その蜩の塒

徒然なるままに日暮し、されど物欲は捨てられず、そのホコタテと闘う遊行日記。ある意味めんどくさいブログ。

羽州街道ウォーク(2)

2009年04月24日 | ウォーキング

 出発地点は鷹巣駅でした。大太鼓のモニュメントのある駅前広場で、いつものように入念なストレッチをしてからのウォーキングとなりました。もっとも私は「いとく駐車場」に車をおいてきたため、ウォーミングアップは済んでおりましたが。。


 農林水産省の施策なんですが、地区の農地・水・環境保全向上活動支援事業に携(たずさ)わっている者としましては、農業用水を取り込む給水栓には非常に興味があります。機能的には同じでも、形状は地域によって違いがあります。

※ここで知ったかぶりですが、施策について一言。読みは「しさく」ですが、特に行政では「せさく」と言います。これは「試作」と区別するためだとか。因みにPCでは「せさく」では変換できません。同様に施行(しこう)も慣用的には「せこう」と読まれています。これも「執行」「試行」なんかと区別するためだそうです。でしたら、そのように読みを変えたらよいのではと思うんですが。。

 それと行政のだらだらと長い漢字の羅列みたいなのも、なんとかならないものかといつも思います(苦笑)



 ウォーキングは、「大太鼓の館」裏の池を通って「道の駅たかのす」で小休憩でした。羽州街道は、このR7号線を横切って鷹巣職業訓練校の裏手にあります。起点は福島で山形、秋田を通り終点は青森になります。


 この綴子一里塚には、ここを通った著名人として参勤交代での歴代津軽藩主を始め、古川古松軒、高山彦九郎、伊能忠敬、菅江真澄、吉田松陰、榎本武暢が記されていました。かの有名なイギリス人旅行家イザベラ・バードも通っていて、大洪水に遭遇して今の北秋田市で足止めをくらったそうです。その時に人々の親切さに触れ、貧しくとも家族が団結していることや、作業着に工夫が施されていることを旅行記に残している、と同行者が語ってくれました。


 こういう手つかずの道を見ると、つい昔を空想してしまいます。街道とともに北前船や川舟が活躍していたころです。二ツ井の荷揚場とか阿仁にも俗称ですが船場(船付き場)という地名もあります。北前船の物資が川舟で川上に運ばれ、戻りは阿仁銅山始め、三枚、露熊などの鉱山からの採石を積載したものと思われます。あくまでも、私の勝手な想像ですけれども。。


 徳左衛門茶屋跡には何も残ってませんでした。右上;「太平山」はあの有名な山のことではありません。


 グーグルの地図には、今のR7があたかも羽州街道であるかのように表示されていますが、実際はところどころR7も通るものの、左へ行ったり右へ行ったりと裏道を通ってる方が多いんです。写真のようにちゃんと標識が立ってますから、迷うことなく歩けます。


 旧田代町長坂地区にも一里塚がありました。
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