2018.4 高虫氷川神社へ詣でました。
拝殿
天朝神社
門客神社
http://blog.livedoor.jp/abnab1-minuma/archives/46511187.html
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1896.html
天朝神社、門客神社・・・あまり聞いたことのない神社だと思い少しググってみました。二つの神社に関しては上記様のブログ
に考察されています。
「境内社には,摂社と末社がある。摂社には、主神と縁故関係が深い神がまつられており、末社は、主神に従属する小祠である
場合が多い。客神の場合は,この両者とも異なり、主神のまつられている拝殿の一隅にまつられたり、〈門(かど)客神〉と
称され随神のような所にまつられ、まだ独立の祠をもっていないことが特徴である。
東北・関東の〈荒脛巾(あらはばき)神〉、南九州の〈門守(かどもり)神〉などはその一例だが、なかには普通の境内社
より大きな一社を別個にたててまつる例もある。客神はちょうど人間社会における客人の扱いと同じで、外界からきた来訪神
を、土地の神が招き入れて、丁重にもてなしている形である。客神が,けっして排除されることがないのは、外から来た神が
霊力をもち、土地の氏神の力をいっそう強化してくれるという信仰があったためと考えられている。氷川神社の門客神神社、
気比神宮の角鹿(つぬが)社、厳島神社の客神社、美保神社の客人神社などは、有名な大社にまつられた客神の代表例である。
だが、現在の氷川神社の主祭神は出雲系であり、武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んできたものである。これらのことを
根拠として、荒脛巾神は氷川神社の地主神で先住の神だとする説もある。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1896.html 様より」
「当社は、十七世紀の終わり頃、武蔵国一之宮氷川社を勧請したと伝えられており、享保四年(1719)に今の境内地が確定した
といわれている。昭和十九年(1944)に氷川社から氷川神社へと改称した。本殿は、元文三年(1738)に建築され、その後、
慶応元年(1865)に解体修理された。氷川神社は武運長久の神として知られ、建速須佐之男命・大己貴命・奇稲田姫命を合祀する。」
民家、田んぼの隣接する守られた雑木林が境内になっています。このような境内も自然体で良いですね。す~っと身体に馴染む
感じです。山中に居るような柔らかな空気・空間でした。そんな中に静かに重厚な本殿がひっそりと佇んでいたのでした。
本殿に施された見事な彫刻。
http://d.hatena.ne.jp/shousin/20170503/1493813265 様によると、
「二十四孝の彫刻」のようです。「二十四孝(にじゅうしこう」は、中国において後世の範として、孝行が特に優れた
人物24人を取り上げた書物。「孝行」とは父母によく仕える行為。子の親に対する道徳。家族制度を基盤とする儒教
道徳の基本。日本では近世封建社会以後,生活規範として確立され重視された。
ところで、あちこちの神社へ参拝巡りをしていると随身門、拝殿、本殿などの見事な彫刻が目に飛び込んでくる。神社
だけでなく仏閣もそう。
なぜ彫刻を施すのか(どんな思いを込めて)?どんな彫刻があるのか?ちょっと調べてみました。
寺社彫刻は、じっくり見ると、いろんな発見があって楽しいのである。 モチーフとなっているのは、仏教、神道だけでなく、
道教や儒教の説話、国生み神話、中国の故事、義経伝説などのほか、龍や鳳凰(ほうおう)、獅子などの霊獣、動物、花鳥、
そして庶民の暮らしを描いたものや、珍しいところでは明治政府の憲法発布の場面が彫られた神社もあるという。
https://www.sankei.com/entertainments/news/141015/ent1410150004-n2.html
というわけで、寺社彫刻には様々な装飾彫刻のモチーフはあるようです。
「寺社の装飾彫刻 若林 純」という写真集があるようです。今度見てみよう!
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