◎趙州十二時の歌
(2008-08-13)
虚心坦懐に趙州が、悟った者の生活実感を語る「十二時の歌」。
その一節の辰の刻(午前8時)の段というのがあって、
『食事どき、辰の刻-
炊飯の煙は四隣にたつが、わしは空しく望み見るだけ。
饅頭もむし餅も去年別れたきり。今思い出して空しく唾をのむ。
正念を相続するのは、ごくわずかの間で、愚痴ばかりこぼしている。百軒の檀家に善人はおらぬ。
寺を訪れる者は、ただ茶を飲ませろというだけ。茶を飲ませてもらえぬと、立ち去る時にぷんぷんだ。』
(世界古典文学全集 禅家語録Ⅰから引用)
この中で、正念を相続するのはわずかの間であって、(実生活では)愚痴ばかりこぼしているというというのが核心。
※正念を相続:悟りを持続する。
クリシュナムルティなどは、正念がしょっちゅう向こうからやってきて、いわば正念相続を生きているというような有り様だったが、名匠趙州和尚でも、正念相続した時間はわずかだったことを知る(「持念少なく 嗟嘆頻りなり 一百家中 善人無し」)。
三度の飯もままならないが、それでも坐るのが、冥想家の真骨頂。衆生を救済しようなどという気負いも消え、ただ坐る。世間から見れば、見る影もない荒れ寺の貧乏住職がただ坐禅だけしている図である。
これを見て、冥想を勧めるとは、貧窮を勧めるのか、ワーキングプアとなることを勧めるのかと勘違いな推測を受けかねないが、ここがわからないと、本当の愛も、本当の安心も、本当の歓喜もない。