ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

タウホレッター(潜水艦水中脱出ラング)〜シカゴ技術産業博物館 U-505展示

2023-05-06 | 博物館・資料館・テーマパーク

前回に引き続き、アメリカ軍が収得した
捕獲潜水艦U-505の捕虜たちの持ち物シリーズです。


グッズの背景になっているのは捕虜になったU-505の乗員たちです。

彼らが捕虜になったとき、爆破沈没したはずの潜水艦が
確保されてしまったとはまだ知らされていなかったと思います。

とりあえずは死なずに済んだ、と言う気持ちと捕虜になっちまった、
という状況で全員(´・ω・`)としていますが、シャワーを浴びて髭を剃り、
もしかしたら散髪もしてもらったのか、こざっぱりしていますね。


こちらもU-505乗員たちで、たぶん散髪髭剃りしてもらう前

全員白いシャツにズボンという同じスタイルです。
これは駆逐艦の甲板上でしょうか。

それでは展示品の説明をしていきます。

■ エスケープ・ラング



アメリカ海軍の「モムセン・ラング」について説明したことがありますが、
さすがはドイツ海軍、ちゃんと潜水艦からの脱出用に、この

「タウホレッター Tauchretter」=水中脱出肺

を緊急呼吸装置兼救命具として開発し、搭載していました。
仕組みとしてはモムセン・ラングと同様、
ユーザーの呼気を濾過して再循環させる仕組みでした。


バッグの中にある小さな酸素ボトルは、
救命具のように肺を膨らませ、呼吸用の空気を供給しました。

水深やユーザーの呼吸の強さにもよりますが、
エスケープラングは5分から2時間(幅大きすぎ)使用できました。

U-505の乗組員が脱出するときに多くが装着していたということです。

「ダイビング」

というと、特に日本語では水中に潜る意味ですが、20世紀半ば頃までは、
「呼吸できない空間にいる」という意味もありました。

たとえば1900年頃、消防士用の空気供給装置付き水冷式防火ボンネットは
「ファイヤーダイバー」と呼ばれ、1940年代にも、
呼吸装置を装着した人は「ガスダイバー」と呼ばれていたのもこれが語源です。

このような呼吸器から発展したのが、潜水救助器具であり、
鉱山など、陸上でも使用されるようになりましたが、
それらは水中での空気供給という役割に絞られてきます。

その仕組みについてもう一度説明しておきます。

通常の呼吸をする空気には、21%の酸素が含まれています。
一回の呼吸で、吸った空気から約4%の酸素が抜け、
それに見合う量の二酸化炭素(CO2)が吐き出されます。

原理的には、一定量の空気を酸素がなくなるまで
何度も「呼吸」することができるということになりますが、
吐き出された二酸化炭素は空気中に蓄積されていきます。

健康な生体は、血液中のCO2含有量を「測定」して
呼吸をコントロールしているため、
呼吸した空気中のCO2含有量がすぐに増えると、
まず耐え難いほどの息苦しさを感じるようになります。

また、吸入した空気中の二酸化炭素が多すぎると、5%以上で意識障害、
8%以上で長期的な意識混濁に次ぐ死亡という生理的な危険性が生じます。

そのため、空気中の二酸化炭素を呼吸回路から除去する必要があります。

そこでどうするかというと、呼気をソーダ石灰に流し、
CO2を水酸化ナトリウムと結合させ、さらに水酸化カルシウムで再生します。


かつてダイビングのライフセーバーには、
他の水酸化物とともに生焼けの石灰(CaO)が使用されていました。

これはCO2と直接結合して炭酸カルシウム(CaCO3)を生成し、
多くの熱を発生させて水中の冷却を打ち消す役目をします。
しかし、これだと浸透した水が生石灰と非常に激しく反応し、
肺に重度の火傷を負う危険性もありました。

また、生石灰は気づかないうちに水分と結合し、消石灰となり、
それだけではCO2を素早く結合することができません。

そこでCO2結合で失われた空気量は、酸素の添加で補う方法が取られました。

また、呼吸する空気中のCO2を化学反応で結合させ、
同時にO2を放出する物質も潜水救助器具に採用されています。

器具使用時は、同じ空気を何度も吸ったり吐いたりしますが、
ソーダ石灰を入れたカートリッジと酸素供給により、
窒息することはありません。

口に咥えるマウスピースには、2本の短いチューブが取り付けられており、
1本のチューブは石灰のカートリッジに通じています。
ここで呼気中の空気からCO2が濾過されます。

残った空気は、さらに呼吸袋(対肺)に流れ込みます。
抽出されたCO2の量は、小型の高圧ボンベの酸素で置き換えられます。

ここで再び息を吸うと、空気は呼吸バッグから2番目のチューブを通って
マウスピースへと戻っていきます。

鼻呼吸を絶対にしてはいけないので、着用者はノーズクリップを装着します。


さて、この器具を潜水艦の救助に使用するときですが、どうするかというと、
もし緊急事態により、あなたが潜水艦から脱出する必要が生じた場合、
まず、可能であれば、船内の空気が水で圧縮され、
残った気泡の圧力が水深の圧力に対応するまで待たなければなりません。

したがって、潜水艦の出口シャフトの下端は、
ハッチを開けたときに空気が逃げないように、
「エア・トラップ」といって艦体の天井より低く設計されていました。

ちょっと待つと内圧と外圧が均一化されて
ハッチを開けられるので、乗組員は外に出ることができるのです。

ある作家が、この時の様子を下のように書き表しています。

事故が起きた直後、『潜水救助隊出動!』の号令で、
乗組員は救助器具を装備した・・・。

沈没艦からの脱出は、艦内の圧力差をなくすことで初めて可能となる。

そのためには艦内を満タンにする以外に方法はない。

クルーは深呼吸をして、「潜水救助」の呼吸器を口元に持っていき、
マウスピースのタップを開けて
ノーズクリップを装着する。

酸素ボンベのバルブを、呼吸袋が背中で膨らむまで開ける。
そして皇帝にまた『万歳!』を叫ぶ。

最後の救いの道が開く。
重い、怖いという人もいるが、こうするしかない。

バルブを緩めると、水がゴボゴボと音を立てながら部屋の中に上がってきて、
待っている人たちの足元を洗い、体を這い上がり、頭上で閉じていく。

その結果、どうなるのか?
救世主の酸素が彼らを支えているのだ。
しかし、光は消えてしまった。
手探りで、彼らの腕が触れ合う。


右手は酸素ボンベのバルブを握り、間隔をあけて栄養ガスを流入させる。
左手は圧縮空気ボンベのバルブを握り、装置内の圧力差を麻痺させる。

数分後、部屋は圧縮ガスの層を除いて水で一杯になる。
コンパニオンウェイが開かれ、ハッチから次々と人が出てくる......。

一人目の男はすぐに光に向かって上昇する。
「ダイビングセーバー」の中で膨張していた空気は、細かく組織され、
優れた実績を持つ圧力開放弁から泡を吹いて逃げ出す。

水深6mで5分間の休憩を挟み、光に照らされ、
救助の準備が整った仲間のもとへ昇ることができるのだ。

救助隊員は水面に浮き、垂直に泳ぐ姿勢になる。

安全に機能する脱着装置を使用することで、
泳いでいる人は呼吸装置から解放される。

.「潜水ライフセーバー」での救助は、
最高度の冷血さと規律が要求されることに疑いの余地はない.。


”ドイツ海軍の潜水救助器の歴史”

第一次世界大戦の少し前、軍事用の潜水艦が開発されると、
同時に事故が起きたときの救出方法も論じられるようになりました。

最初の試みでは単純な「呼吸袋」が使用されましたが、
この袋は浮力補助具としては有効でも、浮上する人が完全に上昇するのに
十分な酸素を賄うほどではありませんでした。

1903年からイギリスのSiebe Gorman社に勤務していた
Robert Henry DavisとHenry A. Fleussは、水中や鉱山で使用する
「ドージングバルブ」という再呼吸装置を開発しました。

1907年には高圧ボンベから酸素を供給し、
水酸化ナトリウムを含む中間カートリッジで二酸化炭素を同時に吸収する
という仕組みの潜水艦用救助装置が発明されています。

このドレーゲル・ダイブ・レスキューヤー
口腔呼吸器を通して浮上する人に約30分間酸素を供給しました。

ドレーゲル社(Dräger)の潜水救助器は、
キール湾での潜水艦SM U 3の沈没後、帝国海軍に救助装置として提供され、
1912年以降、ドイツの潜水艦で使用されることになります。

今現在も潜水器具を作り続けているドレーゲルHP

このときの救助具は、泳がずに浮上できるように浮力をつけられましたが、
その後発明された水中潜水用救助具はおもりを備えていたので、
潜って負傷者を捜索・救出することも可能でした。

時代は降って1939年以降、オーストリアの生物学者であり、
水中ダイビングの第一人者だったハンス・ハスは、
現在の標準的な浮力潜水具の前身となる潜水救助具を開発しました。



圧力容器には酸素や圧縮空気の代わりに入れられた適切な混合ガスが、
バルブで自動的に注入されることで、
より深い深度での潜水救助が可能になりました。

ハンス・ハス

その後、呼吸のたびに発生する二酸化炭素を吸収し、
消費された酸素を手動または自動で補給する酸素循環装置へと発展します。



第二次世界大戦時のドイツ製潜水救助器具の原型は、現在でも
レオパルド2戦車の河川潜水の緊急安全装置として使用されています。

■ エスケープ・ラング、その他



2)エスケープラング用ゴーグル

Uボートの乗員は、水中で潜水艦から脱出することを余儀なくされた場合、
脱出用のラングとゴーグルを着用しました。

この装置は、たとえば壊れた電気モーターのバッテリーから
有毒ガスが艦内に漏れたといった場合や、
潜水艦が浮上している間に海中で修理を行う場合に使われました。

U-505は、米軍に攻撃され捕獲されることになった最後の哨戒中、
魚雷発射管のドアが開いたまま動かなくなってしまったため、
このゴーグルを数回着用しています。

ゴーグルは小さ区折りたたんで脱出用のラングと共に
一緒に保管しておくのが決まりでした。

3)脱出用ラングマウスピースとノーズクリップ

ゴーグルの下の部品をご覧ください。
脱出ラングのノーズクリップは、鼻孔を挟んで閉じ、
マウスピースから息を吸ったり吐いたりしました。
我々が「常識として」よく知っていることですが、
アクアラングでは決して鼻呼吸は行いません。

バッグ内に仕込まれたアルカリカートリッジに接続された
マウスピースのホースを加えて呼吸を行います。

4)アルカリ・カートリッジ

蛇腹状のホースにつながっているのがアルカリカートリッジです。
炭素(C)を呼吸し、酸素(O2)をバッグに戻して再び吸入させることにより
呼気(CO2)をリサイクルしました。



5)エスケープラングエアボトル

一番上の瓶状のものです。

ゴムびきキャンバスバッグ内の圧縮酸素のボトルは、
必要に応じて使用者に追加の酸素を提供しました。

バッグから突き出た小さなハンドルにより、
使用者は空気の流れを調整することができました。

U-505が潜水しながら索敵活動を行なっている時、
乗組員は酸素を節約するために寝台に静かに横になり、
タウヒレッター(水中脱出ラング)を使用しながら
静かに器具で呼吸することを余儀なくされました。

6)クロージャー・スプリング

真ん中の金色のチューブです。

脱出用ラングのゴム張りのキャンバスバッグの底は、
バッグの端から滑り落ちる仕掛けの、
たいへん独創的なスプリングクリップで閉じられていました。

フィルターを交換したり、酸素ボンベを充電する時
取り外しができなければなりませんが、同時に、
機密性に十分な強度を備えている必要がありました。

このスプリングはその役目を果たす道具です。

7)アルカリ顆粒

シャーレの上の、葛粉のような白い粉はアルカリ顆粒です。

粒子は常に空気中の炭素を吸収するため、マウスピースのバルブを閉じて、
粒子がボートの大気にさらされるのを制限する必要がありました。

そうしないと、粒子がすぐに容量一杯になり、
使用者の呼気から炭素を引き出すことができなくなります。

■ 映画に登場した「タウホレッター」

Uボートの映画に登場した脱出ラング、タウホレッター出演シーンを
書き出してみました。

「Uボート(ダス・ブート)」

●艦内の火災を鎮火させた後換気をするために使う

●「幽霊ヨハン」がこれを使ってディーゼルエンジンの下への
水の侵入を食い止める

●チーフエンジニアが破壊されたバッテリーセルをバイパスした時
これを使っていた

●ジブラルタル沖280m深海で立ち往生した時、
寝台に横たわりながらダイビングレスキューを使い、
空気を節約して修理の時間を稼いだ

「Uボート最後の決断」

艦内で髄膜炎が蔓延したので残りの乗員が使用した

「U-47出撃せよ」

艦内での酸素節約のために使用
U-47は当時もっとも成功したUボートと評価されたが

1941年哨戒中に行方不明となり戦没認定された

「モルゲンロート」

沈没した潜水艦からの脱出に使われた

モルゲンロートは「朝」「赤」という意味で、
早朝に昇り始めた太陽の光に照らされて
山肌が赤く染まる現象をさす。登山用語。

日本未公開

「オオカミの呼び声-深海の決断」

沈没した潜水艦からの脱出に使われた

日本未公開

■ レザージャケットとショーツ



ウール&レザージャケット

ウール&レザーというよりこれはファッション用語的には
ムートンジャケットではないのか、と突っ込んでしまうわけですが、
このジャケット、このままのデザインでユニセックスに着用できますよね。

これが制服だったのかというと、それは微妙なところです。

映画「Uボート」も、アメリカ映画「Uボート最後の決断」でも、
ご覧になった方はご存知だと思いますが、
Uボート乗員に乗務中強制される服装規程はなく、
皆が好き勝手な格好をしていました。

また、映画では、それが各々のキャラクターを表す手段となっていました。

規定がなかった理由は、潜水艦の環境は基本劣悪で、
狭い艦内に男たちが詰め込まれるといったものだった関係で、
何を着るかなどということは、全く優先されなかったからと言われます。

一応海軍支給の制服はありましたが、乗員たちはそれに
セーターやジャケット、帽子などのアイテムを好きに着ていました。

このおしゃれなムートンジャケットですが、
こんな感じのアイテムは、大変持込み衣類として人気がありました。

基本ムートンは裏地付きですし、軽いし、水に強くておまけに暖かさは抜群。
おまけにこのデザインも現代に通用する優れものです。

このジャケットは、U-505の軍医、
フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ローゼンマイヤー医師
潜水艦から脱出したときに着ていたものです。

ローゼンマイヤー医師はその後USS「シャトレーン」に救出され、
バミューダに他の乗員と共に移送されたわけですが、



バミューダでU-505の皆さんはこんな格好だったそうなので、
ムートンのジャケットはもう必要がなくなったのでしょう。

「シャトレーン」の乗組員、ロバート・ロルフグレン
おそらく何かと引き換えにお土産として手にいれ、持ち帰りました。

ショーツ(錨マーク入り)

Uボート勤務というと寒いイメージばかりを持ちがちですが、
西アフリカ沖で哨戒していたときは大変気温が高くて
Uボートの乗員艦上での日々の作業は不快指数マックスだったそうです。

作業中の乗組員の基本スタイルは、Tシャツ、短パン、デッキシューズ。

不快な暑さの中耐えられるようにできる限りの工夫をしていました。

先ほどの軍医は海に脱出するとき、温度差を考えて
一応ムートンのジャケットをわざわざ羽織ったのだと思いますが、
ほとんどの乗組員は、タスクグループに捕捉された時、
作業中であったことから、この格好をしていたということです。

紺色の短パンの裾に金色でアンカーのマーク入り。

これはおそらく海軍支給のものだと思いますが、
もともとはスポーツ用だったのではないかと思われます。


続く。



映画「戦場のなでしこ」〜映画の裏の「真実」

2023-05-04 | 映画

映画「戦場のなでしこ」続きです。
ソ連軍に派遣された従軍看護婦たちが、実は慰安婦にされていた、
という歴史の裏側の真実を描いた衝撃作である本作品。

映画に描かれていることだけでも十分に悲劇ですが、
本作のベースになった看護婦長、堀喜身子
の手記と照らし合わせると、史実は映画よりずっと悲惨でした。

後半では、映画に描かれなかった真実の「なでしこ」について解説します。




派遣看護婦の第一陣が帰らず、第二陣から何の連絡もないのに、
第三次派遣の要請が来るに及んで、これはおかしい!と
吉成軍医も婦長も疑念を抱きますが、総務課長の張(大友純)は、

「敗戦国民が我々に従うのは当然だ!」

と居丈高に逆ギレしてきます。


さて、看護師として派遣され、ソ連軍の将校宿舎で
慰安婦にされた看護婦5人の中で、一人無事だったのは荒井秀子でした。



看護婦村瀬知子が、ソ連軍将校に手籠にされてしまってから、
ふらふらと荒井秀子の部屋に行くと、そこにはまだ無事な彼女の姿が。

何かスケジュールの都合で?秀子の部屋にはまだ誰も来ていなかったのです。

そこで決心した村瀬知子は、ソ連軍将校が姿を表すと、
必死で立ち塞がり、彼女を守りました。

荒井秀子が吉成大尉との結婚を控えていたため、
せめて彼女だけは、と思ったのでした。

四人の女性は、口々に、
「秀子さんがわたしたちの最後の希望よ!」
といい、彼女を守り切る決意を固めます。

しかし、こんなことがいつまでも可能であろうはずがありません。
たまたま今回の相手が温厚だっただけかもしれませんし。


そこで女性たちは最後の手段に出ることにしました。

監禁されたということになっていますが、
互いの交流は可能だったようです。


何も知らない第三次派遣隊が送られてくる、と情報を得た田崎京子は、
これ以上犠牲を増やしてはならない!と
ここを脱走し、実態を皆に訴えに戻ることを決意しました。



京子の必死の脱出劇が始まりました。
追手の銃弾を逃れ、ワンピースにパンプスで山中を全力疾走です。



力尽きて途中倒れていたところ、彼女を救ったのはロシア軍の救急隊でした。


半死半生で第八救護隊に戻ってきた彼女は、苦しい息の下から
派遣された看護婦たちの無残な運命について語ります。

実に映画的な展開に思われますが、驚いたことにこれは事実でした。

第4回目の応援看護婦の要請を受けた日、掘婦長が回転ドアを押したら、
ドアの外から全身血みどろの女が倒れ込んできて、
それは第一次派遣の大島という看護婦だったというのです。

そして彼女は、

「もう、ソ連軍へ派遣を出さないで・・
慰安婦に、慰安婦にさせられますから・・」

それだけを言うと、瞼を閉じて、2時間後に亡くなったということです。



実情を知った吉成軍医は一人馬を駆って城子溝に向かいました。

宇津井健が疾走するシーンがロケされたのは富士山の御殿場です。
自衛隊の演習場を借りたのではないかと思われます。

一方、堀婦長はソ連軍司令部の将校に真相を訴えに行きます。



その頃徳は、他の看護婦たちに守られ、これまでひとり無傷だった秀子を
面白半分に手にかけようとしていました。



ちょうどそのとき、吉成が御殿場に到着。
馬で正門を突っ切って、直接基地に乗り込んできました。



出てきた女性士官の日本語での問いに、吉成は
日本人看護婦がここで慰安婦にされていると言うことを訴えますが、彼女は、



「我々の軍隊は厳しい軍紀で統率されており、
そんなことは決して起こらない!」

と断言。
まあ、彼女の中ではそうなんでしょうけど。



そこに論より証拠、徳の手から必死で逃れてきた秀子が、
表に逃げ出して衆人環視の中、吉成のもとに駆け込んできました。

奇しくも彼女の出現が吉成大尉の言葉を裏付ける結果になった、
と思いきや、ソ連軍、徳の言い訳を(ロシア語で字幕がないのでわからず)
真に受けて、どういうわけだか吉成の方を逮捕にかかります。



隙を見て馬に飛び乗り、秀子を置いて走って行く吉成大尉。

5秒前まで晴れてたのにいきなり雪積もってんぞおい。



「わたしに構わず逃げて!」

と叫びながら半袖のドレスとパンプスで雪の中を走る秀子。
女優も楽ではない仕事だと思うシーンです。



「撃たないで!撃たないで!」

空がまた晴れはじめました。



その頃、仕事をサボタージュして同僚が帰るのを待っている看護婦たちに、
陳は日本軍のやったことを論いながら、彼女らを口汚く罵っていました。



そして、

「お前ら日本人、何をされても文句を言える立場ではない。
言うことを聞かないなら、中国人の中に放り出して、
皆になぶりものにさせてやる!!!」


とえぐい脅迫をするのでした。
実際にこんな中国人は少なくなかったと思われます。



その頃、堀婦長は、単身ロシア軍の司令部に乗り込み、
これまでの実情と調査を訴えていました。


そしてこのブレジネフ眉毛の司令は、その訴えを受けて
軍の内部を調査することを命じたのです。



看護婦を慰安婦扱いしたものたちに罰則を。



そしてそれを計画立案した徳には最も厳しい処罰が降りました。



相変わらず字幕がないので分かりませんが、おそらくは
お前死刑な、と言っているような気がします。



言われた徳は慌てて逃げたため、追われてそのまま銃殺されてしまいました。



しかしその頃、残された看護婦たちは、自らの運命に絶望し、
吉成と婦長を待ちながら、死ぬ覚悟を決めつつありました。



故郷の思い出を語る者、歌を歌う者、
そして互いに化粧を施す者・・・・。



必死の脱出で実情を知らせた末亡くなった礼子にも化粧をしてやります。



中には二人の帰りを待とうという者もいましたが、それより敵が来て、
死に遅れたら取り返しがつかなくなる、と死を急ぐ声が勝ち、


吉成たちがもどったときにはもう手遅れでした。



ここで、堀喜身子の手記から、実際に起こった経緯を書いておきます。

真相を伝えに戻ってきて亡くなった大島看護婦を埋葬すると、
その後についてどうするかが看護婦部隊の中で話し合われました。

ここで驚くことに、この後に及んで堀婦長は、
くじを引いて三人のさらなる派遣を選抜していたらしいのです。

堀婦長、なんでそうなる。なんでそうする。

そして残った22名に、院長と民会本部に実情を訴えることを命じましたが、
堀婦長が救護所に戻ったら全員が青酸カリで死んでいた
というのです。

これって、堀婦長がまだこの状況で3人追加で送ろうとしたからじゃないの?
軍隊と一緒で、看護婦も当時は上官に逆らえないわけだし。

その後、ソ連の憲兵隊が調査に訪れて、現場の惨状に驚き、
(そりゃ驚くわ)翌日には、

「ソ連軍の命令で納得いかぬものがあれば、憲兵隊に問い合わせよ」

という布告が出されたのですが、解放されたはずの看護婦たちは
なぜかその後病院に戻ってきませんでした。

この事情もまたびっくりです。

憲兵隊の調査の後、彼女らは確かに解放されていたのですが、
どういうわけか、自分らの意志で帰ることを拒否し、
なんと、現地のダンスホールで働いていたのです。

これは、当時の一般女性の持っていた貞操観念から、

「女性の純潔を汚され、本来死ぬべきであった自分が
おめおめと生きて日本に帰っても、誰にも会わせる顔がない」


と絶望し、自暴自棄に身を投じてしまった結果ではないかと思われます。

中でも悲惨だったのは将校宿舎に送られ慰安婦にされた最初の六人でした。

彼女らはすでに梅毒に侵されており、ソ連兵をお客に取って
病気を感染させることで、彼らに「復讐」していたのです。

驚いた堀は彼女らを診察し、密かに治療薬を調達して与えましたが、
彼女らの病状はすでに薬では効かないくらいに進行していました。

そして9月、堀ら看護婦隊に引き揚げ帰国命令が下ります。

堀はダンスホールの女性たちに、一緒に日本に帰るよう説得しましたが、
夕刻の集結時間、駅にやってきたのはそのうち三人だけでした。

しかも、その三人は、堀に食糧と金を渡すと列車を降りていきました。
残された堀の耳に聞こえてきたのは、

「婦長さん!さようなら!」

という声と、3発の銃声でした。


映画では、戻ってきた秀子ら、慰安婦にされていた看護婦が、
泣きながら思い出を語ったり頬を擦り寄せたりするシーンが延々と続き、
彼女らが「綺麗なまま死んだ」ことが精一杯強調されます。


