アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

クリシュナムルティ-2-クリシュナムーティの死

2023-10-30 03:51:01 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-08

◎青春期の水平の道-8

 

道元の非思量底とは、自分が大切に思うもの、苦悩の種となっているものをすべて捨て去って、自分が死に、自分の家族や自分の思い出や自分の世界全体も死ぬことである。なお自分が死ぬとは自殺のことでなく、様々な隙間の中の最大の隙間のこと。

それが次のようなクリシュナムーティの文に現れる。

『もしあなたが、家族や想い出やいろいろの感情を含めて、あなたが知っているすべてのものを捨て去るならば、死は一つの浄化作用となり、あなたを若返らせるものとなる。そして死は人間を清浄な天真爛漫な人間にする。

死後に何が起こるかを知ることができるのは、こうした情熱を持った天真爛漫な人間だけであって、それを信じたり、知ろうとする人々ではないのである。

死ぬときに何が起るかを実際に知るためには、あなたは死んでみなければならない。これは決して冗談でいっているのではない。あなたは自分が大事にしているものや苦しみを感じているものすべてを捨てさって、肉体的にではなく、心理的に内的に死ななければならないのである。

一番小さな楽しみであろうと一番大きな楽しみであろうと、あなたが味わっている楽しみの一つを無理やりではなく、自然な気持で捨て去れば、死が何を意味するかわかるであろう。死ぬことは、まったく空っぽな心、毎日の願望や楽しみや苦悩のない心をもつことである。

死は再生であり転生であり、そこでは古い存在でしかない思考は全くその働きを失う。死のあるところには、全く新しいものが生まれるのである。つまり既知のものからの自由は死であり、あなたはいったん死ぬことによって生きるのである。』

《クリシュナムーティ/自己変革の方法/P161-162から引用》

 

道元の普勧坐禅儀で「箇の不思量底を思量せよ。不思量底、如何が思量せん。非思量。これすなわち坐禅の要術なり。」とあり、この認識できないものを認識しなさい。どうすれば認識できるか。それは認識しないことであるというような意味である。

クリシュナムーティは、この認識しないことを心理的内的な死と言っている。心理的内的な死が訪れるときに、不可思議な転換が起こり、全く新しいものが生まれ出るとしている。

「情熱を持った天真爛漫な人間」とは、日々の不条理や理不尽をまんざらでもないと妥協し受け入れることなく、ありのままに受け入れることのできるほどの情熱を持ち、教育、マスコミ、歴史、プロパガンダなどの影響を受けないで天真爛漫に生きる人のことであって、結構むずかしい。

つまり只管打坐のような冥想により、大死一番を経験し、自分が内的に死に、再生できて初めて不可思議な転換が起こる。

しかしながらクリシュナムーティの特徴は、どのような冥想をすれば、「あなたの知っているすべてのものを捨てる」ことができるか、さっぱりわからないことである。何にも書いていない。この、かざりけもなく、とりつく島もないところが、身心脱落の特徴ではある。

 

ところが、とりつく島もないところから先に何かがある。

『その非人間的な心の絶対から人間の喜びと悲しみとを

しみじみと眺めあたたかく包む

何ものかが

限りなくあふれ出す』

(ダンテス・ダイジの詩集『絶対無の戯れ』/森北出版から引用)

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