goo blog サービス終了のお知らせ 

アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

神殺しの日本-梅原猛の見方

2022-11-11 06:17:29 | マインド・コントロールneo

◎冥想がなければ始まらない

 

梅原猛によれば、近代日本には、二回の神殺しがあったという。一回目は、明治維新の時の廃仏毀釈である。廃仏毀釈は仏を否定し、神をほぼ天皇とアマテラスオオミカミなどの天皇のご祖先に限ったが、現人神であった天皇も戦後人間となり、神であることをやめ、共産主義国を除けば(共産主義国では大体宗教は阿片であるとして禁止)、日本には、仏も神もいない、世にも珍しい国となった。

 

二度目は、修験道の禁止である。廃仏毀釈とほぼ同時に、修験道が禁止されことにより、日本各地の土着の神々と仏教を融和させてきた修験者が大量に失職することで、神仏習合を体現した宗教者を失った。

 

この結果神道しか残らなかったが、残った神道を天皇中心に再編成した。

 

このように神も仏をも失った国は、無宗教、無道徳の戦後を歩んだというのが、梅原猛の主張である。

 

歴史的な経緯はあるものの、政治などの社会的な権威からの押しつけの信仰がなくなったのは、日本にとっては、真の意味で自由な信仰の芽生える素地があると前向きに考えることもできる。つまりもっけの幸いというべきものなのである。

 

そのホワイト・キャンバスに、本当に納得できるものを描くのは、おそらく既存の組織宗教ではなく、そうした権威から離れた、ひとりひとりの冥想習慣の中から自然に出てくるところのものしかないだろう。

 

ところが、日本社会には全然冥想の習慣などないので、何も出てきていない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ネット・ポルノ中毒or依存症

2022-11-11 06:15:08 | マインド・コントロールneo

◎ポルノを繰り返し見て深みにはまる

 

スマホでどんどんポルノ画像、ポルノ動画が見られるようになった。他人に見られる場所では見ていないのだろうが、日本人をダメにする依存症として、ネット・ポルノ中毒or依存症は無視できない比重があるものと考えられる。

 

ネット・ポルノを毎日見続けることによって、脳の快楽中枢が繰り返し刺激されることにより、脳内のニューロンがネット・ポルノを見ると興奮するというニューロン結合を固定化する。固定化した回路(マップ)はますます使用しようとする傾向があり、これによって、見ないことで禁断症状が起きるまでに脳内のドーパミン回路が変化してしまうのだ。

 

ネット・ポルノの悪影響は、自慰はできるが実際の女性とセックスできなくなるとか、ネットポルノに登場する女性像が実際の生身の女性像と同じと誤解することによる男女関係の不和とか痴漢や淫行等の性犯罪の誘発まで様々なものが考えられる。

 

ネット動画やネット画像のかなりの部分がポルノだとも言われており、また電車内スマホでも、モバゲーも問題だが、こっそり見ているポルノも大いに問題なのである

 

『中毒と可塑性の切っても切れない関係

 

ネットポルノ中毒というが、それは比喩ではない。中毒症状がでるのは、薬物やアルコールだけではないのだ。ギャンブル中毒もあるし、ランニング中毒さえある。中毒とは、その行為をコントロールできなくなることだ。悪い結果になるとわかっていても、駆りたてられるように求めてしまう。そして耐性ができるので、さらなる刺激を求めて満足を得ようとする。ついには、その行為ができないと、禁断症状がでるのだ。

 

長期(ときには一生)にわたる脳の可塑的変化によって生じる中毒を治療するには、節制などとんでもない話だ。その物質や行為とは、きっぱりと手を切らなければならない。アルコール中毒者更生会は、「元アルコール中毒者」など存在しないと言う。実際、もう何十年も一滴も酒を飲んでいない人にも、こんなふうに自己紹介させるのである。「ジョンといいます。アルコール中毒者です」。脳の可塑性という観点からすると、これが適切な言い方であることも多い。

 

(中略)

 

マーゼニツクの研究で見てきたように、ドーパミンは可塑性にも関係している。喜びのもとになるドーパミンだが、同時に、目標を達成するための行動をするニューロンの結合を固定化するのだ。 マーゼニックは、動物に音を聞かせながら、電極を使ってドーパミンの報酬システムを刺激した。するとドーパミンの放出によって脳に可塑的変化が起こり、その動物の聴覚マップにおいて、その音の部分が大きくなったのだ。ポルノとの関係で注目しておかなければならないのは、ドーパミンは、性的な興奮によっても放出されるということだ。男と女、両方のセックスに対する要求を高めて、オーガズムを得やすくする。そして脳の快楽中枢を活発にする。ポルノが人を夢中にさせるわけである。』