しかし、より悲惨で残酷な最後を遂げた、つまり
映画のいうところの「美わしい」まま死ねなかった看護婦たちの
凄絶な最後については、それが史実だったにも関わらず何も語られません。



終わり。



映画「戦場のなでしこ」〜従軍看護婦の悲劇

2023-05-02 | 映画
 
昭和21年6月、日本敗戦後に中国の長春第八陸軍病院で働かされていた
22名の従軍看護婦が集団自殺を遂げたという事件がありました。

この事件について現場でそれを知る立場だった堀喜身子婦長は、
後年詳しい経緯を手記にまとめて発表し、世間に衝撃を与えました。

この実話をベースに昭和34年新東宝が制作したのが、
本作、「戦場のなでしこ」です。

当時扇情的なエロティシズムが売りの作品が多かった新東宝が、
慰安婦にされた従軍看護婦の実話を映画化製作するということには、
あるいは眉を顰める向きもあったかと思われましたが、
この作品の演出において、俗世間の思う「新東宝臭」は封印されています。

「日本人の正しさ逞しさをバックボーンにした」

という監督の石井輝男の言葉からは、実際の被害者を描くにあたり、
鎮魂の思いを込め、悲劇の伝承を目的に制作されたことが伝わりますし、
また、実際に内容を見ても、問題のシーンはかなり抑制され、
象徴的な表現に終始しており、それでいて史実であったところの悲劇は
ちゃんと受け手に伝わる作りとなっています。

ただ、映画の個人的感想としては、あまりに悲劇に感情移入しすぎて、
特にラストシーンでは表現の抑制が効かず、暴走気味と感じられました。

具体的にいうと、女優さんたちの泣きの演技がオーバーリアクションで、
ちょっと辟易してしまったというのが率直なところです。


今回わたしがこの映画をセレクトしたのは、前回の映画シリーズで
「陸軍の美人トリオ」という米陸軍WACものを取り上げたことから、
同じ女性を使った戦争映画を並べてみたかったからですが、
はっきりいって共通点は「女性」と「戦争」という2点のみ。

色んな意味で状況が違いすぎて、比較にもならなかったことを告白します。



ナプキンのような紙片にマジックインキ(本当)で書かれた献辞が現れます。

「この一編を
異国の地に春なき青春を散らせた
白衣の天使たちに捧ぐ」




ここは終戦後の新京駅。

今や敗戦国民となった日本人に牙を剥く中国人暴徒の群れから逃れて、
内地に戻ろうとする日本人たちが、列車を待っています。


ここでは特に婦女子対する注意喚起が行われていました。

「進駐軍から身を守るため、髪を短く切って男に化けるように」



そこに、ソ連軍が元従軍看護婦を徴用にやってきました。
(この徴用は軍正規ルートによるもの)



実在に婦長で、この事件を著した堀喜身子の手記によると、
婦長の堀婦長始め、一団の看護婦たちは、
長春の紅軍第八救護所で務めることになりました。


看護婦の一人、小田みちこを演じるのは大空真弓



荒井秀子看護婦を演じる三ツ矢歌子


彼女らが送られた長春の病院には中国人(満人)が主に入院していました。

日本語を喋る病気の子供(満州の学校では日本語教育がなされた)
につきそう母は、夫を日本人に殺されたこともあって、
日本人看護婦の手当を拒否し、激しく日本を罵ってきます。



満人の医学生、陳(鮎川浩)は落ち込む彼女らに優しく声をかけるのでした。

「彼らも今にわかるから気にしないでください。
日本人、中国人、わかりあえる。日満友好ですよ!」


この映画では、ソ連軍、中国人を悪という色に塗りつぶすことなく、
善意の人々をそこここに登場させて、バランスを取る配慮がなされています。



そのとき病院に派遣されてやってきたのは、吉成陸軍軍医大尉(宇津井健)
おっと、もう終戦後なので「元」が付きます。



吉成と荒井秀子は恋人同士でした。

「もう心配ないよ。日本に帰るまで一緒だ!」

頼もしい男の言葉に秀子は涙ぐみます。



徴用された日本人看護婦の生活は厳しいものでした。

満人看護婦がお腹いっぱい食べているのに、彼女らに与えられるのは
必要最低限の食事だけで、水を飲んで空腹をごまかさなくてはなりません。



しかし若い彼女らは女子らしいお洒落心も捨てていません。

小田みちこ看護婦の望みは、内地で恋人を作ること、
得意の歌をステージで披露できるような仕事。
そして今一番欲しいのは唇を彩る口紅でした。

「秀子さんの持ってる口紅、半分でももらえないかしら」



しかし「秀子さんの口紅」は秀子にとっては大切な宝物です。
欲しいと言われてあげられるものではありません。
なぜならそれは吉成軍医にプレゼントされたものだったからです。



いつでも肌身離さず持っていたの、という秀子。
その夜、二人は久しぶりの再会に堅く抱擁を交わすのでした。



そんなある日、ソ連軍が看護婦5名を徴用するとの命令が降りました。

実際の命令は、ソ連陸軍病院第二赤軍救護所に、1カ月の期限で
看護婦3名を応援に派遣せよ
、という内容だったそうです。

映画にも描かれている通り、堀婦長は31名の看護婦から3名を選び、
救護所に派遣したところ、二週間して追加で3名の要請、
さらに二週間後にまたしても3名を要請してきました。

そして1ヶ月過ぎても第一次派遣の看護婦は帰って来ず、
追加で送った者も一向に連絡が取れなくなってしまいました。


彼女らを連れて行くのは、いかにも狡そうな小悪党キャラ、
徳永長(並木一路)という中国人通訳です。

おそらく、当時ソ連軍のためにそういう汚い仕事をして
小銭を稼いでいた実在の中国人がモデルになっていると思われます。


派遣看護婦を送り出した後、第八救護所は漢子軍の攻撃を受けます。
病院の薬品を狙った窃盗のための攻撃でした。



しかもこんな最中に中国娘愛蘭の容体が急変。
手術室が使用できず、吉成元軍医は床で手術を始めました。



その時、室内に降り注ぐ銃弾で出た怪我人のところに駆け寄ろうとした
山口玲子看護婦が弾に当たり負傷。

「腹部盲管銃創です!」

愛蘭のオペの機械出しをしながらテキパキと婦長は手当を指示しました。



手術の甲斐あって、愛蘭がなんとか命を取り留めると、
母親は、さっきまでとは態度をガラリと変えて泣きながら礼を言います。



しかし負傷した山口看護婦の状態は絶望的でした。
なぜ銃創なのに氷枕をしているのかわかりませんが。

歌の得意なみちこは、満州生まれの彼女の枕元で
「旅愁」をフルバージョン歌ってやります。

「♩ふけ行く 秋の夜 旅の空の〜」



元気な頃甘いものを欲しがっていた彼女のために、秀子は中国人に身を奴し、
満人の知り合いに紹介してもらった店に、菓子を買いにに行きました。

お金がないので、彼女は自分がはめていた腕時計を渡しますが、
店の男は彼女が日本人とわかると受け取ろうとしませんでした。

「それ持って早く日本にかえりなさい」



店の男が無料で分けてくれたお菓子ですが、
それを持って帰ったとき、もう礼子に食べる力は残されていませんでした。



そして、一週間という期限で看護婦の第二次派遣命令が降りました。
第二次隊5名の中には、荒井秀子が加わっていました。

変な石像の前で別れの挨拶をする二人。



別れの際、秀子はみちこに例の口紅を贈りました。



ソ連軍基地に到着した彼女らの敬礼(頭を下げる)に
軍人たちは一応敬礼で答えますが、



ニヤニヤしながら一人一人の顔を覗き込み出し、
女性たちは思わず顔をそむけてしまいます。

ちなみに出演者のほとんどはモノホンのロシア人です。



女性たちはまずシャワーを浴びさせられました。
しかし、徳が覗きをしているので、慌てて出て着替えようとすると、
今まで着ていた制服が脱衣所にありません。

代わりにあるのは、まるでダンサーが着るような派手なドレスや靴でした。
仕方がないのでそれを身につけるわけですが・・。


後はご想像の通り。
個室に一人ずつ入れられ、そこにロシア将校が入ってきて・・・・。



ただ、将校全員がこのことを知っていたわけではなかったようです。
こちらは歌えや踊れで楽しんでいる将校たち。



このグループには紅一点ながら女性士官も姿を見せます。
「全員が加担していたわけではなかった」というアリバイキャストですかね。



演じているのはピクスノヴァという(フルネームわからず)ロシア女性です。



この間、被害者たちが性的に蹂躙されていたことの比喩として、
踊りの輪の中の5輪の花が踏み躙られるシーンがあります。

しかし、看護隊の5人のうち、たった一人、
「乙女の誇り」を傷つけられなかった者がいました。

それは誰だったのでしょうか。
そして彼女はなぜ一人守られたのでしょうか。


続く。


プリズナーズ・オブ・ウォー(戦争捕虜)〜シカゴ科学産業博物館U-505展示

2023-04-30 | 歴史

冒頭写真のパネルにある一列に並べられた半裸の男たちは、
捕虜になった直後のU-505の乗員たちです。

わたしはこの写真を見た途端、映画「Uボート最後の決断」で
アメリカ海軍潜水艦の乗員が、全員Uボートの捕虜になり、
Uボート乗員の視線の中を全裸で歩かされるシーンを思い出しました。




捕虜になるだけでもアレなのに、
全裸で行進させられるというのは恥辱以外の何でもありません。

そういう辱めを与えるのが目的なのか、それとも
そのことによって抵抗力を削ぐのが目的かはわかりませんが、
いずれにしても捕虜を「押さえつける」手っ取り早い方法かと思われます。



さて、ボートを捨てて救命いかだで海に逃れたUボート乗員たちは、
Uボートもろともアメリカ軍に捕獲されることになりました。

しかしアフリカ沖を救命いかだで漂流し、味方に拾われる確率は
非常に低かったことを考えると、命拾いだったと考えていいでしょう。



ともあれ彼らはアメリカ艦船に救助された瞬間、
戦争捕虜(プリズナーズ・オブ・ウォー)となったのです。



ホースで水をかけられていますが、これはボートにいるドイツ兵たち
(汗まみれで色々と臭い)を乗艦させる前に洗浄しているのかと。
アフリカ沖で暑いので彼らにはありがたかったかもしれません。



というわけで、今日は博物館の展示からこちらを哨戒、
じゃなくて紹介します。



潜望鏡をのぞく艦長らしき姿。



■ 囚われの身

U-505の拿捕の際死亡したドイツ側の乗組員は、
「ゴギー」ことゴットフリート・フィッシャーただ一人でした。

彼は、最初のアメリカ軍による航空攻撃の際
甲板で銃弾を受けて死亡したとされます。

タスク・グループは残りの58人の乗組員を海から救出しました。
繰り返しますが、ほとんどのUボート乗組員が経験するよりも、
これは結果としてはるかに好ましい運命といえます。

USS「ガダルカナル」に乗せられた彼らはバミューダに輸送され、
ルイジアナ州ラストンでの捕虜収容所の準備を待つために
そこで数週間収容生活を送りました。


バミューダでのUボート乗員たち


ハンス・ゴーベラー二等機関士の捕虜調書。

怪我の状態を書く欄に「左手と人差し指に怪我」、
調書が取られたのは1944年6月13日と捕虜になってすぐです。

一番下にはドイツでの住所も書かれています。



こちらも両手の指紋を念入りに取ってあります。
ヨーゼフ・ハウザー中尉の調書。


捕虜になった時にアメリカ軍に接収されたハウザー中尉の鉄十字章

「勇敢かつ英雄的な戦闘指揮に対して与えられる」
この鉄十字章、アイアンクロスについては、ドイツ軍人の憧れとして
いくつかの映画に登場してきましたが、
ハウザー中尉、何とこれを授与されていたようです。



こちらもヨーゼフ・ハウザー中尉のヒトラー・ユーゲントバッジ。
最後の方はヒトラー・ユーゲントは全員参加となっていました。


「行方不明」扱いされたU-505の乗組員

U-505の捕虜のキャンプ・ラストンでの扱いは「非常に良いものだった」
と、当時のアメリカ側からはそういうことになっていました。

しかし、彼らには特別の事情がありました。

U-505の乗員だけが他の捕虜から隔離され、アメリカ海軍は
彼らの手紙を検閲以前にすべて没収するという扱いをうけたのです。

つまり彼らはいなかったことにされたのでした。

なぜかというと、アメリカ海軍は、U-505を捕獲したことを
ドイツはもちろん国内でも、同盟国に対しても秘匿したかったからです。

海軍作戦部長兼アメリカ艦隊司令長官、
アーネスト・J・キング提督からトップダウンで
これらの特別条件は決定され、通達されました。

しかも、いなかったことにされたどころか、
アメリカは、1944年8月までにドイツ海軍に対し、

「U-505の乗組員親族に、
彼らは既にに死んでいると通知すべきである」

と通達をしているのです。

これ、わたしがドイツ軍関係者だったら、怪しさMAXで疑うな。
なんだってわざわざこんな持って回った言い方してくるんだろう?
「撃沈した」と言わないのは、何かの事情があるんじゃないかって。

しかも、この捕虜の扱いは、1929年に締結された
ジュネーブ第三条約の捕虜の待遇に対する規約、

第 69 条〔措置の通知〕
抑留国は、捕虜がその権力内に陥ったときは、直ちに、捕虜及び、
利益保護国を通じ、
捕虜が属する国に対し、
この部の規定を実施するために執る措置を通知しなければならない。


第 70 条〔捕虜通知票〕
各捕虜に対しては、その者が、捕虜となった時直ちに、
又は収容所(通過収容所を含む。)に到着した後 1 週間以内に、また、
病気になった場合又は病院若しくは他の収容所に移動された場合にも
その後 1 週間以内に、
その家族及び中央捕虜情報局に対し、
捕虜となった事実、あて名及び健康状態を通知する通知票を
直接に送付することができるようにしなければならない。


に明確に違反していました。
どうすんだよアメリカ海軍。

とにかく、死んだことにされていたU-505の乗員は、
故郷に手紙を送ることも、生死を知らせることもままなりませんでした。

そして、これもジュネーブ条約によると、

第 71 条〔通信〕
1.捕虜に対しては、手紙及び葉書を送付し、
及び受領することを許さなければならない。
抑留国が各捕虜の発送する手紙及び葉書の数を
制限することを必要と認めた場合には、その数は、
毎月、手紙二通及び葉書四通より少いものであってはならない。

2.長期にわたり家族から消息を得ない捕虜又は家族との間で
通常の郵便路線により相互に消息を伝えることができない捕虜
及び家族から著しく遠い場所にいる捕虜に対しては、
電報を発信することを許さなければならない。

その料金は、抑留国における捕虜の勘定に借記し、
又は捕虜が処分することができる通貨で支払うものとする。
捕虜は、緊急の場合にも、この措置による利益を受けるものとする。



そこでU-505捕虜は、自分たちが捕まったことをなんとか知らせようと、
何度も無駄な試みを繰り返しました。

あるときの彼らの作戦は、セロファンの袋で風船を作り、
掃除用の化学薬品を混ぜて作った水素ガスを充満させた風船を作り、
「U-505生存!」と書かれた鉄十字の紙を貼り、
外に向けて飛ばし、誰かが拾ってくれるのを待つというものでした。

風船は収容所の境界フェンスの上に飛ばすところを目撃されましたが、
街中ならまだしも、ルイジアナの、「鉄道がある」というだけで選ばれた
なーんもない土地に飛ばしても、人が拾う可能性は微量子レベルでした。

こんなところですから

■ 捕虜たちの生活

一般的な捕虜にとって、ラストン捕虜収容所の生活は穏やかなもので、
バンドや合唱団から流れる音楽が常に空気を満たしていました。

芸術家は絵を描き、大工は家具を作り、
故郷の建物や記念碑のミニチュアを作る者もいて、彼らの作品は
現在でもラストンのいくつかの家に残されたりしています。

運動も奨励され、ドイツの囚人たちはアメリカに来て初めて、
野球やバスケットボールを習いました。

高学歴の囚人たちは、近くのルイジアナ工科大学から取り寄せた本を使って、
さまざまなテーマの授業を他の囚人向けに行いました。

収容所の運営に携わらない囚人たちは、地元の農家で働き、
木材を伐採し、公共施設を建設しました。
給料は「スクリップ」と呼ばれる収容所通貨で支払われ、食堂で使ったり、
洗面用具や雑誌、ビールなどを購入することができました。

多くの「囚人」は、一緒に働く地元の人たちと親しくなり、
「敵」とも一生付き合える関係を築いていったということです。


木材の伐採を行う収容所の作業隊
アメリカ人看守が枢軸国の囚人たちと気軽にポーズをとっている



収容所の囚人には、創造性を発揮するための材料すら与えられました。

この写真の、ナポレオンがライプツィヒで敗れたことを記念して作られた
「国戦記念碑」をはじめ、ドイツの有名な建造物のミニチュアを作ることが
囚人の「流行り」として盛んに行われていました。

しかしU-505の元乗組員たちは、一般の捕虜とも交流を遮断されていました。
他の捕虜からドイツ国内に情報が漏れるのを防ぐためです。


■ 捕虜の解放と帰還

U-505の捕虜は、終戦までキャンプ・ラストンに留まり、
終戦が決まってからドイツへの送還作業が開始されました。

ドイツの家族は、死んだと聞かされていた息子や夫が
生きていたことにさぞ驚き喜んだことでしょう。


先ほどのヨーゼフ・ハウザー中尉が、捕虜解放前に
フランスの収容所から母親に宛てたメッセージが残されています。

ドイツ人捕虜
住所:バイエルン ツヴァイブリュッケン・ルンダーシュトラーセ18

メッセージ:

2年が経ち、僕は再び西ヨーロッパの海岸にいます。
僕は健康で、すぐに戻れるでしょう。
前回からお母さんからも婚約者からも便りがありませんでしたが、
願わくばみなさんが今も元気で健在でありますように。

戦争で財産を失ったとしても、それに対して泣いたりしないで。

昨日僕は解放の通知を受けました。
「アメリカンゾーン2、移住地ミュンヘン」
これは解放されてからの目的地で、すぐにそうなると思います。

早くまたお会いできますように。
あれからのことを全てお話ししたい!

愛する母!僕の素敵な花嫁、兄弟、
ミュンヘンにいる全ての親戚。
彼らがいるところに残らず僕の挨拶を送ってください。
これは息子のセップからのお願いです。

ヨーゼフ・ハウザー中尉
LANT 50 GNA
C.C.P.WE.#23 c.o. P.W. I.B
フランス パリ

最後の捕虜は、1947年に帰国しましたが、博物館の資料として
1991年に行われたかつての捕虜へのインタビューが掲載されています。

■ ヴォルフガング・シラー元水兵へのインタビュー



Q.魚雷室での生活はどのようなものだったのか

もちろん、とても狭かったです。

魚雷の上には私たちの・・私たちのテーブルがありました。
魚雷に木の板をのせるんですが、私たちは寝台に座り、
魚雷の上に置かれたこの木の板で食事をしました。

寝床は、見張りのローテーションごとに交代して使いましたので
「ホットバンク」といっていつも暖かかった。
4時間ごとに誰か起きればすぐに次の人が寝るのです。
その度ベッドを交代しました。

最初に乗艦した人たちはとにかく
ザックの上やハンモックの上を取ってここで寝ていました。
Smutje(コック)なんかは、ほとんどここ。
魚雷の上の真ん中のところでしたね。
彼らは自分のベッドを持っていなかったのです。

「フリーウォッチマン」「フリーランナー」と呼ばれる連中は寝床がない。
しかし、私は自分の特別な寝台を確保していました。

リラックスすることなんてできません。
パイプのせいで仰向けにしか寝られないし寝返りも打てないんですから。
でもそれも当然、とにかく眠る場所さえあれば、って感じです。

海が荒れた時にはパイプの上ですから、滑り落ちないように
頑張って自分の体を支えなければいけなかったのですが、
ある日、あまりにも海が荒れていて、ベッドから振り落とされて
隣の人の背中に「落ちた」ことがありました。


Q.非番の時は何をしていたのですか?
読書?音楽?カードゲーム?


私は本の虫で・・今日もそうです。今日も英語の本を読んでいます。
当時は、できるだけ多くの本を読む努力もしました。
そのやり方で自分を楽にすることに大成功したのです。
自分の神経を保つために。

カードゲームですが、あれはワッチのシフトで
できない方がもしかしたらラッキーだったかもしれません。
(その心は、負けたらお金が減るから)

音楽や娯楽について補足すると、艦内にレコードプレーヤーがあり、
ドイツのレコードや歌を再生することができました。
だから、少しは音楽も聴きました。

アンテナでラジオを受信できたかどうかは、もう思い出せません。
もしそうなら、せいぜいアメリカかスペインのラジオが、
私たちがいたその辺りで受信できたはずです。
でも、今はもうどうだったかわかりません。

Q.読書は、楽しみのためだけだったのでしょうか、
それとも技術的なこと、つまり勉強のためだったのでしょうか?


