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終戦と「ナパームガール」〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

2021-07-19 | 歴史

ベトナム戦争が終わり、兵士たちが帰国を行います。

■ AFTERMATH(ベトナム戦争の影響)



ベトナム戦争における軍事従事者の死亡数

58,315  アメリカ軍

162,000〜220,000 南ベトナム軍

820,100〜1,100,000 ベトコン/北ベトナム軍

5,200 連合軍

ベトナム戦争は肉体的、精神的な傷を負った多くの人々を含め、
世界中の人々にとっていまだに生きた記憶であり続けています。

ベトナム戦争は、国内及び世界に計り知れない深刻な影響を及ぼし、
20世紀の歴史に一際深く刻まれた出来事となりました。

アメリカでは、戦争が提起した根本的な問題、深い分裂、そして
戦争が明らかにした市民参加の力が、その後の国の在り方に大きく関わっていきました。

■ 帰らなかった兵士

ボストン大学を卒業してフリーランスの通信員としてベトナムに渡った
ディック・ヒューズは、テト攻勢後の混乱したサイゴンで
犯罪をしたりポン引きをして生きていた現地の男の子12人を
借りた家に呼び寄せ、一緒に暮らしていました。

彼が到着したのは1968年の4月でした。
到着した途端、彼はサイゴンのストリートチルドレンに話しかけていました。

「彼らは路上で寝ていて、いつも浮浪者として逮捕され、
どこかの刑務所に連れて行かれていました。
もし十分な広さの家を手に入れたら、この子たちに
居場所を提供できるのではないかと思ったのです」

彼は

「シューシャイン・ボーイズ・プロジェクト」Shoeshine boys project

を組織し、ベトナム人のスタッフ・ボランティアを雇って、
7つの新しい家を開設しました。

最終的には、2500人のホームレスの子どもたちに住居と職業訓練を提供しています。

アメリカに帰るとテレビ番組にも出演して、募金活動を行いました。
1975年4月30日に共産党が南ベトナムを制圧したときも、
ヒューズは逃げずにサイゴンに留まり、1年以上も仕事を続けました。

上の写真は、床屋で見習いを始めた少年が、さっそく
ヒューズの髪を梳かしているところです。

ディック・ヒューズは、帰国後、俳優としての活動に加えて、アメリカ政府や
アメリカの化学会社に対して、枯葉剤によるベトナム人被害者への支援を働きかける、
という活動にも深く関わり続けました。

 

■ 帰れなかった兵士

もうこのブログではお馴染みのPOW/MIAのマークとブレスレットですが、
このブレスレットの名前、

マイケル・エストシン少佐(LCDR Michael Estocin)

に皆さん覚えがありませんか。
当ブログではどこかのMIA案件の紹介の時にこの人のことを書いたことがあります。

海軍パイロットで名誉勲章を授与されたエストシン大尉(当時)は、
ベトナムへは三度にわたって派遣され任務を行いました。

36歳の誕生日をあと1日に控え、しかも故郷での休暇があけてわずか数日後、
彼の操縦する飛行機は任務中行方不明・未帰還となりました。

彼の機体が墜落したのか着陸できたのかについては相反する報告があり、
どちらかわからず遺体も未発見のまま公式に死亡宣告されました。

彼の名前に敬意を表して名付けられた

ミサイルフリゲート 「エストシン」USS Estocin, FFG-15

は1981年に海軍予備艦隊の一部として就役し、2003年まで運用されました。

ゲイリー・ラドフォード(Gary Radford)・右と友人だった
ルイス・ホワード(Lewis Howard)

ピッツバーグ出身のラドフォードとジョージア出身のホワードは、
同じ中隊に配属され、そこで親友となりました。

出身地も人種も違う二人ですが、とても馬があったようです。

砲兵隊の小隊長だったラドフォードとその部下になったホワードは
同じ戦場で戦闘任務にあたっていましたが、ホワードは戦闘中行方不明、

つまりMIAになりました。

ホワードの家族に、彼が行方不明(おそらく死亡)であること、
彼が亡くなった時の戦闘の状況をラドフォードが誠実に書き記し、伝えた手紙です。

ホワードが最初ライフルマン、次いでラジオトランスミッターのオペレーターで、
任務中は重たい機器を常に扱う激務だったが彼は自分のそばにいつもいて、
親友というかもうすでに家族同様だった、と書かれています。

