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アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

スーパーチャネラー-1

2022-10-20 20:11:39 | 超能力・霊能力neo

◎出口ナオ-1

 

日本の代表的チャネラーと言えば、まず出口ナオ。

神様におもちゃにされたとしか思えない境遇の中で、発狂せずに生きてきたというのは、それだけで、常人にはできないことであり、生活そのものが、禊(みそ)ぎに見える。

 

出口ナオ(1837-1918)は、大本教の開祖である。

ナオは、天保の大飢饉のさなかに京都府福知山の貧しい大工の家に生まれた。

9歳で父を失い、住み込み奉公を続けて、出口家の養女となり、18歳で四方豊助を夫に迎えた。

夫は腕の良い、お人好しの大工で、酒好きの浪費家であった。幕末、出口家は次々と田畑・家屋を手放して、没落を続けた。

 

ナオは、47歳までの25年間に11人の子を産み、そのうち8人が成人した。

夫妻は子供が10歳になると、次々に徒弟や住み込み奉公に出したが、大工仕事のわずかな収入では、夫の浪費に追いつかず、1884年には、一家は破産、夫も脳卒中になり、ナオは饅頭屋を開いて細々と生計を立てた。翌年夫は仕事場で重症を負い、そのまま病床に伏してしまった。

 

その頃長男の竹蔵は、大工の徒弟に出ていたが、仕事のつらさに堪えかねて、ノミでのどを突き、重症の身で実家に帰って来た。ナオは二人の重病人をかかえ、三人の幼児を育てるために、重労働のボロ買いや糸引きの賃仕事で生活を支えなければならなかった。

 

1887年夫は病死し、ナオは51歳で未亡人となった。

長男は傷が癒えると家を飛び出し、行方不明となった。

次男清吉は兵隊にとられた。

長女よねは農家へ嫁いだが、半年でばくち打ちの大槻鹿造の許に出奔した。

次女ことは、家の貧しさに堪えかねて、姉よねのもとへ逃げ京都に出た。

三女ひさは、人力車夫福島寅之助に嫁ぎ、夫妻で金光教を信仰していた。

家には幼い四女りょうと五女すみがいた。

 

更に1890年9月三女ひさは、産後の肥立ちが悪く、逆上して暴れ出したため、座敷牢に入れられて、しばしば神の幻影を見るようになった。続いて1891年11月長女よねが発狂した。よねの発狂ぶりは特に激しく、家の前に見物の人が立つほどであった。

 

このように当時にあっても稀なほどの苦労をした。

 

ナオは、1892年2月に初めて激しい神がかりになり、それからチャネリングをはじめるのである。

    《参考:大本神諭 天の巻/東洋文庫》

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釈迦の超能力

2022-10-19 05:55:51 | 超能力・霊能力neo

◎第一の関心事は冥想修行

 

釈迦は、超能力をなにげなく用いる。

 

ジャータカ(釈迦前生譚)の320話に薄情者前生物語というのがあり、この中に釈迦が二人の資産家夫婦の訪問をアポなしで受ける場面がある。(師は釈迦)

 

『二人は、ジェータ林の近くに来て、

「水を飲もう」と僧林に入り、水を飲んだ。師は早朝にその二人が<聖者の最初の境地>に達する可能性があることを見ぬき、〔二人が〕やってくるのをお待ちになりながら、香気ある房舎の一室で六色の仏の光明を放ちつつすわっておられた。

 

二人は水を飲んでからやって来て、師を拝んですわった。』

 

釈迦が早朝に、その超能力で、二人の夫婦が来訪することを予知し、なおかつその二人が<聖者の最初の境地>に達する可能性があるのを真っ先に見ぬいたことがポイント。

 

占い者なら、金持ちなのか、健康なのか、夫婦仲がうまくいっているのかなどと、通俗的なことを見たがるものだろうが、釈迦の関心はその一事にある。まずは冥想修行であって、そしてどうやって悟りに導けるかが第一。

 

ジャータカは史実ではないのだろうが、釈迦であったらこうだろうという、気軽な超能力使用を含めた日常の所作がうかがえる一場面である。

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過去世記憶の取扱い

2022-10-19 05:53:36 | 超能力・霊能力neo

◎「過去世と意識の進化」の罠

 

書物には、人間の書いたものと神の書いたものがある。神の書いたものとは、神を知る人間が時代の移り変わりによっても変わることのない言葉を書いたものである。

 

その観点からすると、「過去世と意識の進化/ワグナー・アレグレッティ/Voice社」は、人間の書いた書物であるといえる。

 

『進化上のメリット

 

 

