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レーダーピケット艦第一号〜潜水艦「レクィン」

2024-02-29 | 軍艦

潜水艦「レクィン」の見学途中ですが、ここであらためて
「レクィン」の艦歴についてみてみましょう。

■ 就役〜終戦〜”退屈な任務”

1945年4月28日就役した潜水艦「レクィン」(SS 481)の海軍キャリアは、
スレイド・D・カッター大尉が指揮官に就任し、
米海軍が潜水艦を正式に受け入れたその日の朝1130に始まりました。

80隻の「テンチ」級潜水艦は80隻受注されましたが、
そのうち建造されたのは25隻だけでした。
「レクィン」はそのうちの1隻であり、さらに同級で現存しているのは
「レクィン」と「トースク」 (USS Torsk, SS-423)2隻だけです。


USS「トースク」

「トースク」は就役が1944年12月だったので、戦線に赴き、
2回の哨戒で日本の艦船を4隻撃沈しています。

「トースク」は8月14日に2隻海防艦を撃沈していますが、それらは
第二次世界大戦において魚雷によって沈められた最後の軍艦となりました。

「トースク」が展示されているのはメリーランド州ボルチモアの博物館です。



就役後、「レクィン」はパナマ運河地帯で習熟訓練を行い、
いよいよ実戦に向かうために1945年7月末にハワイに到着します。

そのときの「レクィン」が搭載していた武装は、

5インチ/ 25口径湿式マウント砲 2基
40ミリメートル速射砲を前部と後部に1基ずつ
魚雷発射管 10基
5インチロケットランチャー 2基

1945年8月15日。
戦争が終結したとき、彼女は最初の哨戒にまさに出撃するところでした。
知らせは「レクィン」総員を騒然とさせます。

戦闘ピンをもらえなかったことに動揺する乗組員。
生きて終戦を迎えたことを喜ぶべきだという士官。

さまざまな思いを乗せて「レクィン」は数週間後祖国に戻り、
到着後、大西洋艦隊に編入されました。

その後の数ヶ月間は、ソナー学校の艦船に標的を提供することが主な任務で、
艦長のスレード・カッター曰く「退屈で退屈な任務」でした。

哨戒に出て功を上げたい血気盛んな乗組員たちにとっては特にそうでしょう。

1946年夏、1年間この任務をこなした「レクィン」は、
新しい指揮官と新しい任務を与えられることになります。

■レーダー・ピケットとしての「レクィン」

「レーダーピケット艦」という戦術思想が、

どうやって生まれたかご存知でしょうか。

それは、ほかでもない第二次世界大戦の後期、日本が選択した
特攻という前代未聞の戦術への対抗策としてでした。

レーダーピケット艦は多くの場合駆逐艦が務め、
レーダーによる索敵を主目的に、主力と離れて概ね単独で行動します。

しかし、特攻が激化してレーダーピケット艦が攻撃を受けるようになると、
米海軍は潜水艦を使用するアイデアを熟考し始めました。

つまり、十分なレーダーを搭載し、迎撃戦闘機を制御し、出撃機を誘導し、
艦隊に警告を与えることができるようにするという役目を、
航空攻撃を受けにくい潜水艦に担わせるということです。

そして、1945年の夏、他ならぬ「レクィン」が太平洋艦隊の一員として
日本沖に配備され、そこで行うはずの任務が、
史上初の潜水艦によるレーダーピケットでした。

レーダー・ピケット潜水艦としての「レクィン」が配備される前に
戦争は終結しましたが、その必要性は戦後も海軍に認識されました。

そして世界は冷戦に突入します。

アメリカは、敵となったソ連の航空戦力による対艦攻撃への備えとして、
1950年代初頭よりレーダーピケット任務の増大を始めました。
それを受けて整備されたのが、

レーダー駆逐艦(DDR)
レーダー哨戒駆逐艦(DER)
レーダー哨戒潜水艦(SSR)

「レクィン」はその役目を担う最初の潜水艦として指名されました。

この改造の対象となった最初の2隻の潜水艦は、「レクィン」、
そしてちょうど建造中だった、


USS「スピナックス」Spinax(SS489)

でした。

しかしながら、この改造にはかなりの問題がありました。

使用された装備は、水上艦部隊から急遽転用されたため、問題噴出。

中でも水上艦用だったレーダー機器を狭い潜水艦に詰め込んだことで、
ただでさえ狭い後部のスペースが、さらに狭くなったりしました。

また、潜水することで水上艦用アンテナのシステムがショートするという、
どうして前もってわからなかったの的なトラブルが発生していました。

■ 「ミグレーン(頭痛)」プログラム

さあみなさん、こういう事態になるとアメリカ海軍は何をしますか?
そう、「なんちゃら作戦」発動です。

1948年、アメリカ海軍はその名も

Migraine(頭痛)Program

作戦を発動し、「レクィン」と「スピナックス」に搭載された
初期のレーダー装備の改善プロセスを開始します。

ミグレーン作戦によって最初に改造された潜水艦は、

「ティグローン」(SS 419)TIGRONE

でした。
この名前が「ミグレーン」と韻を踏んでいるのは偶然ではないでしょう。

そのせいなのかどうかはわかりませんが、「ティグローン」はその後
「バーフィッシュ」(BURRFISH)と名前を変えています。


「ティグローン」の改造は、乗組員の食堂が航空管制センターに改造され、
接舷がステムルーム(チューブが取り外された)に移動し、
砲台はより小型で強力なものに交換され、
2つの前部魚雷発射管は取り外されました。

