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或る陸軍軍人の見た終戦

2011-11-22 | 陸軍

          

ある元陸軍軍人、N氏のお話を二回にわたってお送りしてきましたが、
もしかしたら業界の超有名人なので、ご存じの方もおられたかもしれませんね。

本日画像は、帝国陸海軍の軍装について豪華カラーで網羅した「軍装辞典」に掲載されていた、
陸軍士官学校の生徒の写真。
先日アップした士官学校候補生の軍装と少し違うことがあるとすれば、ベルト。
このベルトは、N氏が進む予定だった、陸軍航空士官学校独特のものです。

映画「ムルデカ」でも、この「捧げ刀の礼」をしているシーンが実に印象的でした。
最後のシーンで、インドネシア軍の軍人になったかつての仲間が、
命を捨てて戦った日本人兵士の墓の前でこの捧げ刀をやります。
インドネシア軍の捧げ剣の形は、日本帝国陸軍のものを踏襲しているのだと理解しました。

捧げ剣。
正面に刀を寄せ、まるで口づけするかのように捧げ持って、その後右下に払う。
ムルデカだけでなく、どんな映画でも、捧げ剣のシーンがでると目が釘付けになってしまいます。
この所作を「実に美しい」というと、左の方からいろんな罵声が飛んできそうですが、
美しいものは美しいわい!
かっこいいものをかっこいいと言って何が悪い!と、青筋立てて言い返させていただきます。

ここに来る皆さんなら、お分かりいただけますね?



N氏が在籍していた頃、士官学校は疎開していました。
疎開先にも関わらず、そして極秘にしていたはずにもかかわらず、ほどなくその場所は
アメリカ軍の知るところとなり、グラマンが毎日のように飛来したそうです。

未来の軍中枢を担う人材を、学生のころから潰しておこう、というこの攻撃は、
真珠湾攻撃にも見られるように、非戦闘員は決してターゲットにしたことのない日本と違い、
東京大空襲や原子爆弾の投下は勿論、
小学生や海中に漂う看護婦ですら掃射する「鬼畜米軍」であれば当然の所業です。

兵学校もやはりグラマンの襲来を受けたという証言があります。
しかし、眼と鼻の先の呉で派手にドンパチやっていたにもかかわらず、
海軍兵学校は爆撃されていません。
「世界三大海軍兵学校」のひとつであり、壮麗な歴史的建造物であったゆえ、
米軍はそれを破壊することなく保護し、勝利の暁にはそれを利用せんとする意図だったのでしょう。
カーチス・ルメイが
「これらの欧米風建築物を爆撃するのは自分たちを攻撃するようなものだ」と、
兵学校への爆撃を一切許さなかったため、という説もあります。
(現に、大講堂が礼拝堂になり、生徒館始め校舎は進駐軍に接収されました)


「グラマンが狙ってくるのを、電柱の陰に隠れてやり過ごしたんだよ」

N氏は、降下してくるパイロットと目があったそうです。

「ゴーグルかけてたけどね」

同じような年齢の青年を、機銃掃射で狙う米軍パイロットは、どのような気持ちだったのでしょうか。
しかたがないと思っていたのか。あくまでも敵意に燃えていたのか。


日本の敗戦が疎開地の士官候補生にすら明らかになってすぐ、終戦の詔勅が下りました。
其のとき、N氏は
「帝都に行き、終戦の詔勅を皆が受け入れているのか、
反乱を大規模に起こす動きがあるのか、見てきてほしい」
という命令を受け、東京に行きます。
これは、N氏の実家が東京にあったためだそうです。

軍令部に赴いたN候補生、反乱についての情報を得ようと何人かに訪ねるも、皆
「ここではわからない」

また別の日に「ある海軍軍人の終戦」について書く予定なのですが、
その海軍軍人の周りでも(潜水艦乗り)、周りの軍人たちは
「なんだか反乱をおこしている人もいるみたいだけど、よくわからないから様子を見ている」

みんなが起こすなら起こすけど、起こさないなら起こさないという、
なんというか、多分に付和雷同的な態度でいたようです。
・・・・実に日本人、ですね。


そしてその後、皇居に赴いたN氏の見たものは何だったと思われますか?

