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アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

空海以前の虚空蔵菩薩求聞持法

2022-11-02 18:59:49 | 密教neo

◎法相宗の神叡

 

空海は、唐の仏教弾圧前夜に唐に入り、真言密教のエッセンスは受けるは、経典図画は大量に持ち帰るはで、そのタイミングと質と規模は驚天動地なものであった。

 

空海(774-835)は、虚空蔵菩薩求聞持法を奈良大安寺の高僧・勤操(ごんぞう754-827)に伝えられ成就できたとされる。

 

更に遡って、法相宗の神叡(しんえい。737年没。)という唐僧がいて、病を理由に日本に来朝。大和国吉野山の比蘇山寺(現在の世尊寺)に20年籠り、虚空蔵求聞持法を成就したという話がある。

 

そもそも生死を超えよう、輪廻を解脱しましょうという志で修業している中で、記憶力を増進しましょうなどという世俗がかったモチベーションが成立するはずもなく、虚空蔵求聞持法を記憶力増進のためにやるというのは、一つのキャッチコピーではないかと思う。

 

純粋に一切経を頭の中に収めようとすれば、西洋古来の記憶術でも十分いけるのではないかと思う。大雑把に言えば思春期以前から記憶術を訓練すれば、そういう類のことは可能なのではないかと想像する。

 

無文字の文明では必ず記憶術が発達する。かな漢字以前は日本は無文字だったという説が主流だが、本当にそうであれば、記憶技法がメジャーなものとして伝承されていてしかるべきだが、そうなってはいない。

 

むしろ古い神社に神代文字を見ることが珍しくなく、かな漢字以前は古神道で神代文字を用いていた可能性があるのではないかと思う。

 

記憶には、2種あり、アートマンレベルのひとつながりのものに直接アクセスする方法と個人のカルマ記憶から遡上するやり方。前者が虚空蔵求聞持法であって、それによって発生するトランスから入るのだろうと思う。

 

記憶力強化とは、即身成仏の副産物なのだと思う。

 

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比叡山で仏を見る-2

2022-11-02 18:20:52 | 密教neo

◎好相行とは

 

高川慈照師の好相行の続き。

 

好相行を行うために、浄土院の拝殿脇に広さ十二畳で白幕を四方に張って、正面に釈迦文殊弥勒の三尊掛け軸を懸けた。戸は締め切られ、明かりは蝋燭2本と経本を読むための手燭のみ。幕の内は行者だけしか入れない。

                     

ここで午前零時より、五体投地で、一日に三千仏への礼拝を繰り返す。一仏に一五体投地であるから、あの尺取り虫スタイルを一日に三千繰り返すのであるが、相当な重労働であり、五体投地を三千回するには、相当な筋力と気力が必要となる。10分間繰り返すのですら結構な運動であり、三千回など若くなくてはとてもできるものではない。

 

高川師は、元気な時に一分間に三、四仏の礼拝ができたそうで、これでいくと三千回クリアするには15時間弱かかる。そして三千の礼拝が終了すると、縄床に坐っての仮眠だけが許され、本格的に眠ることはできない。

 

最初は、ふらふらしながら寝込んでしまったり、錯乱状態で白幕内をうろうろしたりして、経本の文字を縦でなく横に読むようなこともあった。

 

こうして声も出ず、気合も入らず、集中力も失せてきた10日目くらいから、背後からフワーっと姿の見えない大男が攻撃してきた。これは10~15日くらい出てきたが、独鈷杵を投げることで退散させた。

 

次は姿の見えない犬が周囲を走り回り、懐の中に飛び込んでずっしりと重くなる。この時は、衣を脱いで衣をバタバタと払うことで、退散させた。

 

犬がいなくなってからは、姿の見えない猫が周囲を走り回り、懐の中に飛び込んでずっしりと重くなる。この時も、衣を脱いで衣をバタバタと払うことで、退散させた。

 

こうして一ヶ月が過ぎた。

 

二ヶ月目からは、身体が軽くなり、集中力も戻り、声も出るようになった。出て来るビジョンも轟音を轟かす瀧が眼前に現れたり、漆黒の天空から様々な原色の花びらが降ってきたり、良いビジョンになってきた。

 

二ヶ月目の終るには、身体の贅肉はとれ、声が透き通るようになった。このころ、良いビジョン(きれいな魔)も出てこなくなった。

 

そしてある日眠気がなくなり、頭もすかっとして雑念もわいて来ず、集中力があり、仏をクリアにイメージできるようになった。この調子なら仏(好相)を見てやろうではないかと毎日毎日期待に胸を膨らませて行にいそしんだが、毎日その期待は裏切られ続けた。

 

こうして三ヶ月目も終りに近づいた時、高川師は、仏は見ようと思って見れるものではないと、仏に出会うことをあきらめ、一年でも行を続ける覚悟をした。

 