シュノーケルを装備し、

航空捜索レーダーアンテナは後部喫煙デッキの台座に、
水上捜索レーダー・アンテナは司令塔とステムのほぼ中間の台座に、
戦闘機管制レーダーは潜水艦の艦尾付近に設置されることになります。


■ミグレーンIIで改造された「レクィン」

「レクィン」と「スピナックス」はミグレーンIIプログラムで
さらに広範囲の改造を受けることになります。

艦尾チューブが完全に撤去された
ステムルームの前部は航空管制センターに改造
寝台スペースは後部に移動


ミグレーンII改装後の「レクィン」上部構造

さらに、前部魚雷室の下部2基の魚雷発射管は不活性化・密閉されて
収納スペースに改造され(もう必要ないということですね)
蓄電池も容量の大きい改良型サルゴ・バッテリーに交換されます。



レーダーアンテナの配置もミグレインIとIIでは異なり、
SR-2航空捜索レーダー・アンテナは後部喫煙デッキの台座に置かれ、
水上捜索レーダー甲板上、航空管制センターの上に置かれました。

戦闘機コントローラビーコン(YE-3)も甲板エンジンルームの後に移動です。



これらの改造に伴い、「レクィン」は1948年、
レーダーピケットを意味する新しい呼称、SSRを受けたのでした。

■ クルーズ・ベーシング(乗組員寝室)


SSRとしての「レクィン」については後で触れるとして、
今日は艦内ツァー、前回のクルーズメスの続きを見ていきます。


この番号の3番、Berthingです。
ここには36台のバンク(乗組員寝台)があります。


寝台の間にミルクなどの缶詰が積まれていますが、
もちろんこんなふうに缶詰を貯蔵していたわけではありません。
おそらくここにはもともと四人分のバンクがあったはずです。



バンクのマットレスの下は持ち物の収納場所になっています。



近くに立ち寄ることは物理的にも時間的にも不可能でした。
セーラー服とポール・Lの名前入りアルバム?
左の『RAT』はなんだかわかりません。意味はわかりますが。

あだ名かな?