覚えている限りでは、「宿題」もありました。
魚雷学校で学んだことを「知識を新たにする」という意味で。

潜水艦の中で、生活の中で、学んだことを活かして
実践的に仕事をこなしていくことが必要だと思いました。

各個人が自分のポジションを守り任務をするだけでなく、
他の人のポジションも満たすことが重要だったんです。

困ったときに助けてくれるように お互いに皆の分担を受け持ちました。
それは必要なことでした。

例えば何かの交戦中に誰かが倒れてしまったとしたら、
彼の持ち場をを引き継ぐことができなければなりませんでした。

その点で、私たちはとても充実していましたし、
そのことに興味を持ちましたし、目的を正しく理解して、
それぞれのやり方で行動できるようにしていました。

Q.音楽はオペラとかですか?

『リリ・マルレーン』とか、そういうのしか思い出せないんですけど、
軽音楽がが圧倒的に多かったかな。

若い頃、自分がオペラやオペレッタに関心があったとは到底思えません。
強いて言えば、ドイツ語で
 "am Hut haben"(「帽子の上に持っている」)
という表現があるんですが、それでいうと、
私たちはもっと軽い音楽を聴いていたと思いますよ。

その頃、ポップスはすでにすごく人気が出てきていましたし。
たまにアメリカやイギリスのレコードを聴く機会もありました。

『リリ・マルレーン』なんかは今の人でも知ってると思いますが、
それが自然と私たちの緊張をほぐしてくれていたというか。

Q.初めて潜航をしたときのことを教えてください。

ある潜水の場面で、私はたまたま中央司令室に立っていたのですが、
潜水艦がかなり鋭角に沈むと、中央司令室から艦首魚雷室が見えたんです。
まるでワインボトルを貯蔵したセラーを覗き込んでいるような感じでした(笑)

Q.どんな感じだったのでしょうか?
何を考えていましたか?

潜水艦がどれくらい傾斜を保てるか分からないので、
少し不安な気持ちになりました。
私たちはエンジンの力で潜水していたので、つまり、振動していたのです。

そして、「ダイブ!」の号令で、最初の潜水タンクが浸水し、
あっという間にこの角度になりました。
ジェットコースターみたいな感じで、とても不安な気持ちになりました。

Q.デプス・チャージ(深度爆雷)を落とされた時
の感覚はどんなものでしたか?


深海棲艦での体験はいろいろな種類のものがありました。

爆雷はあるときは近くに、あるときは遠くに落ちてきました。
私たちが捕虜になったとき、爆雷が私たちに当たったり、
近くに沈んだりして、艦のガラスが粉々になったことは実際に知っています。

他の深度爆雷はもっと遠くに落ちていました。
一つ覚えているのは水深40~60メートルの地点にいたときのことです。
攻撃されたとき、司令官から

「駆逐艦が向きを変えて、またこちらに向かっている」

と言われました。

その後、爆雷が落ちることはありませんでしたが、
ある安全地帯では常に深度計を増設していました。

当時はまだ、私たちが潜れる深さまで爆雷はセットできなかったんです。

Q. U-505が「不運艦」だったという話がありますが、
あなた自身そのような感覚をお持ちでしたか?


それについては、次のようなことしか言えません。

私はこの爆弾まみれの航海から生きて帰ってきましたが、はっきり言って
あの頃、我が国の潜水艦にできることはもうなかったんじゃないでしょうか。

U-505は、出撃準備が整っても、出発前にすぐにドック入りしました。

いざ出発というときになると、どういうわけか
オイルやその他のダメージが見つかり、また帰ってこざるを得ない。
4、5回、そんなことを繰り返して出撃したのです。
(不具合はフランス人潜水艦基地労働者の工作の結果だったとされている)

そんなだったので、U-505は不運艦だという噂が自然に生まれました。

でも、私たちは結局ラッキーでした。
だって、みなさんご存知のように、私たちは皆生き残りましたから。


Q. 総員退艦になってから、あなたは
ハンス・ゲーベラーと一緒に海に入ったそうですね。

はい。

一人で泳ぎながらどうするか考えていると、駆逐艦がやってきて、
米水兵が糸(釣り糸だったらしい)を我々に投げ始めたのですが、
私はその糸に引っかかりませんでした。

そこで、私はさらに泳いで、大きなボートに向かいました。
ボートにはすでに多くの人が座っていましたが、その中から

「まだ元気で助けを求めて泣いている奴のところまで泳いでいけるか」

と聞かれたので、こう答えました。

「誰か一緒に泳いでくれれば」

そのとき声を上げてくれたハンス・ゲーベラーとは、
いつも和気あいあいとした関係で、いい仲間だったんです。

そこで、一緒に泳ぎだしたんですが、慌てていたせいで
救命胴衣の紐を締めておらず、しかも短パンしか履いていなくて
剥き出しのふくらはぎに紐が擦れてしまい、それが痛くて・・。

でも最初何でなのかかわかりませんでした。
そこでハンス・ゲーベラーを振り返って、

「サメ?俺の後ろにサメがいるの?」

と聞くと、彼は答えました。

「Nein. Nein.」(いねーよ)

海中に太陽の光を通して、灰色の影のようなものが見えた気がして、
てっきりサメが私を狙っているのだと思ったのです。

彼が、

「大丈夫だから!」

と言ってくれましたが、念の為彼を後ろを泳がせました。
(サメがいた時のために 笑)


Q.ドイツの「スポンサーの街」について。

海軍の「スポンサーの町」はバート・ヴァイセ(ドイツ)でした。

今日、スキーヤーや人々がリラックスするために行くような、
湖の辺りに美しいホテルがあるとても素敵な町で、そこに招待されました。
「爆撃の航海」のすぐ後にね。

バイエルンでは初めて"スキーの海軍 "を見ましたよ。
海軍がスキーやるんだ、って驚きました。

もちろん、若かったので、歓待され、いろいろ体験させてもらい、
人々が私たちをいつも楽しませてくれたのが嬉しかったです。

その地域の別の町からパーティーに招待され、
そこで潜水艦の乗組員は党の大物たちと一緒に写真を撮ったんです。

Q. お偉いさんというのはどういう人かご存知ですか?
(インタビュー終わり)


インタビュアーは、ここで歴史に残っているような
ナチスの大物の名前がでてくることを期待したのだと思いますが、残念ながら
オーラルヒストリーはここまでしか掲載されていませんでした。


しかし、ドイツ軍捕虜というのは、思い過ごしかもしれませんが、
アメリカでは全く問題なく暮らしていたようです。



捕虜といえば、最後に私見的余談です。


アメリカ人がドイツと戦争しても、国内のドイツ人を
日系人のように強制収容所に閉じ込めることをしなかったのは、
ドイツ系がWASP、アメリカの支配層である

ホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント
 (White Anglo-Saxon Protestants)


の一つの流れであり、イングランド、スコッチ系を含むイギリス、
オランダと同じ移民時のエリートだったからと言われていますね。

(ルーズベルトはオランダ系。JFKはアイリッシュ系で
プロテスタントではないカトリック系の初めての大統領であり、
選挙の際、ハンディを覆すためにケネディ家は
マフィアの力を利用して大々的に選挙不正をしたと言われている)

原子爆弾をドイツに落とす計画は最初から最後まで議論すらなかったのも、
結局はそういうことだったんだろうなあ・・・(とわたしは思います)。




続く。



レコードと煙草、U-505の「戦利品」〜シカゴ科学産業博物館

2023-04-28 | 博物館・資料館・テーマパーク
MSIのU-505関連展示より、前回に続き、
艦内から見つかったいわゆる「戦利品」についてです。

■ 徽章など


階級章

無線室や管制室で働く下士官が付けていた記章です。
錨のマークに「無線」を表す矢印があしらわれたデザイン。



16)名誉の負傷バッジ


Verwundeten -Abzeichen

アメリカ軍の「パープルハート」に相当する名誉バッジです。
ドイツ軍では傷の重症度に応じて、黒、銀、金がありました。
このバッジは赤ですが、黒を上から塗ってあります。
本人が塗ったのか、渡す側が物資不足のおり、急拵えしたのかは謎です。

また、これを持っているということは、海軍に入る前、
持ち主がヒットラーユーゲントにいた、ということを意味しているそうです。

17)無線オペレーターのパッチ

二つ重ねたVと「電気」を表す雷状矢印。

これはU-505の乗員が着用していたものですが、
彼はアメリカ軍のA.スピロフに、
タバコ一箱と引き換えにこれを渡したということです。

捕虜と接触したアメリカ人が戦利品を本人にねだる、という図は
相手が日本軍であった場合にも多々見られました。

18)認識票


小さな楕円形のIDディスク(認識票)は、大きなドッグタグ状。

給料明細書の裏表紙に取り付けられていたそうです。
給与を管理するために会計の方で預かっていたのでしょうか。

このタグの持ち主は、Ewald Thorwestenという人で、
タグそのものは半分で二つに折れる仕様であることがわかります。


19)ベルトバックル(左下)


裏側のフックを艦上で修理した跡があるそうです。
なぜ艦上でやったかわかるのかは謎ですが。

ドイツ第三帝国のワシのマークの周りに書かれている文字とその意味は、

「GOTT MIT UNS」=神は我々と共におられる

20)肩章


ナビゲーターのアルフレート・ライニッヒが着用していた肩章。

21)階級章

U-505コントロールルーム勤務の下士官が付けていた階級章。

■ バッジ



22, 23, 24)  銅製Uボートバッジ

Uボート乗員は、戦闘哨戒を一回完了すると、この

U-Bootskriegsabzeichen

Uボート哨戒バッジを受け取ることができました。


22と23のバッジは、銅でできており、
初期の高品質バージョンだということですが、
同じようにみえる24番の方は、板金から打ち抜かれたもので
鋳造されたものではありません。

戦争終盤にはドイツも物資不足に陥っていましたから、
特定の金属の希少性と、資源を節約していた懐事情が反映されています。

25)ドイツ軍掃海メダル

Kriegsabzeichen Fur Minesuch-
U-Bootsjagd und Sicherungsverbande

=掃海艇、対潜&補助護衛章



これらの護衛艦に乗務経験のあるものは、
Uボートに配置されるということになっていました。

26,27)Uボート乗員章(ブロンズ)

階級の上から順にゴールド、シルバー、ブロンズがありました。

モンブラン製万年筆


技術工業国ドイツは、万年筆のブランドを多く生み出しています。

このモンブランを筆頭に、ペリカン、ステッドラー、ファーバーカステル、
ロットリング、シュナイダー、ポルシェデザイン

これらすべてがドイツのブランドです。
(わたしはモンブランはスイスのメーカーだと思っていました)

この万年筆は、U-505の艦長だった、
ハラルト・ランゲ大佐のデスクから直々に略奪?されたということです。


【レコード】


映画「Uボート」でも、その他のアメリカ映画におけるUボートでも、
Uボート乗員というのは、レコードを聴いていたイメージがあります。

なぜなら実際潜水艦における大切なエンターテイメントは音楽でしたし、
アメリカ海軍でも、ある潜水艦87枚にはレコードが搭載されていた、
なんて話もあります(よっぽど音楽好きな艦長だったんでしょうか)

U-505で見つかったレコードのうち6枚が行進曲で、
残りはポピュラー音楽と軽クラシックでした。

上から:

A面)Schön ist die Nacht(美しきは夜)

Schön ist die Nacht - Rupert Glawitsch mit Schuricke Terzett - 1938

B面)Ganz leise die Nacht(静かに夜が近づく)

A面)Spanisher March(スペイン行進曲)

B面)Der Student geht vorbei(学生が通る)

A面)Tapfere,Kleine Soldatenfrau(勇敢な小さい兵士の妻)
Wilhelm Strienz - Tapfere, kleine Soldatenfrau

B面)Wenn im Tal ale Rosen Bluhn(谷間のバラ)

しかし、戦争中にUボートの乗員が聞いていた音楽を、
日本で、家にいながらクリック一つですぐに聞ける今の状況って。

あらためてすごい時代に生きてるなあと感じる今日この頃です。

■煙草

U-505からは大量のタバコが発見されました。

潜水艦でタバコを吸うときは、必ずブリッジで火をつける前に
上に許可を求めなくてはならない決まりがありました。

そのとき誰がブリッジでタバコを吸っているかは、
かならずチョークで黒板に名前を書いておくことになっていました。



33)ゴールドダラー煙草


ゴールドダラー。英語です。


タバコのパッケージには「最高のアメリカンスタイル」とあります。
アメリカのタバコは戦時中のドイツでさえ人気があったようですね。

アメリカスタイルを謳ったこの製品は、ハンブルグのタバコ会社、
アゼット・シガレット製造会社の商品です。

34)ヤン・マート煙草

「最高のオリエンタル風とヨーロピアンバージニアをブレンドした
最高のバージニア風味」


とありますがバージニアってもしかしてこれもアメリカの?

「ヤン・マートJan Maat」はドイツにおける船乗りを表す言葉です。

下)カモメ印煙草

Möveとは「カモメ」を意味します。
Uボート乗員の間で一般的だった銘柄です。
ドイツ占領下であったポーランドのクラクフで製造されています。



リームツマ(Reemtsma)R-6煙草

R-6というこのタバコは、大変「強い」ことで知られていました。

湿気の多いUボート艦内では、煙草を乾いた状態で保つのが困難だったため、
乗員たちはバラバラにしたタバコをブリキ缶に詰めて、
ハンダ付けして封をし、吸う直前に缶を切る努力を惜しみませんでした。



ニル煙草

ミュンヘンにあった「オーストリアタバコ工場」の製品です。
他のパッケージよりちょっと高級な感じがします。


オーバル4 ペンニッヒ煙草

パッケージにある「Pst!Feind hort mit」という警告は、
吸いすぎはあなたの健康を害する・・・ではなくて、

「静かにしてください。敵は常に聞いています」

防諜メッセージでした。



マッチ

左)セキュリティストームマッチ
風が強いなどの困難な状況でもつけられます、というのがまんま商品名。



右側の「モーレンルシファース」マッチは、
捕獲後のU-505の中で発見されたものです。

■ お金とお菓子



このフランス、ドイツコインは、
ダニエル・ギャラリー大佐が記念品として持ち帰ったものだそうです。
ドイツ統治下のフランス、ロリエントにはUボートの基地がありました。

紙幣は、所属パッチと引き換えにタバコをもらった通信士が、
やはりタバコ一箱と引き換えにスピロフに渡したものです。

よっぽどタバコが欲しかったんだねえ・・。

「グリコレード」チョコレート

グリコって、あのグリコと同じ意味ですかね。

チョコレートバーには0.2%のカフェインが含まれており、
長時間の見張り中のエネルギー補充にたいへん重宝されました。

ベルリン・テンペルホーフのサロッティ社製。


■ 救命艇の一部



このイラストに見覚えがあるでしょう?
Uボート乗員が脱出した一人用救命ボートの部分です。

なぜこんな状態で残っているかというと、
大物をゲットできなかったタスクグループのメンバーたちが
自分達もちょっとでも何か「お土産」が欲しいので、皆で話し合って、
救命艇を小さく小さく切り刻んで、そのパーツを持ち帰ったのです。

アメリカ兵の戦場での「記念品好き」は有名ですが、ここまでするか・・・。

しかしここでつい考えずにいられないのは、
切り刻まれた布切れのほんの一部は、たまたま持ち主が名乗りを上げて
ここに展示され、人々の目に留まることになったわけですが、
ほとんどの「切れ端」(特になんのマークもないような部分)は
おじいちゃんが大切に保管していなければ、どこかに紛れ込み、
本人が亡くなったあとは散逸してしまったに違いないということです。



続く。

戦利品人気ナンバーワン、ツァイス双眼鏡〜シカゴ技術産業博物館U-505展示

2023-04-26 | 博物館・資料館・テーマパーク

捕獲したU-505からアメリカ軍の軍人たちが
無差別に「スーべニール」としてゲットした品シリーズ、続きです。

ここに展示されているのは、ケースの背景になっている写真のように、
U-505にあっためずらしい「ドイツ軍グッズ」を、
その場に居合わせたタスクグループのメンバーが、
ワイワイと楽しげに分け合った結果、個々に持ち帰られて、
大概はその家の倉庫とかに放置されていたものなのですが、
シカゴ科学産業博物館がU-505を展示することになったとき、
本人や家族が申し出て、博物館に寄付したものです。

■ 双眼鏡

浮上した時、U-505は常時5名の水兵が水平線と空を見張り、
敵の存在を探知していました。

第二次世界大戦中、ドイツの双眼鏡は、「任務グラス」を意味する、
『Dienstglas』ディエンストグラス
と言い表されていました。

彼らはこの重要な任務のために、ドイツ製の
高品質双眼鏡を使用していました。
ドイツの双眼鏡の高性能高品質は内外にも評価されており、
なかでもカール・ツァイス製は日本海軍でも垂涎の的でしたね。

日本海海戦で、自腹を切ってツァイスの双眼鏡を買っていた中尉が
一番先にロシア艦隊を見つけた、なんて話もありましたっけ。

ドイツ軍の使用グラスもそのほとんどはツァイス製でしたが、
さすがはドイツ、そのほかにも多くの製造業者があり、
エルンスト・ライツ、ヴォイトランダーなどが特に有名でした。

今ではクリスタルグラスで有名なスワロフスキーも、戦時中は

「cag」=Swarovski, Tyrol

というコードをつけた双眼鏡を製造していたこともあるそうです。

連合軍兵士たちが戦利品で双眼鏡を見つけると色めき立った理由は、
まず実際に性能が良かったこと、アクセサリーとしてカッコよかったこと、
戦後になると、ツァイス製の双眼鏡は高く売れたからです。

たとえば1946年に、ニューヨークのカメラストアで、
10×50が97ドル、6×30が38ドルで売られたという記録があります。

当時の100ドルは現在の日本円で大体40万円くらいなので、
双眼鏡が90万円とか40万円とかのお金になったというわけですね。

現代日本におけるカメラ愛好家、特に「レンズ沼どっぷり」の人たちにとっては
これくらいなら法外な値段ではありませんが、
そのころのアメリカ人にとっては信じられない価格だったでしょう。

単なる双眼鏡としては、破格の値段がついていたことになります。

ドイツの双眼鏡は、倍率とフロントレンズの大きさによって
番号がつけられており、最初の数字は画像の倍率を、
そして2番目の数字はレンズの直径(ミリ)を表しました。

軍が支給していた双眼鏡は、6×30、7×50、10×50の3種類ですが、
これだと、6倍×30ミリ、7倍×50ミリ、10倍×50ミリとなります。

レンズの数値が大きいほど光を捉えやすく画像がよくなるのですが、
実際は一番小さな6×30が下士官・将校に支給されることが多かったようです。


左:ツァイス双眼鏡 7×50

ハンターキラータスクグループの司令官、ダニエル・ギャラリー大佐
Uボートの浸水を食い止める功績をあげた
アール・トロシーノ中佐に「記念品」(ご褒美的な)として贈ったもの。

右:レイツ双眼鏡 7×50

エルンスト・レイツ Ernst Leitz、Watzlar コードbeh
も、数あるドイツ軍御用達双眼鏡製造業者の一つです。

USS「ピルズベリー」から乗り込み隊を率いたアルバート・デイビッド大尉
U-505で取得した戦利品が、これでした。
おそらくU-505の乗員がブリッジで使用していたものと思われます。

ちなみにこの双眼鏡は、デイビッド氏の姪によって寄付されました。
おそらくこの時、ご本人はもう他界されていたと思われます。



双眼鏡(ノーブランド?)7×50

捕獲したU-505のハッチを、デイビッド中尉に続いて降りた、
スタンリー・W・ウドウィアク三等通信兵が拾ったもの。

早く行動したものはいいものを手に入れることができるってことです。

これもウドウィアク氏の妻による寄贈品です。



カール・ツァイス双眼鏡と革製アイピースキャップ 7×50

型番の左には、ナチスドイツのワシのマークが刻まれています。
カール・ツァイスの記名の下にJENAという文字が見えますが、
Jenaイエーナチューリンゲンにあるツァイス所在地です。

革製のアイピースキャップ、左には

Benuyzer「ユーザー」

右には

Okulare festgestelit 「接眼レンズ」
Nicht verdrehen「ねじらないでください」

とあります。

ユーザーは真ん中の皮の部分に名前を書くようになっていて、
持ち主のCAJというイニシャルが残されています。

この双眼鏡を取得したのは「ピルズベリー」から乗り込み隊として派遣された
ジョージ・ジェイコブセン機関兵曹でした。

もともとはU−505の第一当直士官であった「Leutnant zur see」少尉
クルト・ブレイKurt Breyの所有物だったものです。
(刻まれたイニシャルではない)



カール・ツァイス双眼鏡 6×30


カール・ツァイス 6×30革製ケース

ドイツ製のすごいところは、革製のケースも堅牢なことです。
このケース、磨けば今でも普通に使えそうじゃないですか。

この双眼鏡モデルは左レンズに測距マークが付いていて、
直接「射撃」するのに大変有効な仕組みとなっているそうです。

6×30倍率の双眼鏡は、航空機上や砲座などからの射撃時、
移動するターゲットを追跡するのに理想的なバージョンでした。


アタック・ペリスコープ・レンズ

レンズはレンズでもこれは潜望鏡のレンズです。

U-505に搭載されていたもので、この潜水艦が「戦争の記憶」として
展示されることが決まった時、
海洋サルベージ会社メリット・チャップマン&スコットから
1954年9月25日、博物館に寄贈されました。

■ 信号銃と鍵



シグナルピストル、フレアピストルともいいます。

信号銃は撃つと色付きのフレアを空中に発して他のボートや
航空機とコミニュケーションするためのものです。

7と番号が打たれた5つの鍵の束は、正確にはわかっていませんが、
スペアパーツや機密書類、あるいは私物の箱のものだった可能性があります。

5本全部同じ形をしているように見えますよね。
機密書類とかではなかったんじゃないかなあ。

8のアルミの鍵は、乗員の個人用ロッカーのものであろうと言われています。

・・・って、捕虜に実際に聞いて確かめたら?
と思うんですが、そんな瑣末なことは聞く状況になかったのかな。

■ ステーショナリー


インクスタンプ

左)Uボートから発信されたすべてのメールには、
U-505のFeldpost(郵送コード)である、
M 46074
をこのスタンプで押すことになっていました。

右)Bootsmannsmaat u.(ボーツマンスマート)
=Boatswain's Mate and Master at Arms

は下士官であり、二等兵曹のランク、航海士です。

このスタンプは、このランクの下士官が日報などの文書に使用し、
命令が通達され実行されたことを確認していました。



研石とケース

U-505のワークショップ(機械などで部品を作ったりするコーナー)
で発見されたケース入りの砥石。
ナイフや切削工具を研ぐための道具です。

これらの道具はどれもアメリカ軍のベテランから寄贈されたものです。

最初の方に突入したクルーは、危険とはいえ、
ツァイスの双眼鏡など「上物」をゲットできるわけですが、
その他のメンバーは、このようなものまで分け合って
「記念品」として持ち帰ったということですね。