そうしたある朝、仏を見ることができたのである。

(出典:行とは何か/藤田庄市/新潮選書)

 

人は若くなくとも死ぬが、これは、若くないとできない行である。マントラ・ヨーガも似たところがあるのではないか。

 

肉体を運動と発声で2カ月かけて調整していって、その過程の中で想念も整理されていって、クリアなビジョンが出るようになって、仏を見たいという雑念さえ捨てたところで初めて向こう側からの観世音菩薩が出現した。

このビジョンは、プラトンでいえばイデア界所属の時間のない世界のもの、本物なのだと思う。

 

これは、比叡山流の好相行がどのように本物のビジョンに到達するかが明快に察せられる事例であった。

 

それにしてもこうした修行環境は恵まれたものであり、万人が日常生活の中でできる修行ではないと思う。あの生活がシンプルなチベットにおいてすら、観想法修行者は何ヶ月も人里離れた山の洞窟に食料を持ち込んで修行しないと、こうまでビジョンが研ぎ澄まされはしない。いわんやこの情報操作天国・洗脳ラッシュの近代国家日本においてをや。

 

この後、高川師は先代侍真の堀沢師に出た時のことをこまごまと聞かれ、堀沢師が好相と認めたので好相行は打切りとなった。

 

高川師のビジョンには観世音菩薩が大勢登場したが、合掌した観世音菩薩一体の場合などいろいろな出方があるらしいとは、偽ビジョンを語る者を排除するには必要なことと思う。何を見たかではなく、本物のビジョンだったかどうかがクリティカルなのである。

 

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比叡山で仏を見る-1

2022-11-02 18:19:59 | 密教neo

◎高川慈照師の好相行

 

よく仏の32相好と言うが、32相あることは、本物の仏に出会わなければチェックできないのである。

 

比叡山には、侍真制度というのがある。最澄の廟が浄土院であるが、ここを守る僧が侍真である。侍真には12年の籠山が義務づけられており、この間浄土院から出ることはない。

侍真になるには、仏を見なければならない。仏を見るまで礼拝を繰り返す修行を好相行という(好相必見)。

 

高川慈照師は好相行をクリアして、ほんまもんの仏を見た。そこで元禄時代に侍真制度ができてから114人目の侍真となった。これら侍真のうち2割強が籠山中に亡くなっている。仏に出会ったから、とりあえず良しとしたのだろうか。

 

 

好相行3カ月目のある朝、堂内は真っ暗である。

 

『床に投地した額に直感がひらめいた。

 

「仏さんが出ている」

 

頭を上げる。

白幕の向こうに、金色に輝き宝冠をつけた観世音菩薩がズラーッと三列に並んでいた。三十三間堂の観音群をイメージすればよいのであろうか。丸顔のやさしい表情の美しい観音様であった。皆、同じ顔つきをしている。白幕に浮き出るようで、距離感があった。目を左方に移す。そちらも観世音菩薩が並んでいた。次いで右方こちらも同様であった。

 

「魂が引き抜かれたようであった」

 

じーっと見ているのみであった。心が騒ぐこともなく、感激する余地もない。「出てる!」ただ引きつけられ、魅せられていた。実際は数十秒であったろうが、高川師の実感では二~三分の間であるという。

 

「なーむ」

再び礼拝をし、頭を起こすと仏の姿は消えていた。礼拝は続行した。』

(行とは何か/藤田庄市/新潮選書から引用)

 

見ただけなら、菩薩である。まだ先がある。これはいわゆる向こうから来たビジョンなのだと思うが、仏と観世音菩薩は違うのではないか。観世音菩薩は高級神霊の一つのように思う。

 

それと、例えばの話ではあるが、時々観世音菩薩が来ていたのに気がつかなかったが、この時は気がついたというようなことはあるのではないか、と思う。

 

  

それでは、仏に出会える好相行とはどんなものだろうか。

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観想法専用ルーム サムデ・プク

2022-10-28 12:20:03 | 密教neo

◎タシルンボ寺郊外の洞窟修行

 

20世紀初め、スェーデン人スヴェン・ヘディンは、チベットのシガツェのタシルンボ寺に逗留した。タシルンボ寺は、巨刹ではあるが、中共成立時以降さんざんに破壊された。

 

ヘディンは、タシルンボ寺の郊外のサムデ・プクという絶壁の麓に作られた冥想用石小屋を見た。洞窟には戸も窓もなく、石で封じられている。

 

この洞窟の奥には泉が沸いており、一条の狭い溝が壁の下の地面に沿って通じていた。これは上下水完備し、環境的に恵まれている。この溝を通してツァンパとバターの食事が差し入れられる。6日連続で食事を受け取らないときは、死んだものとして洞窟の入り口が開けられる。

 