(脳は奇跡を起こす/ノーマン・ドイジ/講談社インターナショナルp132~133から引用)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無明と洗脳

2022-11-11 06:12:02 | マインド・コントロールneo

◎君は最高我であって、輪廻しない

 

現代の洗脳とは、無明(迷い、マーヤ)である方が現実だと考えていることである。

 

シャンカラから。

『四九 弟子は

「その無明とは何でしょうか。その対象とは何なのでしょうか。また明智によって自分の本性に立ち帰るわけですが、その明智とは何なのでしょうか」と尋ねた。

 

五〇 師は答えた。

「君は最高我であって、輪廻しない。それにもかかわらず『私は輪廻しています』と言って、

正反対に理解している。

 

また行為主体でないにもかかわらず『〔私は〕行為の主体である』、

 

経験の主体でないにもかかわらず『〔私は〕経験の主体である』、

 

〔永遠に〕存在するにもかかわらず、『〔私は永遠には〕存在しないと』と、〔正反対に考えている〕。

―――これが無明なのです。」』

(ウパデーシャ・サーハスリー 真実の自己の探求 [岩波文庫] シャンカラ/著 岩波書店P231から引用)

 

この『師』は、アートマン(最高我)=本尊=本守護神がここでいう私であり、行為主体であるという立場である。その立場を体感するには、ニルヴァーナという実証体験が必要となる。それはもはや体験とはいえない体験なのだが、そのことについて哲学的思弁を凝らしても今一つ勘所に届かないのではないだろうか。

 

マスコミもtwitterもfacebookもブログも大半が、無明の闇を拡散しているだけだが、そういう暗い海に沈没しないためには、自分を見つめる作業から入らないと。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あらゆる手段で精神を揺るがせる生活環境

2022-11-11 06:09:00 | マインド・コントロールneo

◎現代の洗脳の全容

我々は自分では、正気だと思って生きている。そうした中で洗脳とはこんな風に見えてくる。

 

洗脳をインプットしてくるものは以下である。

1.食物

食欲をそそる3要素とは塩、糖、脂だと広汎に知られるようになって久しい。この3種を入れるとバカ売れするからだ。

安くてうまいとは、塩、糖、脂が入って安いと、ほとんど同じ意味。口福の天国は身近にあった。

その代表格は、夏ならアイスクリームであり、通年であれば、スイーツ。

またステーキ、魚食にデザートは、食欲を充足させるという点では満点である。

感覚刺激に際限はない。その点で人間の真の幸福の方向性を大いに誤解させ得るものである。

 

2.飲料

精神を変容させる飲料の代表はアルコール。

コカ・コーラの初期には、本当にコカが入っていたらしい。

 

これらは現実と向き合わないで、特定の自分の精神を拡大あるいは狭窄して見せるもので、人間の真の幸福とは関係のないものではある。

 

日本では、アヘン、大麻など向精神性薬物の規制が厳しいが、欧米ではレイブなど野外でのドラッグパーティがあるなど緩い。オランダみたいに妙に緩い国もあれば、アメリカのようにほぼ建国以来ドラッグが文化の一部だった国もある。

 

3.嗜好品

日本では、タバコ、コーヒー、茶が代表格。いずれも意識をちょっと覚ますのに好適である。

連続的に意識を覚まし続けないと現代社会では勝者となりえないから、いわば合法ドラッグとしてタバコ、コーヒー、茶がたしなまれる。

これで効かなくなるとカフェイン剤とか、レッド〇〇とかリポ〇〇とかまで行ってしまう。

この社会に適応するために必要な悲しい嗜好品だが、これなしでは大半の人がやっていけない。

 

4.音楽

1960年代のビートルズの頃から彼らは薬でラリッて作曲しているんだと言われていたが、後年そうであったことが露見し、日本の音楽シーンもそういう状況証拠が仄聞されるようになっている。

 

また最近は、電車内でモバゲーをやっていない人は耳にイアホン・ヘッドホンがつけられている。

BGMという言葉があるが、音楽にはなにがしか「いやな気分を深刻化させない」という効果はある。そうしたものが何もなければ、通例倦怠や退屈という形で余剰心的エネルギーが顕在化するのだが、音楽はそれを緩和する。

そのように、スマホ・携帯での音楽は十分に洗脳効果を果たしている。

 

5.映像

代表格はテレビであったが、映画の洗脳機能は、見終わったあと数分間は映画世界に入ったままだから言うまでもない。

最近はyoutube動画も加わり、視聴覚で人を別世界にいざなう。

 