■ プレート



上)サインタグ

司令塔にかかっていたのを取り外したようです。

「潜望鏡用グリースフィッティング#5」

と書かれていますが、誰も意味はわからないようです。

下)メインエンジンデータプレート



MANというのは
「Maschinenfabrik Augsburg-Nürnberg AG」

という会社のロゴで、U-505右舷手ディーゼルエンジンの
データが記されています。

同社は現在でもヨーロッパ最大級の車両・機械エンジニアリング会社で、
第一次世界大戦中から砲弾、信管、戦車砲、対空砲、
航空機エンジン、潜水艦ディーゼルエンジンを製造し始めました。

戦時中は捕虜を強制労働していたということはありましたが、戦後
連合国軍による戦犯指定のアンバンドリング(会社の解体)は行われず、
合併をしながらも現在に至っています。


【缶入りパンとドライイースト缶】



どこの国でも潜水艦乗員はその国の海軍の中で最高の食事を楽しんでいました。

Uボートの乗員もしかり。

哨戒に出る時には、豊富な生鮮食品をたっぷり満載しましたが、
それがなくなったりダメになったりすると、
乗員は缶詰を食べることになりました。

パンも缶詰になっていたようですね。

下の缶は、U505が捕獲された時に艦内でたくさん見つかったものの一つで、
潜水艦の料理人はこの酵母を使ってパンを作っていました。

【スープ皿】


Uボートでは水兵も陶器の皿でスープなどを食べていました。


■祈りの本



「健康と病気のための小さな祈り」

という本は、USS「ガダルカナル」の乗員が艦内で取得しました。
月ごとの宗教的な祈りと、病気など、特定の状況の時の祈り、
その方法と唱える言葉などが書かれています。


こういう本まで「戦利品」として持って帰ったとしても、
おそらく人にちょっとみせたら、あとは物置にしまいこんで、
本人も死ぬまで忘れていたりしたんだろうなあ。

「おじいちゃんの遺品」の中に何やら意味ありそうなものがあったけど、
捨てるのもなんだし、と寄付されたものがほとんどではないでしょうか。


続く。


「総員退艦!」U-505を捨てた乗組員〜シカゴ科学産業博物館

2023-04-24 | 博物館・資料館・テーマパーク

南アフリカ沖でアメリカ海軍のハンターキラータスクグループにマークされ、
最初から潜水艦の捕獲を目的に攻撃されたU-505の乗員は、
こう言ってはなんですが、アメリカ海軍と戦った他のUボート乗員より
生命の危険という点から遥かに幸運だったかもしれません。

艦体をできるだけ完全な状態で持ち帰るため、
その攻撃は相手を沈めるほどのダメージを与えませんでしたし、
なんならこちらには空母を含めた艦艇が束になって控えており、
総員退艦をして海に漂流していたドイツ軍乗員たちを
一人残らず捕虜として確保するだけの余裕があったからです。

艦体の確保は第一目的でしたが、アメリカ海軍にとっては
情報の裏付けと証言をさせるために、乗員はそっくりそのまま
無事に捕らえてアメリカに連れて帰るのがベストでした。

■6月4日、早朝6時の攻撃

まずは、Uボート側の証言からです。
Uボート乗員の一人、ヴォルフガング・ゲルハルト・シラーは、
攻撃が始まった瞬間のことをこう述べています。

早朝六時に「魚雷員は戦闘配置に!」と命令が飛びました。
艦長が潜水艦を浮上させ、潜望鏡を上げようとした瞬間、
航空機の射撃を受けたので、彼はすぐ潜望鏡を下ろし、

進路を反転させ、

「駆逐艦!」「潜航!」

と何度も叫びました。
5、6m潜航したところで爆雷がきました。
その後、艦尾から

「舵が取れた!浸水!」

と連絡が来たのを受けて、艦長は浮上と総員退艦を命じたのです。



次に、U−505艦長だったヘラルト・ランゲ(Herald Lange)大尉の証言を。

6月4日12時ごろ、通常コースで潜航中、ノイズが報告されたので、
潜望鏡で様子を見るために海面に浮上しようとした。
海はやや荒れていて潜望鏡深度を保つのは難しかった。

1隻の駆逐艦が西に、もう1隻が南西に、3隻目が160度に、
140度方向の遠方に空母のものと思われるかたまりが見えた。

駆逐艦#1は約2分の1マイルで我々に最も近く、
さらに遠くには航空機が見えたが、潜望鏡を見られたくなかったので、
これ以降海面を見る機会はなかった。

ボートを潜望鏡深度に安全に保つことができなかったので、
私は音を立てたが再び素早く潜航した。
大きなボートが水面下を進むとどうしても航跡ができるので、
おそらく航空機には見られたに違いないと思った。

まだ安全深度に到達していないときに
離れた場所に爆弾を2発落とされ、
続いて
重い爆発音が2回、おそらく深度爆雷のものだろう。

水が侵入し、ライトと全ての電源が喪失し、舵が動かなくなった。

被害の全体像も、爆撃が続けられている理由もわからないまま、
私は圧縮空気でボートを浮上させるように命じた。

ボートが浮上した時、ブリッジから今や4隻の駆逐艦が
我々を取り囲み、.50口径と対空砲で攻撃してきているのを見た。
最も近い駆逐艦は110度方向から司令塔に向けて榴散弾を発射していた。

私は数発の銃弾と榴散弾で両膝と足を負傷して転倒し、
私の後を追ってブリッジに出た一等航海士は、
右舷に横たわり、顔に血が流れているのが見えた。

私はすぐに
総員退艦と、ボートを爆破することを命じた。

駆逐艦からの攻撃を避けて司令塔の後部から脱出するよう指示したが、
ここで意識を失い、次に目を覚ますと、まだ甲板には多くの部下がいた。

私は体を起こしてなんとか艦尾に体を運んだが、
そのとき砲弾が爆発し、最初にいた対空甲板から主甲板に吹き飛ばされた。
爆発は右舷機関銃の近くで起こった。

このとき多くの乗員がメインデッキを走り回り、
個人用の展開筏を海に落とそうとしているのを見た。
意識のある間に、私はチーフにメインデッキに残ることを告げた。

どのようになっていたか正確な記憶はないが、また爆発が起こり、
私は怪我をしていて、グループのメンバーがパイプボートを持ってきて
それに引き上げてくれて、どうにか生き延びることができたのである。

私の救命胴衣は受けた破片で破けていて、役に立たなかったし、
戦闘が起きて最初の数秒の攻撃で、甲板から吹き飛ばされた
木片が
顔と目を直撃(右まぶたに棘が刺さっていた)
したため、
この一部始終を、私はほとんど見ることもできなかった。

パイプボートに引き揚げられて座った時、
最後に私はUボートを何とか見ることができた。
部下の何人かはまだ艦上にいて、仲間のために筏を水に投げ入れていた。

私は周りの男たちに、沈みゆく我がU-505にむかって
3度声を上げるよう命令した。



この後、私は駆逐艦に揚収されて応急処置を受け、
空母に乗り換えてから病院に移送されることになった。

病院で、私は(ギャラリー)大佐から、
彼らが私のボートを捕獲し、沈没を防いだことを知らされたのである。



冒頭写真は、U-505の乗員59名で、出撃前に撮られたものです。
Uボート捕獲後、タスクグループが海上から救出した乗員は58名でした。

ところで、これを読んでくださっている方は、
USS「ピルズベリー」から派出された乗り込み隊が、
ボロボロになったUボート艦上で、ドイツ兵一人の遺体を発見した、
と書いたのを覚えておられるでしょうか。

これが戦闘で死亡した唯一の乗組員、ゴッドフリート・フィッシャーでした。
U-505の他の乗員の証言です。

「僕は勤務を終えたばかりで、司令官室の隣にある
バッテリーのメインスイッチがあるバトルステーションにいましたが、
そのとき司令官が叫ぶのが聞こえました。

『総員退艦!!』

次の瞬間、ファンに何かがヒットしました。

司令塔ハッチのすぐ近くにいたので、かなり早くに外に出ました。
艦長が最初に、それから二等通信士が続きましたが、
パイプがほとんど破壊されていたので、すごいプレッシャーを感じました。

司令塔ハッチから外に出たら「ゴギー」が甲板に倒れていました。
僕はゴギーことゴットフリートに声をかけました。

『ゴギー、行くぞ!』

しかし次の瞬間、彼が撃たれて死んでいるのに気がつきました。
僕は甲板に降りて大きな展開式筏が収納されている司令塔の前に出て、
いかだに乗ろうとしたとき、敵は射撃を中止しました。

ああ、助かった!

そして僕らは筏を展開し、海上に逃れたのです。」


この時彼らが展開し脱出した筏がこれです。

さすがはドイツ製というのか、今現在でもこれを浮かべたら
十分救命ボートとして役にたちそうなくらいちゃんとしています。



ボートの縁には、図で緊急信号の送り方が描いてあります。

「両手を何度かあげる
”負傷者あり 救助緊急要請”」

「腕を頭上で旋回する
”食料と水を要求”」

Einmannschlauchboot(一人乗り救命ボート)

素直に「アインマン シュラーフ ブート」でいいんですかね読み方は。

とにかくこのラフトは主に海に墜落する危険のある
ドイツ空軍のパイロット向けに設計されています。
(それで説明のイラストがパイロット風味なんですね)

航空機のコクピットに収めるためにサイズを極限まで小さくしてあるので、
潜水艦に搭載するのも最適だったというわけです。

一人乗りのインフレータブル救命艇は、緊急脱出時に使用するため、
Uボートの各メンバーに一つづつ支給されていました。

救命艇内部には、シーアンカーやロープなど、
サバイバルに必要な極小サイズのコレクションが装備されていました。

救命ボートは圧縮空気ボトルで膨らませるものですが、
乗員は黒いゴムチューブのところから口で息を吹き込むこともできます。


このときのU-505乗員による実際の筏使用例。

自分のラフトを展開できてちゃんと収まっている人と、
それどころではなかったので、縁に掴まらせてもらっている人、
そして展開したものの、乗ることができなくて
掴まった状態のままアメリカ軍に発見された人(右上)。

彼らの、アメリカ兵を見る表情には、不安と恐怖が隠せません。


■ 押収されたUボート乗員の私物



Uボート展示の手前には、U-505を捕獲したアメリカ軍が、
艦内から戦利品として引き上げられたグッズが展示されています。

戦時中のアメリカ軍における一般的な慣行として、
このような戦利品はすべて個人の記念品としてお土産に持ち出されました。

Uボートの捕獲は極秘事項で、たとえ親兄弟や軍人であっても、
そのことは決して話題にしてはならない、もしそれを破ったら
死刑もあるぞと厳しく戒められていたのに、これは・・・・。

自分で密かに持っていても、誰にも由来を喋らなければいいですが、
これ、なんの問題視もされなかったんでしょうか。

ともかく、ここにあるUボートグッズは、
タスクグループ22.3の退役軍人、あるいはその家族が、
博物館オープンの際に寄付したものであり、
あるいはボートの修復中に博物館のスタッフが艦内から集めたものです。

【ドイツ海軍Uボート専用レザーユニフォーム】



寒い天候や悪天候下、潜水艦の甲板で作業をする時に、
Uボート乗員は上下皮でできたこのユニフォームを着用しました。



色褪せてしまっていますが、本来の色はブルーです。



これは第一次世界大戦中、U39の甲板にいるカール・デーニッツ中尉ですが、
この写真で見る限り、比較的濃いめの色であることがわかります。


カフ-ストラップというのは特にこんな皮素材の場合、
実用的な意味は全くないのですが、飾りのついたボタンといい、
このカフ-ストラップといい、細部にこだわりあり。

【レンチとディーゼルエンジンスペアパーツの箱】



どんだけ大きなレンチだよ!と驚くわけですが、
このレンチはおそらくディーゼルエンジンに使われたものです。

アメリカ海軍が沈みかけているUボートをなんとか立て直していた時、
少しでもボートを軽くして浮力を維持するために
ボートからはめぼしいアイテムが取り除かれましたが、
このレンチだけは重すぎて動かせなかったということです。

ますますUボートではどうやって使われていたのか謎・・・。

その下の箱には、ディーゼルエンジンのための工具、スペアパーツ、
機器の修理キットが収められていました。

もちろんこれも重いのですが、このような箱は、Uボートでは
重量に応じて艦内の保管場所が割り当てられました。
これにより、ボートのバランスを適切に保っていたのです。


【観察ノートと鉛筆、エアキャニスター】



左側の日誌は未使用だったそうです。
潜水艦での日常の活動を記すために技術クルーが使用するもののようです。

この赤い缶が、前半で散々出てきた「個人支給の筏」を展開し、
膨らませるための空気ボトルだそうです。

Uボート乗員が総員退艦した直後の甲板には、
この赤いキャニスターがいくつも転がっていたに違いありません。


続く。


「腸は空けても口閉じよ」守秘義務の宣誓〜シカゴ科学産業博物館 U-505展示

2023-04-22 | 博物館・資料館・テーマパーク

さて、アメリカ軍の攻撃によって総員退艦を余儀なくされたU-505。

自爆スイッチがオンにされ、沈む寸前のボートに乗り込んだ
ハンターキラー22.3のボーディング隊が、爆破装置を解除し、
誰も乗っていない潜水艦を狙い通り捕獲することに成功しました。



アメリカ軍が爆破を食いとめたとき、Uボートは
甲板の高さまで浸水しており、艦橋だけが見えている状態でした。

艦内に突入したボーティング隊は、ハッチを降り、
すでに海水が侵入していた艦内からの排水作業に全力を上げます。

■ 1944年6月4−19日 サルベージ隊の死闘



この写真で艦橋の上に見えている人影は、
9名のボーティング隊のものであり、
甲板の先に乗り込んでいるのは、排水を食い止めるために
右側のボートから乗り込んだ別働隊です。



沈みかけのUボートはこのような態勢で浮いていました。
艦橋にいたボーティング隊は艦内に降りたらしく、一人しか見えません。

艦首先でカメラに向かって両手を振っているように人がいますが、
これはおそらく手旗信号で通信をする信号員だと思われます。

それにしても、こんな状態でいつ爆発するかわからない敵潜水艦に、
任務とはいえよく乗り込んで行ったものだと、
あらためてボーティング隊の勇気に感嘆します。

甲板にいる20名ほどのメンバーも、この不安定な状態で
よくぞ任務を完遂できたものです。


U-505を捕獲することに成功したとはいえ、それは
戦いのほんの一部が始まったに過ぎなかったのです。

このとき、ダニエル・ギャラリー大佐には、
Uボートの軍事機密を研究するための資料として、
なんとしてでも捕獲したボートをバミューダまで曳航してくるように、
というアメリカ海軍トップからの命令が下されていました。

しかし、ギャラリー大佐の直面した課題は、この困難で長大な航海以前に
潜水艦が沈没の危機に瀕していたことでした。


まず、写真を見てもわかるように、海水が流入したため
コニングタワーが水面からほとんど顔を出していない状態です。

後から乗り組んだ20名は、「サルベージ・パーティ」、
つまり「Uボートの沈没食いとめ隊」でした。

さらに点検の結果、潜水艦の操舵が右に動かなくなっており、
牽引中にまっすぐ進まない状態であったため、
この状態で曳航は不可能であることが判明したのです。

しかもこの段階で艦内にはかなりの海水が浸水しており、
舵が壊れていたことと相まって、牽引のための引き綱に
多大な負荷がかかり続け、数時間後には綱は切れてしまいました。

ここで日が暮れてしまい、時間切れとなったので、
U-505は一晩を海中に沈んだまま過ごしました。

朝になってメンバーは、より強いラインを接続し、
サルベージクルーが舵を修理してまっすぐ進むようにし、
さらに海水を取り除く作業を再開しました。


舵が右に向いていた理由は、アメリカの航空機&駆逐艦からの攻撃のうち、
爆雷が舵の電気制御をまず破壊したことに起因します。

そして、これ以上の操舵が不可能と判断したUボート艦長は、
緊急手動制御を大きく右に切った状態で退艦しました。

ダニエル・ギャラリー大佐とアール・トロシーノ司令は、
手動制御にアクセスするために、潜水艦の後部魚雷室への潜入をを決定。

その後、メンバーは区画のハッチを開け、コントロールを使用して
なんとか舵をまっすぐするのに成功しました。

これは言うなれば「危険すぎるブービートラップ」でしたが、
彼らは勇敢にも立ち向かい、任務を果たしたのです。

”何トンもの海水を汲み出す”


甲板乗り込み組の足元に、艦内から海水を出すためのホースなど、
さまざまな道具があるのが確認できます。

乗り込み隊の努力で、舵はなんとか真っ直ぐになりましたが、
ここからU-505の艦内から海水を除去する困難な仕事が待っていました。

まず電源が切れていたため、艦内の排水ポンプを操作することはできません。

通常、潜水艦というものは、ディーゼルエンジンで作動させることによって
同時にバッテリーを充電する仕組みになっているのですが、
ギャラリー大佐はエンジンは動かさずに対処する選択をしました。

それによって潜水艦が沈没する可能性もあったからです。

潜水艦がそもそも浮くか沈むか、全く予想もつかないこの間、
アール・トロシーノ中佐は何時間もビルジに潜り、
エンジンの下の油まみれの水の中を這い回り、パイプラインをたどり、
バルブを閉めてボートを水密状態に持っていくことに時間を費やしました。

万一その瞬間沈没したら何があっても逃げられないような
床板の下の、手の届かない隅までもぐりこんで、
司令官自ら命懸けの作業を続けたのです。


参考までに:アール・トロシーノ司令

トロシーノ中佐の驚異的な直感と、自らの安全を省みない勇気と使命感は、
彼に正しいバルブを見つけ出させ、U-505を沈没から救うことになります。

彼のその後の作戦は、実に独創的な解決案に基づくものでした。

まず、潜水艦のディーゼルを完全にオフににして、
牽引されている間、スクリューがモーターシャフトを回せるようにします。

それから、フリートタグのUSS「アブナキ」Abnaki(ATF-96)
(軽空母であるUSS『ガダルカナル』を牽引するためのタグ)
に、高速で潜水艦の艦体を引っ張らせました。


赤い矢印がUー505黒がタスクグループ22.3
そして、ちょっと見にくいですが、カナリー諸島から牽引に駆けつけた、
USS「アブナキ」の導線が、グレーで表されています。



トロシーノ中佐の読み通り、プロペラが素早く回転することで、
電気モーターが回転し、バッテリーがリチャージされました。

そうしてのち、サルベージクルーは、
潜水艦搭載のポンプを用いて、艦内の海水を排出することができたのでした。



ここから展示を最下層階に移します。

捕らえたU-505が、なんとか沈まないように排水を行いました。
さて、そのあと、バミューダまで曳航していったわけですが、
そのくだりがこの階の展示で説明されているのです。



エンドレスで上映される、Uボート乗り込みの際の映像を
接収時の艦内の写真をパネルにした前で見ている人。

ちょうどハッチを乗り込みパーティのクルーが入っていくところです。

■ 1944年6月4-19日
サルベージ隊 任務完遂



一口でUボートを捕獲したアフリカ沖からバミューダまでといっても、
それはほとんど大西洋を横断する距離であるのがこれでわかりますね。

U-505を牽引していたUSS「アブナキ」ATF-96は、三日経過したとき、
彼女の「荷」を、旗艦「ガダルカナル」に積み替えました。

彼女はそれから駆逐艦「デュリック」Durik(DE-666)と、
タンカー、USS「ケネベック」Kennebec(AO-36)に付き添われて、
タスクグループの大西洋横断に必要な燃料を補給しに戻りました。

そうやって、1944年6月19日、捕獲されて15日目に、
U-505はバミューダのポートロイヤルベイに到着したのでした。


バミューダでは、待ち構えていた米海軍のアナリストが、
早速U-505に乗り込んで、大西洋のグリッドマップ、
T-5音響誘導魚雷のマニュアル、レーダー、レーダー探知機、
コードブック、および二つのエニグマ暗号機を含む、
1,200を超えるドイツ海軍の機密アイテムをカタログ化しました。

このときU-505から収集された情報により、連合軍は、
対Uボートマニュアルを開発および改善することに成功しました。

これが対ドイツ戦勝利への大きな貢献となったのは間違いありません。


■ 守秘義務 Secrecy A  Must

アメリカ合衆国にとって、アメリカ海軍がUボートを無傷で拿捕したことは
絶対にドイツ側に知られてはならないことでした。

万が一ドイツ軍がこのことを知ったら、すぐさま
対潜傍聴活動と暗号解読阻止のためにシステムを変えるでしょう。


(それでここに来るまでの通路に、防諜ポスターが
嫌というほど展示されていたのか・・納得)


そのため、ダニエル・ギャラリー艦長は、海軍から
タスクグループの内部からUボート捕獲の噂が広まることのないよう、
それはそれは厳しい命令を受けることになりました。



これが海軍上層部からギャラリー大佐に送られてきた命令です。

敵にU-505の捕獲を知られないようにするため

(A)もしU-505の状態が変化した場合、
タスクグループ22.3の護衛の下バミューダに向かうこと

(B)捕獲については絶対的な秘密厳守が必要であることを
全ての関係者に強調すること


ギャラリーはメンバー全員に秘密保持声明に署名させました。
守秘義務違反の罰は「アンダーペナルティ・オブ・デス」=死刑


ギャラリー艦長は、このメモをタスクグループ全員に渡し、
Uボート捕獲が極秘事項であることを強調しました。

「オース・オブ・シークレシー」(秘密の宣誓)

という真面目で公式的な口調のタイトルで発されたこの文書からは、
ダニエル・ギャラリーという海軍司令のリーダーシップ、
歴史的瞬間の証人としてこの状況に立ち会っていることの高揚感、
そして、なぜかユーモアのセンスに対する才能が遺憾無く発揮されています。

この厳密な箝口令が敷かれた結果、この秘密は戦後まで漏れることなく、
ドイツ側がUボートを捕獲されていたことを知ったのは
戦後連合国に降伏した後のことだったといいます。

OVE                           USS「ガダルカナル」    1944年6月14日

極秘
From: タスクグループ22.3司令
To:タスクグループ22.3

全ての者に公開する

6月4日1100以来、我々が行ってきた業務は最高機密に分類された。

U-505の捕獲は、我々がそれについて口を閉ざすことで
第二次世界大戦における大きなターニングポイントの一つとなりうる。

敵がこの捕獲を知ることがあってはならない。

今回のことについて、我々の友人にこれをしゃべりたくなる気持ちは
本官も十分理解するものであるが、これから印刷される歴史の本で、
彼らもいずれはそのことを全て読むことになるであろう。

そしてそうなるかどうかは諸君次第なのである。

次の命令に従えば、あなた自身の健康も、
国防に不可欠な情報も守られることを肝に銘じてほしい。

「腸は空けても 口閉じよ」
’ KEEP YOUR BOWELS OPEN AND 
YOUR MOUTH SHUT’

「あなた自身の健康」って、ソフトに脅迫してないかこれ。
それから、最後の「腸」ですが、語呂だけであまり意味はありません。

「さんま焼いても家焼くな」的な?