多次元的自己認識

 

わたしたちは、数千年にわたるパズルのピースを集め、組み立てることによって、物質次元を超えた自分の過去の記録を発見し、いつかは、多次元に存在して多数の生を生きてきた自叙伝を書くことができるようになります。

 

それはつまり、いまのわたしたちが数千年にわたるカリキユラムの成果であり、過去の集大成であることを認識することです。

 

はるかな昔から今日まで培われ、確立された自分の条件付けや固定観念、洗脳、侵入による汚れ、道徳からの逸脱、抑圧のパターンなどを認識しなければなりません。 したがって、過去世回帰を抜きにして自己認識のレベルを高めることは、不可能です。

 

意識学によれば、意識の進化の過程において、過去世回帰は避けて通れないものなのです。』

(過去世と意識の進化/ワグナー・アレグレッティ/Voice社P168から引用)

 

過去世記憶を取り扱う前提として最も問題なのが、人は古い時代から順々に過去世を生きてきて、輪廻転生を繰り返し、現世を生きているという転生観である。

 

これは、先の記事『必滅の肉体+不死の霊魂セットは、うそっぽい』で指摘した考え方とは正反対の見方になる。つまり現世はリアル、過去世の人生と未来世の人生はドリームであるが、それぞれは同時に並立して存在しているわけではないようだということ。

 

ワグナー・アレグレッティのように「現世もリアル、過去世もリアル。でもって現世の私は過去世の集大成」と語るとき、もともと現世も過去世も同時並立しないのであれば、集大成なぞありえないことに思い当る。

 

こうしたワグナー・アレグレッティのような過去世観こそ霊能力者特有のもので、誤りに陥りがちな危険な考え方であると思う。霊能力者の世界観では、ほとんどが「自分と大神・ニルヴァーナとは、絶対に一体化することはない別物である」という考え方をまず出ることがないものであるからである。

こういう見方も「霊がかり」と呼んで注意しておくべきものだろうと思う。

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霊言、チャネリングの見極め方

2022-10-19 05:40:29 | 超能力・霊能力neo

◎審神者の資格としての見神

 

霊言、霊告、霊界レポート、チャネリングと言えば、洋ものでいえば、古くはダンテの神曲、スェデンボルグ、最近ではバシャール、あとはヘミシンクによる霊界フォーカス探訪、それと日本ものではX教祖の霊言などいくらでもある。

 

霊言、霊告、霊界レポートは、読んでみると、あまり世間で言わないことも言っているし、未来予言あり、過去の大事件の真相が暴露あり、もの珍しい霊界=無意識世界の風物もあって、それなりに面白かったりする。

 

そうしたものに共通して問われるのは、どの霊界を見ているのかってことである。たとえばヘミシンク霊界ではフォーカス○○なんていかにも霊界が数十とか数百しかないようなイメージを呈示しているけれど、霊界は見る人の分だけあると言ってもよいのではないか。つまり何十億とあるのではないか。またその人の思いが変わる都度霊界の数は増える。

 

天国な霊界あり、地獄な霊界あり、また現実化していく霊界あり、現実化しない霊界あり、現実化するかと見えた霊界も現実化を待つ間に変化を加えることもある。

 

こうして無数の霊界ある中で、わざわざ語られている霊告、霊言が眉唾でない可能性は極めて低いのではないか。

 

眉唾でない可能性を見極めるメソッドは一つであって、審神である。日本は審神先進国であって、神功皇后の時代から審神をやっているが、審神のテクノロジーについてきちんとまとめたのは、出口王仁三郎であった。

 

審神のテクノロジーの核心は、その霊言をどの霊が語っているかを見極めるということである。霊言とは神霊が憑依して語るということであるが、何が憑依しているかを見極めるということが課題となる。

 

見極めるためには、コーザル体以下(一霊四魂)の認識を持ち、天神地祇(本田親徳は、無形にありては、天津神(天神)、有形にありては、国津神(地祇)とする)を区別できなければ、ならないが、そこまでできるのは、最低でも見神以上でなければならないってこと。

要するに審神者は悟っていなければならない。

 

つまり審神のない、霊言、霊告、霊界レポート、チャネリングは、その真偽に疑惑があるのである。

 

一方審神を経た霊言としては、大本神諭、霊界物語があり、カルロス・カスタネダのシリーズでもドン・ファン・マトゥスの語りは正しいと思う。

 