ホワードがMIAになったのは1970年ですが、この手紙は
それから19年後、遺族の住所が明らかになったのか、
ラドフォードがそういうことができる状態になったのかはわかりませんが、
1989年の日付でホワードの家族に送られました。

 

冒頭写真は帰国するアメリカ兵たちですが、そんななかの一人であった
ジョージ・クニス(George・Kniss)の日記にはこんなこと書かれています。

「・・・・して戦場に戻ってきた。
明日になれば、今日の会議や合意事項の詳細が聞けるだろう。
しかし、グループのリーダーたちは諦めて、リーダーの
”腰を据えた
新たな条件”に合意し、戦場に戻っていったようだ。
これはクーデターのようなもので、しばらくの間、事態は急展開した。

クーデターとベトナム政府の2回の再編を見た後、
私はこの状況全体に魅了されたような気がする。
また、私はここの全てに嫌気がさし、無関心になってきた」

■ 徴兵廃止

SOME OF OUR BEST『MEN』ARE WOMEN.

「men」は普通に兵士たちの意味で使われるので、この、
(今では
ポリコレ的にかな〜り問題のありそうな)ポスターの意味は、

「我々のベスト『メン』の何人かは女性です」

となります。

1973年、アメリカは徴兵制を廃止して志願制度に切り替えました。

多様な政治的視点を持つアメリカ人が徴兵を終わらせた理由というのは、
公平性、個人の自由、良心の自由、そして不当な戦争への否定などがあります。

その後、兵役はもはや市民の義務ではなくなりました。

そこで、アメリカ軍はこのような志願者を募るポスターに工夫を凝らし、
特にのリクルートに力を入れる方向に舵を切りました。

 

ハインツ歴史センターのベトナム戦争展の展示には、一際目立つ
このようなジュラルミンのトランクとその中身があります。

これは、

ローズ・ガントナー(Rose Gantner)

という女性がベトナムに携えていった私物です。

ローズはピッツバーグ出身で、この写真も市内にかかる
ピッツバーグのトレードマークである橋のたもとで撮られています。

写真が撮られたのは1967年7月で、彼女が一度ベトナムに赤十字から送られた後、
帰ってきて故郷で1ヶ月だけを過ごしたときのことでした。

 

ローズが二度目のベトナムツァーを終えたとき、彼女は持っていったアイテムを
全てこのトランクに詰めこんで、ピッツバーグの実家に送り、
それっきり
戦後の生活の中ですっかりそのことを忘れていました。

彼女がトランクの存在をふと思い出し、次にトランクを開けたのは30年後です。
それは彼女にとって「ベトナム時代のタイムカプセル」となりました。

ここでも一度お話ししましたが、ローズがベトナムにいったのは、
彼女が兵士たちを精神的に慰め、楽しませる「ドーナツ・ドリー」だったからでした。

トランクの中には、彼女が戦地で兵隊のレクリエーションに使用したゲームや、
香港に行った時に母親と姉妹のために購入したシルクのチャイナドレスや、
(彼女はそれを配ることすら忘れていたようです)サイゴンの市場で買った小物、
ドーナツ・ドリーとして必携だったソーイングセットなどがそのまま出てきました。

彼女自身がベトナムで過ごすための生活用品、例えば携帯ヒーターやポケットナイフ、
「ファティーグ」ユニフォームのセット、そして彼女の宗教である
ロシア正教のイコンなど、戦地での生活と快適さのためのアイテムが詰められています。

ローズ・ガントナーのトランクは、アメリカ赤十字の支給品です。

ローズのトランクの蓋の裏にはこんな認識のための紙が貼られています。

ベトナムに「ドーナツ・ドリー」などボランティア人材を派遣する部署のもので、
ローズの所属はアメリカ赤十字、彼女は旧姓で名前を記されています。

武器や発火物を入れないこと、など、内容物に関する注意書きがあります。


■ ナパーム・ガール

"ナパーム・ガール "は、1972年、ベトナム戦争の恐怖を世界に知らしめた有名な写真です。

この写真には、9歳の少女が裸で助けを求めて叫び、走っている姿が写っています。
彼女は、ベトナムのタイニン省チャンバンという小さな村で、
米軍のナパーム爆撃を受けた後、幸運にも生き残った一人でした。

1972年6月7日、北ベトナム軍(VNA)が南ベトナムの町チャンバンを占領しました。
VNAは、空爆や砲撃を避けるために、村人の中によく潜入していたのです。

多くの村人は逃げ出して村の仏教寺院に避難しました。

その中には『ナパーム・ガール』、ファン・ティ・キム・フックもいました。
2日目になると、戦闘はどんどん寺に近づいてきた。
寺院から逃げようとした村人は不幸な運命をたどりました。

VNAを殺すために、ナパーム弾を含む爆弾が村に降り注いだのです。

AP通信社のカメラマン、ニック・ウト(Nick Ut)が撮影したこの写真は、
逃げ惑う村人、
南ベトナム兵、報道カメラマンに囲まれて裸で走る少女の姿が
全世界に衝撃を与え、ベトナム戦争そのものを象徴する一枚となりました。


写真のキム・フックは何事かを叫んでいるように見えますが、
後年彼女自身が語ったところによると、それは

「Nóng quá, nóng quá」(『熱すぎる、熱すぎる』)

という言葉だったそうです。

わたしはこの写真で、少女の後ろにいるのは敵兵士であり、
彼女は追われているのだと思い込んでいたのですが、
写っているのは一緒に逃げる南ベトナム兵と報道カメラマンです。

 

当初ニューヨーク・タイムズの編集者は、
少女が裸であることから掲載をためらったそうですが、
最終的にこの写真は翌日の第一面を飾ることになります。

この写真は後にピュリッツァー賞を受賞し、世界報道写真賞にも選ばれました。

写真を撮った後、カメラマンのウトは彼女と他の負傷した子供たちを
サイゴンのバルスキー病院に連れて行きましたが、彼女の火傷は重度で、
おそらく助からないだろうと診断されました。

しかし、14ヵ月の入院と、皮膚移植を含む17回に及ぶ外科手術を経て、
彼女は助かり、1982年には歩けるようになる手術を受け、成功しました。

これだけの手厚い医療を受けることができたのは、彼女が
衝撃的な写真の主人公だったおかげということもできるかもしれません。

■ ナパーム・ガールの戦後

1972年にリチャード・ニクソン大統領が参謀と会話している音声テープには、
ニクソンがこの「ナパーム・ガール」の写真を見て、

「あれは修正されたものじゃないのか」

とつぶやいたことが記録されています。
カメラマンのウトは、

「20世紀で最も記憶に残る写真の1つとなったにもかかわらず、
ニクソン大統領は新聞に掲載された私の写真を見て、その真偽を疑った。

私にとっても、多くの人にとっても、この写真はこれ以上ないほどリアルなものでした。
この写真は、ベトナム戦争そのものと同じくらい真実でした。

私が記録したベトナム戦争の恐怖は、修正される必要はなかったのです。

あのおびえた少女は今も生きていて、あれが現実だったことを雄弁に物語っています。
30年前のあの瞬間は、キム・フックと私にとって忘れられないものになるだろう。
それは結果的に私たち二人の人生を変えたのです」

と語っています。

左上:通過する飛行機が爆弾を投下する中、写真を撮る男性

右上:軍服を着た報道員、クリストファー・ウェインがキム・フックに水を与える
   ウェインはこの後彼女の火傷に水をかけた

右下:大やけどを負った孫(キム・フックのいとこで3歳のダン)を抱えて
   反対方向に走っていくキム・フックの祖母タオ

逃げている間に、キム・フックのいとこ、ダンは亡くなりました。

キム・フックも体の半分以上に大やけどを負っていたので、もし
体に水をかけてやったたウェインやベトナム人カメラマンのウトの助けがなければ、
爆弾投下から数時間後には死んでいたことでしょう。

 

生きながらえたキム・フックはベトナムの大学で医学を専攻していましたが、
大学を追われ、共産主義のベトナム政府にプロパガンダの象徴として利用されました。

何度も手術を繰り返すも、絶え間ない痛みに苛まれた彼女は
ついには自殺まで考えましたが、
キリスト教に救いを求めるようになります。

その後キューバに留学、留学先で知り合ったベトナム男性と結婚。

 

1992年、モスクワに新婚旅行に行く途中、カナダへの政治亡命を願い出て許可され、
カナダ市民権テストに満点で合格し、現在はカナダ国民となっています。

キム・フックと報道班員のウェインと彼女は戦後再会を果たしました。

そして彼女の運命と、世界を変えることになった一枚撮ったカメラマンのウトとは

現在でもしょっちゅう電話で話すほど、親密に連絡をとっています。


続く。