敵の動きを一瞬でも早く補足することがそれには必須でした。


5月14日、バルチック艦隊、フランス領であったベトナムのカムランを出港

5月19日、フィリピンのバシー海峡を通過したという情報あり


しかし、この後聯合艦隊はバルチック艦隊の行方を見失います。
血眼でその後の行方を追っている中、


5月23日、宮古島沖を通過するバルチック艦隊を地元民が目撃


この目撃者というのが奥浜牛(うし?ぎゅう?)という宮古島の漁師でした。
この牛さんがバルチック艦隊を発見すると同時に、バルチック艦隊の方も
たった一人で漁をしているこの東洋人を認めています。

これが日本人であれば、艦隊の通過を報告されるかもしれません。
しかしロシア側は彼を捕まえることをしませんでした。


なぜかというと、この牛さんの漁船が立てていた大漁旗が龍の図柄で、しかも
牛さん自身が島の風習から長髪にしていたため、

「あれは中国人でスカヤ。見逃しても大丈夫だビッチ」(ロシア語)

と、甘い判断をしてしまったのです。
この件においても、戦争している相手の文化風習に知悉することは、
大事な勝利への一歩であるということがいえると思います。

大漁旗を旭日にしていなかったのは牛さんにとって幸運でした。
恐らく生きた心地もしないままバルチック艦隊が通り過ぎるのを見た奥浜牛さん、


5月26日午前10時帰港し、巡査を伴い役場に駆け込み、それを伝える


ここですでに発見から3日たっていることにご注目。
牛さんの船はサバニと言われる丸木をくり抜いた手漕ぎだったのです。

とにかくその報せに役場は騒然となります。
どうやって本土に伝えるかが至急協議されました。

なぜなら、この島には、通信施設が全くなかったからです。



ここでまず驚くべきは、宮古島の小さな村の漁師が、当時の日本の戦況、
聯合艦隊がロシアを迎え撃たねばならず、それを血眼で探している、
という状況を知っていたということです。

♪ 電報無え 電話も無え 生まれてこの方見たこと無え
電気は無え ラジオも無え 天然色映画は何モノだ?

通信施設が無い、つまり電気が敷かれていなかったのでしょう。
世の中のニュースを彼らはおそらく一週間にせいぜい一度、
本土から来る新聞で知るのみであったと思われます。
艦隊を見るなり、「これは敵国のものだ」と判断し駐在所に駆け込み、
それを上に至急報告をしなければならない、という判断をしていたわけです。

明治時代の離島の、しかも一漁師がこれだけの見識を備えていたというこの事実。

日本の教育や徳育の普及というのは、当時からほとんど地域格差、
ある程度までは経済格差さえもなかったのではないか、と思わされます。


さて、役場は、この情報をどうやって海軍に伝えるかを村の長老たちとともに協議し、
郵便局を備えていてかつ無線電報が使える隣の石垣島まで船で人をやることにしました。

しかし、隣と言っても宮古島久松から石垣島までは170キロ。
その距離を、モーターも何もついていない手漕ぎの丸木舟、サバニ
手で漕いで行かねばなりません。

村からは屈強の若者ばかり5人が選抜されました。
松原村の垣花善、垣花清兄弟、与那覇松・与那覇蒲兄弟、久貝原村の与那覇蒲です。
与那覇蒲という名前の男が二人いますが、このあたりは同姓同名だらけだったのでしょう。





この時の様子が、1969年公開の映画「日本海大海戦」で取り上げられていました。

集まった村人の中から選ばれる屈強の若者たち。
皆、責任の重さとこれから訪れる決死の航海に顔をこわばらせている。
その中のひとりが、松(松山善二)。
松の身重の妻が群衆の中から転がるように出てきて、夫に縋る。
固い決意に身構え、妻に対して予防線を張る松。

「止めたって無駄だぞ」
「あんたが、わたしのことを気遣って断るような男なら、離縁してやる」(うろ覚え)


