~風に吹かれて~ by ポー(paw)

-人の中に 人の創り出した物の中に 動植物の中に 地球や宇宙の中に 魂の琴線にふれ 愛を感じながら 生き込みたい-

梅園神社(埼玉県越生町)

2017-03-31 11:56:00 | ・神社・お寺

2017.3 黒山熊野神社参拝後、引き返して、梅園神社へ詣でました。

素敵な鳥居ですね。

大杉に囲まれた拝殿付近

少し傾いた大杉の間から覗く拝殿は、とても印象的です。

拝殿・本殿

本殿

全体的に朽ちていますね。残念です。良い感じの境内なんですけど・・・。


古くは、神仏習合の社であった。小杉天神社と称した江戸時代には、本山派修験山本坊配下の大泉院が社務を司っており、
明治維新の神仏分離令を経て、明治40年に堂山の近戸神社と上谷の三島神社などを合祀して梅園神社と改称した。 http://www.jalan.net/kankou/spt_11327ag2130012543/

元は小杉天神社といい、平安時代に北野天神を京都から勧請したものという。梅ノ木もその頃もたらされた。梅の実は
梅干に加工され江戸に送られたという。http://kamimeguri.web.fc2.com/umezonojinjya.html

崖には祠もありました。

境内から道路を挟んだ反対側の川向うは越生梅林です。

越生梅林
埼玉県入間郡越生町にある越辺川沿いに広がる梅林。水戸偕楽園、熱海梅園と共に「関東三大梅林」の1つとされている。
南北朝時代に武蔵国小杉村に大宰府より天満宮を分祀する(梅園神社)際に梅を植えたのが起源という。by wikipedia


黒山熊野神社(埼玉県越生町)

2017-03-31 11:54:15 | ・神社・お寺

2017.3 黒山熊野神社(埼玉県越生町)へ参拝に行きました。

熊野神社は古くは将門宮と称した。
同じく黒山にある榛名宮と愛宕宮をあわせて熊野権現(熊野三山)としたのである。
平将門の後裔といわれる栄円は関東に修験道を広めるために、応永5年(1398)に
黒山の山本坊を開いてその拠点とした。その後、修験者の道場として栄えたが、
明治元年の神仏分離令によって熊野神社とされ黒山の鎮守様となった。
社殿は昭和60年に焼失、同63年に再建された。
http://youzantei.la.coocan.jp/mitisirube/kuroyama_spot01.html より

黒山三滝の風景はこちら(2008年、2012年)

道路に沿って良い感じです。

拝殿

境内はもっと広いかと思ったらさほどでもありませんでした。

立派な杉でしたよ。

神社前の「越辺(おっぺ)川」

なんで「おっぺ」と読むのだろうとググってみましたが、

越辺川の語源については、「越生の辺りを流れる川」から来ているという説や、北海道乙部町の「乙部」と同様に
アイヌ語の「オ・ト・ウン・ペッ(o-to-un-pet 下流の方に沼のある川)」に由来するという説などがあるものの、
詳しいことは分かっていない。by wikipedia

との事でした。この川の源流は、ここから直ぐ近くの黒山三滝のようです。

対岸にある「越生町 全洞院」

全洞院は、岩松山と号し曹洞宗の寺で本尊は弥陀を安置している。この寺には、近くで自刀した渋沢平九郎(しぶさわへい
くろう、渋沢栄一の養子)の墓がある。 渋沢平九郎は、飯能戦争のときの振武軍(しんぶぐん)の副将で、渋沢成一郎を大将
として飯能市羅漢山(現、天覧山)に立てこもった。 振武軍は慶応四年(1868年)五月二十三日の官軍三千名の総攻撃を
受け敗れ、渋沢平九郎は傷つきながら故郷下手計村(しもてばかむら、現在の深谷市)に退れようとする途中 、顔振峠の茶屋
の主人に落人姿では危ないと言われたため百姓姿に身を変えたが、越生町まで進出していた官軍に発見されてしまった。藁包
に忍ばせてあった小刀で抵抗したが、多勢に無勢、利あらずと悟った平九郎は近くの大岩に座って自刃した。首は官軍に
よって越生にさらされたが、胴体は村人の手により全洞院に葬られ「ダッソ様」(脱走様)と呼ばれた。なお、岩の脇のグミ
は平九郎の血を吸ったため、その実は平九郎の血を宿すと言われ「平九郎グミ」と呼ばれ、後年、一族の渋沢栄一、渋沢敬三
らによって碑が立てられている。

越生の梅林は、もう枯れていましたが、ここは少し奥なので未だ梅が綺麗に咲いていましたよ。

右下にフキノトウ。早春の風景ですね。