沢山の、たくさんの人間が、そこで切腹している光景だったのです。


終戦の写真で、有名な「皇居前で泣きながら土下座する人々」は、
実は、一足前にそれを知っていた新聞記者が、詔勅の下る前にその辺の人を集めてポーズを取らせた
「やらせ」であったことが、近年明らかになっています。
15日に記事を間に合わせるために、14日に「前撮り」したというわけです。
皆が振り向くと、写真を撮っていた記者は何故か男泣きしていた、という話でした。

終戦の詔勅は実は14日に渙発(かんぱつ)されています。
その日のうちに新聞記者に写しが手渡されているわけですから、軍関係者は勿論知っていたでしょう。

N氏が見たのは、一般の人々が、玉音放送を聞いて大勢集まってくる前の皇居であり、
そのとき切腹をしていた人々は、ほとんどが軍関係者ではなかったかと思われます。
N氏は詔勅の後でなく、渙発されてすぐ命を受け、玉音放送の直前に皇居に行った可能性もありますが、
それは聞きそびれました。


しかし、「どうしてそういったことが一般に知られていないのでしょうか」と尋ねると、N氏の答えは
「そんなことみんなに知らせたって、何の意味もないじゃない」

これは、皇国の敗戦に殉じるなどという行為が、もはや喧伝すべきでもなければ、
語るべきことでもなくなったと国民が判断した、ということだったかもしれません。


このような光景を瞼に焼き付け、徹底抗戦の動きも決して大きなものではないと判断したN氏は帰隊しました。

すると、そこで見たものは。
近くの工場に徴用されていた朝鮮人労働者が、手に手にこん棒などをもって、向かってくる様子でした。
日本の敗戦を知ったとたん、朝鮮人が武器を持ち、一般の日本人を襲いだしたという事実をご存知ですか?
その残酷さは、決して公の文書には残っていないのですが、
今まで育ててくれた日本人の養父母を虐殺したり、わざわざ日本軍の飛行服を着こんで狼藉を働く、
といった悪質なものが非常に多かったそうです。

彼らは統治された恨み、徴用された恨みを―戦勝国民気取りで―
乱暴したり、強奪することで晴らしだしました。
その様子に、マッカーサーでさえ「お前ら朝鮮人は戦勝国民ではない、第三国人だ」と勧告し、
この「三国人」が、当時の朝鮮民族を言う言葉になったくらいです。

N氏の見たのは、まさにこのような「恨み晴らさでおくものか」とばかり、
武装解除になったばかりの士官学校の学生に向かってやってくる姿でした。
武装解除された学生をわざわざ襲ってくる、というあたりが・・・・何とも言えません。

さすがの陸軍軍人も、今や丸腰です。
こん棒や鍬を構え、悪意をむき出しにする朝鮮人労働者たちを前に、緊張が走りました。
と、其の時。
隊長で、まだ帯刀をゆるされていた教官がすらりと軍刀を抜きました。
不気味なくらい美しい日本刀がその光を放ち、一同は静まり返りました。

軍刀を体側右側に立てて捧げ持つ礼をご存知でしょうか。
そのままの姿勢で、教官は生徒たちを従え、まっすぐ前を見て進んでいきます。
まるでモーゼの十戒のように、手に手に武器を持つ朝鮮人たちが二手に分かれました。
開けられた道を教官の日本刀は先頭に立って進み、N氏たちは暴徒から逃れたのです。
帝国軍人らしい、堂々とした態度で。


このあたりのことを、N氏は
「まあ、仕方ないんじゃないかなあ。彼らだっていろいろ恨んでただろうし」
と、内心はともかく、戦後何となくそのようにしか言えないからそう言っておく、という、
ほとんどの日本人と同じような言い方で評しておられました。
それは、我々のようにインターネットという情報媒体がなかった戦後を生きて来た日本人の、
「普通の処し方」であるともいえます。

因みに、本当に徴用されてきた朝鮮人の数は、全国で250人ほどであることが分かっています。


混乱のまま卒業した陸軍士官学校から、
「最後の陸軍士官」を認定する卒業証書がN氏の許に届いたのは、終戦後間もなくのことでした。








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