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USS「レクィン」〜初代艦長カッター中佐とオリンピック作戦

2024-02-16 | 軍艦

カーネギーサイエンスセンターで公開されている潜水艦、
USS「レクィン」の内部に潜入しております。

前回まで入艦したところにあった前部魚雷発射室と、
それから士官食堂などをご紹介してきたわけですが、
ここであらためて「レクィン」という艦名について説明をします。



USS「Requin」(SS/SSR/AGSS/IXSS-481)

■ Requinの発音

実はこのrequinはどう発音するのが正確なのか当初悩んだのですが、
ˈreɪkwɪn
とわざわざwikiに記してありました。
できるだけ正確なのは ɪ を「フェイス」のように発音するため
「レィクィン」となり、日本語の「レクィン」とちょっと違います。

それにしても、この響き、英語っぽくないというか、もしかして?
と思ったら、やはりフランス語の「サメ」を表す単語でした。

これはアメリカ海軍の艦船名で唯一フランス語が採用された例だそうです。

なぜアメリカ海軍がフランス語の「サメ」を使ったのか?
その理由はちょっと検索したくらいではでてきませんでしたが、
フランスには1794年から同名の軍艦が何隻か存在します。

最新のものは「Narval」級潜水艦の4番艦である、
S634「Requin」で、1958年から1985年まで現役でした。
ちなみにこの「ナヴァル」はイッカクで、S633「Dauphin」イルカ、
S637「Espadon」メカジキなど、同級は海洋生物の名前が命名基準です。

しかし、フランス語だとRが喉の奥から出す特殊な音なので
「requin」の発音は「ホキン」「ホイキン」に聞こえます。

日本語のウィキだと「レクィン」になっているので、
今後も当ブログではこれでいくことにします。

■ 建造と初代艦長カッター中佐

「レクィン」のキールは1944年8月24日、
メイン州キッタリーのポーツマス海軍工廠で打ち下ろされました。

進水は1945年1月1日スレード・D・カッター夫人のスポンサーにより行われ、
1945年4月28日にスレード・D・カッター中佐の指揮のもと就役。

これとても珍しいパターンですね。

スポンサーというのはつまり進水式の時にシャンパンの瓶を割る女性で、
大抵が地元政治家の妻とか、関係した財界の大物の妻が務めるのですが、
同姓同名の別人でなければ、艤装艦長夫人がスポンサーになったのです。

発注が1943年6月、起工(キールレイド)がわずかその2ヶ月後で、
進水式は起工後わずか4ヶ月後という「戦時生産モード」だったので、
こう言っては何ですが、適当な人材が見つからなかったのかもしれません。

もっとも「レクィン」の艤装・初代艦長に任命されたカッター中佐は、
ただの?艦長ではなく、おそらく最も勲章を受けた、
潜水艦指揮官の一人であったことから夫人が選ばれた可能性もあります。


スレイド・デヴィル・カッター(アナポリス時代)1911-2005
デヴィルはdevilではなくDevilleなので念のため

は、4つの海軍十字章を授与されたアメリカ海軍将校です。
第二次世界大戦における日本軍艦船撃沈数では第2位タイでした。

海軍兵学校ではアメリカンフットボールのオールアメリカン選手で、
かつ大学ボクシングのチャンピオンだったということです。


因縁のネイビーアーミーゲームでゴールを決めた瞬間のカッター

■最初の哨戒で味方からの攻撃を受ける

卒業後潜水艦士官としてのキャリアを始めたカッターは、
1941年12月18日、USS「ポンパノ」(SS-181)の副長として
最初の戦時哨戒に出るため真珠湾を出港しました。

この11日前、真珠湾攻撃があり、日米は開戦していたこともあって、
米軍の警戒体制はマックスだったわけですが、隠密行動が基本の潜水艦は
ピリついた米軍の哨戒機に敵と認識され、攻撃されただけでなく、
USS「エンタープライズ」(CV-6)から急降下爆撃機を呼び寄せられ、
「ポンパノ」は燃料タンクが破裂するまで攻撃されることに・・・。