6.イデオロギー・ドグマ

ソ連・中国など赤い国家では、その共産思想を国民全体に対して洗脳することが国是であったので、非常に政治イデオロギー洗脳の方法が発達した。それを研究したリフトンの著作は、第二次世界大戦終了後まもない時期のことであったが、その後彼がオウムについても研究を発表しており、世界の終末の強要と暴力的な救済がその動機であったことは、赤い洗脳と似た路線であるように思う。

宗教も政治も「世界の終末の強要と暴力的な救済」を応用すれば、小はカルトとなり大は地上の地獄が現出する。

 

7.マスコミ

「現代文明は、マスコミをとってしまえば何もない」というのは、人々の意識の中身の9割以上が、教育、宣伝、マスコミからのニュースで流されたものの蓄積でできあがっているという意味。

これを広義のマスコミによる洗脳でないとしたら、何と名づけるべきだろうか。

逆に個々人の本当のオリジナリティなど何処にあるというのだろうか。

 

8.スマホ/携帯

意識の隙間埋めマシーン。

熟達した瞑想家の目には、一見連続しているかのように見える意識の流れに隙間が見える。

その隙間は、死の世界。

 

スマホ/携帯はパケット通信で、パケットとパケットの間には必ず隙間がある。意識と意識の隙間もそれと同じ。禅ではどういうきっかけで悟りが起こったかを非常に熱心に記録している(禅関策進など)。それは隙間のひょっとした瞬間に起こっている。

スマホ/携帯は、その瞬間への気づきを失わせ、人間進化の可能性をノーチャンスにしている。

 

このように自分は何も悪いことはしていないと自覚している大多数のおじさん、おばさん、青年、少年少女、老人が、あらゆる手段、それも日常的な手段でもって、覚醒している一日18時間程度はのべつまくなしに、外的刺激でもって受動的に精神を揺るがされる脅威に晒されている。

 

オレたちはいつから本来の自主性、能動性、自発性を失ったのだろうか。それを何者かに奪われたのだと気づく間もないうちに。

 

古代ローマの大衆はパンと見せ物を要求したとことを、我々は嗤うが、確たる人生の目的についての自覚がなければ、このような目まぐるしく変わる目先の欲求を充足することばかり繰り返す「動物」に成り下がり、それではもはや人間である意味を喪失する。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マインド・コントロールのない宗教

2022-11-11 06:04:20 | マインド・コントロールneo

◎それを払しょくするか、相手にしない行法

 

天国は良く、地獄は悪いというマインド・コントロール。この教団は、教祖も教義も正しく、聖なるものであるというマインド・コントロール。

 

考える時間を与えず、次々に繰り出されるイメージと音楽・効果音と情報。これを人間に四六時中投入することでポジティブな気分やポジティブな世界観を何年かは維持することができるかもしれない。こうしたスマホを眠る時以外は手離さないライフ・スタイルはほとんど完成の域に達した。スマホ・ホリック、ゲーム・ホリック。

 

組織宗教である以上は、どうしても組織、教団の維持のために、他の教団は誤っていて、わが教団は正しいとやるものだが、これもマインド・コントロール。

 

その教団では、ある修行をやれば、どんな信者も同じように同じステージをだんだん上がって行って、最後は同じ悟りに至るという、修行内容と結果が連動するという誤解。

 

人間の本当の幸福はそういうレベルにあるものだろうか。

 

いずれも記憶と想念の改変、注意力を内側に向けさせないことが狙いであって、そのマインド・コントロールで最大のメリットを受ける者は、教祖だったり、教団だったり、ゲーム会社だったり、スマホ会社だったり、政府だったり、企業だったり、外国政府だったり、政党だったり・・・・であって、本人はマインド・コントロールされている限り、真理にはたどり着けない。

 

人間は、メディア・マスコミ経由、教育経由、家庭経由などそれまで生きてきた環境に応じて、あらゆる洗脳を経てきたので、その頭の中は外部からインプットされた情報とそれをもとに頭の中で組み立てられた派生的な情報で満タンになっている。

 

人間はニルヴァーナにコンタクトすれば、見神、見仏、見性するなどというのも、いわば洗脳情報である。論証の手段がなく、証拠がないから。

 

釈迦といふいたずらものが世にいでて

おほくの人をまよはするかな(一休)

 

そうしたバイアスを一枚一枚玉ねぎの皮をむいていくタイプの修行法がクンダリーニ・ヨーガ。

 

一方一足飛びに真理そのものニルヴァーナそのものに飛び込もうとするのが只管打坐。

 

どちらにしても、まともな冥想というのは、

マインド・コントロールを払しょくするか、相手にしない行法なのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする