女房が今日、12時36分佐久平駅発の高速バスで帰った。
大型連休で、軽井沢からの高速バスのチケットが取れなかったので、佐久平にしたという。
帰る前に小諸のあぐりの湯に行こうと決めた。
先日(9/9)行ったときにあぐりの湯は営業をしていなくて悔しい思いをした。
軽井沢の家を9時半に出て、あぐりの湯には10時10分に着いた。
10時営業開始なのでまだそれほど客は来ていなかった。
この温泉は、外の風呂(露天風呂ではない。屋根がある)から浅間の山々が眺められる。
これが素晴らしい。
温泉に浸かってこれほどの広大な景色が見られるところはもう一つ、ほったらかしの湯しか知らない。
山梨のほったらかしの湯は、富士山が見える。
あそこが私としては一番だと思う。
でも、あぐりの湯もなかなかなもんです。
温泉から出て私たちは佐久に急ぐ。
佐久平駅の駐車場に車を停めようと、駐車場の入り口に近づくと前に1台車が停まっていた。
女性が私たちの車に来て、
「すみません。駐車場に停めようと思ったのですが発券機が動かないのでバックしたいのです」
という。
「まだ2・3台停められますよね」
「そうなんですけど、発券機がだめなんです」
私は、駐車場に車を停めることを諦めた。
こういうことも覚悟していた。
女房を道路脇に降ろして、「気をつけて帰ってな」といって、私は軽井沢に車を向けた。
女房とは、私が13日に埼玉の家に行ってからずーっと一緒だった。
埼玉に私がいるときは女房が会社に行っている。
日光に行ったときは女房は会社を休んだ。
20日に軽井沢に来てからは私が仕事に行っていた。
2人が一日一緒にいることは少ない。
でも、場所は違っても同じ屋根の下にいたことは長かった。
一緒にいると何かと口うるさい女房だが、離れることはちょっとさびしい。
でもしかたないですね。
私と女房の職場が離れたところにあるからしょうがない。
ま、離れて暮らすことも夫婦にとっていいことかも知れない。
10日間、女房の作った料理を食べていた私は、今夜、久しぶりに自分で食事の準備をした。
(日光に行った夜は、旅館の食事でした)
今日女房と、軽井沢プリンスショッピングプラザに行ってきた。
私のスニーカーに穴が開き、まともなのがなくなったので買いに行ってみた。
私は20日の早朝、埼玉から軽井沢に女房と一緒に来ました。
私はその日の午後から勤務で、女房はシルバーウィークとやらで連休に入った。
明日、彼女は埼玉に帰ります。
今日は快晴でしたね。
あっ、今日は孫娘の誕生日でした。
女房が、嫁のケータイに孫の誕生日を祝うメールを送った。
10月3日に孫の新体操の発表会があるが、残念ながら、私は仕事があり行けない。
私は孫とは正月以来会ってない。
会いたいです。
話がそれました。
軽井沢アウトレットができて今年は20周年だそうです。
今日久しぶりにアウトレットに行ったが、新しく増えたところがあり一段と広くなった。
私はなんとか、半額で2900円のリーボックのスニーカーを買いました。
すごい車と人の数でした。
大型連休などに行くところではありませんね。
私が施設のカウンターのところにいたとき、首を傾けて私に近寄ってくる人がいた。
タケダくんだった。
女性が後ろについていた。
家族のひとです。
その女性がいう。
「近くまで来たら、ここへ行きたい、というので連れてきました」
タケダくんが右手を差し出したので私はやさしくつかんで握手した。
それをタケダくんが離さない。
去年の9月まで昼休みに私と野球をしていたダウン症のタケダくんです。
私は、私に会いに来てくれたのかと思うと胸が熱くなった。
私が話しかけてもTくんは無表情で黙っているだけです。
ただずーっと握手をしていた。
そして、タケダくんと家族のひとは帰っていった。
「土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界」の9月19日の「話の特集」のゲストは松島トモ子だった。
栃木の女子刑務所に行ってきたことを話してくれた。
前回行ったときの職員は誰もいなかったそうだ。
刑務所は2年ごとに移動があるらしい。
所長さんも代わっていて、松島トモ子が取材の目的を一から話さなくてはならず大変だったそうだ。
しかし、その所長は土曜ワイドラジオTOKYOを聴いているので説明が簡単ですんだようだ。
その所長が松島に質問した。
「女子刑務所に入って一番大変なことはなんだと思います?」
松島はいろいろ考えたが、わからなかった。
「人間関係」と所長はいったそうです。
それを聞いて松島は納得した。
そこの女子刑務所は、ひと部屋に6人が定員だが、現在受刑者が多くて8人入っているそうです。
気が合わない人がいたり、いじめる人がいたり、毎日同じ部屋で8人が暮らすのは大変だと思う。
昔、独房というのは刑務所内で悪いことをした受刑者を入れるのだが、今は喜んで入るので意味がないという。
「私なんかそんなところでは生活できないから、犯罪者にならないようにしよう」
と松島はあらためて思ったそうです。
九想もまったく同感です。
あるテレビ番組で、
「ドラキュラの苦手なものはなんでしょう?」というクイズが出された。
「ヒントは“に”から始まる言葉です」
その問いに子どもが答えた。
「人間関係!!」
そうか、ドラキュラの苦手なものは“に”のつく食べ物ものではなく、
人間関係だったのか…、としみじみ納得してしまった。
人間関係の苦手なドラキュラに親近感を持ちました。
正解は「人間関係」ではありませんけどね…。
ちあきなおみ 別れの一本杉
昨日の朝、ホテルを出て「日本のこころのうたミュージアム・船村徹記念館」に行った。
一番上の姉がぜひ行きたいと兄にいっていたようです。
私も船村徹の曲は好きなので行ってみたいと思った。
船村徹記念館は今年の4月27日に開館したばかりです。
そこに着いた午前10時から、1階の夢劇場で船村徹の3Dグラフィックが始まった。
これはなかなかよく出来ていた。
しかし、私としては歌っているそれぞれの歌手がアニメーションだったのが残念だった。
2階に行くと、
「お出迎え、5大歌手」
おなじみの五大歌手と作曲家船村徹のエピソード&メッセージシアター。
「歌の万華鏡」
大ヒット曲にまつわるエピソードから作品すべてを5面マルチの映像で万華鏡のようにご紹介。
というのがあった。
「思い出のあの歌この歌」
あの日あの時の歌、よみがえる「思い出」レコードジャケット600余枚で綴る青春グラフィティ。
も興味深かった。
そこのレコードジャケットに書いてある曲名のほとんどを私は知らなかった。
聞いたことのない歌手の名前もあった。
(これだけ数多く作曲をしなければ、名曲は生まれないんだ)としみじみ思った。
「別れの一本杉」は、船村徹が23才の時の作品。作詞した高野公男は2才年上の25才だった。
船村にとって高野との出会いは彼の人生にとってありがたいものだったようだ。
高野は「別れの一本杉」大ヒットの翌年、昭和31年9月8日に26才の若さで亡くなる。
船村は24才だった。
高野は、「おれは茨城弁で詞を書くから、おまえは栃木弁で曲を作れ」と船村にいったそうだ。
9月16・17日(水・木)、きょうだい(5人)+女房と日光に行ってきました。
昨日は、なんとか雨の降らない一日だった。
今日は、朝から本降りでした。
楽しい旅行をしてきました。
きょうだい5人でこの歳まで旅行ができたことがうれしいです。
9月に入りヘブンリーブルーが沢山咲いている。
これだけ咲いているとうれしいですね。
ピーマン、ナス、ゴーヤもまだ実をつけている。
(ピーマンの写真はわかりずらいので載せませんでした)
ミョウガも元気に育っているようです。
コニファ(ゴールドクレスト)もこんなに大きくなりました。
庭の植物の成長に心を癒やされています。