こういう事態になったらこの頃の潜水艦はもうお手上げです。
自分が味方であることを哨戒機に伝える手立てがありませんから。
それではどうしたかというと、逃げました。

とにかく逃げ切って運良く味方に沈められることも、自軍の潜水艦を
撃沈してしまった哨戒機のパイロットが軍事法廷に立つ事態も防ぎました。

そしてそのままマーシャル諸島まで怒りに任せて爆進し、
その怒りを思いっきり敵である日本軍にぶつけました。

その結果、16,000トンの日本輸送船が4本の魚雷で攻撃され、
帝国海軍の駆逐艦が魚雷攻撃を受けましたが、何しろ「ポンパノ」は
急爆に壊されたオイルタンクから燃料が容赦なく排出されていたこともあり、
有効な戦果には結び付かなかったというのが戦後わかっています。

副長時代、「ポンパノ」は日本海域での哨戒で爆雷を受け、
一旦沈没するも何とか生還するという経験もしています。

■「シーホース」での活躍と海軍十字賞

次にカッターはUSS「シーホース」の副長に任命されますが、
艦長のマクレガーが積極性を欠く指揮だったとして
ロックウッド潜水艦司令に解任されたため、急遽艦長に昇任しました。

「シーホース」での哨戒でカッターは通算3回の海軍十字賞を受け、
潜水艦指揮官としての名声を得ることになります。

また、「シーホース」は5回目の哨戒で1944年6月13日に
戦艦「大和」と「武蔵」を中心とする日本の戦闘群を発見しています。
これは、遠くから発見したため接触はしていないが、
定期的な報告を本隊に送り続けたということのようです。

このときのレイテ沖海戦では「武蔵」「扶桑」「山城」の戦艦と
「瑞鶴」「瑞鳳」「千歳」「千代田」の航空母艦、
「愛宕」「摩耶」「鳥海」「最上」等巡洋艦、駆逐艦、潜水艦が沈みました。

■ 艦長室と士官寝室


さて、ここでカッター中佐も居住した、オフィサーズアイランドの艦長室、
士官寝室などの写真を見ていきましょう。

ただし、何度も言うようですがカーネギーサイエンスセンターは
コンパートメントの解説板などを全く設置していないので、
必ずしも正確であるとは限りませんので一応念のため。

このハンガーにも士官のジャケットやコートがかかっていますが、
パッと見ただけでも少佐のと大尉のが混在しており、
割と適当に雰囲気で並べただけのものであることがわかります。



士官寝室なので、少佐と大尉が同居していたという可能性もありますが、
それにしても同じクローゼットに他人の服を混在させないだろうっていう。



このコンパートメントはベッドが3段。


洗面用ボウルは収納式ですが、ここでは開けて見せてくれています。


金色の物々しいプレートには「ベッドに上がらないでください」と注意書き。
かつてベッドの占有者の名前入りのプレートが貼られていた可能性も微レ存。


そしてこれが艦長室です。

初代艦長カッター中佐以降、27年間の就役期間に、
ここは18名の指揮官の住処となりました。



これは、シナボン
アメリカではモールや空港に必ず出店して、周りに独特の香りを撒き散らす
お馴染みのシナモンロールのチェーン店ですが、わたしはいまだに

日本では横須賀米軍基地の中でしか見たことがありません。



多くの指揮官がいても、「レクィン」にとっては
初代艦長カッター中佐の存在はとても大きなものらしく・・・。


ベッドの枕元に挟まれたさりげない写真も、いかにもカッター中佐の
アナポリス時代を思わせるものになっています。

■カッター中佐「レクィン」艦長に就任


就役当日の「レクィン」甲板にいる艦長(左から二人目)以下士官たち
艦長でかすぎ(さすが元アメフト選手)

「シーホース」の4回目の哨戒と休養休暇の後、
カッターは新造USS「レクィン」(SS-481)の指揮官に任命されました。
前述のように同艦のスポンサーとなったのが妻のフランでした。

どうして新造艦の艦長にカッターが選ばれたかについては後述しますが、
結論からいうと、「レクィン」が就役後、最初の哨戒に出発し、
帰ってきた(1945年7月)直後に戦争は終わってしまいました。

カッターの現役潜水艦指揮キャリアはここでストップすることになります。


◼︎オリンピック作戦とコロネット作戦

なぜ潜水艦隊はこの時期の新造艦「レクィン」の指揮官に
スレード・カッターを選んだのか。

それは、アメリカが九州侵攻作戦「オペレーション・オリンピック」
本州侵攻作戦「オペレーション・コロネット」を想定していたからでした。

当ブログでも過去この本土侵攻作戦について触れたことがありますが、
これは言い換えればアメリカが日本という国との戦争でいかに手こずり、
戦争を終わらす為に手段を選ばないところまで追い詰められたかの証左です。