中には一人のチベット密教僧が修行していて、既に3年になるという。通例山の封鎖された洞窟での観想修行は数か月なのだと思うが、3年は長い。この洞窟の主は死ぬまでここに居ることを誓ったという。

3年前にこの洞窟で死んだ先住僧は12年ここで生きたという。

 

食事の差し入れが毎日あるだろうから、ヘディンが気にするように真っ暗闇だけの生活ではないと思う。

 

ただ社会性を一切断ち、一生洞窟で修行することを選んだ僧の覚悟には凄みを感じる。キリスト教でも一室から一生出ない修行もあった。補陀落渡海はこれに似ているが、数日で勝負がつくところは厳しい。

 

20世紀の感覚遮断実験の環境は似たような環境だが、ギブアップ・ボタンを押せば出れる。

 

さはさりながら、観想修行を邪魔されない環境は得難いものである。

(参考:チベット遠征/スヴェン・ヘディン/中公文庫p368-375)

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定と三昧の違いと冥想十字マップ

2022-10-27 18:50:20 | 密教neo

◎昼と夜のサイクル根本テキスト

 

これは、チベット密教ゾクチェンのテキスト「昼と夜のサイクル根本テキスト」の一部。

『13 修行を確立するにあたっては、融合、放松、進歩という

三つの秘訣によって道を進む、

(最初の)融合のための方法は、快適な座にゆったりすわりリラックスして、前方の空間に心を向け、一体になることだ。

 

14 気を散らすこともなく、何かを対象にして瞑想するのでもないような境地にとどまる。

認識は、まるで大空のように、愛着や執着から離れている。

本来の境地は、光明であり、明知であり、驚愕の瞬間のごとく静寂と運動の区別をこえている。

不二なる明知が、赤裸々に生じる。

 

15 禅定においては、朦朧とした状態(昏沈)や興奮(放逸)におちいることなく、

透明にして明晰、深遠な本来の境地にとどまる。

この本来の境地にあって、思考を呼び出し、投げ捨て、反復し、増幅させても、

不動の(境地の)まま、みずからの土台にとどまることによって、自然に解脱する。』

(チベット密教の瞑想法/ナムカイ・ノルブ/法蔵館P57-58から引用)

 

最終の15で解脱しているからには、その『禅定』は自分が残っている状態ではない。この本では、三昧に入るとか出るとか、自分が三昧に入ったり出たりするように書いているのだが、そもそも『定』と『三昧』は別物であり、『定』には、入る自分、出る自分がある。一方、『三昧』には既に自分はないのだから入る自分出る自分もない。

 

ヨーガでは、定と三昧は截然として区別されている。13はいわゆるファッション冥想であって、のんびりしているが、15ではのっぴきならない『三昧』に至っている。

 

ダンテス・ダイジの冥想十字マップの横軸は、有想定、無想定、愛、有相三昧、無相三昧の5段階に分けられ、無相三昧とはニルヴァーナのこと。これを念頭にこうしたテキストを読むべきであり、並列的に13-15があると考えると紛れるように思う。

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フィリポによる福音書の復活

2022-10-22 12:52:20 | 密教neo

◎永遠のアイオーンへと昇る

 

以下は、グノーシスの文書であるが、濃厚にエジプトの密教的思想を受け継いでおり、悟りを自我の死と復活として、いわば自明のものとして位置付けており、生前での冥想修行による死からの甦りを推奨している。

 

『断章72 フィリポによる福音書 §63a(第二巻81頁)

 

われわれがこの世の中にいる限り、われわれにとって益となるのは、われわれ自らに復活を生み出すことである。それはわれわれが肉を脱ぎ去るときに、安息の中に見出されることとなり、中間(=死)の中をさまようことにならないためである。

 

断章73 フィリポによる福音書 §90a(第二巻94頁)

「人はまず死に、それから甦るであろう」と言う者たちは間違っている。もし、初めに、生きている間に復活を受けなければ、死んだときに何も受けないだろう。

 

断章74 復活に関する数え§14-16(第三巻301-302頁)

それだから、わが子レギノスよ、復活に関して決して疑うことがないように、もしあなたがかつて肉を備えて先在していたのではないとすれば、あなたはこの世界に到来したときに肉を受け取ったのである。

 

とすれば、どうしてあなたはあの永遠のアイオーンへと昇ってゆくときにも、肉を受け取らないであろうか。肉よりも優れたものが、肉にとっての生命の原因となっているのである。

 

あなたのために生じたものはあなたのものではないのか。あなたのものであるものは、現にあなたとともに在るのではないのか。

 

(以下略)』

(グノーシスの神話/大貫隆/岩波書店P162から引用)

 

アイオーンとは万物を指すとすれば、アイオーンに昇っていくとは、アートマンとの合一を指し、密教において典型的な「体験とはいえない体験」のことを指し、

正統的教説であると思う。

 

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