そうしてすぐさま5人の男は船に乗り込み、
そして荒海を15時間、休まずに漕ぎ続け、石垣に到着します。
さしもの強靭な体力を持つ精鋭たちも、疲労困憊していました。

しかも無慈悲なことに、郵便局は港の島反対側にありました。

しかし5人の若者はあきらめませんでした。
あたかも友セリヌンティウスの命を助けにディオニス王の元に戻るメロスのように、
五人は30キロの山道を5時間かかって(10分で1キロのペースです)走り続け、

5月27日午前4時、石垣島八重山郵便局に到着

牛さんが役場に発見を報告してからなんと16時間後です。
背骨も砕けんばかりに櫂を漕ぎ、さらに山道を走り続けて16時間。
この勇気と悲壮なまでの使命感はいったいどこからくるのでしょうか。

そして、彼らの報告を受けて海軍に送られた電報は以下のようなものです。

 


五月二十八日午前七時十分 八重山局発   

五月二十八日午前十時  本部着

発信者 宮古島司、同警察署長

受信者 海軍部

本月二十三日午前十時頃、
本島慶良間間中央ニテ軍艦四十余隻、柱、二、三、煙突二、三、
船色赤ニ余ハ桑色ニテ、三列の体系ヲナシ、
東北ニ進航シツツアリシガ、内一隻ハ南東ニ航行スルヲ認メシモアリ
但シ、船旗ハ不明  右、報告ス


この打電を海軍が受け取ったのは28日の午前10時のことでした。
しかしみなさん。
日本海海戦はいつ行われたかご存知ですね?

そう、5月27日の午前11時に両艦隊遭遇、そして午後4時には終了しているのです。


1905年(明治38年)5月27日(海戦1日目)午前2時45分、
連合艦隊特務艦隊仮装巡洋艦「信濃丸」がバルチック艦隊を確認
此を無線電信で通報

「敵艦隊見ユ」

5月27日の午前3時近く。
久松の五人が、洋上を石垣に向かっていたころです。
つまり、彼らの報告を受けとる約一日前に、
海軍はバルチック艦隊発見の報をすでに信濃から受けていたのでした。


聯合艦隊はやきもきしながら敵艦隊の行方を追っていましたが、
全く音沙汰がないので、北海道に艦隊を差し向けようとしていました。
5月26日に随伴船を上海で確認したので、バルチック艦隊の航路を特定し、
対馬海域での両艦隊遭遇を確信するに至ったのですが、
もしこれがなかったら聯合艦隊は北海道に向かい、バルチック艦隊の通過を許していました。

しかし、この海戦においてはあたかも天が何が何でも日本を勝たせようと
最初からその結論を決めてでもいたように、二重三重に運は日本に向いたのです。




海軍が彼らの通報を受け取ったのは、これによると丸一日遅れですが、
遅れは「4時間」であったとされる説も流布し、
教科書などには「遅かりし一時間」などとされていたそうです。

話をドラマチックにするため、創作にあたって時間がある程度操作されたのでしょう。

どちらにしても、彼等の情報は日本の勝利には何の寄与もしませんでした。
国の興廃をかけた海戦は勝利をおさめ、国民が喜びに沸く中で、
五人の行為は大きく報じられることもありませんでした。

しかし、宮古や石垣の地元の人々はこの英雄的な行為を語り継ぎました。
昭和の世に入ってから、あるきっかけで彼らの話が取り上げられ、教科書に載ります。
「戦時の国民の気構え」を説く話として。

それから、一躍「久松五勇士」の名は全国に広まったのです。



この写真は冒頭の記念艦内のものですが、
もともとの写真がボケていて、名前が全く読み取れません。

15時間船を漕ぎ、30キロの山道を6時間走破したにしては
みんな老けているなあと思われませんか?