右側の本の題名は「ホーム・イズ・ザ・セイラー」
上半身裸の水兵さんがセクシーなお姉さんを抱き寄せている扉絵です。



冬用セーラー服、写真にグリーティングカード、
タスクグループ・アルファのペナント。



冒頭のこの写真は1959年USS「フォージ」を旗艦とするTGアルファです。
「アルファ」の潜水艦は2隻、そのうち1隻が「レクィン」でした。



野球のグローブが見えます。
グローブの隣は水兵さんが荷物を一切合切入れて運ぶ布袋で、
「シーマンだれそれ」と名前を書くようになっています。



いきなり現れる壁とドア。


建造時の「レクィン」にはなかったのですが、終戦後、彼女が
訓練潜水艦となった1958年に増設されたそうです。

壁ができる前はここは広々と(当社比)した空間で、寝台がありました。

現在はカーネギーサイエンスセンターの職員オフィスとなっています。



バンクの隣は洗面所です。
洗面ボウルは4台、左はシャワー室。
中は見えませんでしたが、二つしかなかったのではないでしょうか。



洗面台の奥に詰め込まれているのはジャガイモの袋。
天井にはレバーで操作する機構があります。



トイレは・・・ひとつだけ。
これは厳しい。色々と。

ちなみに、艦内図を見ていただくとお分かりのように、
乗組員居住区の下は、後部バッテリーとなっています。
ここには総計126個の鉛蓄電池が設置されていました。

前部バッテリーは士官居住区、後部は乗組員居住区の下というわけです。



右が洗面所、その先が次の区画です。

■ 前後部エンジンルーム



次のコンパートメントはエンジンルームです。
まずは前部エンジンルームから。



ここにあるのは「エンジン1」。



フェアバンクス=モースの38D 8 1/8ディーゼルエンジン
4基搭載されています。



前後二つのエンジンルームハウスは、4基の1,600馬力ディーゼルエンジンと
4 台の1,100キロワット発電機があります。


こちらは前部エンジンルームの2基目、「エンジン2」です。
エンジンは発電機を作動させ、艦に電力を供給する直流電力を生成します。


そこで次のコンパートメント、後部エンジンルームです。
前の人からこんなにも遠く離れてしまいました。


続く。




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3 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
「トースク」8月14日2隻海防艦撃沈 (お節介船屋)
2024-02-29 13:19:31
撃沈された艦は
兵庫県余部沖で第13号海防艦と第47号海防艦でした。
両艦は第1号型(丙型)の同型艦でそれぞれ日本鋼管鶴見造船所で昭和19年4月と11月竣工でした。53隻が竣工、27隻が戦没、12隻が未完成でした。
戦時急造で成功した艦型でしたが主機のデイーゼル機関製造能力が低く、戦時標準船のタービンを主機とした第2号型(丁型)が並行して建造されました。こちら63隻竣工しましたが、戦局厳しく25隻戦没しました。
要目
基準排水量745t、全長67.5m、主機デイーゼル機関2基、2軸、1,900馬力、速力16.5kt、12㎝45口径単装高射砲2基、25㎜3連装機銃2基、爆雷投射機12基、爆雷投下軌条1基、爆雷120個、乗員125名
参照海人社「世界の艦船」No871
返信する
戦争がなくならないから、新しい武器の開発がなくならないのか、技術の進歩で新しい武器が出来るから戦争がなくならないのか (Unknown)
2024-03-01 05:19:49
今のイージスシステムは、いわゆる多機能レーダーで、当時の警戒管制レーダーと戦闘機管制レーダー(多分、誘導用ビーコン?)等の役割を一つでこなせますが「こんごう」型の特徴的な、あの「デカい顔」(レーダーアンテナ)で一目瞭然なように、巨大(アンテナ一面で八畳)です。駆逐艦でもきついと思いますが、ましてや狭い潜水艦に積もうなんて、無茶苦茶ですよ(笑)

日本軍の特攻は、相当堪えたと思います。レーダーピケットのように、今ある機器での対処だけでなく「タイフォンシステム」という今で言うイージスシステムの前身にあたる装備を開発していました。コンピューターの計算能力が低かったため、当時(1950年代)は実現出来ず、開発中止になり、のちにイージスシステムとして、再開されましたが、水上艦艇に対する同時多発的な航空攻撃に対処するという目的は、まさに特攻戦術への対抗策です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0

日本軍の脅威がなくなった後も、なぜ、このような装備の開発が続けられたかというと、新たな脅威であるソ連軍が、アメリカの空母機動部隊に対して、特攻機と同じような挙動をする対艦ミサイルを配備したからです。

もう二年以上になったウクライナ戦争で用いられているミサイルも、この当時に技術的な基盤が確立されたものの発展型です。最近は、真っすぐ飛んで来ないとか、迎撃出来ないくらいの高速だとか、いろいろ新手を考え出していますが、迎撃側も一瞬でミサイルを無力化出来る高出力レーザーや高速の迎撃が可能なレールガン等、いろいろ考えています。

戦争がなくならないから、新しい武器の開発がなくならないのか、技術の進歩で新しい武器が出来るから戦争がなくならないのか。どうなんでしょうね。
返信する
フェアバンクス=モースの38D 8 1/8ディーゼルエンジン (お節介船屋)
2024-03-01 10:40:02
テンチ級はこのFM式かゼネラルモーターズのGM式16気筒2サイクル機関でした。ただ完成艦はFM式が大多数でした。
ガトー級が当初この2種類のデイーゼル機関の他Hooven Owens Rentschler式がありましたがこの機関が不調でGM式に換装されました。
アメリカ潜水艦は1924年竣工のV-1級から補助機関のデイーゼルエレクトリック方式を採用しましたが速力等所用の性能が出ず、苦労しましたが1935年竣工のP級から主機によるデイーゼルエレクトリック方式が採用されましたが電動機の負荷が大きく、ショートによる事故が頻発しましたが、もともと得意な電気技術で克服し、1938年竣工の新S級で問題ない実用を確立しました。この時期溶接工法の全面導入と魚雷発射諸元計算装置、新型大容量電池の採用等明らかに日本潜水艦と技術の大きな格差が生じました。
開戦当初は新鋭の艦隊型は少なかったのですが第1次大戦の教訓からメーカーの勝手な設計変更を厳禁し、24時間制、流れ作業、回転式治具の採用等でガトー級テンチ級を量産しました。

日本潜水艦は敵艦隊の漸減戦を狙い、大型・高速力の多くの種類の潜水艦を建造整備しましたがデイーゼル機関は構造が複雑で量産に適さない機関でした。推進も水上高速力発揮のためデイーゼル式であり、切り替えも煩雑であり、発電、充電の容量等問題がありました。蓄電池の資料がありませんがィ400潜の資料には蓄電池と電動機の容量が小さすぎ、航走充電能力がはなかだ小さかったとの記述があります。
工業力がアメリカに比べ大きく劣っているにも関わらず大型・高速力、航空機搭載、旗艦設備、20種類以上の艦型等、量産も焦点も定まらない建造政策を継続し、その艦隊漸減戦法も改めず、苦肉の策の離島補給に使用するなど決定的な潜水艦戦の敗北となってしまいました。
戦法もそうですが潜水艦建造や推進装置、溶接、電気技術等大きな差でした。
性能面を捉えて日米潜水艦戦を語られがちですが「偉大な平凡」と称されるガトー級テンチ級が対日戦で猛威を振るわれた多くの要因が技術面でもあります。

参照海人社「世界の艦船」No469、567、766
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