なので、ギャラリー司令の命令にも「肝に銘じる」と
誰うま的な意訳をしておきました。

上司にしたい男:ギャラリー司令


こちらは真面目な?方の、というか公式の守秘義務宣誓書です。


U-505が拿捕されてから数時間以内に、連合軍の諜報機関上層部は
ボートと乗組員について計画を立てなければなりませんでした。

アメリカ海軍大将アーネスト・キング
イギリス海軍第一海軍卿アンドリュー・カニンガムは、
捕獲を秘匿しておく必要性について、無線でメッセージを交換していました。

発見した情報についてドイツに知られないことを第一義としたのです。

捕獲に関与した全ての関係者は「守秘義務の宣誓」に署名させられました。
沈黙を守ることについて、厳しい罰則が設けられており、
万が一これを破った場合には、死刑に処せられる可能性がありました。

この宣言は1944年6月8日に署名されました。

ドイツが降伏してから初めて海軍はU-505の鹵獲を発表し、
乗員の宣誓を解除するプレスリリースを発行しました。
宣誓書の内容は以下の通り。

トップシークレット

USS「フラハティ」
C/O フリートポストオフィス ニューヨーク NY

わたし、ロジャー・W・コーゼンス(サイン)は、
ドイツの潜水艦U-505の捕獲に関して絶対的な秘密を維持するための
十分な説明を受けたので、戦争が終了するまで、
少なくとも海軍省が早急に一般に公開しない限り、
何人にもこの情報を漏らさないことを、ここに誓います。

(この『誰にも』no oneには、わたしの最も近い親戚、
友人、軍人、または海軍軍人も含まれています。
わたしの司令官からそのように指示された場合を除き、
たとえ相手が提督であっても、それは例外ではありません)

ドイツが、U-505の拿捕の何らかの情報源から何かを察知した場合、
その捕獲によって得た多大なこちらの利益が即座に無効になり、
結果としてそれがアメリカ合衆国に多大な損失をもたらすことを
わたしは知る必要があり、またそれを十分に認識しています。

わたしはまた、もしわたしがこの誓いを破った場合、
わたしは重大な軍事犯罪を犯し、それによって
わたし自身を軍法会議にかけられることになるのを認識しています。

ロジャー・W・コーゼンス(サイン)

8日、わたしの前で朗読し誓約しました

M.L.ローリー LT (JG)USNR(サイン)



続く。




ハンターキラー、U-505捕獲に成功す〜シカゴ科学産業博物館

2023-04-20 | 博物館・資料館・テーマパーク

はっきりと目標をUボートの捕獲と定め、情報機関を駆使して
南アフリカに乗り込んだギャラリー大佐のハンターキラー22.3。

捜索を続けるも諦めて引き上げようとした途端、
駆逐艦「シャトレーン」のソナーマンがUボートの存在を突き止めた、
というところまでお話ししてきました。

ここまで歩いてくると、ようやく実物のU-505を
甲板の高さから見ることができる展示室にたどり着きます。



アメリカ海軍が知力の限りを尽くして捕獲したU-505。
ここに展示されるまでにはそれこそ本になるほどのストーリーがあり、
この展示では、それが熱く語られます。



潜水艦のフロア全部を使って、資料が展示されています。
皆様には、このわたしが順にこれをお見せしていくつもりです。



潜水艦は内部を何回かに分けてツァーで紹介しています。
1階フロアに見える人々は、ツァーを予約し、時間が来るのを待っています。


そこにたどり着くまでに、パネル展示が続くわけですが、
まずはU-505を捕獲した時のシーンが現れました。

潜水艦の右舷に横付けされたボート、見覚えがありますね。



やはりこれは、Uボート乗員を確保しにいくボートだったんですね。



パネルの前に並んだ九人の海軍軍人たち。
彼らが直接Uボートに向かったボートのクルーなのかな?



やはりそのようです。
一人一人の顔写真がボートに乗って登場しました。

彼らはUSS「ピルズベリー」から派出された
「ボーディング・パーティ」=乗り込みチームです。

航空機からのマーキングの後、駆逐艦から発射された魚雷で
U-505は損傷し、総員退艦を始めました。

彼らがボートを放棄することが明らかになった時、
タスクグループ22.3は、ホエールボート(っていうんですね)を投下し、
ボーディング(敵船乗組)と救助の訓練を受けたクルーを派遣しました。

そして、USS「シャトレーン」とU「ジェンクス」が生存者を拾い上げる間、
USS「ピルズベリー」はホエールボートをU-505に送り、
アルバート・L・デビッド中尉が9人の搭乗隊を率いて乗り込みました。

その、USS「ピルズベリー」のホエールボートが、
損傷した潜水艦の横に停泊した瞬間が絵になっているわけです。

彼らのここでの任務はUボートを強襲し、
残存しているドイツ海軍の乗組員を圧して潜水艦を制御することです。

このクルー全員が大々的に顔写真と共に紹介されていますが、
この任務は誰にでもできることではなくとてつもなく危険でした。

まず、このときU−505の状態は海上で沈没寸前となり、
渦に巻き込まれるように自転していました。

当然ですが、鹵獲されることを防ぐため、
艦隊には爆薬が装備されていた可能性は大でした。


このとき乗り込みメンバーとなった九人の名前が
「極秘」として記された文書。

■ U-505に搭乗





”シーストレーナー・カバー”

Uボートにはドイツが連合軍の手に渡ることを望まない
最高機密の情報と技術が満載されていました。

だからこそ今回ギャラリー大佐とアメリカ海軍は
総力を挙げてUボートの捕獲作戦に乗り出したわけですが、
Uボートの艦長は、万が一自艦が捕獲の危険に晒された場合、
自沈または沈没させよという厳格な命令を受けていました。

タスクグループの攻撃が艦体を損傷させたとき、
U-505の乗員はボートを浸水させ自沈させようとしました。

その時彼らが開けたのはこのシーストレーナーというパイプです。

次の瞬間水はボートに流れ込みました。
「ピルズベリー」の乗り込みチームがU-505に到着するまでに、
潜水艦の艦尾はすでに水没しており、
海水麺は司令塔の最上部分にほぼ到達していました。

モーターマシニストのゼノン・ルコシウス一等水兵が乗艦し、
このストレーナーから海水が流れ込んでいるのを発見し、
すぐさまストレーナーのカバーを探して再び固定しました。

それが冒頭写真の”ストレーナーカバー”です。

”スカットル・チャージ”

U-505を総員退艦する前に、ドイツ軍乗員は、
潜水艦全体に装備された多数のスカットル・チャージ、
=時限爆弾のタイマーをセットするように訓練されていました。

アメリカ軍の乗り込み隊と救助隊は、
起爆スイッチとなっている針金のワイヤーをすぐさま引っ張り、
時限爆弾のスイッチを解除することに成功しました。


左上、艦橋だけ海上に出た状態
下、アメリカの旗をUボートの司令塔に立てる


もちろん一つでも爆発していたら、Uボートはもちろん、
乗り込んだアメリカ海軍のクルーが海底に沈むことになったでしょう。

■USS「ピルズベリー」の乗り込み隊9名

潜水艦はいつ沈没するか爆発するかわからないし、
どんな抵抗を受けるかもわかりませんでしたが、乗り込み隊である
デイビッド中尉たちはハッチから内部に降りていったのです。

急いで調べたところ、甲板に横たわっていたドイツ人水兵の死体以外は、
U-505は無人であることが確認されました。

これが今回の拿捕を決めた決定的な瞬間となったのです。

そしてその後、まずスカットルチャージの取り外しが行われ、
ついで沈没を防ぐためにバルブの閉鎖を済ませてから、
海図や暗号帳、書類の整理に取りかかりました。


危険を承知でUボートに乗り込んで行った9名については、
一人一人紹介されていましたので、ここに挙げておきます。


アルバート・L・デイヴィッド 米海軍中尉
(左はギャラリー中佐、『ガダルカナル』艦上にて)


チェスター・A・モカースキー 一等砲手兵曹 U.S.N.


ウェイン・M・ピケルス 二等航海士 U.S.N.所属

アーサー・W・ニスペル 魚雷手 三等兵 U.S.N.R.
写真なし


ジョージ・ジェイコブソン U.S.N.チーフ・モーター・マシニスト・メイト


ゼノン B. ルコシウス U.S.N.一等機関士補
起爆スイッチを最初に切った殊勲者。


ウィリアム・R・リアンドゥ U.S.N.三等電気技師補


スタンリー E. ウドウィアック U.S.N.R.三等兵曹(ラジオマン)


ゴードン・F・ホーネ 米海軍三等軍曹

「ピルズベリー」の信号員でU-505に乗艦した後は
タスクグループと通信業務を行う。
シグナルマンはタスクグループから見分けやすいように
一人白いユニフォームを着せられていた。
シルバースターメダル受賞



フィリップ・トゥルシェイム操舵手

操舵手として「ピルズベリー」から出されたホエールボートを操縦した。
乗り込みパーティには加わっていないが、
Uボートとボートを並べ位置を維持する重要な役目を果たした。



アール・トロシーノ(引揚隊司令官)

トロシーノは-505の沈没を阻止する救助隊を指揮した。
彼が考案した巧妙な計画に従って、引揚隊は、
牽引中に潜水艦のバッテリーを再充電することに成功。

これにより、クルーは潜水艦の搭載ポンプを使用して
攻撃中に浸水した海水を排水することができた。

1954年、U-505がシカゴに牽引されることになった時、
トロシーノはその指揮も勤めることになった。

海軍は彼にコンバット「V」メダルを授与した。



D.E.ハンプトン大尉

ハンプトンはUSS「ガダルカナル」からの2次サルベージ隊を率いた。
彼は、捕獲後、U-505を奪取する命令を与えられていた。
潜水艦の状態により、救助と牽引も任されていた。

ハンプトンはボートからの排水作業を組織し、
トロシーノ中佐の引揚作業を援助した。

海軍からは厚労勲章メダルが与えられている。


さて、ミッションの最初の部分が完了しました。

アメリカ海軍ハンターキラータスクグループ22.3は、
ダニエル・V・ギャラリー大佐の指揮下においてU-505を捕獲したのです。

これは、1815年(1812年の戦争の最終年)以来、
アメリカ海軍にとって敵船を戦時に捕獲した最初の例となりました。


拿捕後、タスクグループはU-505をバミューダに曳し、
Uボートの解析を行うことにしました。

バミューダに到着する前夜、ギャラリー大佐は
お手柄だった乗り込みメンバー9名を
USS「ガダルカナル」に招待しています。

ギャラリー大佐は翌朝、捕獲した潜水艦にアメリカ軍人を乗せて
港に入るという演出のために、彼らをU-505に移そうと考えたのです。

■ 余談:乗り込みメンバーの間違いを加工?
アメリカ海軍の写真加工技術

ここでちょっとしたミスが起こりました。

USS「ガダルカナル」に乗艦したグループの最先任、
デビッド中尉は、まずギャラリー大佐に面会に行きました。

このとき、カメラマンはデビッド中尉のいないパーティを撮影し、
これをプレスリリース用の写真にしてしまったのです。



九人いたのでこれが乗り込みクルー全員だろうと思ったんですね。

実際は、そこにいなかったデビッド中尉の代わりに、
物資の手配を担当するために「ピルズベリー」から乗り込んでいた
チーフのコミサリー・リスクが一緒に写っていたのです。

写真を撮られた人たちはプレスリリースとか全く考えていないので、
誰一人このことを疑問に思わず、リスク曹長も一緒に写真に収まりましたが、
公式の写真に作戦と関係ない人がうつっているのはいかがなものか、
となったので、直前で海軍は写真を加工しました。



これがもう全く苦し紛れで、今なら雑コラ認定間違いなし。

リスク曹長を消して右側の三人を中央に寄せ、
肩にかけた手を加工していますが、このコラ、どうやら文字通り
写真を切り貼りしたらしく、アスペクト比まで弄っていないので、
右から3番目の人の右腕の長さがとんでもないことになってます。

どうも加工チームは、移動させた三人の写真を
リスク曹長の身長に合わせて床から「持ち上げた」らしいのです。

そして右側の三人が実物より大きくなってしまいました。




そこでもう一度博物館で大パネルにされた写真をご覧ください。

当時の海軍写真班は、さすがにいない人物を継ぎ合わせて
そこにいるように加工することができなかったため
プレスリリースの写真にデビッド中尉はいないままでしたが、
当博物館では、ちゃんとこの写真にデビッド中尉を参加させています。

しかも、アス比もちゃんと加工しているので、
本来あまり背の高さが違わない水兵さんたちが元の身長差に戻りました。

ただ、この加工にも決定的におかしな点があります。

確かにパネルはぱっと見不自然というわけではありませんが、
海軍という組織に絶対にあり得ない写真であることは
おそらくこのブログ読者ならどなたもご存知ですね。

そう、デビッド中尉の立ち位置です。

もし本当に中尉がいたら、海軍の慣習としてかならず士官は中央前列に立ち、
こんな風に水兵の後ろから顔を出すことなどありえません。

パネルの加工がいつ行われたかは不明ですが、
おそらく少なくともここ数年ではなかったとわたしは断言します。

もし現在のフォトショップを使えば、誰でも
デビッド中尉の全身像を真ん中に配置した、
自然な写真をいくらでも合成できるからです。



さて、こうやってU-505を捕獲するという、
最初の目的を果たしたハンターキラータスクグループ22.3。

次にギャラリー大佐に与えられたミッションは、
潜水艦を沈まないように曳航するということでした。

続く。




「Uボートを求めて」ハンターキラー機動隊22.3〜シカゴ科学産業博物館U-505 

2023-04-18 | 博物館・資料館・テーマパーク

シカゴの科学産業博物館に展示されているドイツ海軍のU-505。
それは色々なストーリーを経て現在ここにあるわけですが、
その本体の設置されたところにたどり着くまでに、
博物館では開戦にはじまり、Uボートの脅威、
それに対抗すべく編み出されたハンターキラータスクグループ、
そしてUボート捕獲のために後方で活躍した暗号解読艦隊、
そこで男性軍人の代わりに任務を務めたWAVESについて、
順を追って理解を深めていくことができる仕組みとなっています。

さて、次なる展示は??

■ ハンターキラー・タスクグループ 22.3



ダン・ギャラリー米海軍大佐率いる対潜機動隊、22.3
Uボートの捕獲を目的にいよいよ始動した、という話を
これまでの流れでご理解いただいていたかと思います。

ここからは、そのハンターキラー22.3に焦点を当てます。


”激化するUボートハンティング〜西アフリカ沖”

1944年5月15日、第22.3任務群は、
カーボベルデ諸島付近の対潜哨戒のために
バージニア州ノーフォークを出港しました。

ダン・ギャラリー艦長とタスクグループの6隻の艦艇は
ワシントンDCのF-21潜水艦追跡室から毎日送信される位置情報をもとに、
数週間にわたってUボートの捜索を行いました。

タスク・グループは、あらゆる技術駆使し、
Uボートを探し出すという決意をもって、目標の位置を捜索。



USS「ガダルカナル」艦載のワイルドキャット戦闘機が上空から、
海中をソナーやハイドロフォンのオペレーターが捜索するも、
このときまでUボートを見つけることはできませんでした。



このコーナーは、USS「ガダルカナル」艦橋を再現しています。
大きなスクリーンには、その時の映像が上映されています。

この実物大の「ガダルカナル」ジオラマの指揮官席に座っているのは、
もちろんのことダン・ギャラリー大佐その人です。

彼の人形は、写真を使ってこれでもかと本物そっくりに作られました。



Uボート捕獲作戦はこの人のアイデアだったわけですからね。

さて、いつまでたっても見つからないUボート。
業を煮やしたギャラリーは捜索を中止し、
燃料を補給するためにカサブランカへ向かうことに決めました。



すると数分後、タスクグループUSS「シャトレーン」から報告が入りました。
ソナーオペレーターが、Uボートを「探知した」可能性があると。



ボートが出されていますが、これはもしかしたら
ソノブイの回収・・いや、もしかしたら、Uボート攻撃の後か?

そう、これはまさにこれから、
Uボートに乗り込んで捕獲するために結成された「決死隊」を
ボートに横付けするために出発するホエールボートの姿なのです。


■ ボーダーズ・アウェイ
アメリカ海軍搭乗員装備



さて、ここで一旦関連展示をご覧ください。
第二次世界大戦時のアメリカ海軍パイロット用、夏季フライトスーツです。

海軍パイロットはこのワンピース型のフライトスーツを常用しました。
スリムなフィット感により、狭いコクピットの中でも
パイロットの衣服がコントローラーなどに引っかかることがありません。

スーツの胸、腕、ズボンにも複数のポケットがあり、
鉛筆や小さなギアなどの重要なツールを簡単に取り出せます。


U-505を攻撃した時、「ガダルカナル」乗り組みの
ワイルド・キャット戦闘機パイロット、ウォルフ・ロバーツ中尉
まさにこのフライトスーツを着用していました。

彼は水没したUボートの場所を特定するのに助力し、
その功績により、殊勲飛行十字賞を授与されています。

「特定する」というのは一般に言われるのと少し違っていて、
沈んだUボートの位置をタスクグループの駆逐艦に知らせるため、
「ピン留め」の意味で目印を投下するということを指す業界用語です。

ここにあるフライトスーツ一式は本人の寄贈によるものです。


ウォルフ・ロバーツ中尉はU-505に空爆したとき、
着用していたのと同じタイプのゴーグルとフライトヘルメット

ヘルメットは母艦や他の航空機と無線で通信するための
ヘッドフォンが装着されています。

ヘッドフォンは水中のUボートの音を聞くために、
水中に投下したソノブイが生成した音もキャプチャできました。



”米海軍B-4タイプ救命胴衣”

B-4救命胴衣は、浮揚装置およびサバイバルキットとして機能しました。
小さな空気キャニスターでベストを膨らませるもので、
ゴムチューブから口で空気を追加することもできました。

ベストには、航空機に信号を送るための鏡、
そして救難信号を送るための二つの発煙弾、サメの忌避剤、
染料マーカーのパケットが入ったショルダーポーチが付いていました。

パラシュート タイプAN-6510

背中に背負っているのは米海軍の標準的なシートパラシュートで、
U-505の捕獲の時にもパイロットが装着していたものです。

パラシュートコンテナはパイロットがコックピットにすわるとき、
シートクッションとして役に立っていました。

通常ナイロン製のこんにちのパラシュートとは異なり、
ほとんどの第二次世界大戦時のパラシュートは絹でできていました。

「hitting the silk」
そのままの意味だとシルクを打つ、ですが、実は

パラシュートで飛び降りる”
”ぶっ飛ばす”

主にパラシュートでジャンプを行うことを表すスラングになりました。



”アメリカ海軍 サバイバル・フラッシュライト”

防水ライトはサバイバル・ライフジャケットに固定されていました。
これで夜間に救助航空機に信号を送るための微弱なビーコンを発します。

バッテリーは数時間持続しました。



”アメリカ海軍レザー製パイロット用手袋”

ウォルフ・ロバーツ中尉が実際にU-505攻撃時に着用していたもの。



”ニーボード(膝板)”

これもロバーツ中尉が攻撃時使用していたニーボードです。
ニーボードとはストラップでパイロットの腿に留め、
コクピットで座ったままメモをとるときライティングデスクとなるものです。

フリップオープン式のトップには小さな地図と、
飛行中にメモを取るための紙が挟まれていました。

パイロットは後でコンパイルで使用するために、
コースの変更について大まかなメモを取りました。



”WWII アメリカ海軍フライトシューズ”

空母から飛行するアメリカ海軍のパイロットは、
通常海兵隊の「ラフアウト・レザーブーツ」というのを履いていました。

見たところ普通の黒皮のビジネスシューズなのですが、さにあらず、
見た目よりも重い皮で作られており、毎日の過酷な飛行に耐えられるだけの
耐久性を備えたやたら丈夫な靴だったそうです。

■ 激化するハンティング〜U-505を攻撃



先ほどのゲートに大きく記されていた「1944年6月10日」とは
機動部隊がUボート確保に向けて行動を開始したその日付です。

この日、午前11時10分、USS「シャトレーン」はソナーコンタクトを報告し、機動部隊は一斉に次の行動に移りました。

旗艦、USS「ガダルカナル」は、軽空母であることもあって、
自らを全く傷つけることなく攻撃することができないため、
ギャラリー艦長は、艦を迅速に危険な場所から移動させました。

「シャトレーン」は僚艦「ピルズベリー」と「ジェンクス」の支援を受け、
迅速に駆逐艦による攻撃を開始しました。

潜航中のU-505を、ソナーで確認しながら、
USS「シャトレーン」はまずヘッジホッグで攻撃。



しかし、これはターゲットから外れました。

「シャトレーン」が回頭して再攻撃するために射程距離を開けている間、
「ガダルカナル」艦載の戦闘機2機が水中に機銃を発射して、
潜航中のU-505の位置を明らかにします。(先ほどの”ピン留め”です)


連合国が水中に潜むUボートを攻撃するために使用した重要な兵器が、
デプスチャージ・深度爆薬と、このヘッジホッグでした。

左がヘッジホッグの「針」、右がデプスチャージ投下装置

先日「シルバーサイズ」博物館シリーズの展示でも説明しましたが、
ヘッジホッグは、狙った潜水艦に直接接触したとき、
もし外れた場合には、海底に落ちたときにのみ起爆します。



このとき「シャトレーン」が搭載していたヘッジホッグはマーク4で、
35ポンドのトーペックスで満たされており、
ハリネズミのような外観のスパイク付き発射装置から、一度に24個、
一斉発射されましたが、Uボート艦体には接触しなかったということです。

「シャトレーン」はその後、戦闘機のマーキングに向けて
深度爆雷を発射し、U-505を水面に浮上させることに成功しました。


深度爆薬(デプスチャージ)は、あらかじめ設定された深度で
爆発するように水中に投下される強力な爆薬です。

艦長が深度を決定し、号令を出すシーンは
潜水艦が出てくる戦争映画ではおなじみですね。

こちらの爆雷は潜水艦に当たらなくても、近くで爆発させることで
敵艦内の機器を破壊し、艦体を損傷させることができました。

1943年、米海軍は深度爆薬とヘッジホッグに、
それまで使われていたトリニトロトルエン(TNT)より50%強力な
「トーペックス」という新しい爆薬を詰めるようになりました。

ここに展示されているのは、マーク9のMods3という深度爆雷です。

U-505 に対する攻撃で使われたのと同じタイプで、
マーク9は圧力で作動する信管を持ち、200ポンドのトーペックスを
地表から30~600フィートの所定の深さで爆発させるものでした。



深度爆雷の搭載、そして投下した瞬間です。
猛烈な煙が立ち昇る中に、宙を飛んでいく金槌状の爆雷が見えます。

さて、ここまで進んできた観覧者は、パネル展示より
否が応でも、そこに見えるU-505実物に目を見張ることになります。



やっとここまできて艦体の上のデッキにたどり着いたことになりますが、
これからデッキ最上段から降りていきながらU-505のあらゆる部分を見つつ、
捕獲したときの情報などを展示で得ることができる、というわけです。


さて、それでは通路に沿って歩いていくことにしましょう。

続く。



F-21 第10艦隊対潜追跡室@ワシントンD.C.〜U505 産業技術博物館

2023-04-16 | 歴史

U-505の展示されているところにたどり着くまでに
見学者は知識を積み重ねるための展示を見ながら進んでいきますが、
前回のハンターキラーの結成とその成果についての展示がすむと、
そこから一階地下に移動することになります。



さすがのアメリカ人もほとんどが階段を使って降ります。



通路にはこの部分を利用した展示WAVESに関するポスターが。

この海軍に女性兵士を募集するリクルートポスターには、

「これは女性の戦争でもある!」
”It's a woman's war too!”

