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WIND AND SOUND

日々雑感 季節の風と音… by TAKAMI

栗ご飯

2009-10-04 | よしなしごと



今朝、栗ご飯を炊いた。
一昨日、kyokoちゃんが、突然持ってきてくれたんだ。
わざわざ、一部は丁寧に剥いてもってきてくれた。
なんて親切なのだ~~~!!

昨日、今日と、出勤なので、Takに、朝ご飯と、お昼を用意して出かける。
今朝は、ご飯が炊けるのが間に合わなかったので、炊けたら勝手に食べるようにいって、残りご飯で炒飯だけ作って行った。

2時過ぎの10分休憩
TakにTEL

「あ、おかあさん」
「なにしてるの」
「今、ご飯たべてる」
「え~っ! 今ごろ?? 教会は行ってきたの? うどんは食べなかったの?」
「教会もいった。うどんも食べたよ」
 教会では、礼拝のあとうどんが供される
「栗ご飯は?」
「朝たべた。おいしかったよ」
「栗だけ食べて、ご飯だけ残ってるんじゃねーだろうな!」
 コレがTELの目的なんぢゃ~~!!
「栗も残ってるよ」
「ちゃんとかき混ぜたの?」
「かき混ぜてないけど、ごはんと栗をバランスよくついで食べた」

 ホッ…

「じゃあね、3時半に帰るから」
「うん、早く帰ってきてね。なんか買って帰ってー」
「ダメよ、お金がないんだから」
「うん、わかった、じゃあね」

kyokoちゃんが剥いて持ってきてくれた栗の「栗ご飯」とっても美味しかった。
それにしても、ホント、栗にありつけてよかった~~
栗の香りのついたゴハンだけしか残ってないのではと、マジで心配だったもんね
Comments (6)
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チャペル・コンサート

2009-10-04 | 親子 ART LIFE




今日は、Takがお世話になっている教会のチャペルコンサートに、親子でいってきました。
蜷川いづみさんというバイオリニストの方のソロで、久々にクラシックのコンサートを聴きました。

素晴しかった。スゴかった。

チャペルといっても、コミセンのようなところで、ホール的残響など一切なく、バイオリンから出る生音のみ。
これほど演奏者そのものをさらけ出すというのは、ある意味、残酷でもあるかもしれない。
でも、聴き手としては、それが、ものすごく良かったのでした。

バイオリンは、弓で弦を擦って音を出す楽器…って当たり前だけど、
声楽ととても似ている。音の作り方が。

弓で音を奏でてから切るまで。
その全てに責任をもって、精魂込めなくてはいけないのです。
音はリアル。如実。

私は、ものすごく感動したのですが、すべて語るにはあまりにも長くなりまくりそうなので、ひとつだけ。

「音を切る」こと。

自分が創った音を、奏で終えて、静寂へと受け渡す瞬間。
曲の終わりはもちろんだけど、曲のなかには、音符と休符があるワケで、
その「切れ目」をどうするか。どうやって音を始めて、どうやって終わるか。
まるで命のようだ。

音楽は緊張と弛緩の連続で、音が生きているのがものすごく伝わってくる。

ピアノの音を聴いているときは、きらきらした星のように、泡のように、飛沫のように音が押し寄せたり輝いたりしているのに対して、バイオリンの音は、風だったり、波だったり、渦だったり…

音楽は生き物だ。ホントに生きて迫ってくるなあ…
私も音楽に携わっていてよかったなあ…
そんなことを思いながら、感動しながら聴きました。


Takもずっと目を輝かせて、蜷川さんの姿を見ていました。
時には一緒に体を動かしたり。
終わったとき、「ものすごく良かった、感動した」と言ってました。
子供と一緒に感動できるって、嬉しいもんだなあ。

「よし、こんど、バイオリンのCD買おう。一緒に聴こうね。」






クリスチャンの蜷川さんは、ご自分がその道を歩まれるようになった経緯を、コンサートの途中で話されました。
そして、それから聖歌を何曲か続けて演奏されました。
私には、どんな意味の歌なのかはわかりませんでしたが、彼女の神さまへの限りない感謝や、敬虔な気持ちが音になって溢れ出しているのが伝わってきました。

音楽って、ほんとうに生きて、創り手から、演奏者へ、そして、聴き手へと伝わっていくもんだ。

幸せな宵でありました。
外に出たら、中秋の名月が煌々とわたしたちの故郷を照らしていました。
第一発見者?はTakでした(*^_^*)


冒頭の画像は、さぬきブログのおともだち、「まっき~」さんよりお借りしました♪


Comments (5)
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