たとえば硫黄島では、アメリカ軍は日本軍を倒すのに4週間かかり、
予想を遥かに上回る3万人近くの死傷者を出し、
沖縄戦は太平洋における戦争の中で最も激しい戦いの一つになりました。

そこで米軍は官民一体となった日本の抵抗と特攻隊に苦しめられ、
約12週間にわたる戦闘のあげく、5万人近い死傷者を出しました。

これに対し、日本軍の死傷者は約9万人、民間人の犠牲は
少なくとも10万人を超えるとされています。

そしてアメリカは沖縄を日本本土侵攻の「予行演習」と考えていました。



本番の第 1 フェーズ、「オリンピック」は1945年10月下旬に予定され、
作戦規模はノルマンディー上陸作戦と同等となる予定でした。


このとき見積もられていたアメリカ軍負傷者は13万2,000人、死者は4万人。

第 2フェーズ、「コロネット」作戦では、1946年春に東京近くに上陸し、
年末までに日本軍を降伏させることを構想しており、
この作戦の予測死傷者数は 9万人とされていました。

アメリカがそれほどの犠牲を覚悟してでも作戦を遂行させたかった理由は、
もちろん、何としても早く戦争を終わらせたかったからですが、
しかしながら、ワシントンが入手したいかなる証拠をもってしても、
日本が最後の一人まで戦うつもりであることを示していたので
本土上陸はほとんど「最終作戦」として起案されたのでした。

ただし、

「日本は決して降伏しない」

と考えられていた、と書きましたが、実際は、ソ連の侵攻を受けて
ご存知のように日本政府は交渉の開始を模索し始めています。

その情報を受けてアメリカは、本土上陸をせずに戦争が終わることを察知し、
かわりに?終戦に向けて(人体実験としての)原子爆弾投下に踏み切った、
というのが現在のところ通説となっていますね。





ともあれ、この作戦に潜水艦隊も、優秀な司令官の率いる潜水艦を
参加させるという流れとなり、その上で「レクィン」艦長に選ばれたのが
3回の海軍十字賞を受けたカッター中佐だったというわけです。

就役当初から「レクィン」は5インチ(127ミリ)/25口径甲板砲を1門、
24連装5インチ(127ミリ)ロケットランチャーを2基搭載しており、
これは艦隊潜水艦としては通常より重い兵装とされました。

それも、彼女が最初からオリンピック作戦とコロネット作戦で
日本本土を砲撃することを想定していたから、とされます。


■ スレイド・カッター艦長について

最後に、カッター艦長個人の指揮官としての戦績を記します。

他のトップスキッパー(艦長)との比較 /ランキング2位
哨戒回数 4回
撃沈成績 21隻/142,300トン
JANAC(戦後の日本側の喪失と照らし合わせた撃沈)
19隻 / 71,729トン

ちなみにカッターは上官にも反抗的な態度を取る人物で、
上から可愛がられるようなタイプではなかったため、
そのことが後方提督への昇進を妨げたと言う話があります。

特に物議を醸したのは、最初の原子力潜水艦、
USS「ノーチラス」(SSN-571)「厳密には実験船だ」とディスり、
ハイマン・リッコーヴァー提督を激怒させた件だったとか。

カッター・・・・無茶しやがって・・・(AA略)


戦後、カッターは潜水艦第32師団を指揮し、
その後、潜水艦第6戦隊、油井船USS「ネオショー」(AO-143)
重巡洋艦USS「ノーサンプトン」(CLC-1)を指揮。

そのあとは何と、海軍兵学校のフットボールコーチになりました。

かつて彼がフットボールとボクシングの名選手であったことと、
戦時中の英雄として有名であったことが、この任務の多くを助けました。

海軍での現役最後の任務は、ワシントンの海軍歴史展示センター長でした。

1965年に現役を引退し、最初の妻と死に別れてから
1982年、70歳にして再婚しています。

2005年アナポリスのリタイアメント・コミュニティで死去、享年93歳。
米国海軍兵学校墓地に葬られました。


続く。