霊言、霊告、チャネリングが、多数集積され、ビッグ・データになるのは良いが、そのほとんどがものの役には立たない代物だろう。

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超能力の落とし穴

2022-10-19 05:33:16 | 超能力・霊能力neo

◎超能力者を中心としたカルト化

超能力の特筆すべき問題点は、超能力者を中心とした集団ができた時に、大きな社会問題となることが多いことである。そういった傾向は、過去むしろ西欧において顕著であった。

 

日本では、仏教における超能力の考え方が抑制的であったことや、神道においては審神(さにわ)と呼ばれる憑依した神霊の貴賤高低を鑑定する技法があったためか,歴史的にあまりそういう例は多くはないが、最近の某カルト教団の例もある。

 

超能力ができることを神の子とか預言者である証拠とし、信者に対し、好き放題に振る舞ったカルト教団の教祖は古来いくらでも事例がある。それほど一般の人は超能力者に弱く、超能力者を全能の者と見たがり、祭り上げる傾向がある。

 

超能力者は祭り上げられることにより、権力の甘さを知るとともに、自分が預言者なぞではないことを知っているが故に、信者に法外の要求を繰り返し、それを実現させることにより、自分の表面的なカリスマ性を維持する手口が多い。

 

実例としては、17世紀のトルコのサバタイ・ゼビから、最近では人民寺院のジェームズ・ジョーンズ(1978年南米ガイアナで900人以上が集団自殺)や、ブランチ・ディビディアンのデビッド・コレシュ(1993年米当局と武力抗戦、死者4、負傷者16)がある。

※コリン・ウイルソンの『カリスマへの階段』に実例が多数挙がっている。

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ヒマラヤ聖者の生活探求

2022-10-18 20:29:25 | 超能力・霊能力neo

◎無私の願望の実現

 

ヒマラヤ聖者の生活探求(霞が関書房)は、最近復刻されたようで、書店で見かけることが増えた。これは、チャネラーであるアリゾナのスポルディング(1953年没)による心霊的な世界観の著作。

 

キリスト教的な心霊観をバックボーンとして、霊界にブッダやクートフーミーやモリヤなど心霊オタクにはよく知られた心霊(大師)の登場する世界観を延々と述べるもの。こうした霊がかりの世界観が好きな方も多いが、そのような高級神霊を頂点とする世界観で本当の「やさしさを超えたやすらぎ」に出会えるというのなら、私はお勧めしないが、それはそれでやむをえないことだと思う。

 

スポルディングは、大師方の平和に満ちた世界観(啓示)に入れば、わざわざ坐禅を組んで三昧に入って大師方と同じ境地を発見し直す必要はないという考え方である。

 

みんなで超能力を開発しようとか、『「私は神である」という真理の内容を完全に悟りきってそう宣言すれば、どんな状態でもたちどころに癒える』と超能力志向だし、ヒマラヤツアーのエピソードでは、大師が思った瞬間に食糧はふんだんに現出するは、豪壮な建物は山中に突然出現するはで、真理を悟って邪悪でなければ、願望実現何でも思いのままという立場である。

 

ところが、私の見る限り、釈迦もイエスも、自分の肉体ですら「思いのままの快適な状態であることを維持し続けたから、それが真理を体現している証拠だ」などということは主張しなかったように思う。イエスが『今、ここが聖なる地である』というのは、身体に傷があったり、持病があったり、金や住居に困っていても、それでも本来人間には何一つ欠けることがない幸福そのものであるという意味だと理解している。

 

何か世俗の願望を叶えることが、人間にとって幸福であり、その幸福を得るためにはヒマラヤの大師たちの唱える真理を信じて、今の自分ではない別の『光輝く別の自分』になろうというのは、私の見方からすると危うい迷路に入りやすいルートであるように思う。

 

大方の人は、毎日の生活の中で思い通りにならない願望があって、その願望が実現しない苦しみというものを抱えているものだ。その願望を叶えようとして、ヒマラヤ大師や街のチャネラーの「神様」や新興・既成宗教の門を叩くこともあるだろう。

 

だからそうした人に、最初から「自分の願望を実現しようとして宗教的なものにアプローチすることは間違いである」などと反論してみせても、だれも聞く耳は持たないのであるが、「それはちょっと違うよ」とささやいておきさえすれば、いつかは気がついてくれることがあるかも知れないと思う。

 

真相はむしろ、願望にもいろいろあって、本当の自分の願望が何かを自分で気がつくためには、冥想などの宗教的トレーニングが必要であって、その結果本当の無私の願望が洗われ出てくる。その無私の願望こそがたちどころに実現する性質の願望である。これを指して大師たちは「想念は実現する」と宣言しているのだと思う。

 

ガラクタの劣情的願望の気ままな実現を保証する大師は、ちょっと違うのではないだろうか。

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