と書かれ、通信任務に就くWAVESが描かれています。



「何の気なしの不注意な会話が
敵のピースを完成させる」
(意訳)

ナチスの指輪をはめた手がはめたピースで、

「護送船団の 英国への出航は
今夜である」


という情報(パズル)が完成しております。

防諜、当ブログでも日本の戦時中の防諜啓蒙映画、
「間諜未だ死せず」をご紹介したことがありますが、
どこの国にとってもこれは国民にあまねく注意喚起すべき重大事でした。



このポスターは以前も紹介したことがあります。

「不注意な言葉が・・・
・・・不必要な沈没に」



荷物を担いだ水兵さんが爽やかに笑っていますが、
これも防諜ポスターです。

「もし彼がどこに行くのかしゃべったら・・・
彼はそこに着くことはないかもしれません!」




これは、WAVESリクルート目的のポスターで、

「彼をできるだけ早く故郷に帰すために
WAVESに入隊しましょう」


映画「陸軍の美人トリオ」では、三人の美女のうちひとりが
出征した夫をすこしでも支援できればと思って入隊したという設定でした。

陸軍の場合は女性隊および女性兵士をWACと言いますが、海軍は

 the Women Accepted for Volunteer Emergency Service

の頭をとってWAVESであるということは何度か説明しています。
第二次世界大戦時に設立した海軍予備役の女性部門で、設立するとき、
徴兵制ではなく自発的な奉仕活動であることを明確にするため
「アクセプテッド」「ボランティア」
という文字を海の波を表すことばに組み立てて名付けられました。

「エマージェンシー」が入っているのは、戦争中ということで
一時的な危機のための結成ということにしておけば、
女性の採用に眉を顰めがちな年配の提督たちを
納得させやすいかも?と考えたからだそうです。


ジョゼフィン・ストーヴァル・オグドン・フォレスタル

そして、ニューヨークのファッションブランドが、
海軍次官補ジェームズ・フォレスタルの妻でありながら
「ヴォーグ」のエディターだったジョー・フォレスタル
(あれ?この名前・・)の協力を仰ぎ、それはそれはオシャレな制服を作り、
素敵なポスターでWAVESを大々的に勧誘した結果、
1942年末の時点で、WAVESには770人の将校と3,109人の下士官がおり、
終戦の頃にはその数は86,291人に増え、その内訳は将校8,475人、
下士官73,816人、訓練生約4,000人になっていました。

面白いのが、WAVESの出身地で特に数が多かったのが、
ニューヨーク、カリフォルニア、ペンシルバニア、イリノイ、
マサチューセッツ、オハイオという、大都市を有する州だったことです。

訓練をする場所も、ハーバード大学、コロラド大学、MIT、
カリフォルニア大学、シカゴ大学などのキャンパスで行われました。

共学が基本だったそうですから、応募が増えたのも当然かもしれません。

将校の訓練カリキュラムには、通信、補給、気象学、工学はもちろん、
日本語のコースもありました。

戦争になったら敵の言葉を禁じていたどこかの国とは
戦略的なものの考え方が根本で違っていると感じさせますね。

そして、WAVESという「時代遅れの」頭字語ですが、
WAVESが存在しなくなっても1970年代までは使用されていました。

現在はそもそも、女性兵士を括る部隊が存在しないので、
その名称も公式には存在していません。
女性軍人を「WAVES」と呼ぶこともなくなりました。

ところが、我が海上自衛隊では女性自衛官のことを
なぜかS抜きで「WAVE」とよんでいる(いた?)模様。

今でもそうなのか、それとも今では用いられないのかわかりませんが、
これが一体何の略なのかご存知の方おられますか?

ただなんとなくアメリカ海軍の用語を輸入したのかな。



こちらも超有名なWAVESリクルートポスター。

「男性を海で戦わせるために解き放ちましょう」

つまり、WAVESの存在意義とは、後方支援に就いて
陸上基地の男性人員を海上勤務に置き換えることでした。

しかしこのことは「解き放たれたいと思っていない」すなわち
海上勤務に就きたくないと思っている男性からは
敵意を持たれる
という一面もあったということになります。

あるWAVESは、上司になる男性士官に挨拶をしたところ、
あからさまに必要とされていないと思い知らされ、さらに、下士官たちは

「送られてきた女性が仕事ができなければ、
男がその仕事を続けて海に送られるのを避けられる」


といって、女性には無理そうなタイヤの運搬を命じたそうです。
(しかし彼女らは体力ではなく”頭”を使って滑車で全ての運搬を完了したとのこと)



パラシュートの糸の管理をしているWAVES。

「このような重要な仕事をするために必要な資質を持っていますか?」

これは、あれだね。
こんな仕事なら男性より女性が向いているでしょ、と言いたげ。



「あなたの海軍には、あなたのために
『男性サイズ』の仕事があります」


どれもこれも、後方で行う男性の仕事を置き換える気満々です。

まあ、後方支援のままいけるなら、できれば戦地に送られたくない、
と内心思っている男性軍人なら、WAVESに八つ当たりしたくなっても
仕方がなかった?かもしれません。しらんけど。


さて、ここまでは「防諜」と「WAVES募集」できたわけですが、
女性軍人がその力を真に発揮し、実際に戦果に寄与したとすれば、
それはインテリジェンスの分野だったかもしれません。

Uボートの捕獲がタスクグループに命じられた、
というところまで、前回の展示は説明してきたのですが、
ここにあるということは、おそらくインテリジェンスが
そのミッションに大きな力を貸したというところかもしれません。

ということで、このゲートの上には

F-21  SUBMARINE TRACKING ROOM
WASHINGTON, D.C.

とあります。

■ F-21潜水艦追跡室 ワシントンD.C.


インテリジェンスのパワー
”トップシークレット 第10艦隊"

米海軍はUボートの捕獲には火力以上の力が必要だと知っていました。
そのミッションはインテリジェンスによって支えられなければならないと。

タスクグループ21.12が1944年4月、
二度目の対潜哨戒から戻った時、あのギャラリー大佐は
第10艦隊への入隊許可を得ました。

ここでギャラリーはドイツのUボートの内部構造に関する極秘情報を
彼に与えた司令官、ケネス・ノウルズに会いました。

ノウルズと彼の第10艦隊チームは、
1944年3月以来、ある一隻のUボートを追跡していました。

その潜水艦がフランスのブレストから出航し、
アフリカに向けて南に舵を切ったときです。

Uボートの正確な身元までは不明でしたが、
ノウルズはそれが海上で三か月の期間を過ごした
古い潜水艦である可能性が高いと判断しました。

タスクグループ22.3は5月末、つまり
Uボートが母港に帰る前に捕獲する必要がありました。

■インテリジェンス
”それは女の戦いでもあった”


1942年の夏、アメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトは
ついに正式にWAVESを設立しました。

そして、ドイツ海軍のエニグマコードを解読するため、
600名のWAVESに、121台の

”Bombe”暗号解読コンピュータ

を構築するという極秘任務が与えられます。



ミルドレッド・マカフィー
は1942年8月に海軍予備役中佐に就任し、
WAVESの局長に任命されたとき、
アメリカ海軍初の女性将校となりました。

彼女はのちに大佐に昇進しました。
マカフィーはシカゴ大学で修士号を取得し、
ウェルズリーカレッジの学長を務めました。

彼女のWAVES におけるリーダーシップにより、
彼女は米国海軍功労賞を女性として初めて授与されました。



Bombeは、連合国がドイツのエニグマを解読するために開発した
暗号解読機につけられた名称です。

初期の近代的なコンピューティングデバイスの一つと考えられ、
動作中に発生する大きなカチカチという音からその名が付きました。



ドイツはエニグマと呼ばれる精巧なコードを考案し、
暗号で情報を送信することができました。
エニグマはコード化されたメッセージを読み取って送信するために
マシンとセットアップ情報の両方が必要だったため、
コードを破るのが手強いシステムでした。

1943年の夏、アメリカの暗号解読者が
Bombeマシンを使用し、ドイツ海軍の
4ローター(M4)エニグマシステムをついに解読しました。

これにより、アメリカ海軍は海上でドイツ海軍司令部と
Uボート間の通信を読み取ることができるようになりました。

■ 第10艦隊潜水艦追跡室 ワシントンD.C.


第10艦隊、といっても実際の「艦隊」ではありません。

これは、知る人ぞ知る、ワシントンD.C.にある
最高機密の米国海軍対潜情報司令部のコードネームでした。

写真はF-21潜水艦追跡室でのWAVESが作業をしているところ。

Uボートや枢軸国の艦艇を探知し、
連合国の船舶を守るために必要な任務を遂行した女性たちです。

1942年1月、ワシントンDCのショッピングモールからすぐのところにある
海軍省ビル(通称「メインネイビー」)

1942年以降、第10艦隊は、第二次世界大戦中に
Uボートの脅威を破壊するためのアメリカの作戦の中心となりました。

そして「F-21」ですが、その第10艦隊の内部にある
米海軍潜水艦追跡室のコードネームでした。

そこではアメリカとイギリスの諜報機関が協力してUボートを追跡し、
連合軍の護送船団の経路を情報に応じて変更したり、
あるいはハンターキラータスクグループを攻撃に誘導したりしました。

対潜水艦情報司令部F-21の秘密対潜追跡室司令官
ケネス・ノウルズ中佐

「ハフダフ(Huff-Doff)座標」とBombe解読法を駆使して、
ノウルズはUボートの位置情報を、
ギャラリー大佐率いるタスクグループに毎日送信し続けていました。

そして、ギャラリー大佐はこの情報を使用して、
西アフリカ沖にいると思われたUボートを探索したのです。
  


「ハフダフ(Huff-Doff)」
とは、高周波方向探知機を意味するHF/DFを音読みしたものです。

連合国がこのレーダー技術を使用し始めたそのとき、
Uボートとの戦いにおける大きなブレークスルーがもたらされました。



大西洋のハフダフ聴取局により、連合国は
無線信号の強度を測定することで、
水面に浮上したUボートの大まかな位置を特定することができました。



ところで、この付近にあった、この日付です。
1944年6月1日。

この日が何を意味するのかは、この先の展示でわかるでしょう。
続いて先に進んでいくことにします。


続く。






「黒い5月」 Uボートvsハンターキラー任務群〜シカゴ科学産業博物館

2023-04-14 | 博物館・資料館・テーマパーク

シカゴの科学産業博物館に展示されている
U-505の展示を紹介するシリーズですが、
まだここまでは潜水艦のあるところにすらたどりついていません。

前説というか、Uボートについての歴史的な説明、
アメリカに与えた脅威、ひいてはその性能について、
見学者に基礎知識を与えるための展示を見ながら進みます。

■ Uボートの脅威(Menace)
”ウルフパックによる連合国船団への攻撃”



何百もの無防備な連合国の商船が、Uボートの攻撃で無慈悲に沈みました。

これに対して連合国は最大200隻の商船からなる護送船団を編成し、
護衛空母と駆逐艦によって大西洋全域を護衛しようとしました。

Uボートが護送船団を攻撃すると、これに対し駆逐艦は
爆雷(デプスチャージ)やヘッジホッグで対抗しました。



ヒットラーは(というかデーニッツなんですがこう書いてあるので一応)
ウルフパックと呼ばれるUボートのグループを編成し、
船団に大混乱をもたらす攻撃法を取りました。

1943年3月には、この戦争で最大級のウルフパック(Uボート40隻以上)が
100隻の連合軍艦艇から成る二つの護送船団に対する攻撃を行い、
この結果うち21隻が沈没させられるということが起こっています。

”連合軍の典型的な船団編成”



まず、黄色で記されたのが船団護衛駆逐艦です。
四角く並んだ船団の四隅を縁を描くように4隻、そして
そのさらに両外側を行きつ戻りつしてガードしています。

左上の旗🚩を立てた駆逐艦が護衛隊司令官の船です。

船団の外側を取り囲む灰色の船は資源を積む貨物船
その内側の紺色が石油タンカー
タンカーに挟まれているオレンジの船が戦車や航空機などの貨物
赤は弾薬輸送船です。

白い二隻の船はトループシップ、兵員輸送船です。

船団の最前列真ん中に🚩コンボイ、船団旗艦が位置します。

1942年までに、典型的な誤送船団は長方形のパターンで編成され、
その周りを護衛艦が囲むという形になっており、弾薬船、石油タンカー、
兵員輸送船は比較的安全な編隊内部に配置されました。

しかし、このフォーメーションはあくまでも「理想」「平穏時」であり、
荒天時、ましてやUボートが攻撃してきた時に
正確な間隔を維持することはほとんど不可能でした。

■ 1942−43 Uボートの脅威
”商船攻撃”



Uボートはほとんどの時間を水上で過ごすように設計されており、
基本的に見張りが水平線を偵察して
商船の煙突から立ち昇る煙を探していました。

船が発見されると、その時に初めて艦長はUボートを潜水させ、
潜望鏡を使って波の上を監視しながら獲物を追跡します。

次に艦長が

「フォイアー・アイン!(ファイアー・ワン)」

と叫ぶとき、それがUボートの乗組員が
運命の船に向かって魚雷を発射する瞬間でした。



数秒後、魚雷は商船に向かい、ヒットして激しい爆発を起こし、
船体にギザギザの形の穴を開けます。



そうすると火災が起き、船を揺るがす二次爆発が始まると、
海水が容赦なく船に浸水し雪崩れ込んできます。

乗組員は船体と共に大西洋の氷の海の底に引き摺り込まれる前に、
船を放棄しようとして、命懸けで脱出を図りますが、
そのほとんどは生き残ることはできず、共に海中に沈んでいきました。

■ハンターキラー・タスクグループ

戦争が進行するにつれて、連合軍の補給線は
ハンターキラー・タスクグループが開発されるその時まで
常に攻撃を受け続けることになりました。

しかし、一度これが投入されるようになると、
これらの任務群の有能さは目を見張るばかりで、
そのノウハウを全力投入し、威嚇するUボートを追い詰めると、
逆にそれがUボートにとっての大変な脅威となって立場が逆転し、
目に見えて護送船団の被害は激減していきました。

戦争の終わりまでに、ハンターキラー・タスクグループの投入の結果、
連合国の商船隊は、脅威に脅かされることもなく
大西洋を航行することができるようになっていきます。

その目覚ましい結果は数字に現れています。

下のグラフは、大西洋で沈没した連合国の船の数と、
撃沈されたUボートの数を年代ごとに示したものですが、これをご覧下さい。



いかがでしょうか。

最盛期の1942年まで圧倒的(1150隻)だった連合国側の船舶被害数が、
1943年に377隻とほぼ三分の一に激減し、1944年には、
民間船被害とタスクグループの撃沈したUボートの数が逆転、
終戦の頃には、完全にUボートの被害が優っています。

ハンターキラーグループは、「コンボイ・サポートグループ」とも呼ばれ、
第二次世界大戦中に積極的に投入された対潜水艦の集団です。

高周波方向探知などの信号情報、「ウルトラ」などの暗号情報、
レーダーやソナー・ASDICなどの探知技術を進歩させていった結果、
連合国海軍は敵潜水艦を積極的に追い詰め、
撃沈するための任務群を編成することが可能となりました。

こういう時の英米の科学技術に注入する民間の力は凄まじく、
短期間にこの逆転を可能にしたのは、科学・産業界の底力に他なりません。

ハンターキラー群は通常、航空偵察と航空援護を行う護衛空母を中心に、
コルベット、駆逐艦、護衛駆逐艦、フリゲート、
アメリカ合衆国沿岸警備隊カッターなどで構成され、
駆逐艦群は深爆雷とヘッジホッグ対潜迫撃砲で武装されていました。


ハンターキラーの構想が提案されたのは1942年、発祥はイギリスです。

Uボートの脅威にさらされていた大西洋横断輸送船団の護衛のため
強化された軍艦群を組織する構想が、まずイギリス海軍から生まれました。

1943年初頭に行われた連合国大西洋輸送船団会議では、
それぞれ護衛空母1隻を含む対潜戦艦10群を編成することが決定し、
そのうち5つの英・カナダグループが北大西洋の輸送船団ルートを、
5つの米グループが大西洋中部の輸送船団をカバーすることになりました。


そして1943年の5月、
大西洋でUボートの死傷率が初めて連合国軍のそれを上回りました。

これがハンターキラー導入後のエポックメイキングな出来事として
「ブラックメイ」(黒い5月)と名付けられました。

Uボートの立場に立ったネーミングですがそれはいいのか。

実はその直前の3月まで、Uボートの攻勢はピークに達しており、
大規模な輸送船団船でドイツは勝利を続けていたのです。

前の月の4月にもU-515による輸送船団TS37への衝撃的な攻撃で、
連合国は3分間に4隻、ついで3隻のタンカーを失ってもいます。

しかし、歴史を後から振り返ったとき、1943年5月、
それはUボートの戦力はピークに達し、後は落ちる運命でした。

240隻のUボートのうち118隻が出動している状態でしたが、
そこから連合軍艦船の撃沈は減少し続けたのです。

それでは「ブラック・メイ」といわれたこの5月、
何があったかというと、それまでで最もUボートの損失が大きく、
41隻(稼働中のUボートの25%)が破壊されていました。

この月は双方で大きな損失を出した激戦があったものの、
護衛艦の戦術的な改良が効果を発揮し始め、
次に攻撃された3つの輸送船団は、わずか7隻の沈没に対し、
撃沈したUボートはついに同数となっていました。

そこにいる人々には誰にも見えていなかったかもしれませんが、
明らかに後から考えれば、分水嶺というべき瞬間だったことがわかります、

この月に撃沈されたU-954には、
デーニッツ提督の息子ペーター・デーニッツも搭乗していました。

つまりデーニッツは自らの作戦で息子をなくす結果になったわけです。
翌年5月に、もう一人の息子、Sボート乗員だったクラウスも失っています。


クラウス・デーニッツ

デーニッツにとってもこの月は文字通りの「黒い5月」となったわけです。


この5月、大西洋で失われた連合軍の船はわずか34隻に止まりました。

5月24日、Uボートの敗北にショックを受けたデーニッツは、
Uボート作戦の一時停止を命じ、大半を作戦行動から撤退させています。

そしてその後、Uボートが優位を取り戻すことはありませんでした。

さて、ここからは、タスクグループ結成までの流れを、もう一度、
この博物館のパネルをもとに順番に説明していくことにします。


■ 米海軍”ハンターキラーを解き放つ”


1943年までに、連合国の対戦情報、電子追跡、攻撃機の進歩により、
流れはドイツ海軍のUボートにとって不利になりつつありました。

米海軍はUボートを1隻ずつ追い詰める時期がきたと判断しました。

しかし、Uボートは依然捉えどころのないものであり、
単一の船でその仕事をすることはできません。

そのため、米海軍は特別な対潜護衛艦を編成し、
ハンターキラー・タスクグループと呼ばれる部隊を作ったのです。


1944年5月、ハンターキラー・タスクグループ22.3が結成されました。
その機動部隊は、USS「ガダルカナル」と名付けられた小型空母護衛艦と
5隻の軽護衛駆逐艦で構成されていました。

22.3のようなタスクグループは、技術をプールして攻撃を続けることで
Uボート戦における形勢をじわじわと逆転させていきました。

いまやかつてのハンターは、「狩られる」側になろうとしていました。


ハンターキラータスクグループ旗艦「ガダルカナル」艦上の壮行式

■ タスクグループ始動



タスクグループ22.3の旗艦
対潜護衛空母USS「ガダルカナル」CVE-60



写真右下のグラフは、士官、下士官兵、パイロットの搭乗員の数を表します。
パイロットの割合の多さが注目すべき点です。

艦載された戦闘機と雷撃機は、連合軍の陸上機の射程外に扇状に展開し、
Uボートを捜索する役割を果たしていました。

当然のことですが、速度と高度により、戦闘機群は、
艦船が単独で行うより遥かに多くの海域を探索できます。

パイロットは日中は肉眼で海上のUボートを探し、
夜間は艦載レーダーによって捜索が行われました。
また、水中のUボートの音を聞くためにソノブイが投下されました。

航空機に発見されると、Uボートは本能的にそれを察知して潜航しますが、
パイロットはその位置をマークするために、水上に発砲を行います。

するとそののち駆けつけてきたタスクグループの駆逐艦は、
マーキングされた付近に爆雷を雨霰と投下するのです。
  
■ 1944年アメリカ海軍
”ダン・ギャラリー大佐”