それもそのはず、日本海海戦勝利のときには地元以外では
話題にもならなかったこの話が再びクローズアップされたのはなんと昭和に入ってから。
つまり20年後のことです。
かつての若者もすでに中年となり、白髪になった者もいれば、
なんと墓石しか写真がなかったものも・・・・・。

この墓は垣花善(かきのはなぜん)のものです。
善は大正13年10月26日、49歳で死去してしまったので、
久松五勇士が郷土の英雄として再びその名を称えられ、改めて
沖縄県知事から顕彰されたこのときには、もうすでにこの世にいなかったのです。

この写真は沖縄で行われた表彰式での晴れ姿のため、全員が同じ場所で、
しかも同じ紋付袴で写真に納まっています。
そんな賞状に墓石の写真とは実に異様な感じがしますが、
もしかしたら垣花善は、生涯に一度も写真を撮ったことが無く、
したがって墓石を載せるしか本人のよすががなかったのかもしれません。

こうしてその行為が後世に称揚された彼等ですが、
戦後になって軍事色が日本全土から追放されると、教科書から彼らの名前は消え、
またもやその存在は、少なくとも本土には知る者がいなくなりました。

しかし、地元の宮古島、そして石垣島では地元の英雄を今でも忘れていません。



彼らを顕彰するモニュメント。
サバニと呼ばれる、彼らが漕いだ船を支えている5本の柱。
これは五勇士を表しています。



ローマ字説明入りの久松五勇士の碑。

地元では今でも彼らを称える与那国小唄、「黒潮の闘魂」が歌い継がれていますし、
あの決死行から百年経った2005年には、
「久松五勇士百年記念」という式典も行われています。
地元出身のロックバンドは彼らをテーマにした歌を歌い、
地元には「久松五勇士」という銘菓もあります。

先日、あたかも沖縄が日本から独立することが県民の総意であるかのように
報道する左翼だらけの沖縄で、久松五勇士の報告を打電した郵便局の在った地と同じ名の
「八重山日報」は、このような社説を出しました。

平和憲法の理念は崇高だが、中国や北朝鮮など
「平和を愛する諸国民」など沖縄周辺には存在しない。
憲法の規定と現実の国際情勢は乖離している。

憲法論議を小難しいものにするべきではない。
憲法は不磨の大典ではなく、私達が幸福であるために存在するのだ。



前述の映画「日本海大海戦」ですが、わたしの記憶が正しければ、
この松山善二扮する与那覇松をはじめとする五人の決死行は無駄ではなく、
信濃の「敵艦見ユ」とほとんど同時に海軍はこの久松五勇士の
「敵艦見ユ」をもまた受け取った、というように描かれていました。

勿論これは映画上の創作なのですが、もしかしたら映画製作者は、
せめて映画の中だけでも彼らに成功の栄達を与えたかったのかもしれません。


ところで・・・・・。

皆さん、この五人を称えるのに、わたしもまたやぶさかではないのですが、
ひとつだけ引っかかっていることがあるんですよ。
最初にバルチック艦隊を発見して、その情報をほぼ正確に記憶し、
海軍に伝わることを期してその情報を伝えた、あの奥浜牛さんのこと。

ある意味この人がこの件の一番の功労者ですよね?
体格に問題があったのか、どういう理由かはもう誰も知る由はありませんが、
とにかく五人に選ばれなかったというだけで全くスルーされている気の毒な牛さん。

ぜひこの久松五勇士に番外メンバーとして追加してほしいところです。






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2 Comments

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久松五勇士 (しん)
2013-05-21 18:44:04
(`・´)ゞエリス中尉殿、素晴らしいお話、ありがとうございました。知りませんでした。
しかし、すごい五人組です。
170Kmの外洋をテコギで・・・、気が遠くなる作業です。
15時間で到着とは、時速11.3Km! 6ノットです!すごい、凄すぎです。帆走するヨット並みの速度です。
100馬力のエンジンを積んだクルーザーで、全開で走っても7~8時間の航程です。
それに、満タンで出港しても燃料、足りないかもしれません。
(T_T)泣けるくらいすごい偉業です!
日本人て、素晴らしい!  (`・´)ゞ
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追伸です (しん)
2013-05-21 18:47:07
(`・´)ゞ5人組の速度は、東シナ海上のバルチック艦隊より、早いですよ!きっと。
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