◎いとしいゲーム
『いとしいゲーム
肉体は絶対無に直結している。
観念は肉体に直結している。
人体内の七つのチャクラは、
極めて具体的な悟りへの道すじである。
それは、人間を至福へと導いていく。
最後のサハスラーラ・チャクラのみは、
実用性を越えたものであり、
生理的なものではない。
サハスラーラ・チャクラは、チャクラではないばかりか、
いかなる人間的な概念規定をも越えている。
サハスラーラ・チャクラとは、
何ものでもないのだ。
人間がサハスラーラに到達するまでは、
命がけの情熱が必要だ。
だが、サハスラーラそのものは、
コエダメの中のウジムシの狂言に他ならぬ。
ああ、
この、
いとしさよ!
いとしさよ!!
いとしさよ!!!』
(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)
以下【】内は上掲詩から引用。
【肉体は絶対無に直結している。】
絶対無あっての肉体。肉体あっての絶対無。肉体から絶対無までの往復タイムは、数秒か?
【観念は肉体に直結している。】
これは、ライヒが盛んに研究したところ。肉体内有毒ガスは、雑念など観念に影響する。
【人体内の七つのチャクラは、
極めて具体的な悟りへの道すじである。
それは、人間を至福へと導いていく。】
これは、”ニルヴァーナのプロセスとテクニック”のチャクラ・クンダリニー・ヨーガのところに出ているとおり。
『それらの光の円の中心は、下方のチャクラに呼吸が流れている間は暗くなっているが、上方のチャクラに移行するとともに、完全な円光に変化する。そして、その円光が、最も見事な太陽のような光となる時、私は全く何ものでもない光に見入っているという感じを持った。
私の感覚器官は、日々に鋭敏になり、透明な静寂が世界全体を包んでいるような心持ちだった。その頃から、私はパドマ・アサナ (蓮華座)の姿勢で、ほとんど終日を過ごすようになった。
私という様々に動き回る思考、イメージ、感情、感覚、それらは最早周囲のあらゆる出来事と切り離すことのできぬ一つながりの動きのみである。
私とは何なのか?
このあらゆる動きとは何なのか?
”これ”は何なのか?
私は、ひたすらこのあらゆる千変万化するこのものを見守る――それだけの日々がやって来た。 私は絶対に答えを得ることのできぬ神秘の只中にいた。否、絶対の未知それだけだ。それは決して解答を持ち得ない。 解答とは、知らぬものを、別の知っているものによって説明するわけだが、私には、私を含めて知っているものなぞ何一つありはしない。』
(”ニルヴァーナのプロセスとテクニック”/ダンテス・ダイジp70-71から引用)
上記引用文の『円光が、最も見事な太陽のような光となる時』をサハスラーラと見ると、
【サハスラーラ・チャクラは、チャクラではないばかりか、
いかなる人間的な概念規定をも越えている。
サハスラーラ・チャクラとは、
何ものでもないのだ。】。
【だが、サハスラーラそのものは、
コエダメの中のウジムシの狂言に他ならぬ。】
サハスラーラそのものは、老子狂言。