ハンターキラータスクグループの、23.3の指揮官に選出されたのは
ダニエル・V・ギャラリーJr.大佐でした。

シカゴ出身のギャラリーは、海軍兵学校卒業後パイロットとなり、
飛行教官としても腕を振るいました。
彼の飛行技術は独創的で、インスピレーションに富み、
そして何より勇敢で優れた戦闘機乗りでした。

戦争の前半、彼はスコットランドとアイスランドの水上機基地を指揮し、
北大西洋の船団レーンのパトロールを担当していました。
彼の船団グループは合計6隻のUボートを撃沈しています。

1943年9月、ギャラリーはアメリカに戻り、
USS「ガダルカナル」の艦長に任命され、その後、タスクグループ21.12で
U-544、U-515、U-68、3隻のUボートを撃沈しました。


■ ”我々にUボート捕獲の勝算あり”



機動部隊31.1aでの最後の対潜哨戒中、
ギャラリー大佐はUボートの捕獲が可能かもしれないと考えました。

もし捕獲できれば、Uボートの持つ魚雷誘導システム、通信コード、
Uボートが使用する攻撃戦術に至るまで、
ドイツの秘匿された軍事技術を連合国で共有することが可能となり、
戦況に大いに有益となるばかりか、その後の展開によっては
歴史的にも記念碑的な偉業になるに違いありません。

1944年4月に、ギャラリーはアメリカ本国に戻ると、
タスクグループの全ての艦船に、Uボートの捕獲、その後の接収、
そして牽引の計画を作成するように命じました。

部隊はすぐにそのための訓練を開始しましたが、
これまでになかったことの準備ゆえ、多くの未知数があったのも確かです。

しかし、1944年5月、ギャラリーが指揮するハンターキラー機動隊22.3は
可能であればUボートを捕獲すべしという命を受けて大西洋に出撃しました。


ハンターキラータスクグループ21.12がU-515を捕獲した地点
「沈没」と書いてあるが、結局沈没はアメリカの手で食い止めた


■ 護衛駆逐艦



ハンターキラータスクグループ22.3で
ギャラリー艦長率いるUSS「ガダルカナル」を支援したのは、
以下5隻の護衛駆逐艦でした。

USS「シャトレイン」Chatelain DE-149

USS「フラハティ」Flaherty DE-135

USS「ジェンクス」Jenks DE-665

USS「ピルズベリー」Pillsbury DE-133

USS「ポープ」Pope DE-134

護衛駆逐艦は、通常の重装甲の駆逐艦よりも軽量、小型、高速で
機動性に優れていたため、とらえどころのないUボートを追跡、
そして攻撃するのに最適だったと言えます。

アメリカ海軍の水兵たちが親しみをこめて呼んだところの
「ブリキ缶(ティン・カン)」には、
浮上したUボートの位置を特定するためのレーダーが装備されていました。

加えて、水没したUボートを検出するソナーと水中聴音機で、
命中すると爆発する小さなヘッジホッグ、
そして特定の深度で爆発するよう設定できる強力な爆雷を持っていました。

Uボートの艦長たちは、護衛駆逐艦を避けるために全力を尽くしました。
見つかったが最後、自ら終焉を覚悟するほどの打撃は免れなかったからです。




続く。



U-505 大西洋の脅威となったUボート〜シカゴ科学産業博物館

2023-04-12 | 軍艦

さて、今日から新しく、シカゴ科学産業博物館の展示である
ドイツ潜水艦のU-505シリーズを始めたいと思います。



去年の夏の渡米で、ピッツバーグへ直行便が取れなかったのを幸い、
シカゴのオヘア空港で降りて車で五大湖沿いの海事博物館巡りをしました。

先日終了した「シルバーサイズ」もその一環でしたが、
元々はミシガン湖沿いにあるというU-505がこのドライブの第一目的でした。

空港近くのホテルで一泊を過ごし次の朝に早速出発です。

オヘア空港からまっすぐ90号線を南下し、
55号線をミシガン湖方面に向かいます。



Museum of Science and Industry(以下MSI=科学産業博物館)
西半球で最大の科学館です。

「1893年の万国博覧会で唯一残った建物の中にあるMSIは、
シカゴの必見スポットです。

14エーカーの体験型展示を体験し、40フィートの竜巻の前に立ち、
第二次世界大戦のドイツの潜水艦に乗り込み、
人間サイズのハムスターの車輪で走り、イリノイの炭鉱に降り立ち、
エコフレンドリー住宅を見学し、天井からぶら下がっている727に乗り、
13フィートの3D心臓に自分の脈を伝え、さらに多くのことを体験できます。

MCIは静かに歩いて見学するところではありません。
そうではありません。
楽しみながら学ぶことができるのです」

巨大なだけでなく、そこにはありとあらゆる科学博物館の
最先端の体験型展示が一堂に集まっているのです。


MSIのトレードマークは、立方体にデザインされたMSIの文字。

先程のチケット売り場からもおわかりのように、
まだこの頃はCOVID-19の規制があり、平常よりは訪問者も少なめでした。



ここには、U-505の実物がドームの中に収められ、
完全な姿でその全てを観覧することができるのです。

1944年6月4日、一隻のドイツの潜水艦が、
西アフリカ沿岸の海域で、アメリカや連合国の艦船を狙って徘徊していた。
大西洋を恐怖に陥れたUボート艦隊の一員であるこの潜水艦は、
U-505として知られていた。

ホームページはこんな言葉から始まります。

そのU-505を、米海軍の機動部隊が何週間にもわたって追跡していた。
優秀なチームと最新技術にもかかわらず、
機動部隊は捕らえどころのない獲物を突き止めることができなかった。

燃料が少なくなり、苛立った司令官が捜索を中止しようとしたその時、
ソナーに何かが映し出されたもの。

それがドイツ海軍のU-505だったのである。

そして、その艦体は米軍に捕獲され、ここにあるわけですが、
その詳細について語る前に、オープニングの展示を見ていきます。

ちょっと寄り道になりますがお付き合いください。



まず、年代別にドイツとの戦争に関連する新聞記事と
象徴的な写真を見ながら進んでいきます。

●1939年

そこには「開戦」というボストン・グローブのヘッドライン、
その下には、

「ポーランド侵攻」


という文字が見えます。

”戦争への序曲”

第一次世界大戦の終結からわずか20年後、
世界では再び緊張が高まっていました。

ドイツでは、独裁者アドルフ・ヒトラーが権力を握り、
第一次世界大戦敗戦後の制裁を無視して、
オーストリアやチェコスロバキアの一部を大胆に占領していました。

一方、イタリアでは、同じくファシストのムッソリーニが権力を握り、
極東では、日本が中国に攻勢をかけていました。

「ドイツ航空艦隊がポーランドに爆弾を投下:
シレジアで大砲が使用される」

”ポーランドへの攻撃”

1939年9月1日、ドイツはポーランドに壊滅的な奇襲攻撃を開始。
シュトゥーカ(急降下爆撃機)部隊が空から、
パンツァー(戦車)部隊が地上からワルシャワなどに侵攻しました。

フランスとイギリスは、ポーランドを守るため、2日後にドイツに宣戦布告。しかし、ドイツの進撃を止めることはできず、
ポーランドは攻撃開始からわずか2週間余りで陥落しました。

「英国 戦争を宣言」


●1940年

「ナチス陸軍デンマークとノルウェイに侵攻」

”粉々になったヨーロッパ”

1940年、ドイツはブリッツクリーク(電撃戦)と呼ばれる
衝撃的かつ新しい戦術を使ってヨーロッパを引き裂きました。

ドイツ軍の行った「電撃戦」とは、大規模な航空戦力と、
高速移動する地上部隊を組み合わせ、壊滅的な効果を持つ奇襲攻撃です。

戦術は功を奏し、真夏までにデンマーク、ノルウェー、
フランス、ベルギー、ルクセンブルグ、オランダが降伏しました。

”バトル・オブ・ブリテン”

1940年7月、ドイツは英国に「怒りの矛先」を向けました。
最初にドイツのルフトバッフェ(空軍)が英国王立空軍の飛行基地を攻撃。

翌月、ヒットラーは、物資が英国に行き渡らぬよう、
完全なる封鎖作戦を宣言しました。
そしてその後、ロンドンに対する全面爆撃作戦を命じたのです。

1940年9月27日、ドイツ、イタリア、日本が三国同盟を結び、
枢軸国と名を変えた時、ヨーロッパの未来は暗黒と化したのです。

そして、Uボート。

「Uボートが1400名の乗員を乗せた英国船を撃沈!」


「ヒットラーまたしても攻撃す」

「フランスの運命はヒットラーの手中に」

「ナチス、イタリア、日本が新しい戦争協定に参加!」

「ナチス、英国の完全な封鎖を宣言:中立の警告受ける」


「ナチス、ギリシャにブリッツ 市街地に爆撃」


「最寄りの非常口まで歩いてください。決して走ってはいけません」

劇場の中に舞台から煙が立ち込めつつある、つまり戦争が迫っています。
左上の「ウォー・スタンピーダー」という人が、

「急いで!急いで!急いで! 皆早く出て!出て!」

とさけんで「アメリカの安全」と書かれた出口に人を押しやっていますが、
そこには非常口なのに爆弾が見えています。

「スタンピード」とは、「群集心理でドッと逃げ出す」という意味なので、
人々が煽られて逃げ出した先には新たな爆弾がある、つまり
戦争を避けると見せかけて、実はアメリカは戦争に向かわされているのでは?
という当時のジャーナリズムは予想していたわけですね。


「パイロットを引き受ける」

これもアメリカの参戦に向かう姿を皮肉っているのでしょうか。

イギリスの旗をつけた船が沈みそうなので、
指揮官がアメリカの船に移乗し、上から船長が手を差し伸べていますが、
イギリスの見えないところで、船上には煙が上がっています。

「ヒットラー、 バルカン半島を攻撃!
ギリシャとセルビアに侵攻」

「ヒットラーがロシアに宣戦布告」

「三国同盟はアメリカを戦争に近づける
数十億の武器の無駄遣い」

これらのアメリカ国内のジャーナリズムの論調から推察するに、
アメリカ人のほとんどは、アメリカの参戦に不寛容だったことがわかります。

第一次世界大戦で、遠いヨーロッパの戦線に参加して
被害を出したという記憶がまだ生々しく新しいときだったからでしょう。

現に、有名な話ですが、ルーズベルトは、
「皆さんの息子を戦地に送らない」
と選挙で公約して当選したに等しかったのです。

そして、巷間伝わるように、実は戦争を望んでいたルーズベルトが
自縄自縛に陥っていたこの公約を、堂々と破ってもいい
「お題目」「錦の御旗」「大義名分」となったのが、
そう、真珠湾攻撃でした。


●1941年



「戦争!オアフ日本軍機に爆撃さる」

「日本 真珠湾を攻撃 アメリカに宣戦布告
日本の米国に対する返答はホノルル爆撃の12分前に送られた
アンクル・サム(USの擬人化)の舞台は陸海空で戦い、
日本人による基地への侵略を阻止している」

「米国は現在ドイツ・イタリアと戦争中;
日本は全ての地域で戦闘が確認される;
3隻の艦船が沈没、2D戦艦に命中」

「アメリカ 日本に宣戦布告」

「ドイツ、イタリアもアメリカに宣戦布告」



すべては真珠湾をきっかけに、あたかも堰を切ったように始まりました。

それまではあちこちで戦火が上がった状況にもかかわらず、
アメリカは最初の1年半は中立の立場に留まっていました。

しかし、ジャーナリズムが懸念していたように、それは
いつ実戦に移行しても不思議ではない動きを孕んでいたのも事実です。

”レンドリース法とアメリカの中立”

1941年、アメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトが
レンドリース法(武器貸与法)にサインし、イギリス、ソ連、
中華民国(中国)、フランスやその他の連合国に対して、
基地提供などと引き換えに軍需物資を供給することにしました。

しかし、ヒットラーにとってアメリカの参戦は好ましい事態ではないので、
アメリカ船への攻撃を明確に禁止して暴発を防いでいたのです。

それなのに日本が暴発してアメリカに参戦理由を与えてしまったと。


”真珠湾攻撃に次ぐ開戦”

というわけで、この年の12月7日、日本の航空機と潜水艦が
ハワイの真珠湾にある米海軍基地に壊滅的な奇襲攻撃を行い、
アメリカは翌日、日本に宣戦布告することになります。

そうして、大西洋はもはやアメリカの艦船にとって
安全な場所ではなくなっていくのです。


そして次の展示はその「安全でなくなった大西洋」です。



「大西洋の戦い」として、乗っていた船が沈没し、
波間にただようアメリカ人水夫が現れるのでした。

彼らをこんな目に合わせたのは・・・
そう、Uボートです。

ここからはUボートによる被害が語られます。


というわけで1939年から1942年までの間に、Uボートによって沈没した
アメリカの商船の数が赤い船で表されているコーナーです。

1939年 114隻
1940年 471隻
1941年 432隻
1942年 1,150隻

日本と開戦して以降、ドイツにはアメリカに配慮する必要はなくなったので、
一気に撃沈数が3倍弱にまで増えてしまいまいました。



ヒットラーは英国が切実に欲していた補給船を沈めることで
補給線を断ち飢えさせるという作戦を好み、
これを行うための完璧な武器である、
Unterseeboot(ウンターゼーブート)
通称Uボートを所持していました。

Uボートは海中深くに滑り込み、何の疑いも持っていない商船に忍び寄り、
爆発性の魚雷で彼女らを破壊することができました。

第一次世界大戦においてドイツをほとんど勝利に導く原動力だったものの、
国としては結局勝てなかったその雪辱を、Uボートは
第二次世界大戦序盤で晴らしたと言っても過言ではありません。

”アメリカ艦船がターゲットに”



アメリカに宣戦布告した後、ヒットラーはすぐにUボートに
ターゲットをアメリカの船に変えることを命令しました。

1942年1月、

「パウケンシュラーク作戦」(”ドラムビート作戦”)

を開始したのです。

これは、アメリカ東海岸から100マイル以内まで入り込んだUボートが
民間船に奇襲攻撃をおこなうもので、
最初の二週間で25隻、合計20トンの船が海底に沈みました。

さらに、1942年1月から7月の間に、200万トンを超える連合軍の輸送船が
セントローレンス海路からメキシコ湾に展開された
ドイツのUボートの攻撃を受けて沈没しています。


1942年6月19日、陸軍参謀総長のジョージ・マーシャル将軍
次のように書いています。

1942年の夏の終わりまでに、ドイツのUボート攻撃は、
護衛された船団の数がより多くなり、
連合軍の対潜哨戒隊がより多く動員されると、
それに従って少しずつ衰退し始めた。

しかしながら、それでもUボートは、連合国の商船に
大きな脅威を与え続けていたのである。


イギリスのウィンストン・チャーチル首相は、
アメリカ海域でのUボートの成功が商船の深刻な不足につながり、
アメリカイギリス間の重要な供給ラインを遮断することを恐れていました。

チャーチルはのちに次のように記録しています。

「大西洋の戦いの結果は、戦争中ずっと支配的な要因だった。
陸、海、空の他の場所で起こっているすべてのことが、
最終的にはここでの戦いの結果に左右されるということを、
わたしたちは片時も忘れることができなかった。」


そしてそこで大きな脅威となったのが、Uボートだったのです。



続く。



マクリーディ&ケリー陸軍中尉の北米大陸初横断飛行〜スミソニアン航空博物館

2023-04-10 | 飛行家列伝

スミソニアン博物館の「ミリタリー・エア」のコーナーには、
古色騒然とした単葉機が展示されています。

胴体に

「ARMY SERVICE NON STOP
COAST TO COAST」

と書かれた飛行機は、実はオランダのフォッカー社製です。
フォッカーT-2は、北米大陸を初めて無着陸で横断した飛行機になりました。



フォッカーT-2の下には大陸横断を成し遂げた
二人のパイロットの姿がパネルとなって立っていて、
その前で写真を撮っている少年と老年がいました。

ちなみにこの二人は全く無関係の間柄です。

うっかりパネルの文字を写真に撮ることを忘れたのですが、この二人が

ジョン・マクリーディ大尉 Lt. John MacReady
オークリー・ケリー大尉 Lt.Oakley Kelly


であり、大陸横断を成し遂げたパイロットであることはわかります。


このパネルの中段左から三番目にケリー、
上段右端がマクリーディとなります。

これで下段の海兵隊パイロット、クリスチャン・シルト将軍(最終)
以外は全員紹介しましたが、シルトについては以前取り上げたので、
今回は書くことがなくなったらにします。

■ 北米大陸横断飛行

1923年5月2日。

オークリー・G・ケリー中尉とジョン・A・マクリーディ中尉は
ニューヨーク州ロングアイランドを離陸し、
26時間50分余り後の5月3日、カリフォルニア州サンディエゴの
ロックウェル・フィールドに着陸するという快挙を達成しました。

Lieutenants Oakley G. Kelley and John A. Macready land in San Diego, California (1923)


ガソリンを入れるところから始まって、二人が飛行服を着て乗り込み、
ニューヨークの上空を飛び、航路が示されたビデオです。

T-2の前に立つマクリーディとケリー

ケリーが離陸、マクリーディが着陸を担当し、
飛行中に5回ほど操縦を交代しています。

ケリーとマクリーディが操縦した初の大陸横断無着陸飛行のルート

■ フォッカーT-2



大陸横断飛行の成功は、航空局の準備と技術だけでなく、
機体の設計にも大いに関係がありました。

1922年、オランダのフォッカー社とその主任設計者、
ラインホルト・プラッツの手によって、オランダの現地で
大陸横断用の飛行機が製造されました。

この飛行機は、フォッカー社の商業輸送機シリーズの第4弾で、

「エア・サービス・トランスポート2」(T-2)

と名付けられ、簡単にT-2というのが名称となります。
生産されたT-2、2機は1922年6月にアメリカ陸軍航空局に売却され、
当初はF-IVと呼ばれていました。

それまでのフォッカー機の中で最大の機体であるT-2は、
全長25m近い片持ち式の木製単葉主翼と、15m弱の胴体が特徴です。

アメリカ製の420馬力のリバティV型12気筒エンジンを搭載し、
標準仕様はエンジンの左側にある前方開放型のコックピットに
パイロット一人が乗るようになっており、
機内には8~10人の乗客と手荷物を乗せることができました。

陸軍航空局によって早速初期の受け入れテストが始まり、
T-2は重量を搭載することができ、彼らの目標である、
東海岸から西海岸までの長距離飛行に適応できることがわかりました。

しかし、そのためには改造する必要がありました。

航続距離を伸ばすために搭載燃料タンクを大きくすると、
重量に耐えられるように主翼の中央部分を補強する必要があります。

主翼前縁にある標準的な492リットルの燃料タンクに加え、
主翼中央部に1552リットルのタンク、さらに胴体キャビン部には
700リットルのタンクがこれでもかと搭載されることになりました。

また、機内には、2人のクルーが操縦を交代する際、
機体を安定し易くするための第2コントロール・セットも設置されました。

1924年、陸軍航空局はT-2をスミソニアン博物館に寄贈し、
1962年から1964年にかけて完全修復が行われ、現在の姿は
1973年に改装をおこなった時のものとなります。


【2回の挑戦失敗】

最初の2回の出発地にサンディエゴが選ばれたのは、二つ理由があって、
一つは偏西風を利用するため、そして、西海岸からなら、
カリフォルニア産のオクタン価が高い精製燃料が使えるから
というものでした。


1回目の飛行では、サンディエゴの東80kmの峠に霧が発生し、
ケリーとマクリーディは引き返さざるを得なくなりました。

しかし、この時、彼らは可能な限りの時間上空に止まって、
機体の性能をあれこれと試すことで、次に備えました。

2度目もサンディエゴから出発しましたが、インディアナポリス近郊で、
冷却水タンクのひび割れが原因でエンジンが焼き付いたため、
この挑戦も失敗に終わりました。

この西東横断の準備と2回の失敗の間に、新しいエンジンが数台搭載され、
T-2にさらに多くの小さな改造が繰り返されることになります。

これらのこの作業はすべて、オハイオ州デイトンの
マクックフィールドにある陸軍航空局の施設で行われました。

【三度目の正直】

3度目の挑戦は、東から西への飛行と決まりました。

大陸横断飛行は、5月2日午後2時36分、
T-2がルーズベルト・フィールドを離陸した時に始まりました。

離陸時の機体総重量は4,932kgで、T-2の限界である4,990kgより
わずか68kg少ないだけ、つまり限界まで燃料を積んでいました。

飛行機が高度を上げるまで20分かかったくらいでした。

ケリー中尉が最初に操縦し、インディアナ州リッチモンドまで飛行。
その後ケリー中尉はマクリーディ中尉と交代し、深夜まで飛行。

パイロットは基本的に6時間交代です。
コックピットはオープンで、うるさいリバティエンジンのすぐ後ろ。
上空で二人はおそらく互いの声が聞こえなかったに違いありません。

夜間飛行では激しい嵐や雨に見舞われ、コクピットはほぼ吹き曝し。
アーカンソー川に差し掛かったところで飛行を終了しました。

「横断飛行」の定義としては、乗員が二人いても寝る時間は別で、
一応は着陸してもいいというルールになっていたようですね。
おそらく陸軍の「俺ルール」だったんだと思いますが。

(だからこそ、大西洋をたった一人で無着陸横断飛行したリンドバーグは
世紀の英雄とされたのだと思います。
ちなみにリンドバーグの大西洋無着陸横断はこの5年後でした。)

翌朝6時、ニューメキシコ州サンタローザで再び操縦を交代し、
さらに高度3,110kmで再び交代。

この結果、T-2は現地時間5月3日午後12時26分にサンディエゴに着陸し、
26時間50分38秒5という公式タイムで
(寝ている時間以外)ノンストップの大陸横断飛行を完了しました。

この時のT-2は3,950kmを平均地上速度147kphで飛行しています。



この時の飛行のことをマクリーディは、

「大陸無着陸断では、暗闇の中を13Vk時間飛行し、
非常に悪い天候を経験し、
一睡もせずに飛行した」


と述べています。

「限られた燃料の中で、コースを外れると西海岸にたどり着けなくなる。
鉄道はもちろん、航空路も郵便路も確立されていない。
嵐と暗闇から抜け出したとき、コンパスだけでコースを確認し、
サンディエゴに到着するのに十分な燃料があることを知った。
私たちは、この航法に大きな誇りを感じています」

と。


サンディエゴのロックウェルフィールドに着陸するT-2

T-2がサンディエゴ上空に到着すると、多くの航空機が
マクリーディとケリーという2人の勇敢な飛行士を出迎えるために
空へ飛び立ちました。(危なくないのかと思ったのはわたしだけ?)

