◎ジェイド・タブレット-06-14
◎青春期の垂直の道-14
◎荒野で悪魔に試される
イエスは、イエスは御霊によって荒野に導かれ、断食中に悪魔に出会った。これについてダンテス・ダイジは、「天国的な方向に向かおうとする努力をしている人に悪魔は必ず現れる」と言っている。
見神・見仏・見性を経た真摯な冥想修行者、あるいは善男善女の生き方は、必ず善いことをして悪いことをしないであって、それは天国に向かう生き方である。
そういう清らかな人が、なぜ悪魔に出会わなければいけないのか?
これは私にとって、長らく謎だったが、天国だけを生きることは目指すべきものだが、「それがピークに達すれば、地獄的なものもあるのだ、あるものはあるという現実に向き合わねばならない」ということを言っているのだと思う。
事実既に悟った者の生き方は、常に諸悪莫作衆善奉行(善いことをする、悪いことはしない)なのだ。たとえば修道院で何か月か天国的な生き方を継続すれば、まもなく神を見ることができるが、それだけでは、混乱と汚辱の世間に放り出された時におろおろするだけで通用しない。高さをクリアしたとしても、深さは別物なのだ。その辺が悪魔出現の理由なのだろうと思う。
荒野の40日。
『4:1さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。 4:2そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
4:3すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。
4:4イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
4:5それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて
4:6言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。
『神はあなたのために御使たちにお命じになると、
あなたの足が石に打ちつけられないように、
彼らはあなたを手でささえるであろう』
と書いてありますから」。
4:7イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。
4:8次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて
4:9言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。
4:10するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。』
(口語訳新約聖書(1954年版) 【マルコによる福音書】から引用)
イエスの悪魔への対応ぶりと、
『11:14さて、イエスが悪霊を追い出しておられた。それは、おしの霊であった。悪霊が出て行くと、おしが物を言うようになったので、群衆は不思議に思った。
11:15その中のある人々が、「彼は悪霊のかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言い、
11:16またほかの人々は、イエスを試みようとして、天からのしるしを求めた。 11:17しかしイエスは、彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ国が内部で分裂すれば自滅してしまい、また家が分れ争えば倒れてしまう。
11:18そこでサタンも内部で分裂すれば、その国はどうして立ち行けよう。あなたがたはわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出していると言うが、
11:19もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。
11:20しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。』
(口語訳新約聖書(1954年版) 【ルカによる福音書】から引用)
さらに
『10:17七十二人が喜んで帰ってきて言った、「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」。
10:18彼らに言われた、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。 10:19わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。 10:20しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。』
(口語訳新約聖書(1954年版) 【ルカによる福音書】から引用)
この時点で、イエスは既に悪魔と遭遇している。悪魔祓いと病人の癒しが悪魔対応の最前線になっている。信者たちが上手に悪魔対応できることが主眼ではなく、あくまで神を知ることがメインであって、霊能力発現は神知ることにに付随したものであるという雰囲気がうかがえる。
【参考】
ダンテス・ダイジの初期の説法から
『「サタンていうのは、天国を大切に守ろうとしている人にだけ現れる。たとえば、イエス・キリストがさ、荒野で自分を本当に高めようとしたときにさ、高めるっていう方向があるときにサタンは現れるわけ。それから釈迦が成道しようとしてさ、成道するっていうのは、天国的な方向に向かおうとする努力なんだ。そしてそれは絶対に必要なことなんだ、人間にとって。より素敵なものに向かうっていうのは。
そしてその方向に向かってるとき、突然サタンが現れるわけ。それも、釈迦のサタンていうのは、いかにも釈迦っていう人をよく表していてさ、奴の自意識の豊かさっていうのをよく表現してるよ。まだ素朴だよ、キリストのサタンの方が。汝を帝王にする、とか。石をパンに変えてみよ、とか。崖から落ちて飛び降りてみよ、とかさ。その代りにこの世の一切の権力を与えようとかさ、やるじゃない。
で、釈迦の場合に現れたものって言ったら、何のことはない、古女房が現れてきてさ(笑い)、ヤスダラっていうのが女房で、子供がラーフラか。ラーフラを抱きながら、その女房が現れるわけよ。』
(ダンテス・ダイジ1978年の東京是政での説法から)