5月3日12時26分、T-2がカリフォルニア州コロナドの
ロックウェル・フィールドに着陸すると、大勢の人が詰めかけました。

このフライトは、全米、全世界の注目を集め、
ニューヨーク・タイムズ紙をはじめ、一面の見出しを飾りました。




■ ジョン・マクリーディ中尉

マクリーディらはこの挑戦のために、何度かテスト的に
条件を加えた飛行を行なって機体を試しています。


1921年9月28日の高高度飛行に先立ち、ルペール複葉機の右翼の前で
ヘルメット、マスク、ゴーグル、パラシュートとフル装備の
高高度飛行服を着て立っているジョン・A・マクリーディ中尉。

当時の飛行機はオープンコクピットですから、
全身をこうやって皮で包み、さらには顔周り、
風を受ける手首周りに毛皮があしらわれています。



ジョン・アーサー・マクリーディ中尉
John Arthur Macready 1887-1979


は、第一次世界大戦後の数年間、陸軍最高のパイロットの一人であり、
マッケイ・トロフィーを3度受賞した唯一のパイロットです。

カリフォルニア州サンディエゴ生まれで、
スタンフォード大学を1912年(25歳で?)卒業しています。

1918年にアメリカ空軍に入隊し、サンディエゴの
ロックウェル・フィールドでパイロットのウィングマークを取得しました。

テキサス州ブルックス飛行場の陸軍飛行学校で教官をしていた時に書いた本は
米軍航空初期の飛行学生の基本マニュアルになりました。

戦後は、オハイオ州マクック飛行場の航空局実験試験センターに配属され、
チーフテストパイロットとして活躍しています。

大陸横断飛行の前年である1922年、マクリーディ中尉は
のちに横断飛行のパートナーになる同僚のオークリー・ケリー中尉とともに、
サンディエゴ上空で35時間18分半という世界飛行耐久記録を樹立。

この耐久飛行をきっかけに、初の空中給油装置の実験が行われました。

そして1923年5月、マクレーディ中尉とケリー中尉は
フォッカーT-2で米国初の無着陸大陸横断飛行を達成するのですが、
マクリーディは、高高度飛行でも、ルペールLUSAC-11複葉機
(オープン・コックピット)で40,800フィートの高度記録を達成しています。

そのほかにも、

初の夜間パラシュートジャンプ
初の飛行士用メガネの発明
世界初のクロップダスター(農薬散布機)実験
初の日食写真撮影
アメリカ初の航空写真測量
初の与圧式コックピット試験


などの実験的飛行を成功させており、
優れた航空功績に与えられるマッケイ・トロフィーを
最初で唯一3度も獲得したなどの偉業を成し遂げました。

これが世界初の農薬散布機だ




試験飛行で使用した高所作業用機器と共に

彼は、オハイオ州デイトンの航空殿堂と、
サンディエゴの国際航空宇宙殿堂にその名前が刻まれています。

■ オークリー・ケリー中尉


マクリーディ中尉があまりにも凄すぎるパイロットだったせいで、
一緒に記録達成をしたにもかかわらず、ほとんどその資料がない
ちょっと気の毒な同僚のケリー中尉です。

オークリー・ジョージ・ケリー中尉
Oakley George Kelly(1891-1966)


彼が凡庸というより、たまたまレジェンドと一緒に記録を立てたので
それで歴史に名前が残されることになったというべきかもしれません。

オークリー・ケリー中尉は、ペンシルベニア州で生まれ、
1916年から1919年まで、カリフォルニア州の
陸軍ロックウェル・フィールドで教官を務めていました。

この時同僚にいたのがマクリーディ中尉です。
そして二人は横断記録を打ち立てるわけですが、その後の彼の人生は、
記録を打ち立てたのと同じ飛行機(フォッカーT-2)を使って、
歴史的山林ルートの保全と保存のための支援を呼びかけをした他は、
観測飛行隊の飛行隊長を務めていたくらいしか記述がありません。

■ のちの評価

時の大統領、ウォーレン・ハーディング

「あなたたちのの記録破りのノンストップ飛行、
海岸から海岸への飛行の成功に心からの祝意を表します。
あなたがたはアメリカ航空界の勝利の新しい章を書きました。」


そしてアーノルド "ハップ "将軍は、

「不可能が可能になった」

フォッカー航空社長でT-2型機の開発者、アンソニー・フォッカーは、

「あなたの偉業に心からの祝福を。
あなたの飛行は、民間航空の発展における画期的な出来事です。
10年後には、あなたが征服し飛行したルートを
多くの旅客と貨物便がたどることでしょう」

そして飛行家マクリーディ自身は、

「栄誉はそれ自体で報われる。
この飛行には多くの栄光が約束されていた。
兵士としての義務を果たし、
多くの人が不可能と考える偉業を成し遂げることに大きな満足がある」

とそれぞれ語っています。

■ マクリーディとケリーの晩年

ケリーは1948年大佐として軍務を退き、
1966年にカリフォルニア州サンディエゴで74歳で死去しました。

マクリーディは第二次世界大戦で現役に戻り、
大佐として陸軍航空隊のグループを指揮したほか、
監察官として北アフリカに派遣されました。

1948年に現役を退いてからは活動の記録はなく、
1968年に全米航空殿堂、そして1976年には国債航空宇宙殿堂入りしました。

1979年、91歳で亡くなっています。


オーヴィル・ライト(中央)と歩くマクリーディ(左)とケリー
今では考えられない歩きタバコに注目

続く。


来日していた米陸軍航空・世界一周飛行隊〜スミソニアン航空博物館

2023-04-08 | 飛行家列伝

2回続けてスミソニアン博物館から、1920年〜30年代の
海軍航空の歩みに関する展示を中心に紹介してきました。

というところで、今日は陸軍航空の挑戦についてです。




「ミリタリー・エア」のコーナーには、ダグラスの航空機の下に
二人の陸軍パイロットのパネルがあり、このように書かれています。

ローウェル・スミス大尉とレスリー・アーノルド大尉と
ダグラス ワールド・クルーザー「シカゴ」

1924年、スミスとアーノルドの操縦する
アメリカ陸軍航空サービスの1機である「シカゴ」号は
世界初の「完全な世界一飛行」を175日で終えました。

スミスとアーノルドってどんな人?

●世界一周するために出発したアーミー・ワールド・クルーザー、
4機のうちの一つの乗組員

●スミスは37時間の耐久飛行記録を打ち立てました

●アーノルドは陸軍の追跡パイロットであり、
バーンストーマー(アクロバット飛行などもするパイロット)でした

●彼らは世界飛行という脅威的な偉業を達成するために、
広大なグローバルネットワークによるサポートに支えられました

ダグラス・ワールド・クルーザー「シカゴ」
The Douglas World Cruiser Chicago

「シカゴ」とその仲間である「ワールドクルーザー」は、
世界一周の挑戦の過酷で変化に富んだ状況に耐えるのに
十分なくらい頑丈で、かつ信頼できるものではなければなりませんでした。

彼らは航続距離を確保するために追加の燃料タンクを採用し、
ホイールとフロート、どちらも選択することができました。


胴体に書かれた地球に二羽の鷲のイラストは、
世界を巡る陸軍パイロット二人を象徴しています(たぶん)


1924年、アメリカ空軍の前身であるアメリカ陸軍航空局所属の飛行士が、
「世界初」=(着水なし)の空中周航を達成しました。

全行程175日間の旅は、航行距離42,398km以上。
その航路は、環太平洋を東から西に回り、
南アジア、ヨーロッパを経て米国に戻るというものでした。

冒頭で紹介されているのは、そのメンバー4人、

ローウェル・H・スミス  Lowell H. Smith

レスリー・P・アーノルド  Leslie P. Arnold

エリック・H・ネルソン Erik H. Nelson

ジョン・ハーディング・ジュニア John Harding Jr.

のうちの上二人です。

彼らは単発オープンコックピットで水上機仕様の
ダグラス・ワールドクルーザー(DWC)2機を挑戦に用いました。

実はこの2機の他にDWC2機、乗員合計4人が同じルートに挑み、
いずれも途中で脱落しましたが、飛行士は全員無事でした。

■ 世界一周への挑戦


1920年代初頭、当時の世界の航空界におけるトレンドは、
「飛行機による世界一周一番乗り」
だったかもしれません。

イギリスは1922年、真っ先に世界一周飛行にチャレンジし、失敗しました。

1923年春、アメリカ陸軍航空局は

「軍用機飛行隊による初の世界一周飛行」

を試みました。

この陸軍のハイレベルな試みは、最終的にパトリック将軍の指揮の下、
海軍、外交団、漁業局、沿岸警備隊の支援も受けることになります。

【使用機の選定】

まずは使用する飛行機の選定です。

陸軍省は、フォッカーT-2輸送機とデイヴィス・ダグラス・クラウドスター
どちらが適しているかを検討し、試験用の実機を入手するよう
航空省に指示しするところから始めました。

陸軍省はこのどちらにもそこそこ満足しましたが、
計画グループは、車輪と着水用のフロートを交換できる専用設計にしたい、
と考え、現役および生産中の他のアメリカ航空局軍用機を、
全て検討するように要請しました。

デイビス・ダグラス社が、デイビス・ダグラス・クラウドスターについて
ふたたび打診された時、創始者のドナルド・ダグラス
1921年と1922年にアメリカ海軍のために製造した
魚雷爆撃機DT-2の改造機のデータを代わりに提出しました。

DT-2は車輪式とポンツーン式の着陸装置を交換可能であり、
さらに頑丈な機体であることが証明されていたからです。

ダグラスは、この既存機をもとにして、
ダグラス・ワールドクルーザー(DWC)に改造し、
契約後45日以内に納入することになりました。

ダグラスはジャック・ノースロップの協力を得て、
DT-2を世界一周挑戦用に改造する作業に取り掛かりました。

主な改造部分は航続距離を確保するための容量を増やした燃料タンクでした。
内部の爆弾搭載構造をすべて取り除き、主翼に燃料タンクを追加。
機体の燃料タンクも拡大された結果、総燃料容量は
435リットルから2,438リットルへととんでもなく増えました。

ダグラス案はワシントンに持ち込まれ、航空局長、
メイソン・M・パトリック少将がこれを承認し、本格的に動き出します。

まず試作機が発注され、試験の結果さらに4機が納入されました。
予備部品には15基のリバティエンジン、14セットのポンツーン、
さらに2機分の機体交換部品が含まれていたました。

これらの予備部品は、航空機が辿る予定となっていた
世界一周ルート上の場所に先に送られました。

航空機は無線機もアビオニクスも一切備えておらず、
乗組員は冒険の間中、完全に推測航法技術に頼ることになりました。

大丈夫なのか。

そこで重要となってくるのが参加する乗員の人選です。

【選ばれたパイロット】



スミソニアンに展示してある飛行機は「シカゴ」ですが、
実は他の3機も、アメリカの都市名が付けられていました。

写真は、この世界一周に挑戦したエリートパイロットたちで、
各飛行機のメンバーは次の通りです。

シアトル(No.1)失敗

フレデリック・L・マーティン少佐(1882-1956) 機長兼飛行指揮官
アルヴァ・L・ハーヴェイ軍曹(1900-1992) 飛行整備士

シカゴ(No.2)


ローエル・H・スミス中尉(1892〜1945)機長、飛行隊長
レスリー・P・アーノルド少尉(1893〜1961)副操縦士

ボストン(No.3)/ボストンII(試作機)
失敗

リー・P・ウェイド少尉(1897~1991)機長
ヘンリー・H・オグデン2等軍曹(1900~1986)整備士

ニューオーリンズ(No.4)

エリック・H・ネルソン中尉(1888-1970)機長
ジョン・ハーディング・ジュニア中尉(1896-1968)副操縦士


写真には7人写っていますが、おそらくこれは、
士官パイロットだけで撮ったもので、真ん中の一人が
この作戦の総指揮を執った偉い人なのだと思われます。

参加パイロットは全軍から集められた腕利きの飛行家ばかりでした。
世界一周飛行を成功させた後、有名になった二人の経歴を記します。

【ローウェル・スミス中尉】




スミスは、大学在学中に、モハーヴェ砂漠のポンプ工場で働き、
その後自動車修理工場で整備士、 ネバダの鉱山で飛行機の操縦を習った、
という変わった経歴の持ち主です。

メキシコのパンチョ・ビラの革命軍に参加して、
飛行担当として偵察操縦をしていたこともあります。

第一次世界大戦をきっかけに陸軍航空隊に入隊したスミスは、
出征はしませんでしたが、飛行教官、技術官を務めた後、
太平洋岸で火災哨戒を行う飛行隊の指揮官を務めていました。

操縦の腕を買われ、彼は1919年、陸軍代表として、大陸横断速度、
耐久性コンテストに参加することになります。

ところが、コンテスト直前に整備士の灯火が翼に引火し、機体は焼失
スミスは現地を訪れていたあの『陸軍航空の父』の一人、
カール・スパッツ少佐の乗っていた飛行機を直々に譲り受け、
コンテストで史上初めてサンフランシスコからシカゴまで飛行を成功させ、
さらに往復によって記録を作ることになります。

その後、1923年、スミスはポール・リヒター中尉とともに、
デ・ハビランド・エアコDH.4Bのペアで史上初の空中給油を成功させます。

この飛行でスミスは飛行距離、速度、飛行時間の16の世界記録を更新し、
37時間15分の滞空記録と次々に挑戦を成功させてきました。

その時すでにスミスの飛行時間は2000時間以上。
世界一周飛行に挑戦するのに選ばれて当然のキャリアと実力でした。

ただし、中尉だった彼は最初から隊長に選ばれていたわけではなく、
当初予定されていたフレデリック・マーチン少佐の飛行機が
アラスカで墜落してしまったため、急遽指揮官を任されたのです。

【レスリー・アーノルド少尉】


イケメソ

「シカゴ」の副操縦士を務めたレスリー・P・アーノルド少尉は、
追跡パイロットとして訓練を受けた飛行士です。

第一次世界大戦の戦闘には間に合わず、軍のバーンストーマーとして
アメリカの田舎を旅し、人々に感銘を与えたパイロットの一人となりました。

アーノルドは、ウィリアム・"ビリー"・ミッチェル准将が率いる
陸軍の特別臨時航空旅団の一員となり、ここでもお話ししたことのある、
1921年のミッチェルの戦艦爆破実験に参加しています。

もともと世界一周飛行の企画段階では予備パイロットでしたが、
出発のわずか4日前にアーサー・ターナー軍曹が病気になったため、
「シカゴ」でスミスに合流しました。

追跡パイロット出身、さらに陸軍のバーンストーマーと、
こちらもその操縦技術と経験は十分だったといえるでしょう。

■ 世界一周

パイロットたちはバージニア州のラングレー飛行場で
気象学と航法の訓練を受け、試作機での練習、ついで
ダグラス社とサンディエゴで量産機での練習も行っています。


アメリカ・ワシントン州シアトル

「シアトル」「シカゴ」「ボストン」「ニューオーリンズ」の4機は、
1924年3月17日にカリフォルニア州サンタモニカを出発、
ワシントン州シアトルを発ってこの日が正式の出発日となりました。

各機はシアトル出発前に、それぞれの名前の由来となった都市から
わざわざ持ってきた水をボトルに入れて機体で割る儀式を経て
正式に命名され、車輪はポンツーンフロートに交換されました。

1924年4月6日、彼らはアラスカに向け出発しますが、
9日後に早速トラブルが見舞います。


カナダ・プリンスルバート

4月15日にプリンスルパート島を出発した直後、先頭機「シアトル」は
クランクケースに穴が空いて着水せざるを得なくなったため、
エンジンを交換して3機を追いかけますが、

アラスカ準州・シトカ、スワード、チグニク・ポートモラー
で濃霧の中、アラスカ半島の山腹に墜落して「シアトル」は損壊します。

しかし乗員二人は山腹を歩いて6日間を過酷な環境の中で生き延び、
缶詰工場にたどり着いて助かりました。



1番機が脱落したので、スミスとアーノルドの「シカゴ」が
1番機を務めながら北太平洋を横断しました。


ソ連・ニコルスコエ
ソ連とは国交がなかったので上空の航行は認められていませんでしたが、
「シカゴ」はなんとなくソ連領土にも着陸してしまっています。

この頃はのんびりしていたのね。

日本
そして5月25日、この時チームは東京にたどり着いています。


霞ヶ浦到着 旗を振る人々



一行は日本では千島列島はじめ6カ所に着陸しました。
6月2日には鹿児島に到着したとあります。

説明によると、陸軍航空隊の皆様は、特に日本の滞在には興奮したとのこと。


「日本で皇室の歓迎を受ける」

と見出しに書かれていますね。
日本は官民あげての大歓迎をしたようで、特に帝國陸海軍は
総出で彼らのアシストをおこなったと新聞記事にも書かれています。

「バンザイ!」

霞ヶ浦に到着した時には海軍士官が特に出迎え、
海軍施設で心温まる歓迎をしてくれたとか、
集まった人々は皆手に日米の国旗を打ち振っていたとか、
子供たちが400人も集まって歓迎してくれたとか、
到着した時人々の間から「バンザイ!」という声が上がったとか、
日本の航空機が歓迎のための航空デモをしてくれたとか、
最終日には上野公園で「帝国航空協会」?から花束をもらったとか、
陸軍高官に茶を振る舞われ、政府主催の公式晩餐会があったとか、
「ガールズ」が花束贈呈をしたとか(それがどうした)
乾燥した栗とsake、日本の酒が出され、これが美味かったとか。



海軍の施設でメインテナンスされている「シカゴ」を見る二人。
メダルは串本町?町長から贈呈されたものです。

ただし、

スミソニアンの説明は、

「日本は航空機の到着そのものには大歓迎をしていたが、
操縦者が軍人であることから軍の関与を疑っており、
軍事機密を保護するため、国内の移動には曲がりくねった航路を指示した」

と、まあ近代国家なら普通にするであろうことを
なんとなく意味ありげに書いています。

その後航空機は比較的順調に朝鮮半島(これも日本)を経由し、


中華民国 上海


中国沿岸を下って・・・・、


フランス領インドシナ(現ベトナム)
へと。

【『シカゴ』のトラブル】

トンキン湾を出発した後、「シカゴ」のエンジンの一部が破損し、
フエ近くのラグーンに着陸したところ、飛行機を珍しがった現地の人が
わらわらと飛行機に近づいてきて乗ろうとするので困ったそうです。

他の三機の救助ボートが、「シカゴ」の翼の上に座っている二人を見つけ
3台のパドル式サンパンで10時間、かけてフエまで牽引し、
そこでサイゴンから緊急輸送されたスペアエンジンと交換さました。

怪我の功名とでもいうのか、この時交換したエンジンは性能が良く、
もしかしたら「シカゴ」が成功したのはこのおかげだったかもしれません。

しかしながら、「シカゴ」のトラブルはまだ続きました。


タイ・バンコク


イギリス領インド・カルカッタ、カラチなど

6月29日の夜、カルカッタで足回りの整備を済ませた日、
夕食を食べ終わったスミスが暗闇で滑って肋骨を折ってしまいました。
しかしそれでも彼は作戦を遅らせることなく続行することを主張。

「ニューオリンズ」壊滅的なエンジン故障に見舞われ、
足を引きずるようにカラチにたどり着き、全機がエンジン交換を行いました。

その後、中東、そしてヨーロッパへと向かいました。

シリア・アレッポ

トルコ・コンスタンチノープル

ルーマニア王国・ブカレスト

ハンガリー王国・ブダペスト

オーストリア・ウィーン

フランス・パリ・ストラスブール
7月14日のバスティーユ・デイにパリに到着。


イギリス・ロンドン、ブラフ、スカパ・フロー
ロンドン、イギリス北部へと飛行し、
ポンツーンの再設置やエンジンの交換など、
大西洋横断の準備を行います。

【『ボストン』号脱落】


アイスランド・レイキャビク

1924年8月3日、アイスランドに向かう途中、「ボストン」は
オイルポンプの故障により、で無人の海に墜落しました。

「シカゴ」はフェロー諸島まで飛行し、支援のため待機していた
アメリカ海軍軽巡洋艦USS「リッチモンド」にメモを投函し、
乗員は無事救助されたのですが、曳航されていた「ボストン」は
フェロー諸島到着直前に転覆して海の藻屑と消えてしまいました。

残った「シカゴ」と「ニューオリンズ」は
アイスランドのレイキャビクに長期滞在し、そこで偶然にも
同じ周航を試みていたイタリアのアントニオ・ロカテッリ
その乗組員に出会っています。

その時世界一周に航空機で挑戦していたのは、
何カ国もありました。(ブームだったんですね)


グリーンランド・タラーシクなど
「シカゴ」と「ニューオーリンズ」は、今や
5隻の海軍艦艇とその船員2500人を伴って、
グリーンランドのフレドリクスダルに向け前進を続けていました。

これは、その5隻の船がルート上に連なる、
全旅程の中で最も長い行程となりました。
グリーンランドで2機はまたエンジンを取り替えています。


カナダ・ラブラドール
に到着。

最初に脱落していた「ボストン」の乗員二人ですが、
彼らはなんと、「ボストンII」というオリジナルの試作機に乗り換えて
ここからちゃっかりまた合流しています。


アメリカ・メイン州カスコ湾、マサチューセッツボストン
ニューヨークミッチェル空港、ワシントンD.C.など


首都での英雄的歓迎の後、3機のダグラス・ワールド・クルーザーは
西海岸へ飛び、複数の都市を巡り歓迎されました。

全行程363時間7分、175日以上、42,398 km。

同時期に挑戦したイギリス、ポルトガル、フランス、イタリア、
アルゼンチンは全チーム失敗しましたが、彼らだけが成功させています。

それもそのはず、全チームでアメリカだけが、

●複数の航空機を使用した

●燃料や予備部品などの支援機器を
ルート上に大量に事前配置していた

●海軍の駆逐艦数隻を応援に配備していた

●事前に手配された中継地点で
5回のエンジン交換、2回の翼の交換をした

のですから。
まーこれはチートってやつですよね。他の国から見たら。

その後ダグラス・エアクラフト社は、

「ファースト・アラウンド・ザ・ワールド
 - First the World Around」

というモットーを採用するようになりました。
めでたしめでたし。

続く。